永遠の少女

@tori

永遠の少女


内気な少年と少女がある日を境にお互いを意識し合う。

妖精が魔法の粉をふりかけたわけでも、キューピットが恋の矢を放ったわけでもない。特別なことではない。こうしている瞬間にも世界のあちらこちらで、誰かが誰かに胸をときめかせている。

お互いの気持ちが通じ、めでたく週末のデートを重ねる関係になることもあれば、運命のいたずらですれ違ったまま別れることもある。

結末はどうあれ、恋の本質は誰かに胸をときめかせる瞬間にある。それは人生でもっと美しい一瞬なのだから。


十七歳のぼくは少し憂鬱で、プライドが高く、他人にあまり興味を示さない少年だった。傷つくことも、傷つけられることも嫌で、自分の殻に閉じこもり、そこを安息の地としている、十代によく見かける少年のひとりだった。そして、そういう少年にとって、本はいつでも最良の友人だ。

朝早くに登校すると、誰もいない教室で本を読む。別にクラスから孤立しているわけではない。授業の合間に話すクラスメイトくらいはいたが、朝の教室で交わされる空疎な話題に巻き込まれるのが嫌だった。異性の話や、芸能人の話題、昨日観たテレビ、心底どうでも良かった。


その朝もぼくは倉橋由美子の小説に没頭していた。

「未紀」という強烈なキャラクターは、リアルに存在する教室の風景をますます平板なものに変えていく。現実と虚構の倒錯に眩惑されて、ふらつきを感じたぼくは本から頭をもたげた。

八時十五分、教室の扉を開けて、女生徒が飛び込んできた。


見覚えのない顔だった。いやそれ以上に見覚えのない衝動がぼくの中に沸き起こった。

彼女は同級生たちのような女らしい丸みとはほど遠く、まだ地球の重力に慣れていない宇宙人みたいに細くて、着陸したばかりのこの星のすべてが珍しいとでも言いたげに、黒目がちの瞳をキョロキョロといそがしく動かしながら、席についた。


「あの子は誰?」

ぼくは級友の背中を突つき、できるだけさりげない調子で訊ねた。

彼はちらっとそちらをみたが、すぐに視線を戻してその名前を告げた。まるで覚えのない名前だった。

「しっかりしろよ。もう一学期も終わりだぜ。クラスメイトの名前くらい覚えような」

彼は呆れていった。

「ほんとに? でも今日初めて見る顔だ」

友人は顎に手をやり怪訝な表情を浮かべていたが、はたと何かに気づいたようにニヤリとした。

「お前はさなぎが、チョウに脱皮する瞬間を目撃したのさ。彼女たちは今そういう季節なんだ。おまえが覚えている昨日までのあの子は、抜け殻ってことさ」

朝から、おしゃべりに余念のないクラスの女子たちをぼくは見回した。それから自分の席について、お弁当を包んだハンカチを結びなおしている背の高いひょろっとした女の子を見た。どんなに目を細めても、羽根も触角も見えはしなかった。



しかし、ぼくはその夜を境に恋をした少年特有の症状に苦しむことになる。

四六時中、彼女ことを考え、切なさで息苦しくなり、彼女の見せるちょっとした仕草の意味を深読みし、絶望と希望の入り混じった気分で朝まで悶々として過ごす。振り切ろうとしたってだめだった。無理やり他のことを考えても、ふとした瞬間にはまた彼女のことを考える。


こんなに苦しいのなら、彼女のことを忘れて、もとの平穏な日常に戻りたい。ぼくはすがるような気持ちで決心した。

自分にストイックな目標を課すことで、彼女、森島葉香の幻影を追い払う。

夏休みの間に百冊の本を読もう。完読できなくてもいい。とにかく百冊の本に触れてみよう。来年になれば受験やなにやで、忙しくなる。こんなことができるのは今年の夏休みしかないのだ。


ぼくは自分に言い聞かせながら、せっせと市の図書館に電車で通った。開館から閉館までぼくは図書館で過ごし、手当たり次第に読み漁った。小説、歴史書、科学エッセイ、興を引くものなら何でもかまわなかった。不意に行間に漂う彼女の幻影に絡め取られることはあったけど、本に集中している間は忘れることができた。ぼくのリハビリ計画は少しづつだけど、効果を上げているようだった。


しかし、必然は偶然という形を装いながら不意に訪れる。当の本人にとっては予期せぬ出来事ではあっても、円周上の軌道を逆方向に回るぼくたちが最接近する瞬間は近づいていたのだ。


その朝、いつものようにぼくは電車に乗った。九時を回ればラッシュアワーも終わり、車内はすいている。座席に腰掛け、そしていつものように小説の続きを読み始める。まったくいつもと変わらない朝だった。ただひとつ森島葉香が二つ目の駅から乗り込んでくるまでは……


扉の脇に立った森島にぼくは目を奪われた。私服姿を見るのは初めてだ。

彼女はミントブルーの麻のブラウスをふんわりと着ていた。教室では若い苗木のようでしかなかったのに、今は胸だってちゃんと膨らんで見える。少し長めのプリーツのスカートも背の高い彼女にすごく似合っていた。

彼女は赤いリボンのついたストローハットを脱ぐと、両手に持ち、ゆっくりドアにもたれかかった。かたちの良い脚のシルエットがスカート越しに露わになって、ぼくはドキッとした。


どこかに遊びに行くのだろうか。ぼくは森島から視線を外すことができなかった。そんなに長く彼女を見たのは初めてのことだった。


耳に掛かるくらいのショートヘアが窓越しに差し込む陽光で、栗色に滲んでいるせいか、いつもより大人っぽく見える。そして、その姿は少し物憂げだった。

眉に掛かる前髪が鬱陶しかったのかもしれない、水から顔を出した人魚みたいに、突然、彼女は頭を振った。夏の光を反射して、鱗粉がキラキラと舞うのをぼくは見た。


「お前はさなぎが、チョウに脱皮する瞬間を目撃したのさ」

ぼくは友人の言葉の意味を理解した。


結局、森島はぼくと一度も視線を合わせることもないまま図書館のある駅の手前で降りた。


次の日も、その次の日も彼女は同じ駅から乗り、同じ駅で降りた。

三日目の朝、乗り込んできた彼女の左手に新鮮なハムとレタスのサンドイッチがぎっしりと詰まっていそうな籐のバスケットが握られているのに気づいた。


誰かとどこかに出かけるのだろうか。心臓が苦しくなるくらい鼓動を速めた。

彼女がいつも降りる駅から海浜公園に行くバスが連絡している。ぼくの通う学校では人気のデートスポットだった。恋愛映画の撮影に使われたこともあり、それ以来、映画のエピソードを真似て、夕陽をバックにキスしたふたりは永遠の恋人になれるという都市伝説めいた話で、女子たちが盛り上がっていたのを思い出した。


ぼくだけが、羽化した森島葉香に見ていたわけではなかったのだ。どうしてこんな単純なことに気づかなかったのだろう。きっと、彼女は誰かとデートしているのだ。

ぼくがもんもんと身悶えしている間に、そいつは横から彼女をかっさらっていった。

ぼくは森島を見るのを已めると、本に目を落とした。一行たりとも読むことはできない。一刻も早く逃げ出したかった。

車内アナウンスが、いつも彼女が降りる駅の名前を告げた。


――これで解放される。


必死で嗚咽をかみ殺した。

ドアが開く音が聞こえる。臆病者はいつだって恋の敗者となる。

再びドアが締まる音がして、ぼくはようやく顔を上げた。

僕の目の前の座席に森島葉香が居た。手を伸ばせば届くほどの距離に。


―いったいどういうことなんだろう? すべてはぼくの勘違い?


もちろん、そんなことを彼女に尋ねはしなかった。

目の前の森島は忙しそうに文庫本の頁を繰っている。

なにか声をかけよとするのだけれど、今言葉を発すれば、まちがいなく調子っぱずれの声しか出ないだろう。心を落ち着かせるために、ぼくも再び本に目を落とす。文字を追いながらも、何を言えばいいのか必死で考えていた。

それまで興味のない態度を取っていたことが、ぼくを及び腰にした。

今から考えると、どうにも奇妙な光景だったと思う。

図書館のある駅は通りすぎてしまった。


おもむろに彼女はシャーペンを鞄から取り出すと、開いていた頁に何か書き込みをはじめた。ときおり、耳にかかった毛をシャーペンを持った手で梳きながら、絞り出すように熱心に綴っている。


――なにを書いているのだろう。でも、これ以上、沈黙が続くのはさすがにまずい。


ぼくは本を膝の上に置くと、度胸を決めた。

どこかの駅についたのだろう。電車が停止した。

そのとき、彼女はサッと立ち上がると窓の外をみた。そしてバスケットを掴むとあわてて、ドアの方に走り去った。

目の前の座席には本だけが残されていた。



それが森島葉香をみた最期だった。新学期が始まりぼくは彼女が転校したことを知った。

結局、本を返すことはできなかった。

新学期になれば返せばいい。そう思ってぼくは本を大切に引き出しに仕舞っておいた。書き込みのことは気になったけれど、プライバシーに触れるような真似はしたくなかった。


返す機会が永久になくなった文庫本をぼくは机から取り出した。

「聖少女」倉橋由美子

夏休み前にぼくが読んでいた本だった。パラパラと頁を繰りながら、ぼくはいつしか彼女の書き込みを探していた。それは物語の中ほどに綴られていた。


『図書館で偶然、君を見かけた。君があまりにも熱心に本を読んでいたから、声を掛けられなかった。

それでもあきらめきれずに次の日から、君が乗る電車を選んで乗ることにした。私に気づいた君が話しかけてくれるんじゃないかなって思って。

「よかったら、これから海浜公園にいかない?」

もし、そんなふうに誘われたら、ちゃんと返事できるだろうか……

そんな在りもしないことを、考えながら、今日はどの服がいいだろうかと、いつもやきもきする。

あれがいい、これがいいと迷いながら、電車に乗り遅れそうになって、泣きそうになったのは内緒。

私がそんなふうなのに、君はいつも知らんぷり。

でも本を読んでいるときの君の横顔が好き。教室で、はじめてそれに気づいたとき、なんてキレイなんだろうって思った。それを君に直接伝えられたらいいのに……

でも、お馬鹿さんな私の空想も今日で終わり。さようなら、私の初恋。』 


倒れ込むようにベッドに俯けになると、枕に顔を押しつけてぼくは泣いた。生まれて初めて、たった一人の女のために泣いた。自分の想いを伝えられなかった意気地のなさが悔しかった。

なぜ話しかけることすらしなかったのだろう。

「なんの本を読んでいるの?」

「最近、毎朝顔を合わせるよね。どこに行くんだい?」

話のきっかけはいくらでもあったはずだ。まるで知らない女の子にナンパめいた口をきくわけじゃない。すくなくともぼくたちはクラスメイトではあったのだから。


時間とともに痛みは消え去り、ぼくは自分の軌道を淡々と進んでいった。いくつかの恋をし、同じ数だけの別れも経験した。

やがて彼女の顔をはっきりと思い出すのも困難になっていった。それでもあの本だけは彼女の残り香のようにいつもぼくのそばにあった。


高校を卒業してから、ぼくは何度も引っ越しを経験した。大学時代に二度、そして今の会社に就職してからは、二年おきに転勤した。そのたびに今度こそは捨てようと決意しながらも、結局は荷物に紛れ込ませてしまう。


ようやくそれを捨てることができたのは二十七才のときだった。ぼくはその春に結婚した。ドラマチックな出会いでもなんでもなかった。出会った瞬間にぼくはこの人だと直感し、彼女はぼくだと思った。激しく相手を求め合うというより、示された運命を受け入れたという方が正しい。結婚とは詰まるところそういうものらしい。


四十歳のとき、新居を買った。新しい引っ越し先に着くと、ますその街の図書館をチェックするのがいつの間にか習慣になっていた。

「わたしの図書カードも作ってくれる?」

娘にせがまれて、そちらを先に済ませることにした。一階の突き当たりに、ガラス張りの部屋があった。どうやらここが子供用の図書室らしい。

すれ違うように出てきた女性の顔を見た瞬間、時が止まったような気がした。彼女はぼくの娘と同じくらいの男の子を連れていた。


歳月は彼女に無慈悲ではなかった。彼女は今でも十分、美しかった。

しかし、もう彼女には宇宙人らしいところはなにも残っていないことに、ぼくは少なからぬショックを受けた。

銀河のどこかの星から、気まぐれに旅にでて、たまたま地球にたどりついたような、無邪気で見るものすべてが珍しいとでも言いたげな、あのあどけなさは影を潜めていた。

それでも、彼女がかつて恋いこがれた少女であることを見誤るはずはなかった。



「ねえ、森島さん。あの夏の電車の中で、最期に君を見かけた日、あなたに声をかけていれば

今の二人はどうなっていたでしょうね」

ぼくは心のなかで、静かに彼女に問いかけた。

もちろん彼女は答えやしない。しっかりと息子の手を握り、出口へと消えていく。


船底に牡蠣をいっぱい付けてしまった今ならわかる。結局はおなじことだったのだ。

話しかけたところで、ぼくたちは結ばれることはなかったと。ふたりは出会った瞬間から別れを孕んでいたのだ。

ぼくたちはけして交わることのない軌道を巡るふたつの星だ。あの十代の夏にほんの一瞬だけ、二つの軌道は接し、そして再びそれぞれの道を進んでいった。

再び邂逅した二つの星はかつての熱を失い、弱々しい光がお互いに届くことは二度とない。

そう、君もぼくもほどよくくたびれたのだから。


どんな男の人生にも永遠の少女がいる。純粋で無垢で、手に触れたら消えてしまいそうに儚く、切ない。そして当然のようにそれは幻としてしか存在しない。もしあなたが運良く彼女を手に入れたとしても、それはもう永遠の少女ではない別の何かなのだ。

しかし、悲しんではいけない。彼女はけして忘却の彼方に消え去るわけではない。

われわれはその面影を極北の氷河の中に埋葬する。それは永久に取り戻すことのできない燦めくような時間の亡骸なのだ。



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