ファナティックブルー

秋口峻砂

ファナティックブルー

 年頃のその少女は、蕩けたような視線を真っ白なキャンバスに向けていた。唐突に手のひらに、綺麗な青色の絵の具を付けると、それをキャンバスに押し付けて、白いキャンバスを青色に変えていく。時折、不意に思いついたかのように、その青に別の色を少しだけ混ぜ、また一心不乱にキャンパスを塗る。

 真っ白な壁、真っ白なベッドとシーツと枕、パイプ椅子にサイドテーブルすら真っ白。ただキャンパスの中だけを、澄んだ青色が支配していく。

 その光景を一人の男がじっと見つめている。歳は三十代半ばだろうか。色を抜き過ぎ褪せたプラチナの短髪、口元には白髪が混じった荒い無精ひげ、黒いシャツに色の褪せたジーンズ。妙に悲しげな視線が、少女との関係を暗に示していた。

 だが少女の目にはまるで男が映っていないかのように思えた。いや、それよりも少女の目は混濁していて、周囲に何も存在しないと思っているかのようにすら感じてしまう。

 さらわれた数日、彼女に打ち込まれたのは、数人の男の汚いスペルマと、致死量以上のドラッグ。いつ終わるとも知れない地獄の中で、少女が選んだのは自己の崩壊だった。

 男はただ少女を見詰め続けていた。まるでそれを己の目に刻み付けるように、瞬き一つせずに。

 唐突に扉の鍵が開く音がした。視線を向けると少女の担当の若い看護士が姿を見せる。

「先生がお話があると仰っていますが」

 男は小さく肯き、もう一度視線を少女に向け、その悲しげな目にレイバンを掛けた。


「最近はああやって、キャンパスを青色に染めるのが楽しいらしいですね」

 担当医師はカルテに幾つかの事項を記入しながら、横目で男を見る。

「退院はどうされますか。彼女の今のご両親は里親だと聞きましたが」

 男は小さく肯く。

 診察室の窓から見える景色に視線を向ける。今年の夏も暑くなりそうだ。空はきんきんに晴れ渡り雲ひとつ存在しない。その初夏の空の青さは、どこまでも強く鮮烈だった。

「そういえば、犯人はまだ捕まっていないらしいですね」

 担当医師からの言葉に男はふと我に返る。彼女が入院して三ヶ月にもなる。

「警察は何をしているんですかね。これでは税金泥棒ですよ、全く」

 担当医師は苛立たしげに机を指先で叩く。

 幼児退行を起こしてしまった彼女には今、引き取り手がいなかった。実の両親は既に事故で他界しており、里親の親戚は彼女の現状を見て引取りを拒んだ。彼女を犯し壊した容疑者は未成年という情報があり、それが警察の捜査を慎重にさせた理由の一つでもあった。何よりも、里親が被害届の提出をしなかったことが致命的だった。

「あなたが引き取られる、という訳にはいきませんか」

 医師の言葉に、男は苦笑しながら頭を小さく横に振った。彼女の治療費等を負担しているとはいえ、引き取り手になんてなれるはずもない。年頃の少女と三十路過ぎの男では何かと問題が多すぎる。

「しかし困りましたね。こちらとしても最善を尽くしますが」

 男は申し訳なさそうに頭を掻きながら、懐から名刺を取り出し、それを医師に手渡した。

 名刺には「フリーライター藤谷裕也」と記してあった。


 その足で藤谷は所轄の警察署に向かった。そして知り合いの刑事に面会を求める。三階の端にある喫煙スペースで数分待つと、その刑事が姿を現した。

「よう、藤谷」

 手を上げて近寄ってくるその男、松田俊哉に、藤谷は買っておいた缶コーヒーを差し出して小さく笑った。

「で、どうした。例の女の子のことか」

 隣に座り缶コーヒーを啜る松田に、藤谷はゆっくりと頷き視線を向ける。

「進展はないぞ」

 松田は眉間に皺を寄せながら、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 藤谷は顔を顔を伏せ大きく溜息を吐くと、缶コーヒーのタブを開け一息に飲み干す。所詮缶コーヒーだ、甘いばかりで不味い。

「で、あの子はどうなんだ」

 藤谷はもう一度頭を横に振った。

 彼女は既に救われることすら拒絶しているように思える。自分の世界から出ようとすらしない。いや、違う。救えないでいるのだ、自分が。

「藤谷、気持ちは分かるが、これ以上は深入りしない方がいいんじゃないのか」

 松田の言葉を聞き、藤谷は松田を睨み付けた。そんなことは誰よりも自分が良く分かっている。深入りしたところで何の見返りもないだろう。

 視線を逸らし虚空を睨みつけ、ジョーカーを咥え火を点ける。

「分かった分かった、そう怒るな」

 力のない松田の言葉に、藤谷は彼に視線を向けた。そこには悔しさに眉間に皺を寄せている男の姿があった。不意に松田の妹はレイプが原因で自殺したことを思い出す。その事件が切っ掛けで刑事になったと言っていたことがあった。だからこそ被害届の出ていないこの事件の犯人を個人的に追っている。藤谷は小さく溜息を吐き、松田の肩を優しく叩いた。

 窓から夕日が差し込んでいた。藤谷は紫煙を吐きながら、その夕日を見詰めていた。


 少女の名は草薙葵。市内の進学校に通っていた高校二年生。少し引っ込み思案なところはあるが、肩まである綺麗な黒髪と切れ長の目が印象的な、普通の女子高生だ。

 たった一度だけ、里親の言い付けを守らなかった。それは男女関係に関するもので、里親は高校を卒業するまでは、男女交際を禁止していたという。

 だが高校生の少女に興味がないはずもなくSNSで親しくなったらしい男と会ったらしい。

 そのままどこかに監禁され、数日間延々とレイプされた。その間、彼女の身体には致死量を遥かに超えるセックスドラッグが打ち込まれ、数日後繁華街のゴミ捨て場で発見された時には、もう瀕死の状態だった。

 警察は拉致監禁強姦事件として捜査を開始したが、少女は心が壊されてしまっており、まともに会話もできない状態。里親は彼女とその男との関係を全く知らなかった。

 SNSから辿ろうにも、登録に使われたメールアドレスはフリーメールで、その上に幾つもの国のそれらを経由しており、捜査は難航した。

 そして何よりも、里親は被害届を出さなかった。理由はそれが少女の経歴に瑕を付けることを嫌ったからだと告げた。

 いや、違う。正しくは自分達の世間体だ。そして少女は西村精神科記念病院の隔離病棟に入院し、現在に至る。

 藤谷は草薙葵の実母の弟にあたる。彼女とは多少だが面識もあり、里親が彼女の引取りを拒否したこともあり、病院から連絡があった。

 姉が死んでからのこの数年、彼女を忘れていた訳ではない。だが里親の元で平和に暮らしていると思っていた。

 心の整理がつかぬまま藤谷は彼女に会い、そしてその美しさに目を奪われた。透き通った肌、何も映さない蕩け潤んだ瞳、無意味なほど無邪気な微笑を湛えた唇と漂う色艶。この数年という時間の中で、幼かった彼女は女性へと成長しようとしていた。

「お断りしたはずですが」

 草薙葵の里親は、しつこく姿を見せる藤谷に対し露骨に表情を歪め、強い嫌悪感を示した。

 里親と草薙葵の両親とは親戚関係だが、近い親戚ではなかった。両親が死んだ時に里親で揉めに揉め、結果仕方なく引き取っただけだった。

 だからこそ、彼らは体裁に拘った。草薙葵がレイプされたのだと周囲に知られれば恥となると考えたのだろう。

 藤谷は義母をじっと睨む。一緒に過ごしたこの数年、その間に情は湧かなかったのだろうか。周辺で聞き込みをしてみれば、週末に義母と草薙葵がショッピングモールで、楽しげに買い物をしているのを何度も見掛けたと言っていたのだ。

「私だって葵は大切です。子供に恵まれなかった私達にとって、彼女がどれだけ大切な存在だったか、あなたみたいな人には分からないでしょうね」

 その言葉に、藤谷は苦笑して鼻の頭を掻く。義母が用意してくれたホットコーヒーを口に含むと妙に苦かった。情が湧いていたというのに、どうして引取りを拒否したのだろうか。アウトローなんぞやっている馬鹿だからなのか、どうしても理解できない。

「私達はあの子に裏切られたのです。大学まで進学すれば、恋愛に関しては口出ししないと伝えていたのに」

 確かに草薙葵は里親との約束を違えたことになる。だが高校二年生の健全な少女ならば、恋愛に興味を持って当然だ。むしろ里親との約束を守っていたとしたら、むしろそのことの方が問題のようにも思える。

 義母の目には涙が浮かんでいた。義母は義母なりに、草薙葵のことで苦悩している。だからこそ、約束を守らずにこんな目に遭ってしまった草薙葵が赦せないのだ。

 家族だからこそ、赦せないこともあるのは確かだ。

 コーヒーを飲み干し苛立たしげに頭を掻く。どうも行き詰った感がある。里親と話し合いもう一度引き取ってもらうのが草薙葵にとって最もベストな選択なのだろうが、現段階でそれは難しそうだ。里親も心の整理がついていない。それまでは、西村精神科記念病院に預かっていてもらうしかなさそうだ。


 夕方になり雨が降り始めた。藤谷は愛車の窓から、空に立ち込める厚い雲を睨み付けた。天気が悪くなると頭痛が始まる。群発性頭痛という名のそれの痛みは、自殺頭痛と称されるほど酷いものらしい。

 二十歳を過ぎた頃から天気が悪くなる度に頭痛に苛まれていたのだから、軽く十年以上付き合ってきたことになる。その藤谷でも、それは頭が割れるかと思うほどに激しい痛みだ。

 案の定、頭痛の予兆が始まった。左目の奥、頭の芯を軽く針で刺したかのようなチクチクとした痛み。今の内に鎮痛剤を服用すれば、ある程度は防げる。

 だがそれでも一錠では足りないことが多い。我慢できずに二錠目を口にすることがよくある。

 愛車は官能的な排気音を鳴らしながら、空いた国道を奔る。

 唐突に酷く頭が痛んだ。どうやら今日の頭痛は容赦してくれないらしい。愛車を歩道に寄せて止め、ドラッグケースから鎮痛剤を二錠取り出し、缶コーヒーで流し込んだ。

 小さく舌打ちをする。こういう不意打ちのような頭痛が一番腹が立つ。もう軽く三十路を超えているのだから、身体のどこかに何かしらのガタがくるのは当然だが、あまりにも痛みが激しすぎる。

 ある程度は慣れてはいるものの、納得はできない。医者も鎮痛剤の処方しか出来ない。専用の鎮痛剤を使えばかなり押さえ込むことはできるそうだが、目玉が飛び出るほど高額で手が出せない。

 正直、そんな金なんぞありはしない。毎月何とか生活していけるだけの収入を稼ぐのが精一杯だ。高額な鎮痛剤を買う余裕はない。

 藤谷はシートに深く沈み込んで、痛みが引くのを待った。

 愛車の窓を雨が強く叩いていた。


 藤谷はその足で、もう一度西村精神科記念病院に向かった。何かの用事がある訳ではなく、草薙葵の顔を見たくなったのだ。

 草薙葵は相変わらず、キャンパスを青色で染めていた。とても嬉しそうな表情で、瞳をとろんと蕩けさせながら。

 これが彼女の幸せであるはずがない。本当ならば楽しい高校生活を送っているはずなのだ。そこには恋愛もあっただろう。

 ふと、キャンパスの端に眼がいった。そこには濃く深く暗い群青色で、人影らしきものが描かれていた。

 思わず草薙葵の顔を見詰める。

 その人影が誰なのか、藤谷には分からなかった。だが少なくともその人影は、今の草薙葵の中でも大切なのだと直感的に思った。

 もしかしたら、この草薙葵の何処かに、以前の草薙葵が生きているのかも知れない。少なくとも、全てが壊れた訳ではない。残骸かもしれないが、ここに草薙葵は存在している。

 藤谷はふと気付く。

 今の草薙葵を構成する要素は全て、過去から現在まで生きてきた彼女が構成している。ならば、壊れてしまったとしても彼女が全てを失った訳ではない。今のこの姿は過去の彼女が選択した結果なのだとも考えられる。

 群青色の人影はまだぼんやりとしていて、男なのか女なのかすらはっきりしない。藤谷は小さく微笑んで頭を掻いた。彼女が描く青い世界はどこまでも鮮烈で、そして美しかった。


 自室でこれまで調べたことを愛用のモバイルに入力しながら、藤谷はふと自分が恐ろしく汚らわしい存在に思えた。草薙葵に強く惹かれながらも、職業病的な部分を捨て切れずにいる。心のどこかで、調べ上げたこの事件について持ち込む先を探している。

 それをどれだけ正当化しようとしても、自分に嘘は吐けない。その行動がもたらす結果は彼女に深い瑕をつける。そんなことが倫理的に考えて許されるはずがない。

 いや、倫理なんてそんな小難しいことはどうでもいい。自分が薄汚いアウトローであることは否定しないし、できるはずもない。これまでも金の為に、法律ギリギリの行為を繰り返してきた。その時点で、自分の価値なんぞ高が知れている。

 彼女を犯し壊した連中とどこが違うというのか。連中は欲望の赴くままに彼女を犯し壊した。自分はそれをネタにして金儲けをしようと頭の端で考えている。

 そこにジャーナリズムなんて崇高なものは欠片も在りはしない。そんなものは金のある潔癖症なジャーナリスト様がやることであり、自分は下水道で糞に群がる蛆虫のようなものに過ぎない。

 不意に左目の裏側にちくりとした痛みが走った。あの忌々しい頭痛が始まる合図だ。普段ならすぐに鎮痛剤を飲む。だが今は自分を痛めつけたい気分だった。

 こんな薄汚い人間なんぞこの頭痛で自殺してしまえばいいと、藤谷は半ば本気で考えた。

 歯軋りをしながら、ソファに身を沈める。少しずつ強く激しくなっていく痛みにじっと耐える。無意味だと分かっていても、自分を痛めつけずにはいられなかった。自分の中から、その腐れた欲望を消し去りたかった。

 不意に、脳裏を草薙葵のあの透き通りながらもどこか妖しげな笑みが過ぎった。彼女は藤谷の首筋に下を這わせながら、その細くしなやかな指先で藤谷の股間をまさぐる。それはどこまでも甘美な誘惑だった。

 ふと、考える。自分が欲しいのは金なのか、それとも草薙葵そのものなのか。

 そして彼女を犯した連中を許せるのか、許せないのか。

 唐突にその痛みが恐ろしく激しさを増した。左目の裏側を抉り握り潰されているかのような痛みに、思わず身体がくの字に曲がる。これは彼女への贖罪なのだと必死に耐えようとするが、たったの数分で心が折れた。

 震える手で鎮痛剤を手に取ると、数錠まとめて口に放り込み、冷めたコーヒーで流し込んだ。

 それでも、気付いたことがある。

 金なんざどうでもいい。だが、彼女を壊した連中を許せるはずがない。いや違う。彼女に触れたことすらも許せない。償わせるなんて生易しい結果を望んでもいない。

 薄汚い人間には薄汚い人間なりのやり方がある。

 それが藤谷裕也という人間の価値であるかのように感じ、藤谷は唇を噛み締めた。


 深夜、藤谷は繁華街の裏路地へと足を踏み入れた。周囲には少なくとも日本人には見えない連中がその尖った視線を藤谷へと突き刺している。それらを無視しながら視線を巡らせると、目的の古い雑居ビルが見えた。

 藤谷は何の躊躇いもなくその雑居ビルに入り、三階へと階段を上った。すると69という古いバーの看板が目に飛び込んできた。70年代かと思わせるようなレトロな雰囲気はどことなく妖しげでもある。

 扉の前には体格のいい黒人の男が睨みをきかせていたが、藤谷の顔を確認すると「いらっしゃいませ、ミスター」とその厳つい顔を綻ばせバーの扉を開けた。

 バーの中は外よりも更に妖しげだった。小さなステージでは、パープルのライトに照らされながら若い女が自慢の身体を見せ付けるように踊っている。幾つかのテーブルとカウンターでは筋者としか思えない連中がグラスを傾けていた。

 藤谷がカウンターの端に腰を下ろすと、髭面の強面で無愛想なバーテンは、何も言わずロックグラスにワイルドターキーを注いで置いた。

 藤谷はグラスを手に取るとそれを一気に煽り、ポケットから紙切れを取り出しテーブルに放り投げる。その紙切れには携帯電話のメールアドレスと「HLD」という文字が記してあった。

 バーテンはそれを手に取ると、値踏みするように藤谷の顔をじっと見詰める。そして胸のポケットから領収証を取り出すと、それに何かを記入し、藤谷の前にそっと置いた。

 その領収証には二百万というたった一杯のワイルドターキーには見合わない金額が記してある。だがそれを見た藤谷は何の躊躇いもなく頷き小さく笑う。

「畏まりました、ミスター」

 バーテンは藤谷のロックグラスに新しくワイルドターキーを注ぐと、手元の電話から受話器を取り電話を掛け始める。だが電話番号を入力した直後に切ってしまった。あれでは相手が電話を取れるはずがない。だがバーテンは何の躊躇いもなく、もう一度同じ電話番号を押した。今度はつながったらしく、相手に藤谷のメールアドレスを伝えると、バーテンは受話器を置き、藤谷を見遣った。それから数分もしない内に藤谷の携帯へとメールが届く。藤谷はそのメールを開き内容を確認した上で、必要なことだけを記し返信した。

「シブサワさんによろしくと伝えてくれ」

 藤谷の言葉に、バーテンは小さく微笑むと人差し指を立て唇に押し当てた。どうやら彼の名前を出してはならないらしい。

 藤谷は苦笑すると、ワイルドターキーを一息に空け、席を立った。バーテンがその背に向かって恭しく頭を下げる。

 これが正しいのかどうか、そんなことは最早どうでもいい。大切なことは、その時の彼女を知る者とその痕跡が全て消えてしまうということ。

 正しさで連中に天罰が下せるのならばそれでいい。だがもしも下されないとするならば、どうするべきなのか。

 ならば正しさなんぞ捨ててやる。それが藤谷が下した決断だった。

 数日後、新聞の端に交通事故の記事が掲載された。数人の大学生が乗った車が対向車線の大型トラックと正面衝突し、大型トラックの運転手は軽傷、大学生は全員即死という記事だった。記事によると大学生は、未成年であるにも拘らず、全員が酩酊状態であったとされ、飲酒運転による悲惨な事故として発表された。

 素行が悪かった為か、彼らが死んでも泣いた者は少なかったという。

 その後、藤谷は草薙葵を引き取り、知り合いのいない地方の小さな港町へと引っ越した。

 義理の両親はもう一度引き取ろうと考えていたらしいが、藤谷がそれを止めた。

 体裁に拘り被害届も出さない、入院費用すらも払いもしないあなた達に、そんな権利はない、と彼は吐き捨てた。だがその正しさに彩られた言葉は虚偽ではないにしろ本音でもなく、それこそが彼の体裁だった。


 海の見える窓際で、彼女は白いキャンパスに、その純白く細い指先で青色の絵の具を塗りたくっていた。白いキャンパスは様々な色調の青に染められていく。

 群青色の人影はその濃さを増し、今では男性の後姿だと分かるようになった。

 その青は美しくもあるが、むしろ彼女の内に秘められた狂気のようにも思えた。蕩けたような目でただひたすらに青を塗る彼女はどこか官能的で、その身体からは強い雌の匂いが放たれているようにも感じる。

 その彼女を藤谷はただじっと見詰めていた。その目は恐ろしいほどに熱を孕んでいる。

 藤谷は唾を飲み込むと、ゆっくりと彼女の側へと近づき、その肩に手を置いた。いや、彼女の肩を強く掴んだ。

 彼女の蕩け切った目が藤谷を見上げた。彼女が妖しく微笑んだその瞬間、藤谷の中で何かが崩れた。

 彼女に襲い掛かるとネグリジェを引き裂き床へと押し倒し、強く乳房を掴んだ。草薙葵はそれでも蕩け切った表情のまま、細い指をすっと藤谷の頬へと伸ばす。そして妖しい笑みを浮かべながら、藤谷を青へと染めていく。

 藤谷はその狂おしい青に身を委ねた。

 それは欲望の青、そして狂気の青だった。

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