第5話 言葉の裏側
『アラム国第三山岳要塞陥落。死者300人超。第二山岳要塞まで戦線を撤退。ベヒモス級アイスドラゴンの強襲か。ーーレイノ・ウニド共同通信』
同胞の不幸の知らせを片目に、薄暗い理事長室の執務机でパンツスーツ姿の金髪の女性が深刻な表情を浮かべながら受け取った電話に応対していた。
ーーそれで、そちは一ノ瀬誠を外界に放り出すというのじゃな?
受話器から聞こえる声は古風な喋り方だが、どこか幼さを感じさせる声色であった。
「はい、7年前とは違い、彼は力を行使しつつあります。お送りした戦闘記録の中にもあるように、彼は驚異的な再生能力を顕現させました」
薫は一ノ瀬誠が死から這い上がる姿を目の当たりにしたのだ。だれもが見ても一ノ瀬誠は一度死んでいるように見える。
ーーしかし、まだ不十分のように感じるのじゃが……それでも構わんと申すのか?
受話器の向こう側ではまだ確信を得ていないのか、声に疑問の色が混ざっている。
「戦力測定の際、再び紅蓮華(ニルヴァーナ)を一ノ瀬誠にぶつけました。彼からは魔力を検出できなかったものの、飛躍的な身体能力の向上が見られ、彼の魔力は一時的に身体能力に変換されたものと見ております。始めの模擬戦で見せた一ノ瀬誠の『再生』に大きく魔力を消費し、その影響で身体能力が向上したものと推測されます。現在松葉葵、並びにカトリーナ・リュッタース二名により、魔力行使プロセスの解析中です」
ーーしかし、結局は魔法を使うまでには至らんかったということか……
「はい、残念ながら」
誠は脅威的な再生能力を顕現させたとはいえ、膨大な魔力を魔法現象として発生させていないのだ。結局のところ勇者の力を行使できていないという結論に至る。
ーー7年前の二の舞にならんとよいのじゃが……。しかし、我が野望を実現するためにも、この倭国の発展のためにも、一ノ瀬の魔力行使を何としてでも実現せねばならんのじゃ!
「はい、心得ております。いざという時はこの私が……」
思わず、受話器を握り手に力がこもる。
ーーよいよい、そう気負わずとも。じゃがの薫。これだけは忠告しておく。ディオサの連中には気をつけるんじゃぞ? 学園にもよく顔を出しているようじゃしの……あやつら、テラスの正体に気づいておるやもしれん。一ノ瀬のこともそうじゃ、力を行使するようになれば、またあいつらがしゃしゃり出てくるのではないかと……
「女王陛下」
ーーなんじゃ……。まさか!
「はい、つい先ほどディオサ教司祭が訪問しております。まだ気づいていない様子ですが、時間の問題かと」
ーーふぬぅ~~~~~! こそどろどもめ! そもそもあやつらの存在自体気に食わぬ! なんじゃ、自分たちばかり勇者一族を独り占めし、甘汁ばかりすすりよって! 気に食わぬ! 気に食わぬのじゃあ!
「へ、陛下?」
言葉の乱れように思わず驚く薫。
ーーぬ? すまぬ、取り乱した。まあ、良い。そのうち踏み潰してくれる。木っ端微塵じゃ! そうそう、テオフィール国王の親父が言っておったぞ、例の『ドラグ・マキナ』の試験稼働段階までもう少しだそうじゃ。どうやら『バハムート計画』は儂らが足を引っ張っておるようじゃ。
「それは先を急がなければなりませんね」
ーーふむ、それを考えるとやはり一ノ瀬を外界へと放り出す必要がありそうじゃな。
「それでは外界演習の件、受諾いただけたと理解してよろしいでしょうか?」
ーーおお、構わぬ。そそれでだな、薫よ。
「はい、いかがいたしましたか?」
ーーその、なんじゃ、一ノ瀬とテラスはうまくいっておるのか? もうヤったのか? ん?
受話器の声からは何かワクワクしているような様子がうかがえる。誠とテラスの同棲を提案したのは他でもない、倭国女王だ。『勇者と勇者がヤればうまくいくんじゃないか?』という下品な提案に、悪ノリした松葉葵がこれまた下品な笑顔をみせ、勝手に進め始めたものだった。
「いや、それが……」
ーーなんじゃ、なんじゃ。
「絶賛喧嘩中です」
***
『勇者なんていない方が良かった』
何日経ってもその言葉がテラスの頭の中で何度も鳴り響く。
テラス自身の存在を、そして言った張本人さえも否定する言葉。
テラスは乱れた心を取り戻すように、明るく振舞おうとした。しかし中々思うようにいかないのは、まだ未熟ゆえなのか、それとももっと他に気になることでもあるのだろうか、テラスはまだ気を取り戻せそうになかった。
人類にとって勇者の存在は絶対的な存在だ。勇者は、全ドラゴンスレイヤーの憧れであり、『17年前の事件』以後も勇者への熱い思いは絶えない。歴戦の勇者の絶大な力を知らないものおらず、剣を振ればたちまち龍を切り裂き、その魔法はその肉を焼き尽くす。
子供達は親から聞かされる勇者たちの英雄譚に目を輝かせ、将来は自らもドラゴンスレイヤーとなると心に誓うのだ。
町の本屋で並べられる絵本のほとんどは、歴代の勇者たちを題材としたものである。それを母親にせびる子供達をテラスは微笑ましく見つめていたこともあった。クラスメイトたちも歴戦の勇者たちの英雄譚を誇らしげに語っている。
テラスは思う。勇者の力は人々を幸せにしてきたはずだ。決して不幸になんてしていない。勝ち取った400年に渡る平安は歴戦の勇者たち、ドラゴンスレイヤーたちが前線を駆け巡り、その戦線を押し上げては押し上げて、龍族を後退させてきた賜物だと誰もが知っている。
しかし、この世界中でただひとり、勇者が嫌いという男は一ノ瀬誠以外、どこを探してもみつからないだろう。
与えられたであろうその力を否定せずとも、受け入れもせず。そしてそれを不要だと言いながら利用しようとする男は世間一般から見たら異端のそのものである。
かき乱された心と思考は一つの答えを導き出した。
ーー無知
その答えはまた一つテラスの心を落ち込ませる要因となった。
テラスは彼、一ノ瀬誠のことを何も知らないのだと、改めて思い知ったのだった。
***
テラスは学園からの下校途中、寮への道を歩いていた。
寮に戻りたくないーーそんな思いに足取りが重くなる。なんとなく誠に顔を合わせたくはない、そんな気分だった。それでも寮へと足が向かうのは、義務感からだろうか? テラスは思いのほか、生真面目すぎる部分があった。
ゆったりとした足取りで寮へと向っていると、後ろから呼ぶ声にテラスは振り返った。
「まさか、テラス・カーマイン皇女殿下でしょうか?」
そこには青い髪の色をしたアルバ姿の青年が、テラスの姿に驚いている。
「えっと、そうですが」
青年はお辞儀をして、目を伏せていった。
「噂では聞いておりましたが、本当にこの破龍学園にご入学されていらっしゃったとは。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。私、ディオサ教司祭、ダリオ・エルマンノ・マラヴェンターノと申します。以後お見知りおきを」
「はい、こちらこそ、司祭様」
丁寧にテラスもお辞儀をする。その仕草は皇女そのもの、洗練されたものであった。
ダリオは顔を上げて心配そうに、テラスへ言った。
「テラス皇女殿下、何かお顔が優れませんが如何されたのでしょうか?」
「いえ、特に何も」
テラスは愛想笑いでその場をやり過ごそうとするが、ダリオは引かなかった。
「いえいえ、殿下のお顔は明らかに優れていないご様子です。なんでもおっしゃてくだされば、このダリオ、殿下のために何事も致す所存であります」
ダリオはしつこくテラスに詰め寄りその手を取ろうとしたが、すんでのところでテラスはその手から身を引いた。
「申し訳ありません。寮で人を待たせてあるので失礼いたします」
テラスはそそくさとその場を立ち去る。ダリオは遠くへ行ったテラスを見つめながら言った。
「チッ、雌馬風情が……」
***
テラスは先ほど出会ったアルバ姿の青年に、不快感を抱いていた。初対面なのに何か厚かましく、どこか無礼で、本能的に『嫌な』感じがした。皇女だからだと傲慢になっているのではない。どこか女性を蔑むような、見下した視線を感じとっていた。
テラスはディオサ教が昔から苦手だった。国教であるため信仰をしていたが、いく先々で出会う司祭達、特に大司祭以上の人たちの視線にテラスは不快感を感じていた。
ディオサ教は、初代勇者に莫大な力を与えたとされる女神を信仰する宗教だ。勇者一族との深い関わりがあり、『王国連合』、『勇者一族』に次ぐ権力を持っている。五つの国の宗教は基本的にディオサ教を国教として定め、その信者数と組織規模の大きさから、背後で5つの国を動かしているのではないかと言われているほどだ。
テラスはダリオの視線に悪寒を感じ、身震いする。
視線を振り払うかのように、頭を左右に振り気を取り直し再び寮へと足を向けた。
寮まであと数十メートルというところ、テラスの足がピタリと止まる。
寮から出て行く誠の姿があった。
白無地のカジュアルシャツを羽織り、腕まくりをしている。体にフィットしたシャツによって着痩せしているように見えるが、その男らしい肩幅と覗く両腕はとてもたくましい。はき込まれ、程よく色落ちしたインディゴブルーのデニムも彼の甘いフェイスを頼り甲斐のある無骨な男へと色づかせ、茶色のデザートブーツがコーディネート全体を引き締めていた。
テラスは誠の外行きのオシャレに少しだけ見惚れる。そしてその手に握られている紙袋が、せっかくのオシャレを台無しにしていることに不思議に思う。
誠は左手首につけた一際厳つい腕時計を見てうなづき、歩き出す。その足は学園の敷地から出る校門へと向かっていた。
テラスは何かを知ることができるかもしれない。少しでも彼のことを知ることができるのならと、心の中が騒いでいた。テラスはいけないと思いながらも、誠への好奇心が彼女を突き動かす。
誠は学園の校門から敷地外へ出て、そのまま徒歩で目的地への方向であろう道へと足を向ける。
テラスも後をつけ、敷地外へ出ようとした時だった。
「テラス様」
ふわりと柔らかな風が吹くと、メイド服姿のイーダが後ろに現れる。
テラスはビクリと肩を跳ねさせ、後ろを振り向いた。
「イ、イーダ、どうしてここに?」
テラスは少しおどおどしてイーダに言った。イーダの表情は少しばかりきつく、テラスを見つめるその目は少しばかり怖い。
「テラス様。学園敷地外へ単独で出ることは禁止であると私は申し上げませんでしたか?」
「は、はい。確かに」
テラスは肩はフルフルと震えだす。テラスにとってイーダは姉のような存在であると同時にお目付役。テラスの躾もイーダが行ってきたため、テラスはイーダの前には頭が上がらない。
「ですよね~。だったらなんで一人で行こうとしてたんですか?」
「え、えっと。その。ごめんなさい」
テラスの明らかな落ち込みように、手のかかる妹だーーと、イーダはため息をこぼす。
イーダは知っている。表情に出さずとも時々見せる、憂いを帯びた表情は何か一人で抱え込んでいるときだ。それに、本人は気づいていないだろうが、最近は何度もため息を零しては俯いていた。
そして、その原因を作ったであろう、いや、十中八九間違い無く原因はあの男だと確証を得ている。
「一ノ瀬誠ですか?」
「はい……」
「はぁ、仕方ないですね、テラス様はどうしたいんですか?」
「私は……私は、誠先輩のこともっと知りたいです。どうして、勇者のことが嫌いなのか、勇者がどうして人を不幸にすると思っているのか知りたいです。今、誠先輩についていけば何か知ることができる気ががするんです。」
テラスの瞳は懇願の色を携え、イーダを見つめる。そして観念したかのようにイーダはため息をついてうなづき言った。
「はぁ、わかりました。それでは見失わない内に一ノ瀬誠の後をつけましょう」
「イーダ、ありがとうございます」
テラスは礼を言って、二人はうなづきあっては誠の後を静かに追いかけ始めた。
***
誠の足取りは迷いなく進む。歩道には一定の間隔で木が植え込まれている。後をつける二人はその木の陰に隠れながら息を殺して、誠の後を追っていた。
「一体どこに行くのでしょうか?」
「ところでイーダその手にあるものは一体なんですか?」
イーダはいつの間にか手に虫眼鏡をもち、その中心に一ノ瀬誠をとらえていた。10分近く歩いているが、まだ一ノ瀬誠の目的地へたどり着くことはなかった。
誠はある店の前で止まり、表に出ていた店員に話しかけているのを見て、テラスが言った。
「あ、お店に」
「お花屋さんですね」
花屋に表には色とりどりの花が並べられ、その花々を手入れしている女性店員に話しかけていた。遠目から見たら、若いカップルのように見える。花について色々と質問をしているように見えるだけだが……
「綺麗な方ですね」
「……なんでしょう、少し胸がちくりとします」
「テラス様、やっぱり……」
誠は女性店員の案内で店の中へ入り、しばらく出てこない。ただ花屋で物色しているだけだろうが、テラスは何か落ち着かない様子だった。
誠は店から出てくると、その手にはビニール袋が握られていた。中には色鮮やかな色が透けて見えていた。馴染みの店員なのか誠は手を振り、店を後にする。
「お花を買われたようですね」
「女性へのプレゼントでしょうか」
「そ、そうと決まったわけでは……」
「テラス様……」
ジトリとした目でイーダはテラスを見つめ、ため息をつく。
「な、なんでしょうか?」
テラスはイーダのジト目に少し後ずさり、少し身構える。イーダはジト目で見つめ、ため息をつく。
「ほら、早くしないと一ノ瀬誠を見失いますよ」
イーダはそう言って、誠の後を再び追いかけ始める。
「あ、待ってください!」
テラスも先を行くイーダとすでに小さくなった誠の姿を追いかけた。
***
花屋を出てからさらにすこし歩いたところ、誠はある場所へと入っていった。
「病院?」
「そうですね、追いかけますか?」
「も、もちろんです」
病院の入り口は自動で両扉がスライドして開く。大きな吹き抜けのロビーは開放感があり、少し傾きかけた陽の光がその床を照らしていた。誠はロビーを抜け、魔導機関によって動く箱型の昇降機に乗りこんだ。テラスはこれ以上追いかけるのは病院に迷惑を掛け、彼のプライバシーに踏み込み過ぎてしまうと感じて、それ以上追いかけようとはしなかった。
「イーダ、ありがとうございます。ここまでくれば、誠先輩の目的がわかったような気がします」
「よろしいのですか? このままでは、なにも収穫はないと思うのですが」
「いいんです。きっと、本当の誠先輩は心優しい方でしょうから。それを知ることができただけでも、大きな収穫だと思います」
テラスが本当に知りたかったことは、誠の本来の姿だったのかもしれない。何か特別な理由があって、勇者を嫌うようになったことは事実であろう。テラスにとって大事なことはその理由を知ることではなかったのかもしれない。
テラスは少しだけ安心したような表情を見せイーダに言った。
「ふぅ、イーダ、少し休憩しましょう。喉が乾いてしまいました」
「そうですね。ちょうど中庭にカフェがありますし、そこでお茶でもいただきましょう」
***
誠は目的の階層で昇降機を降りる。右へ曲がると看護師待機室があり、顔なじみの看護師へ挨拶をする。笑顔で応対してくれた看護師は誠が今日会おうとしている人物の様子を伝えてくれた。
「あ、こんにちわ。今日の澪ちゃん、調子良いですよ。朝昼もしっかり食べてましたよ」
「こんにちわ。そうですか、それは良かったです。まだ起きてますよね?」
「ふふ、まだ寝るような時間帯ではないですよ。それじゃあごゆっくり」
「ありがとうございます」
誠は目的の病室へと歩き出す。広がる微かな消毒液の匂いは病棟がしっかりと除菌されている証。相部屋同士の人が会話する声や、ベッドで横たわっている妻であろう人の手を優しく握る男性の姿。そんな光景を目に移しながら、だんだんと目的地に近づくにつれ、誠は緊張した表情を浮かべ始める。
目的地の病室は個室で『一ノ瀬 澪』と名札が書いてある。誠は少し深呼吸して笑顔を作り、コンコンとノックをした。
「澪、誠だ。入るよ」
部屋からは返事がない。誠はそのままスライド式のドアの取っ手をとり、右側へとスライドさせた。
優しい陽の光が部屋を明るく照らし、開け放たれた窓からは少し温められた風が吹き込む。その風に揺られてなびくレース状の白いカーテン。
ベッドの上で体を起こし、それとは対極の色の極細の艶のある髪を風に揺らめかせた少女が、窓から外を眺めていた。外を見つめる灰色の瞳はどこか虚ろ気で、薄い桃色をした唇は一文字に閉じられていた。彼女の太ももの上には閉じられた赤い表紙の本が置かれ、その本に両手を乗せていた。
入室してきた誠には一切目もくれず、ずっと外を眺めていた。
「澪、元気そうだね。どうだい、最近面白いことでもあったかい?」
ベッド脇へと近づき、持っていた紙袋と、花屋で買ったドライフラワーをベッド脇のサイドテーブルの上へと置く。しかし、少女は誠の言葉に無反応で、外を見つめるばかりだった。
それでも誠は構わず続けた。
「ほら、これいつもの花屋で買ってきたドライフラワー。澪は黄色が好きだったよね?」
誠はビニール袋から取り出したドライフラワーを、澪が体を起こしたときにいつでも見えるような位置に置いておいた。
「やっぱり、黄色はいいよね。元気が出てくる色だ」
「……」
相変わらず澪は無表情で誠の言葉に反応しているのかどうかわからなかった。
「そ、そうだ、澪。義母さんがよく作ってくれた料理作ってみたんだ。澪、好きだったよね?」
紙袋から取り出した蓋つきの半透明の箱を取り出す。中には彩りある細切りの野菜のようなものが入っていた。
「覚えてるかい? 義母さんが義父さんに色々と注文されて、やっと作れるようになったよね。思い出すだけで、可笑しくなるよ、はははっ」
「……」
「ま、まあ。結構自信あるんだよ。食べたいとき食べてほしい」
まるで人形のように反応を示さない澪に誠は提案した。
「そうだ、今日は天気もいいし外へ行こうか、ちょっと待ってて」
誠は部屋の隅に置いてある折りたたみ式の車椅子を広げ、ベッド脇へと寄せる。
「じゃあ、乗ろっか」
澪は全然反応を示さない。座ったまま死んでしまったかのようにピクリとも動かなかった。
「ちょっとごめんよ」
誠はそう言って澪の膝下と背中に腕を差し込み、抱え上げ車椅子へと乗せた。
「どこも痛いところはないよね? じゃあ、中庭へ行こうか」
誠は車椅子の取っ手をとり、ゆっくりと押し始めて病室を出て行く。
病室を出てから廊下を渡る。時折すれ違う看護師の人と、誠はお辞儀をして挨拶を交わす。相変わらず、表情を変えずに座る澪の頭を見つめて言った。
「髪、結構伸びたよね」
車椅子に座る澪は静かなままだった。昇降機へ向う途中も他の入院者に気を使って誠もあまり、澪に話しかけなかった。
「髪の毛細くて手入れが大変じゃないか? 看護師の人がやってくれてるのかな?」
「……」
「……まあ、すごく綺麗にしてるからさ。ちょっと聞いてみたかったんだ」
まったく何も答えない澪に、一人はにかむ誠。
昇降機にたどり着き二人は乗りこむ。下の階層へと向かう途中も、誠は独り言のような会話を続けた。それでも澪は何も言わず、ただ車椅子に人形のように座っていた。
昇降機を降りて中庭へと向かった。
病院の敷地内にある庭は、石の配置が美しく、車椅子でも滑らかに通ることができるように整備された石畳が続いている。調和するように植え込まれた木々と、花々が時々吹く風にたおやかに揺れていた。誠はその石畳の上を、車椅子を押しながら歩く。
中庭をこうやって歩くのは初めてのことではない。なんどもこうやって同じように中庭を散歩していた。
誠は学園でのことや、普段の生活のことを澪に話しかけていた。何の変哲もない話題を話すが、あることだけはちょっとした変化があるのを誠は最近知った。
テラスのことを話すと少しだけ眉がピクリと動く。ルームメイトだと話をした時は、澪はその灰色の瞳を誠へと向けていた。今回もその話題で澪が反応してくれるかどうかを見たかった。
誠はテラスとの二回目の戦い、戦力測定の際、人生で初めて試合で勝てたことを自慢げに話した。澪は相変わらず無表情を貫いていたが、その瞳は誠へと向けられていた。誠はその反応に複雑に思いながらも、誠はテラスとの戦いについて、少し熱くなりながらも誇らしげに語った。
しかし、瞳を向けた以外何も反応がなかった。誠は少し残念そうに眉を下げるも微笑を絶やさなかった。少し風が冷たくなってきた頃、澪の病室へと戻る。その途中も、誠はどこからそんな話題が出てくるのか、不思議に思えるほど澪へと話しかけ続けた。
澪をベッドへと持ち上げる。誠は折りたたみ式の車椅子を元あった場所へと戻す。もう日が沈みかけ、差し込む光は夕日の色へと変わっていく。ベッドの上の澪は窓からまた遠くを見つめていた。
そして、誠が病室内を少し整理している時だった。
「……ますか」
澪が口を開いた。誠は整理をやめて、ベッドへ駆け寄り言った。
「どうしたんだ? 何か欲しいものでもあったらなんでも言って……」
「帰って、頂けますか?」
澪の顔はゆっくりと誠のいる方へと向き、誠の顔を見上げて言った。
「『人殺し』は帰っていただけますか?」
誠は澪に悟られないように握りこぶしを握り、奥歯で悔しさをかみしめた。
「お、おっと、長居しすぎたみたいだね。じゃあ、帰るよ! しっかり休んでね」
取り繕うように笑顔を見せ、病室を後にする誠。そして扉がゆっくりと閉まる。
澪は誠が出て行き足音が遠のいていくと、太ももの上に置いてあった赤い表紙の本をゆっくりと開いた。
***
テラスとイーダは運ばれた紅茶を飲んでいた。店はどこにでもあるようなチェーン店で、オープンスペースのソファーに二人は向かい合って座っていた。周りの人はテラスとイーダの洗練された仕草に目を奪われると同時に、皇女であるテラスを見てはひそひそと何かを話していた。あまりにの居心地の悪さにイーダはテラスに店を出ようと提案した。
しかし、テラスはある一点をずっと見つめていた。見つめる先には細い黒髪の少女が乗った車椅子を笑顔で押す誠の姿があった。
テラスは誠の笑顔を見るのは初めてだった。その笑顔を向けられているだろう黒髮の少女は誠とは対照的で、語りかける誠の言葉に無反応だった。テラスは胸にチクリとした痛みを感じながらも、今まで見たことがない誠の笑顔をじっと見つめていた。
どこか無理をしているーーそんなことをテラスは誠の笑顔から感じとっていた。誠がどれだけ語りかけても、無表情を貫く少女はまるで人形のように車椅子に座っているだけだった。
だんだんとテラスとイーダを取り巻く人が増えてきたため、テラスとイーダは会計を済ませて店を後にした。
「イーダ」
病院を出て、並んで学園へと帰る途中テラスはイーダの名前を呼んだ。
「なんでしょうか」
「あの車椅子に乗った綺麗な方はどなたでしょうか?」
イーダは右手を顎に当て、首を傾けて考える素振りをみせる。
「う~ん、どちらとも似ていませんでしたし、もしかして、一ノ瀬誠の恋人とかかもしれませんね?」
イーダは冗談のつもりで言ったが、テラスは顔をうつむかせて、次第にそのゆっくりと足が停止する。テラスの様子があまりにも大きく変化してしまったため、慌ててイーダは取り繕うとした。
「テ、テラス様、冗談ですよ。あんな露出狂に彼女ができるわけがありませんよ」
テラスが気になっていたのはそのことではなかった。なぜあのように無理をしてまで笑顔を作ってあの女性を気をひこうとしていたのか、そしてどんなことを話していたのか、気になって仕方がなかった。
「誠先輩、辛そうでした」
「そうでしょうか? 私はそんな風には感じませんでしたけども」
テラスはふと、今日誠の後をつけていた当初の目的を思い出す。
「勇者が嫌い……という理由に何か関係があるのでしょうか?」
「もし関係があるのならば、あの女性は一ノ瀬誠にとってどういう存在になるのでしょうか?」
二人は当初の目的を達成させるどころかさらに疑問が深めるばかりだった。
***
病院を後にした誠は破龍学園の裏にある山で、沈みかけた夕日を眺めていた。ここから眺める景色は街を一望でき、気分転換するにはもってこいの場所だ。そしてここは誠が放課後特訓をする場所でもあり、自らを省みる場所でもある。遠くの景色を眺めながら誠は独り言をつぶやいていた。
「ああ、今日も澪は元気そうでよかった! 食事もしっかりと摂ってるようだし、安心だな」
「しかし、髪の毛伸びたなぁ。もっと女性らしくなったというか、色っぽくなったというか」
「……喜んでくれてるのだろうか」
わざとらしく明るく言ってみるものの、澪の言葉が心に深く突き刺さっていた。
『人殺し』
7年前の事件以来、澪はあまりしゃべらなくなってしまった。医者の診断では一時的なショック症状であり、すぐ回復するだろうと言ってはいたが、回復の兆しは見えない。唯一反応するのはテラスの話をするようになってからだ。今思えば他の女性の話をしても反応はなかったが、テラスの話には耳を傾ける。目は虚ろだが顔をこちらに向けて話をよく聞くようになった。
誠は少し複雑に感じていたのは事実だ。勇者は一ノ瀬家にとっては不幸の源泉でしかなかった。そう、誠のもつ『勇者の力』が今の現状を作り出したのは言うまでもない。
「義父さん、義母さん……どうしてぼくは勇者なんだ……」
憎むべき勇者。しかし、今はその力に頼らなければ満足に戦うこともできない自分がどうしようもなく情けない。それでもこの力を使うことで『残された唯一の家族』を守ることができるのならどこまでも利用しようと誠は考えている。
飛躍した力。
しかし、誠は知っていた。それだけではドラゴンスレイヤーとして戦うことはできず、到底龍族には敵わないことを。
身体強化魔法はあくまで龍族との戦闘の前に立つことができる『最低条件』であり、それだけでは到底龍族の足元には及ばないのだ。たとえ誠の身体能力が飛躍的に向上し、身体強化魔法を凌ぐものであったとしても、それだけでは龍族との戦いに勝利することはできない。結局は生身の状態であり、丸裸同然なのだ。
誠は魔法を使えていないことには変わりはない。たとえどんなに身体能力だけが向上しようと、魔法が使えないということはドラゴンスレイヤーにとって致命的である。最前線で戦うドラゴンスレイヤーと肩を並べて戦うには魔法の使用が最低条件である。
誠は自身に才能がないことはわかっていた。潜在的なものを利用できなければ、それはただのガラクタにすぎない。宝の持ち腐れである。
それでもドラゴンスレイヤーになることは諦めなかった。別の道も進むことを考えたが、人類最大の脅威は龍族である。その脅威を討たなければ、義妹の身を守ることなんてとうていできやしないだろうことは誠は知っている。日に日に焦りが増すばかりで、何かの物語のヒーローのように、何かを守りたいという思いだけでは不足なのであろうかと、思いつめる日々が続いていた。
どこか勇者の力に望みをかけていたことも否定できない。勇者であるテラスに教えを乞うこともできるが、今までの積もり積もった憎き感情が邪魔をしているのは事実だ。テラスと交流すれば、もっと話し合えば、勇者の力を顕現できると可能性は感じている。辛い思いをしながら実験に耐え、痛みを堪えながら戦ってきた誠にとって、のうのうと生きて来たテラスのことを考えると腹が立って仕方がなかった。
確かに彼女は強い、努力してきたものも感じることはできる。ただどうしても憎き思いが、負の感情が誠の行動を抑止していた。
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