第8話 海龍王
真っ暗な部屋の中、モニターに映し出された周辺海域の海図とにらめっこし、抜け目がないかを再びチェックする。革張りの椅子に深く腰掛けて、肘掛に頬杖をついては何度目かわからないため息をついた。
盤上の駒は思い通りに動いてはくれるのだが、今回はそうもいかないだろうと、思案するだけで頭痛のようなものを感じてしまっていた。今回の演習で必要とされるコストと成功の可能性はキーマン二人の働き、結果にかかっている。
日付も変わり深夜を過ぎた頃、だらけた服の上に白衣を纏った松葉葵が入室してきた。新しくタバコを咥えて、取り出したマッチで火をつけ、肺にタバコの煙を充満させる。松葉葵が煙を吐き出す音だけが静かな部屋の中に広がっていく。
お互いに挨拶を交わさずとも通じ合い、無言でコミュニケーションをとっているかのようだった。
松葉葵は白衣のポケットから携帯灰皿を取り出し、まだ吸い始めたばかりのタバコの火を消した。携帯灰皿をポケットに戻し、脇に抱えていた携帯型タブレットを両手で持ってしばらく見つめる。起動し、手慣れた手つきで画面をタッチして操作する。
目的のデータを表示し、携帯型タブレットを薫へとおもむろに手渡した。その内容を見ながら薫の顔は青ざめていく。
「あなた、本気なの?」
あまりにも深刻な内容に葵の真意を確かめられずにはいられなかった。彼女の問いに葵は淡々と答える。
「これは最後の選択肢(カード)なんだ」
彼女の言葉にはいつものような陽気さは見られない。どちらかといえば、苦痛に似た、気が進まないーーそんな声色を響かせていた。
「だとしても、これはあまりにも……」
一昔前なら許されていたものかもしれない。いや、許されていいわけがないのだ。
「これはまだ誰にも教えちゃいない。だが、本当にこれ以上の失態は許されないんだ。そうなった場合は……」
葵はその言葉を発することを少しだけ躊躇われてしまう。しかしその言葉はあっさりと口からこぼれ落ちた。
「一ノ瀬には『死んでもらう』しかない」
二人の間に沈黙が再び訪れる。その静寂を葵は乾いたわらい声で掻き消した。
「ははは……はぁ。俺も人間だと思い知らされたよ。10年以上前からあいつとはつきあてってるんだ、そりゃ情ぐらいわくよ」
薫は葵の無理矢理笑っているのを悟る。
「ああ、だからさ……あいつには頑張ってもらわないとならねえんだよ」
「でも、これが可能だとしても一ノ瀬は魔力が使えないはずじゃ……」
そう、誠は魔力が使えない。膨大な魔力を有していても『魔力行使不能症』という前例を見ない奇病に苛まれている。そんな彼が魔力を使う、ましてその『魔力全てを他人に全て渡す』ことなどできるはずがない。
人は誰しも魔力を内包している。まだまだ不可解な点はあるのだが、『その魔力が全て失われた時、死んでしまう』という性質はわかっている。魔力の源は精神力、生命力、または『魔原子』とも言われているがはっきりとはわかってはいない。
薫は改めてタブレットに目を落とす。
『魔力完全譲渡』
決して導き出されてはいけない答えを葵は導き出してしまった。
***
『あ~、暇だな~』
早朝、陽の光が差し込み始めた頃、割り当てられて任務をこなす一人の生徒が愚痴をこぼした。初の試みである外界演習は予想外にも、否、予想どおり竜族の襲撃もなく、淡々とした1日を送っていた。
『頑張って履修した内容も実践できないんじゃ無駄だったかも~』
『まあ、そう言うなよ。俺はこうやって実際に移動要塞に乗れてかなり満足してる方だぜ』
『へへ! 呑気なこと言ってやがるぜ。龍族がどーんと現れりゃ、俺様が新魔法で滅してやるぜ!』
『でもさ~、せっかく『ジェットウェイブ』乗れるようになったのに巡回任務なしだよ?』
『ハハっ! 何言ってんだよ。お前はまだフラフラだったじゃねえか』
龍族の侵攻の沈黙の中、人類はさらなる進撃に備え、その叡智をかき集め、開発したのが『魔導機関』である。『魔導機関』は人類の生活を豊かにするだけでなく、龍族へ対抗する手段の動力としても大いに利用されるようになった。
開発当初の『魔導機関』は、でかい、パワーだけで安定しない、燃費が悪いなど様々な批評を浴びていたが、対龍族移動要塞の機関として流用し始めたのは倭国であった。
アンティークなどと他国は嘲笑しているところもあるが、『魔導機関』の欠点をうまく利用し、その力を最大限に発揮できるようになった。今では倭国の移動要塞と聞けば、震えがる者もいるという。
面白おかしく、談義する生徒たちの元へ担当教官の一人が近づく。戦闘も考慮した演習であるにもかかわらず、ふざけあう生徒たちを叱責する。
『おい! お前たち!! 私語を慎め! 演習中だぞ!』
教官の喝が入ると生徒たちは姿勢を正し、右手をひたいにな斜めに添えて敬礼した。
教官の檄が飛ぶ中、移動要塞中央艦橋にある艦長室から、パンツスーツ姿の金髪の女性、高嶺薫と第二移動要塞艦長の十文字弥六が懐かしむようにその光景を見ていた。
「いや~懐かしいな、お前に檄を飛ばしていた頃を思い出すよ」
精悍な顔つきで、目尻のシワをさらに寄せて、切りそろえられた白いあごひげを優しく撫でる。
「ふふ、あの時はこっぴどく叱られていましたね」
お互いに過去の話に花を咲かせるように談笑する。
「……しかし、あの『雷姫』が現役引退するとは誰も思わんだったろうな」
「……申し訳ありません」
珍しくも感情を表すかのように、顔をしかめる薫。艦長の弥六は横目に薫の表情を見た。
「それで奴は見つかったのか?」
「いえ……。学園理事の業務が忙しくて当分探すことはできそうにないですね」
先ほど露わにした感情を取り繕うように、少しだけ済ました顔をして答える。
「……経験から言わせてもらうが、私怨にとらわれていては大事なものを見失いがちだ。やめろとは言わんが、気をつけることだ」
「……はい、わかっております」
艦長室には重苦しい雰囲気が流れる。艦長の弥六はその重苦しさを取り払うかのように話題を切り替えた。
「しかし、カーマイン皇女はなんで倭国へ留学してきたんだ? 自国の破龍学園の方が、戦闘魔法の最先端の一端を学べるはずだが……」
「さあ、それについてはよくわかっておりません。ただ……」
「ただ?」
薫は出かかった言葉を飲み込む。『運命』と言えば笑われるだろう。一ノ瀬誠という『役立たず』がこの倭国へと引き寄せたのではないだろうかとおとぎ話のようなことを思ってはいた。しかし、調べていくうちにわかってきたことは、ディオサ教がどうやら絡んでいるかもしれないという一点。
テラスの留学と同時にディオサの高等司祭が倭国学園へと頻繁に顔を出すようになったことは事実である。しかし、カーマイン国はテラスの正体を公表していない。カーマイン国でもテラスが勇者である事実を知るものはほんの一握りだ。ディオサ教はテラスが勇者である事実を知る術がないはずだ。
『勇者一族の襲撃』により勇者一族は全滅したとされているのだ。
しかし、初代勇者誕生の時から勇者一族とディオサ教は深い関わりがあり、五カ国中、四カ国は国教として定められている。その古い歴史の中にテラスを勇者と知る術があるのかもしれない。
「いえ、何もありません」
「そうか……。まあいい、言えないことがあるのならそれでいい。ああ、それとあの侍女……『そよ風のイーダ』とか言ったか? 監房でずっと暴れてるそうだが、なんとかならんのか?」
ため息交じりに薫は答えた。
「……そうですね、少し黙らせてきます」
薫は踵を返し、扉の前で一礼し艦長室を後にし、監房へと向かって行った。
***
無骨な鉄格子には魔力を抑止する術が掛けられ、どうしようもなくうなだれ、備え付けられているベッドに座るイーダの姿がそこにあった。監房の中はどれだけ暴れたのか、床に物が散らばっていた。
「お疲れのようね」
監房の外側から聞こえてきた声に顔を上げる。その瞳に薫の姿を映すと今にも掴みかかりそうな勢いで鉄格子へとその両手をかける。
「テラス様は! テラス様はどちらにいるのですか?」
薫の目には普段の姿とは違うイーダが、鬼気迫る表情で薫へ詰め寄った。憔悴しきっているように見えるが、おそらく魔力をこの鉄格子の中で使用したのだろう。彼女から感じる魔力は微力のものだった。
「テラス様にもしものことがあれば、私は……私は……」
ーー動揺
その姿はとてもじゃないが異常だった。彼女の忠誠心からくるものなのだろうか、その時は薫は彼女の姿があまりにも焦っているようにしか見えなかった。
「安心して。まだ、出発はしていないわ」
イーダを安心させるかのように薫は彼女をたしなめる。その言葉を聞いて少しだ安堵の色を見せるイーダ。
「ちゃんと考えれば、あなたの主張が正しいわ。別にテラス皇女様を使い捨てにしようなんて思ってはいないわ。私たち倭国のために少しだけ協力してほしいの。出発の際はあなたも一ノ瀬とテラスに同行して。もちろんテラス皇女様の護衛としてね」
その言葉を聞き、安堵の色を濃くした表情は、いつものキリッとした表情へと変わる。
「そうですか、そうであれば私も準備しなければ」
イーダを監房から出す薫は一つの考えを巡らせた。先ほどまで見せていたいつもと違う彼女の表情は忠義を尽くすべき相手を気遣ってだろうということは否定できない。表向きではカーマイン皇国の第三皇女。テラスが命を失うことがあれば、彼女の責任は免れ得ないだろう。もしくは別の何か……。
「出発は8時。もうあまり時間がないけど大丈夫かしら?」
「問題ありません。今すぐ準備いたします」
イーダが自室へ向かおうとしたが、薫が呼び止めた。
「ああ、それと……」
「ごめんなさいね、昨日のこと。反省しているわ」
「……ええ、全くです。反省していただかなければなりませんね」
イーダは少しだけ驚いた表情を見せたのち、微笑を浮かべてそう答えた。そして自室へと向かって走っていく。
「少しだけ、あなたのことを確かめさせてもらうわ」
薫はスーツの内ポケットから携帯端末を取り出して、目的の相手へと通信を取った。
***
小型の高速艇が颯爽と波を切り、引き波を起こす。移動要塞からは40海里ほど離れたところにある目的地へと向かっていた。
シニヨンに結い上げられた真紅の髪の前髪を風にたなびかせ、目的地の方向をまっすぐに見据えるテラス。その横にはイーダがピタリと位置していた。
テラスはイーダと目を合わせ微笑み合う。テラスはイーダが少し気だるげに見えていた。
「イーダ、大丈夫ですか? 少しだけ体調が優れないよう見えますが?」
「テラス様、何をおっしゃいますか。少しだけ朝早く起きて運動してた……うっぷ!」
イーダはどうやら船酔いをしたようだ。テラスを心配させまいとニッコリと笑顔を作るがその笑顔は明らかに無理をしている。テラスは心配そうにイーダの背中をさする。
「も、申し訳有りません。どうやら船との相性は悪いようでして……ううう!」
「い、イーダ!」
テラスはまた背中をさすりながら船尾のほうで揺れに身を任せている誠の姿を見る。誠は平静を装っているようには見えるが、どこか落ち着きのなさが滲み出ていた。
イーダの吐き気は止みそうになく、船のデッキの上でうずくまるイーダを心配そうに見ながらも誠の方へ向かうテラス。
取っ手を掴みながらヨタヨタと近づくテラスに気づき、視線を向ける誠だが、水平線へと再び視線を戻す。
「誠先輩は、船酔いはしないんですね?」
薫から聞いた誠が持つ龍族へのトラウマ。今それに直面しようとしている彼の緊張を少しでもほぐそうと、テラスが声をかける。
「テラスさんも船酔いはしないんだね」
意外にも普通に回答を口にした誠からはあまり緊張のようなものは感じ得なかった。テラスは微笑み返したが、誠の口から聞こえてきたものは、あまりにも冷たいものだった。
「……テラスさん。もしもの時は僕を囮に逃げるといい」
「と、突然、何を言ってるんですか、冗談をおっしゃらないでください。この演習で誠先輩は勇者の力を……」
テラスは誠の言葉を理解できなかった。
誠自身が今まで隠れて努力したものを、顕現した再生能力、超身体能力を否定するかのようだった。
少しずだが近づき始めた二人の距離をも突き放すように感じられ、心に焦りのようなものを感じてしまう。
「誰かが囮になるとか、誠先輩が認めても、私は認めません! 私は勇者です! 誰かを見捨てて自分だけ生きながらえようとも思いません!」
大声で言うことができないが、テラスの言葉には憤りのようなものが込められているように聞こえる。一度目を閉じて、自らを落ち着かせるように一呼吸。ゆっくりと開いて笑顔を誠へと向ける。
いつになく弱気になっている誠の前で膝をつき、彼の手にそっと自分の手を重ねるテラスは誠に優しく諭すように告げる。
「誠先輩。大丈夫です、怖くないですよ。私がついてます。命に代えてでもあなたを守ります。なんたって、私は勇者なんですから」
そう言って太陽のような笑顔を向けるテラス。テラスのかけた言葉は義母が実験で辛い思いをしていた誠を元気付ける時の姿と重なる。しばらくテラスの姿に見とれていたのだが……。
「ありがとう、テラスさん。大丈夫だよ。僕は死んだりなんか……」
ふと、誠は何かを感じ取る。波を切り進む船の上を悠然と歩き、周囲を見渡す。不思議そうにテラスは高速艇につかまりながら誠の後を追う。
誠が振り返ると、テラス越しに遠く見える水面に影を見た。その影はゆっくりと水面を持ち上げてはこちらの様子を観察するように並走する。そしてゆっくりと水面に小さな波を立ててその影は姿を消した。
誠は目を疑ったが、間違いないだろう。誠は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。次第に体が小刻みに震え出すのがわかる。
テラスは誠の急変した様子に心配して声をかけようとした時だった。
「魔原子収束反応多数あり! 龍族です!」
高速艇に乗っていた倭国軍の隊員の一人が探知魔法を可視化できるように施された立体ディスプレイの反応を見て叫んだ。
「くそっ! 全然気配なんてなかったぞ!」
「おいおいおい! どんどん増えてやがる!」
立体ディスプレイには龍族の存在が赤色の三角で表示されている。表示される赤い三角は一つまた一つと増えていき、次第のその数約50を超えていく。
立体ディスプレイの中心には高速艇が位置し、探知魔法が波紋状に広がり、目標の位置と距離を指し示していた。ディスプレイ上の中心に向かって赤い三角の表示は徐々にその距離を詰めている。すでに360度全方位が囲まれ、その距離もわずか10mほどとなった。
しかし、海上戦闘で鍛え抜かれた倭国軍の隊員は龍族の囲いの穴をすぐさま見つけ出し、そこに向かって舵を切った。
「止むを得ない! スピードを上げる! 『ジェットウェイブ』射出用意!」
目的のポイントまで高速艇で向かう予定だった。しかし、囲まれた龍族の数を目の当たりにした時、戦闘を余儀なくされる状況と判断した隊員は戦闘準備を指示する。
高速艇はさらに加速し船首が上昇する。波を切り船内壁から射出台に据え付けれた『ジェットウェイブ』が現れる。
美しい流線型の先端(ノーズ)には鋭く尖った刃が三又に組み付けられ、デッキには両足を固定するための専用の固定具が取り付けられている。後方には大きな筒が口を開けており、推進力を伝えるための排出口がある。排出口はテール部分の真後ろを向いたもの、左右斜め後方に向いたものがある。
裏側(ボトム)にはフィンが取り付いており、重心を移動するだけで方向転換を可能とする。先端(ノーズ)のボトムには真下に向いた排出口があり、この排出口から出る推進力と後方の排出口で様々なトリックを可能とする。
このサーフボードに似たドラグ・マキナは魔導機関の動力により海上戦闘をより有利にすることを可能とした。
誠とテラスは慣れた手つきで片方にグラスのついたメガネ型のウェアリングデバイスを装着する。
テラスは魔力を伝達させ、ウェアリングデバイスから展開された空間ディスプレイを表示させる。ジェットウェイブの魔導機関はテラスの魔力に反応し、機体の状況を瞬時に表示する。
ディスプレイにはジェットウェイブ本体の状況を示す小さなウィンドウがいくつも展開される。
テラスの魔力と、ジェットウェイブ本体がリンクし表示されたディスプレイにはいくつものローディングバーが表示される。
その仮装ディスプレイとウェアリングデバイスから発せられる音声確認を聞きながら、ジェットウェイブの固定具に自らの足を固定する。
『System All Green』
本体に異常がないことを知らせる表示と音声がテラスの目を開かせる。
同時に誠もウェアリングデバイスから空間に表示されるディスプレイで本体の状況を確認しながら、足を固定具に固定する。
ポシュッと音を立ててジェットウェイブのデッキ部分から飛び出した無線コントロールスティックを右手で掴み取る。
誠の腰には人差し指大の魔倉(レビスタ)がいくつも刺さっている。その魔倉をコントロールティックの柄の底部から差し込みロックする。
コントロールスティックについた各シフトレバーを人差し指で引くと、勢いよく魔導機関の発する動力がうねりをあげる。
『System All Green』
誠が乗るジェットウェイブも異常なしの知らせを告げる。
「大丈夫、大丈夫。怖くない。怖くない」
誠はブツブツとつぶやきながら自らを落ち着かせる。テラスは隣の射出台の誠を心配そうに見つめていた。
倭国軍の隊員が二人へ告げる。
『いいか! 絶対に止まるな! 止まれば死ぬぞ! それと少年、魔倉(レビスタ)の魔力量を常に把握し、交換はスムーズに行え! 』
インカムから聞こえる隊員の声に、コクリと首を頷き深呼吸した。
倭国軍の隊員が『ジェットウェイブ』射出のカウントを開始する。
「カウント開始! 3、2、1、射出!」
バシュッという大きな射出音がなるとともに誠とテラスは船外へと射出される。
ジェットウェイブのボトムが海面に着く瞬間、二人は魔導機関の動力のアクセルを入れる。大きな機動音とともに魔力による推進力と、取水口より取り入れた海水でジェット水流作ることにより、海面を滑るように前進する。
二人の空間ディスプレイにはジェットウェイブ本体の機体の状況、方位、現在地、海図が表示され、使用可能な搭載した魔導兵器、そして、海面下にいる龍族の位置情報を示している。誠のディスプレイには魔力残量がバーゲージと数字で表示されている。
遅れてイーダは、先ほどの船酔いはどこへ行ったのやら、いつもの平静な表情でボートのガンネルからゆっくりとその足を下ろす。
ふわり
彼女の体を優しく受け止めるように、イーダを中心に風が集まる。風の魔法によりイーダの体は宙をまっていた。
彼女の目は警戒の色を高め、球状の魔力の結界を発生させる。海面下に龍族が襲ってきても対応できる万全の準備を整え、ジェットウェイブに乗る二人に合流する。少しだけ、顔色を悪くしながらも、イーダは気丈に振る舞っていた。
三人は並走し、目的の孤島へとその舳先を向ける。
「敵多数! 戦闘はなるべく避け、孤島への到着を最優先とします!」
テラスはこのスリーマンセルでの隊長を務める。その号令に誠とイーダが答える。
「「了解」」
しかし、テラスの指示も虚しく、3人めがけて龍族が海面下から襲いかかろうとしていた。
ウェアリングデバイスが警告音を警鐘を鳴らす。空間ディスプレイには迫ってくる龍族の数と、その距離が表示される。
誠の目の前に表示された空間ディスプレイは迫り来る龍族を、赤い枠で補足する。
「……っ!」
「誠先輩!」
捕捉した龍族の数は5体。その全てが、誠へと向かってくる。それに続くように他の龍族も追随する。
誠は『魔力行使不能症』という内在する膨大な魔力を使用することもできない症状により、魔力の鎧、魔装(アルマドゥラ)を纏えない。
魔装(アルマドゥラ)は魔力の量、コントロールによってその防御力が左右される。たとえ魔法による攻撃や、龍族の強大な力を前にしてもある程度まで直接外傷を得ることはない。この魔法は身体強化魔法の基礎魔法でもあり、極めれば防御力を格段に向上させることができる。
しかし、魔装(アルマドゥラ)を纏うこともできない誠は、一番の格好の餌食である。彼をめがけて水中から龍族が水面へ一直線で向かってきていた。
最高時速40ノット(約74km/h)で走るジェットウェイブの出力を最大限活用しようと誠はマニュアル操作に集中する。
海面を割って放物線を描くその姿は、体を守る美しく生え揃う鱗に覆われている。触れるものを鋭利なカミソリで切り裂いてしまうような鋭さを放つ。上顎から伸びた長い鋭利な牙は下顎を少し超ええ、並ぶ歯はノコギリのように噛み付くものすべてを擦り切ってしまう。その凶暴さを携えた大きな口を開き、誠を飲み込もうとする。
誠はコントロールスティックを巧みに操り、ノーズ側の排出口を噴射させると同時に、左斜め後ろの排出口からも噴射させる。ジェットウェイブのボードが水飛沫をあげながら空へと舞い、体を軸にひらりとその体を捻る。誠の体は空中で回転しながらもその龍族から目を離さない。
すれ違いざまに鋭い龍族の目は誠の姿をはっきりと捉え、最大の魚類、鮫に似たその姿は大きな水しぶきと同時に再び海面の中へと姿を消す。
しかし追撃をかける龍族の姿は誠の目にはゆっくりとしか見えない。顕現した勇者の力であろう『超身体能力』による動体視力はウェアリングデバイスが捕捉するよりも早く、瞬時に状況を判断し、命令をその体へと伝える。たとえ複数の攻撃があったとしても、周囲をぐるりと見回して、冷静にその情報を処理し動くことが可能である誠は冷静だった。
そして、姿を現した龍族の姿を見た高速艇に乗る隊員は驚愕の声をあげた。
『ティ、ティブロンだと? なんでこいつらが……まさか!」
ティブロン。
龍族の眷属、魚竜の一種であり、ランクは上級ランクB。遊泳スピードは海龍族の眷属中で最高であり、ジェットウェイブと同等、もしくはそれ以上の速度で海中を移動する。そしてその鋭さを放つ鱗と牙による一撃は、どんな強固な魔装(アルマドゥラ)を纏っていたとしても、破壊しかねない。
常に群れで行動する特徴があり、その群れの中心には必ず最大級の龍族が存在する。
『てっ、撤退だ! 学生たち! 急い……ぐわあああ!』
ティブロンの群れが一斉に高速艇に襲いかかる。高速艇の左舷後方はその牙によって大きく抉られる。コックピットで指示を出していた隊員はその船体ごと噛みちぎられていた。
ティブロンは沈み始めた高速艇をさらに追撃。穴だらけとなった高速艇は海の藻屑と化していた。
ティブロンの攻撃をかわすことに集中していた三人は、インカムから聞こえる隊員の絶望的な声に表情を歪める。隊員の最後を告げる叫び声は一人の男の心をかき乱した。
「くそっ! くそっ! くそおおおおおお!」
誠は自分を責めた。学生を孤島へ運ぶという任務をこなすはずだった。その任務の真意を知らされず海の底へと消えていく隊員の命を失わせてしまう。その状況を作った自らの無力さをただ嘆く。
しかし、そんな誠の気持ちを無視するかのように、ティブロンの追撃は止まない。
誠の心は怒りに満ち始める。冷静さを欠いた誠の動きは次第に単調になり始める。
「誠先輩! 冷静になってください!」
インカムから聞こえるテラスの声にも耳を貸さない誠の体には、ティブロンの攻撃による切創が増え始める。
「うらぁぁ!」
誠はティブロンの攻撃を空でかわして刀でいなし、刀でその体をなぞるように滑る。ティブロンの体を切り裂こうと刀を振り抜くが、魔力を一切纏わない誠の刀は脆くも欠けていく。
ジェットウェイブには魔石をはめ込んだ近接武器も搭載されている。しかし、それすらも使うことを忘れさせてしまうほど、誠は冷静さを失っていた。
誠を援護しようと近づくテラスにもティブロンの攻撃が襲いかかり始める。ウェアリングデバイスが捕捉したティブロンをテラスはジェットウェイブを華麗に操りながら海面を、そして空中で体をひねりながら攻撃を躱す。美しい赤髪がテラスの動きに合わせて流れるように漂い水しぶきが太陽の光を反射する。
テラスはジェットウェイブから射出された一握りほどの筒を掴み、海面に向かって振り抜く。筒はその長さを延長し、先端からは両刃の剣が飛び出し矛と化す。魔石が魔力を放ちだし、その矛を魔力のオーラが覆う。さらに自身の魔力を込め、炎を纏わせる。
ティブロンは魔力を察知し、攻撃対象をテラスにも向け、誠へと近づくテラスを阻む。
「テラス様!」
風の飛行魔法でテラスへと駆け寄るイーダ。その両手には詠唱印(イディオマ)が刻印されたナイフを持ち、そのナイフの刃を交差させ、姿を現したティブロンへと風の魔法を繰り出した。
「吹き飛べ……風の衝動(インプルソ・デル・アイレ)!」
凝縮した風の塊をティブロンのすぐそばで生成。
押し込められた風を一気に開放する。力のベクトルはティブロンの体へと集中させる。ティブロンの体は瞬間的に彼方へと吹き飛ばされる。
「くっ……」
「イーダ!」
テラスへと駆け寄ったイーダは辛うじて風の魔法で浮遊している状態だった。一日中独房で暴れまわったツケが今頃やってきたのだ。
「テラス様……状況は最悪です。私にかまわずお逃げください」
「あなたまで何を言うんですか! 絶対に切り抜けるのです!」
テラスはイーダを守るようにその背に庇い、海面下から襲い来るティブロンに矛を構えた時だった。
今までの攻防がいつの間にか静まり返り、ティブロンの攻撃が一切止んでいた。それは嵐の前兆のような静けさだった。
冷静さを欠いた誠もティブロンの攻撃が突然止んだことを不思議に思うが警戒をやめない。
「……ぱい! 誠先輩!」
テラスの呼ぶ声にやっと気づく誠はテラスの方へと顔を向ける。ジェットウェイブで近づくテラスの肩にはイーダをがその身を預けている。
テラスは誠の隣に立つが彼の表情の変貌ぶりに驚く。それは極限までに追い詰められたようで、その目は怒りと悲しみが入り混じり今にも崩れてしまいそうだった。
テラスが心配そうに誠の顔を覗き込むと誠の瞳は潤み出し、今にも泣き出しそうな表情へと変わる。
「ま、誠先輩?」
「お願いだ、テラスさん。僕を置いて逃げてくれ……」
テラスは誠の言葉の真意がわからない。しかし、高速艇上で見せた表情、言葉よりも重く、より深刻さを物語っていた。
テラスは再び抗議の言葉を誠にかけようとしたが、その真意を悟る。海中を蠢く巨大な影がテラスを震え上がらせたのだ。
その影の主人が海面を押し上げながらその姿を表す。
三人に影を落とし太陽を覆い隠すその姿から滴る海水は、豪雨のごとく降り注ぎ、あっという間に衣服を濡らす。体を覆うコバルトブルーの鱗は光を反射させ、虹色に色を変えていた。遠くで虹色にうねるものは間違いなく今目の前にいる体の一部だろう。海面から立ち上るその姿を見上げれば恐ろしくも神々しさを感じさせる。美しい王冠を彷彿とさせる角が天へと向かい生え揃う。縦長の緋色の瞳は死を覚悟させる。むき出しにした規則正しく並んだ牙は岩をいとも簡単に噛み砕くだろう。
『■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!』
王は空へと向かい咆哮する。
まるで鯨類が鳴くような、美しくも切なげな色をした声が空へ、海へと響き渡って行く。
三人は海龍族の王、『リヴァイアサン』をその瞳へと焼き付けた。
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