泥梨の淵:第三夜




 また、夜に目が覚める。

 昼夜逆転、というには大袈裟かもしれないが、やはりどうにも重さが取れない身体をどうにかこうにかベッドから起こした。


「人間は夜間にホルモンが活性化して細胞が治癒されるようになってるが…………夜中に活動してると当然その治癒が行われないから疲労が溜まる一方、なんだったか」


 要するに、人間は夜行性ではないので無理をすればガタが来る、という極めて当然の話である。

 目が覚めたのは、また見慣れない部屋の中。

 【狩り手ハンター】を名乗るあの少女からは『好きに使って良いよ』と言われているものの、その言葉を真に受けて呑気に寝泊まりしている自分は果てしなく図々しいヤツなのかもしれない、と、楠城なんじょう 顕己あらきは自嘲した。


「あいつは…………いないのか」


 別に、落胆するワケではない。

 一緒に居る理由なんて、『気紛れ』以外に何もなかったのだから。

 お互いに。


「………………そろそろ──帰るか」


 顕己あらきは、そう言うしかなかった。

 わかりきった答え。

 決まりきった帰結。

 結局、戻るべき処、帰るべき場所なんて一つしかない。

 ウチに、帰るしかない。

 顕己あらきも。

 誰でも。


「…………けど、もう少しだけ」


 顕己あらきは部屋から出て、再び夜の街へと向かう。

 星々がやけに明るく感じられる夜だった。

 一昨夜とは打って変わった空模様の下で、何処か軽快な足取りのまま進み続ける。

 そうして顕己あらきが辿り着いたのは…………とある高架下、スケートボード場だった。


「………………いない、か」


 一通りスケボー場を見渡してみたが、目当ての人影はそこには存在しなかった。

 少し昔の事。

 金欠に追われてバイト三昧になる前は、よくここでスケボーに明け暮れたものだが、その頃共に汗を流したメンツは誰もいない。

 そもそも人影自体が疎らだった──偶々か、或いは寂れてしまったのか。前者であることを願いたかったが。

 と。

 そこに、一人の見知らぬ少女が現れる。

 ややダボついたTシャツ一枚とハーフパンツというラフ極まりない格好をしたその黒の短髪少女は誰の目にもとまっていないかのように悠々と歩き、スケートボード場の人気スポットを陣取ってトリックを始めた。


「おいおい…………マジかよ」


 その様子をみてそれなりの経験者である顕己あらきは思わず呻く。

 上手い。

 見た感じの年の頃は恐らく中学生ぐらいだろうに、苦も無く多彩なトリックを駆使していく。


「はい、へい、ほいっと」


 チックタック、ハーフキャブ、フィンガーフリップといった中級トリックに留まらず、高等技とされるフロントサイド360ノーリーまでそつなく決めてみせる。


「あら…………よっ、と!」


 〆にフリップ回転を加えたハンドスタンドを披露し、少女はパフォーマンスを終えた。


「…………スゲエな」


 そんななんの捻りもない賞賛と共に、気付けば顕己あらきはその少女の元へと歩み寄り、声をかけていた。


「…………割と強めに偏在してたのに…………・気付くとか。また縁起悪いなあもう」


 顕己あらきをその青い瞳で見据えながら、その少女はよくわからない事を言った。


「は?」


「別に。こんばんわーアンラッキーなお兄さん」


「いや、特に不幸じゃねえけど俺」


「そう? そりゃいいね、そうである事を祈っとくよ──悪いけど今お節介焼くテンションじゃないんだ、あたし」


「それは──そうだろうな。顔みりゃわかる」


 そう。

 その少女は華麗なパフォーマンスを見せておきながら、何故だか浮かない顔だった。

 その表情を見て、思わず顕己あらきは声をかけたのである。


「凹んでんのによくもまああれだけのトリック決められるもんだな」


「は? 凹んでねーし。イラついてただけだし」


「なら尚更だろ、冷静にならずになんであんだけ上手いんだよ」


「上手いの? よく知らない。見様見真似でやってるだけだし。YouTubeの」


「見様見真似って…………何年やってんだ? スケボー」


「や、年単位もやってないけど」


「嘘吐け! やってた技どれも習得には三年はかかるぞ!」


 基礎から学ぶ事を考えたら通算で五年以上は軽くかかる筈である。


「あー…………あたしは色々例外っつーか、ぶっちゃけズルしてるからあんま当てにしない方がいいよ。補助輪付けまくってるようなもんだから」


 そういう少女だったが、しかし顕己あらきから見ておかしな点は見当たらなかった。ボードにも少女自身にもタネも仕かけもない筈だ。


「お前、見かけによらずあれか? 電波な女なのか?」


「はっ。電波ねぇ。見方によっちゃあ、意外に的外れでもなかったりして──まあいいや、ちょっと愚痴ってみよっと」


 そう言うと少女はボード場内のベンチへと腰かける。


「ほら、来なよお兄さん。しゃべくったげるから」


「…………あー、おー」


 アイツといい、最近の女子はみんなこんなに距離感近いのか? などと訝しみながら顕己あらきもまた少女の隣へと座った。

 少女は自販機で買ったらしい缶コーラを開けながらに語り始める。


「まあ訊いてよーお兄さん。最近さぁー、あたしの大ッッッ嫌いなクソ女がさあー。なんっか企んで暗躍してやがるっぽいんだよねー、ムカつくわ」


「はあ…………暗躍ねえ」


「いや、ホントマジでその女下水で煮込んだゲロを牛乳拭いた雑巾に乗せたみたいな壊滅的性格のクソさなんだって。他人の不幸が何より大好物で、その中で誰かがのたうち回ってる所をみてるだけで白米どんぶりで三杯美味しく食べれますって感じの」


「絶対に会いたくねえや」


「うん、会っちゃダメだよ絶対。ともあれそのクソ女が最近またぞろ碌でもないこと考えてそうなんだー。あたしなりに色々探ったりもしてるけど、あいつムカつくぐらいに頭回るし、あたし自分でもどうかと思うほど単細胞だからどうにもこうにもいかないんだよねえ」


「よくわかんねえけど…………近づかないでほっとくんじゃダメなのか?」


「ダメだろうね。あいつなーんかあたしをロックオンしてるっぽくて、ほっといたってあたしに嫌がらせしてくるから」


 あたしはあいつの事なんてなーんにも知らないのにね、などと溜息を吐く少女。


「お前が小学生なら『ひょっとしてそいつお前の事好きなんじゃねぇの』ってなるが…………それは無いんだよな」


「あるわけないじゃん、鳥肌たつこと言わないでよ」


 オエー、というジェスチャーをしながら少女は言う。


「…………自分以外の誰かを不幸にするのって、そんなに面白いかなぁ。あたしにはわかんないや」


「そう思えるなら、きっとお前は良いヤツなんだと思うぜ」


 顕己あらきはそう答えざるを得なかった。

 自分自身、他人を傷つける事で、或いは他人の不幸を見る事で、『ザマミロあースッキリした』と思った事が無いと言えば嘘になる。


「いや、あたしだってそう思うことぐらいあるけどさ。けどさぁ、他人に嫌がらせしたって、何も還ってこないじゃん。時間の無駄じゃん。生産性ゼロじゃん。いや、後になって自分に嫌気さす分明確にマイナスかも」


「そこで自己嫌悪なんかしないから平気で他人を不幸に出来るんだろうさ。やっぱりお前が良いヤツなんだと思うぞ。普通は――」


 ――と、そこで顕己あらきは言葉を区切る。


「ん? 何?」


「いや――普通、か。楽しんで他人を傷つけるのが、普通だったら…………それが、そんなヤツが幸せだったら、嫌だな」


 顕己あらきの脳裏に浮かぶのは、昨晩の言葉。

 幸せとは、普通だと。

 普通である事は、幸せだと。

 普通の人こそが、幸せであるべきなのだと。

 彼女はそう、言っていた。


「――ふーん。そんな事言うやつが」


「自分の平凡さにウンザリしてた俺からすれば、ありがたくもあった言葉だったけど…………普通って、やっぱりいいばっかりでもないな。考えてみたら」


「というか、良い悪いってもんじゃないでしょ。普通が幸せ、ねえ…………ふん、気休め以下の言葉遊びだね。言ったやつのいい加減さが透けて見えるや」


 鼻で笑って、少女はピョンと立ち上がる。


「普通がどうとか幸せがどうとか、曖昧で主語のデカい独り相撲やってないで、今目の前にある事に向かっていったほうがいいだろってあたしは思うけど。誰もさ、『生き急げ』なんて親切に教えてくれないよ?」


「生き急げったって…………別に俺は急いでねえし急ぐ用事もねえんだが」


だってば。もっとみんな頑張って急げばいいのに。用事が無いなら作ればいいのに。どいつもこいつも誰も彼も――――生きる速度が、遅すぎる。」


 青い瞳に、微かな憤りを浮かべながらその少女はそう言った。


「そりゃそう言われたら…………返す言葉もねえけどさ」


 顕己あらきは頭を掻きながら、バツが悪そうにそう返す。

 今の彼にとっては、中々に耳が痛い言葉だったようだ。

 ――少女はもう立ち去るようで、振り返りもしないまま歩き出す。

 顕己あらきもその背中にかける言葉は浮かばなかったようで、何も言わなかった。

 ただ。

 去り際にその少女の呟いた言葉が。

 厭に大きく聞こえ、顕己あらきの頭の中で乱反射するのだった。






「普通こそが幸せ、なんて言ったら――――」






◐◑◐◑◐◑◐◑◐◑◐◑◐◑◐◑

◑◐◑◐◑◐◑◐◑◐◑◐◑◐◑◐






「お兄ちゃん、何やってんの…………?」


「…………おう。おかえり」


 部活帰りの妹を台所にて顕己あらきは出迎えた。


「いや、おかえりはこっちの台詞っていうか…………」


「それもそうか…………ただいま」


 何とも言えない表情で顕己あらきはその言葉を絞り出した。まだ妹の方を振り返りはしない。


「おかえり、お兄ちゃん――なんだけど、いや、最初の質問に戻るけど、何やってるの…………」


「…………飯作ってんだよ。見りゃわかんだろ」


「なんで夕飯なんか作ってんのって訊いてるの…………その量、私とお母さんの分までない?」


「あるよ。あったらワリーのかよ」


「悪くはないけどおかしいよ…………どういう風の吹き回しなの」


「なんでも――なくはないか。あー、後で言うっての」


 あくまで料理から――メニューはどうやら親子丼――目を離さないまま、顕己あらきは言う。

 妹は先に食卓に座っていた母へと目をやるも、母もまた困ったように肩を竦めるだけだった。


「『夕飯は俺が作る』の一点張りなのよ。なにか変なもの拾って食べたんじゃない?」


「食ってねぇよ、何も。これから作って食うんだろ」


「そういうことらしいから、あんたも座って待ってなさい。もうすぐ出来るでしょう」


「あ…………うん」


 妹は未だ困惑を隠せないままに、席に座った。


「…………おし。出来たぞ」


 どんぶり鉢を三つ、顕己あらきは食卓の上に置いた。


「じゃあ、いただき──」


「ちょ、ちょっと待て」


 箸を手に取る母と妹を制し、顕己あらきは改めて二人の向かい側の席へと座った。


「あー…………その。なんつーか──」


「何よ、もじもじしても可愛くないわよ」


 呆れ顔で言う母にうるせーと悪態を吐きながらも、顕己あらきはしっかりとした目で、その言葉を口にする。


「何日も家空けて、悪かった…………というか、これまで、その、色々と、ごめん」


 食卓に頭をぶつけそうな程、深く頭を下げ。

 楠城なんじょう 顕己あらきは家族に謝った。


「………………」


「………………」


 息子、或いは兄のその姿に二人は困惑の表情を浮かべつつ──




 パシャリ、とスマフォで写真に撮った。




「いやフツーそういうことするか!!??」


「いや、するでしょ。証拠写真」


「黒歴史だもんね。ちゃんと形として残しとかないと」


「何に使うんだよ! 脅迫か!?」


「人聞き悪いわね。愉快な思い出として記憶しておくだけよ」


「そーそー。心のアルバムの中にね」


「じゃあ撮るな! 消せ! 今すぐ!」


 やんややんやと言い合う楠城なんじょう家だった。


「──別に、そんな改まって謝るような事じゃないでしょ」


 散々に言い合った後、何でもないような口調で母が言った。


「…………家族なんだから」


「うん。お兄ちゃんが思春期なのはよくわかってるし」


「…………かしこまって損したぜ」


 顕己あらきは大きく嘆息した後。

 噛み締める。

 これが。

 これが──楠城なんじょう 顕己あらきの、普通にちじょうなのだと。


「さて、じゃあ料理の腕を採点してあげる」


「まともに食べられたらいいんだけど」


「ちゃんとレシピ通り作ったっつーの。漫画みたいにはならねーよ」


 家族三人、手を合わせて。


「「「いただきます」」」


 そうして。

 料理を口へ運ぶと────





























「がばぉあ」


 母が吐血した。

 滝のように口内から血を流し、そのまま机の上へと突っ伏す。






「はい?」






 死んだ。

 それを直感。

 時が止まる。

 現実がぬかるむ。


 母はガクガクガクガクしててしんどそう。


 赤、血、赤、ブクブクブクブク。


 赤、泡、血、赤、泡、シャボン。ブクブク。


 視界が可笑しい。


         シカイ蛾オカ肢位。





 指、ユビ、ウゴ家内。


 しんぞ    心臓が五月蝿い。煩い五月蝿い煩い五月蝿い煩い五月蝿い煩い五月蝿い煩い五月蝿い煩い五月蝿い!!!!


 ユビユビ指。ブクブク。


   まだら。斑。腕。




「かゆいかゆいかゆいかゆい」



 腕が煮立っている。煮え滾ってる。ブクブク。泡、痣。



 発疹、疱瘡。



 心臓が。うるさいってば。







      呼吸、息息いき、いきがデキない。生きが、しづらい。


 ああ"。



「あーーーー」




 あかあおきいろ、緑?



    紫!


 視界がおかしくて、カラフル、パラレル?


 しっかりしろ。


         意識、意識を。



 あ

 た

 ま

 を

 も

 ど

 せ

  。




「誰、か」


 たすけ、だ。

 そうだ、病院、いしや。

 だれか。


 だれ、か──






「たす、けて」


 誰かのこえ。


 誰か。

 じゃ、ない。


「たす、けて──お兄、ちゃん」


 手を、伸ばされる。

 眼球を動かす。

 妹。

 泣いている。

 目から、流血。

 赤い。


「■■■■■」


 声が、こえに、ならない。


「お兄ちゃん──」


 動かない。


 身体、動かない、いや、ダメだろ。動け。

 声、出ろ、腕、伸ばせ、脚、動け。


 ああ、目の前が、くらい、黒い。

 駄目だ。何も、出来てない。


 ああ、黒くなる。いやだ。怖い。恐い。







 ……………どうしてこうなった?

 どこで、何を間違えば、こうなる?



 普通だったのに。

 ついさっきまで──平凡当たり前だったのに。


 こんなのウソだ。


           こんなのイヤだ。


 何が何が何が何が。

 誰か誰か誰か誰か。







「普通こそが幸せ、なんて言ったら────誰にも、幸せになる資格なんてないんじゃないかな」







 誰かが、そう、言っていた。







 嗚呼。






 何が。




 ????







 そんな普通の疑問を胸に浮かべながら。







 楠城なんじょう 顕己あらきは、【毒死どくし】した。











「………………あひゃ♡」



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