第18話 急接近

 誠はそっとテラスの背中に回していた腕を解いて、彼女の肩をそっと押して触れ合っていた体を離した。伝わっていた温もりが、心を、体を、温めてくれた。

 

 人前で涙を流したのはいつ以来だろうか? 


 遠い記憶を巡れば、あの日、一つの温もりを失った。


 それはとても優しく包み込むようで、どんなことも許し、愛してくれた。受け入れてくれたのは、偽りでも義務でもない。


 ――『愛』


 その一言に尽きるだろう。その温もりを再び感じることはない、そう思っていた。否、諦めていたのだろう。再び感じることはないのだと。


 だが、それは違った。違ったのだ。


 両腕が優しく頭を包み込む。懐にある柔らかな感触が、涙を流すことを受け入れてくれるように、何度も、何度も、その頭を優しく撫で続けてくれていた。


 二度と出会うことがないと思っていた『愛』は、今、目の前にあったのだ。手を伸ばせば届くその距離に。


 その優しさが、温もりが、柔らかなその感触が、心の傷を癒してくれる。


 目を合わせれば、赤い瞳も涙で潤み、窓から差し込む夕焼けの光を受けて、その瞳をさらに美しく燃えるように揺らめかせていた。


 頬には涙が伝うあと。


 優しく微笑みかけるその笑顔はより一層、誠の心を癒すようだった。誠は泣きはらした顔を見られたくはない、照れ臭そうに誠は顔をそらした。

 

「――ありがとう」


 伝えられずにはいられない言葉。その一言を誠はテラスへと伝える。


「――はい」


 たった一言、ただそれだけで、誠の言葉から伝わる感謝の思い。体に染みいるように、テラスは感じていた。


 テラスも突然うつむき出す。夕焼けを受け、赤く染まっていた白い肌をより一層赤く染めて、頭からは湯気が出そうなほど耳まで真っ赤になっていた。無意識とはいえ、誠をその腕に抱いたこと、そうすることしかできなかった。例えそうだとしても、自分の行いを今更ながら恥ずかしく感じてしまった。


 二人の間には静寂が訪れる。どうしていいのかもわからない二人は、お互いに明後日の方向を向いていた。鳥たちが寝床へと戻るさえずりも、その静けさには大きく響くのだが、二人は全く聞こえてはいない。それほどに二人は羞恥で頭がいっぱいのようだった。


「――何をやっている」


 突然の問いかけに二人は肩を大きく跳ねあげた。声の主のいる方へ顔を向けると、お風呂上がりの白雷が、その白い肌を上気させ、ジトりとした目で誠とテラスを見ていた。口はへの字に曲げて眉間に少々シワが寄っているようだ。


「――え、えっとこれは、その……」

「は、白雷、いつからいたの?」

「そうだな。抱き合って泣いてるとこあたりからだな」


 白雷の指摘に、二人はより一層顔を赤く染める。


「――やれやれ、これだから人間は……」


 呆れたように白雷はため息をつく。


 誠は急に立ち上がり、その場をごまかすかのようにしてテラスへと言った。


「そ、そうだ。テラスもお風呂はいってきたらどうかな。僕はちょっと部屋でくつろいでいるから」

「は、はい。それではお言葉甘えて」


 誠は自分の部屋へと向かうため、階段を登る。テラスも自室へ着替えを取りに向かうため、誠の後を追うようにして階段を駆け上がった。


 その二人の姿を見ながら白雷はニヤリと口角を上げ――


「急接近だな」


 ――と呟いた。



***



 誠は自室のベッドの上へ、自らの体を放り投げぼんやりと天井を見つめた。

 体に残るその温もりを、柔らかさを再び感じようと、寝返りを打ち、自らの体を両腕で包む。まるまるようにして両膝を折りたたんだ。


「テラス……」


 その名前を呼べば、熱いものが胸に広がっていくのがわかる。心が、体が、その赤い炎のような瞳によって焼き尽くされそうだった。目をつぶれば、彼女が見せてくれた微笑みが瞼の裏に焼き付いて離れない。心がやがてざわつき始め、なんとも言えない感覚が誠の全身に広がっていた。


 誠はベッドから体を起こし、意味もなく部屋の中を歩き回る。自分を落ち着かせようと椅子に座るのだが、数秒もしないうちに立ち上がり部屋の中をうろうろと再び歩き出すのだった。


 何かをしていなければ、自然とテラスの顔が頭の中で鮮明に映し出されてしまう。だが不思議と嫌な気持ちにはならない。嫌悪感ではない、何かゾワゾワした感覚が、誠を落ち着かせることを許さなかった。誠はトーレニングウェアへと着替える。その上にはサウナスーツをさらに着込んでいた。


「……よし、これなら」


 そう呟いて、誠は部屋を飛び出し、日の沈んだ真っ暗な外へと駆け出していった。



***

 


 テラスは自室へと戻り、閉じた扉に寄りかかり、息を一つつく。どうも先ほどから心臓の鼓動がうるさいくらいに鳴り響いている。自分の胸へと両手を重ねるように当てて、高鳴りを押さえ込もうと試みるが、どうやら収まる気配がない。収まるどころか、さらに大きくなっているのがわかる。息苦しさを感じるほどのその鼓動は――嫌ではなかった。


 着替えを取り出してお風呂へと向かう。階段へと向かう前に誠の部屋の扉を通り過ぎる時、ふと足を止める。


 彼は今どんなことを考えているのだろうか? 今部屋で何をしているのだろうか? そんなことを考えていると、誠の部屋からは物音がした。その音にテラスは驚き、逃げるようにして階段を駆け下りていった。


 脱衣所でシニヨンにまとめていた髪を解くと、長く赤い髪の毛が、重力に従ってハラリと落ちた。服を脱ぎ、浴室へと入り掛け湯をした後、その肢体を湯船へゆっくりと沈める。乳白色のお湯が、テラスの玉のような肌へと染み込むようにして、1日歩き回った疲れと、心の疲労をゆっくりとほぐしていくようだった。


 テラスは自分の膝を引き寄せ、両腕で抱え込む。湯船に浸り、体が温まるにつれて、その感覚が鋭敏になっていく。背中に回された誠の腕の感覚がまだ残っている。痛いくらいに抱きしめられたその背中に、自分の腕を回して、誠の腕の軌跡をなぞった。そうするだけで、未だに誠が自分の背中に腕を回して抱きしめてるような感覚を覚えて胸が高鳴り始めた。


 誠が見せた強がり——弱さ。そのどちらも、一ノ瀬誠という人を作ってきたものなのだろう。揺れる水面を見つめ、脳裏に浮かぶ誠の泣きはらした顔を思い浮かべる。彼が見せてくれた涙。抱え込んでいたものを少しでも楽にしてあげられたのだろうかとテラスは思う。


 目を閉じてしばらくの間、まぶたの裏に映し出される誠の姿をずっと眺めていた。


 テラスは勇者としてではなく、一人の人間として支えて上げられたらどんなにいいだろうかと思っている。そう思うだけで鼓動が再び暴れ出すようにして、激しく鳴り響く。パシャパシャと湯船のお湯を顔へとかけて自分の気持ちを落ち着けるようにした。


 浴室の天井から大きな雫が湯船へとぽちゃりと音を立てる。浴室の静寂に広がる音がやけに響いていた。


 テラスは大きな息を一つつく。心を落ち着かせようと、深呼吸して見るものの、いつまでも跳ね上がるようして鼓動が高まっている。


 この鼓動はお風呂に浸かって体があたたまったせいにしよう。このまま長く浸かっていればのぼせてしまう。そう理由をつけて、いつもより早めに湯船を上がる。


 のぼせかけた体は、お湯によるものだけではないことは確かだった。

 

 部屋着に着替え、赤く長い髪の毛はタオルで包むようにまとめる。階段を登り、誠の部屋を通り過ぎようとしたが、足をゆっくりと止めた。先ほどまであった彼の気配はいつのまにかいなくなっている。トレーニングでも行ったのだろう。誠らしいと思うと同時に、先ほどまでの時間を思うと、少し寂しくもあった。


 思えば、お互い同じ寮に住んでいるというのに、接点は全くなかった。彼が普段どんな生活をしているのか、彼の部屋はどのようになっているのか、一枚隔てたこの扉の向こうには、彼の私生活が広がっている。覗いてみたい衝動がテラスを襲い、ふっとその手がドアノブへと伸びようとした。


「何をしている?」


 テラスは『ひうっ』という素っ頓狂な声とともに、肩を大きく跳ね上げた。後ろから突然、白雷の声が響く。振り向いてみれば、白雷がアイスクリームを食べながらテラスのことを見上げている。もう片手にはもう一本握られていた。


「誠に用があるのか? 誠ならさっき玄関から飛び出ていったぞ」

「そ、そうなんですね」


 白雷は「ん」と言って、もう片手に持っていたアイスクリームをテラスへと差し出した。テラスは「ありがとう」と言って受け取る。


 白雷はいつものようにテラス部屋へと向かっていく。テラスもその後を追う。入室した後、白雷はテラスのベッドに寄りかかり、足を放り出すようにして座る。テラスは勉強机に付属している。キャスター付きの椅子へと座った。テラスはアイスクリームの袋を取り、アイスクリームへとかぶりつく。お風呂上がりの火照った体に、アイスクリームの冷たさが、口から体に広がっていく。ミルクの優しい味が、小さな頃、イーダと訓練の合間、隠れて食べていた懐かしさが蘇ってくる。


 次第に惚けていたような感覚もだんだんと鮮明になっていく。白雷はすでに食べ終わり、アイスクリームの棒を口にくわえたまま上下にぴこぴこと動かしていた。白襦袢姿の彼女は天井を見上げていた。


「テラス」

「なんですか? 白ちゃん」

「お前は誠に惚れておるのだろう?」


 テラスは口の中で転がしていたアイスクリームを気管につまらせ大きく咳き込んだ。収まったはずの胸の鼓動も再び跳ね上がり始め、自分の顔が熱くなっていくのを感じていた。引いたはずの汗も、気のせいか吹き出し始めるようだった。


「お、やはり図星か」

「は、白ちゃん! 急に変なこと聞かないでくだしゃい!」

「そう、動揺するな。今日一日のお前を見ていて何度ため息をしたことか。我と話をしているのにチラチラと誠ばかりを気にしおって……」

「え、ええ! 私、そんなに見てましたか? 」

「自覚なしか……」


 テラスの目は動揺を隠しきれずに泳いでいた。何かと理由をつけて弁明しようとするが、言っていることはちぐはぐで話にまとまりがない。白雷がからかうようにしてテラスへと言葉を投げかけるが、テラスはただ自分の気持ちを悟られまいと誤魔化そうとする。


 次第にテラスは何かを思い出したように声のトーンが下がっていく。テラスの心境を知ってかしらずか、白雷は思っていたことを口にした。


「誠はいつも帰りが遅くてな……いつも倒れこむようにしてベッドに横た割っているのだ」


 テラスは誠が足繁く義妹の澪の元へと見舞いに行っているのを知っている。その都度のどのような思いを抱いていたのかを今日知ることとなったのだが。

 

「ええ。澪さんのお見舞いに毎日通っているんですよね」

「それだけではない」

「え?」


 白雷は口にくわえていたアイスクリームの棒を手に持つと、魔力を流し始めた。自らの魔力を別の物体に通す鍛錬法はごくごく普通のことである。ドラゴンスレイヤーが持つ武器に魔力を流し、威力を増し、龍族と対峙することは最低限の魔力操作技術でもある。魔導機関開発に伴い、対龍族の武器開発も発展途上であり、使用する武器に魔力を通しやすくする技術も開発されつつある。

 

 習得するにはそれ相応の訓練や技法があるが、難しいことではない。ドラゴンスレイヤーを目指すものならば、初級ステップでクリアする魔力操作。それでも魔力操作は奥深く、緻密さを極めればとことん繊細さを必要とする。


 だがなぜ、わざわざそんなことをするのか、なんの変哲のもないアイスクリームの棒に魔力を流す白雷の真意をテラスは知ることができなかった。


「今の誠は、これすらできない」

「……は?」


 テラスは白雷が冗談で言っている、そう思って白雷の表情を見ると真剣そのものだった。


「でも、誠先輩は魔法が使えるようになったって……」


 リヴァイアサンとの戦いの後、魔法が使えるようになったと、誠本人が言っていたのを確かにこの耳で聞いた。あの時の話は嘘だったのだろうか? テラスはあの時の喜びはぬか喜びだったのだろうかと思い始めた。だんだんと難しい表情を浮かべるテラスを見て、勘違いを解くように白雷の言葉は続く。


「誠は確かに魔法が使える。それも微々たるものだ。いや、魔力行使できたと言えばいいのだろうか。あの時、リヴァイアサンを退けたのは他でもない、誠……いや、初代勇者の魔力だからな。」

「——それって……」


 テラスは白雷のいうことに理解が追いつかなくなっていく。リヴァイアサンとの戦闘の最中、極致魔法を放った後の記憶がない。その後テラス自身、どのようにしてリヴァイアサンを撃退させることができたのかをはっきりと覚えていなかった。


 頭の中は情報が錯乱していく。誠はテラスのおかげで生き残ることができたと言っていた。しかし、おぼろげに目に浮かぶ白銀の姿。白雷のいうことはその姿とだんだんと記憶が重なり合うかのようにして一致していくようだった。


 目の前の見た目幼い少女は自らを『初代勇者が最後に振るった剣』という。おぼろげながらも誠が初代勇者と出会ったという証言が現実味を帯びていく。


「……なんだ、誠は何も言っていないのか。誠がリヴァイアサンを一時的に無力化したのは事実だ。その時は確かに誠もその魔力の一部を使ってはいたがな……今はてんでダメだ」

「そんな……」


 テラス自身がリヴァイアサンを撃退したと思っていた。だが事実、誠がテラスの命を救うこととなった。誠を守ると言いながら、結局誠から守られていた事実を今知ることとなり、それを恥ずかしく思うと同時に、誠から事実を聞けなかったことを残念に思ってしまう。と、同時に胸の内にモヤモヤとした感情が湧き出し始めた。 


「誠は別に嘘は言っていない。あの時お前がいなければ、確実に二人とも死んでいたとな。我は誠に呼ばれた後のことしか知らん。だが、誠はテラスのおかげだと言っていたぞ」


 テラスは口を閉じたまま白雷の言葉に耳を傾けていた。


「多くの命を犠牲にし、お前をも死の境地に立たせたのだ。事実もう虫の息だったようだがな。そこまでの犠牲を払って、得た力を未だ『まだ使えません』とはとても言えないだろう?」

「――確かに、そうですが……」

「誠は負い目を感じて、気を使っているのかもしれんな」


 たとえ使えるようになった魔法が微々たるものであったとしても、いくらでも伸ばそうと思えば可能なはずだ。共に魔力行使の修練をするができたはずなのだから。

 同じ勇者であるならば、その根本的な魔力の性質は同質のはずである。魔力行使もテラスと二人協力しあえば必ずその突破口を見つけられるはずだった。

 テラスの胸中に、なぜ言ってくれなかったのかという思いから、誠から信頼を受けていないのではないかと、悔しさが滲み出るような表情をテラスは浮かべる。テラスの表情から思いを汲み取ったのか、白雷はテラスの気持ちをなだめるかのように言う。


「人並みのドラゴンスレイヤーなみの魔法の顕現ができるまでは、誠は誰にも本当のことを言うことはないのだろうな。それにだ、今後のお前次第で誠は生きも死にもする。あいつが持つ勇者に対する負の思いを拭い去ることができるのはお前しかいないと我は思っている」

「勇者に対する負の思い……」


 『勇者なんて、いない方が良かった』その言葉は今でもテラスの胸の奥にある傷跡のように疼いている。誰もが勇者に憧れ、なれるものならばなりたい、近づきたいと思うのだ。だが誠は違う。誰よりも勇者を憎んでいる。そんな大役が自分に務まるのだろうか? 今日の誠を見る限り、誠の中に積み重なっている勇者への負の感情はとても溝が深そうだ。ちょっとやそっとじゃ変わらないだろう。弱気になるテラスへと白雷は励ますように言う。


「まあ、誠に協力してやってくれ、それはもう基礎の基礎からな。我もあいつが本調子にならなければ剣の姿になることもままならぬからな。リルクヴィストの娘にもいい加減わからせてやらなければならんからな」


 ふん、と腕を組みながら鼻息を鳴らす白雷は、誠の魔力操作ができるようになる目的が違う方向に力が入っているようだ。テラスもその姿を見てか、少しだけ気が楽になったような気がしていた。首を左右へと振り、マイナス思考へと落ち込み始めた心を振り払う。


「ふふっ、もちろんです。同じ勇者として、人類を龍族から救うことが私たち勇者の使命なのですから」

「……そう、だな」


 白雷は少しの間の後、歯切れの悪そうに答える。笑顔を取り戻したテラスの思いを無下にはしたくなかった。


「飛んだ置き土産だ。これでいいのだな、イシスよ……」

「え? 白ちゃん、何か言いましたか?」


 独り言のように語る白雷の言葉をうまく聞き取ることができなかったのか、テラスは尋ね直すことをするが白雷は表情を変えずに話題を切り替える。


「――ん、気にするな独り言だ。それよりもテラス、誠の義妹と何か話したのか? お前も何か病院に行った後からなにか様子がおかしかったが」

「――と、特には何も……」


 嘘はいけない、とは思っているものの、テラスは誠の義妹の澪とは他の人には話せない関係となってしまった。それをおいそれとは話すことはできない。白雷は器用に片眉をあげ、テラスに視線を向けるが、テラスはその視線を遮るかのようにして背を向けて立ち上がりゴミ箱へと食べ終わったアイスクリームの棒を入れる。


「――そうか……。まあ誠に対してはあのような娘だが、別に悪い娘ではないのだろうな。――まあ、良い。とにかくだ、テラス。誠の修練はお前も協力してやってくれ」

「――はい。もちろんそのつもりですよ! 白ちゃん」


 テラスは複雑な思いを抱えると同時にそれを振り払うかのようにして声を高らかにする。誠の持つ勇者としてのポテンシャル。その可能性は計り知れない。目覚め始めた力。共に修練を積むことで互いに高め合える存在へとなれるはずだと前向きになる。帰ってきたら誠に一言言ってやろう——そう思うのだった。




***



 

 空色の髪、誰もが羨むような美貌を兼ね備えた青年が、女神に使える司祭が身に待とうアルパを身にまとい、携帯端末を耳に当てている。

 

 倭国でも特に学生たちが賑わう繁華街。その一角にある雑居ビルのオフィスで街ゆく人々の姿を見ながら受けた電話に対応していた。受話器からは、かすれた男の声が聞こえくる。

 

――そろそろ機は熟したのではないか?


「本物かどうか。それを見極める時間はまだ不十分であるかと。報告によりますと、依然としてその力を使いこなすことができないとか。ですが、雷撃の使い手であるのは間違い無いようです」


 少しの間を置いた後、受話器から再びかすれた声がした。


――そうか。もし奴が本物であるとするならば、それは女神ディオサと初代勇者の意思。『掟』を実行する。しかし、倭国という厄介な国がある以上、迂闊に手を出すこともできんな。


「はい、『掟』は絶対。なんとかして実行しなければいけません」


――偽物であったのならば……わかっているな?


「奴はただの器にすぎません。女神ディオサの命である《神童計画》を全うしてみせます」


――うむ、お前の覚悟は女神ディオサもご覧になっていらっしゃるはずだ。必ずやお前は天国へと誘ってくださるだろう。女神ディオサの御心のままに。


「女神ディオサの御心のままに」


 通話が途切れ、青髪の青年は通話停止のボタンを押す。自らが受けた使命。それを全うするためにも、女神に捧げたこの身を、堕落させなければいけない。しかし、それは全て、人類を生かすため。この身が滅びようともいとわない。自らの使命を全うする時期が近づいてきた。その予感がだんだんと現実味を帯びてきている。


「ダリオ様……」


 部屋の中の空気がふわりと動く。ダリオの背後に立つ一つの影。どこから入ってきたのか、扉を開閉する音すらも立てずに入室したのは、ディオサ教の信者が身につけるローブで体を覆い、フードを深く被り、片膝を立て、まるで主人に使えるかのごとく頭を垂れていた。


「経過はどうなんだ?」

「——はい、未だに勇者としての力が顕現されておりません……」

「……そうか、ちょうど先ほど《大司教様》から連絡があったが……結果を急がれているご様子だ。このままであれば《神童計画》実施も止む得まい」

「…………」

「とにかく、監視を続けろ。私もそろそろ自身で動いて見極めようとは思っている。できればだ、女神に捧げたこの身を汚したくはないのだがな……」

「……承知しました」


 特徴的な青色の髪の毛を手でかきあげ、その場を立ち去るため踵を返した。フードをかぶった信徒はは躊躇いつつも、ダリオを呼び止める。


「——っ、あの、ダリオ様……」

「なんだ? 私は忙しいのだが」


 扉の前でピタリと足を止め、めんどくさそうに鋭い視線をその信徒へと向けた。その美貌からは想像もできないほどの低く唸るような声をため息を出しながら言った。その信徒は肩を小さくビクつかせる。無礼とは思いつつも、自分の一番の関心ごとを聞かずにはいられなかった。


「——い、いもうと……いもうとはどうなるでしょうか?」

「ふん、知るものか。だが妹の生死は、貴様の働きにかかっていることをゆめゆめ忘れるなよ」


 そうダリオはそう吐き捨てると、扉から退出していく。無情にもその扉は、信徒と妹の関係を断つかのようにして大きな音を立てて閉ざされてしまった。


 フードを被った信徒は悔しそうにその口びるを噛みしめるとジワリと血が滲み始めたのだった。


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