保科正之~兄に誓った『誠』の忠義~(日本史・江戸時代)

 1651(慶安4)年に3代将軍徳川家光が死去し、その子家綱が11歳で4代将軍に就任しました。


 幼い家綱が将軍宣下を受ける直前、軍学者の由井正雪が多くの牢人たちの支持を集めて反乱を起こそうとします。

 慶安の変と言われたこの事件。

 家光までの武断政治によって多くの大名が改易され、激増していた牢人救済のために幕府転覆を図ったものでした。


 しかし、この難局を幕府重臣たちは見事に乗り切りました。

 ここまでで幕府機構がしっかりと整備されていた事。

 そして、寛永の遺老と呼ばれた家光時代からの重臣たちの支えあってのものでした。

 家綱政権序盤の15年はこの寛永の遺老たちによって主導されます。

 そのメンバーの中心人物が今回取り上げる保科正之ほしなまさゆきです。

 彼は会津藩主で4代将軍家綱の叔父です。


 家綱の叔父。

 つまり3代将軍徳川家光の弟という事になります。

 という事は2代将軍秀忠の息子。


 本来なら将軍家の人間なのです。


 そもそも保科家は甲斐武田氏に仕えた家臣の家なので本来なら叔父(血縁)という事はあり得ないのですが、それが何故、血縁の関係がない保科家を継ぐことになったのか。

 この辺りから話を始めて行きましょう。



【生まれは将軍の隠し子!?】

 実は、この保科正之。

 その存在を知るものが限られていた子供。


 将軍秀忠のいわゆる『御落胤ごらくいん』にあたります。


 秀忠は正室に浅井三姉妹の一人、江がいましたが秀忠の乳母、大姥局おおうばのつぼねに仕えていた静と言う女性(のちの浄光院)に手を出してしまいます。

 この時に生まれた幸松(のちの保科正之)は静と共に大姥局おおうばのつぼねが懇意にしていた武田信玄の娘(穴山梅雪あなやまばいせつ正室)、見性院けんしょういんに預けられます。

見性院けんしょういんは徳川家に保護されていました)


 見性院けんしょういんの縁故から、旧武田家家臣で徳川に仕えていた高遠藩の保科氏の養子となります。

 彼の存在は秀忠をはじめとする一部の人間にしか知られておらず、異母兄の家光らも知らなかったようです。

 1631年、保科の家督を継ぎ高遠藩3万石の大名となります。

(ちなみに、保科家は他に後継ぎがいたのですが、こちらは別の家を興しているので血統は続いています)

 1636年には出羽山形藩20万石を拝領。

 1643年にはさらに加増されて陸奥会津藩23万石の大名となります。


 兄弟たちとは後に対面し、兄弟仲は悪くなかったようです。

 特に家光には信頼されていたようで、1651年、兄の家光が亡くなる際に「肥後(正之の役職が正四位下左近衛権中将兼肥後守であったことから)よ、宗家を頼みおく」と言い残しています。

 将軍の子でありながら存在を秘匿されていた正之にとって、徳川宗家を託されると言うこの言葉は何よりも嬉しかったことでしょう。



【武断政治から文治政治への大転換】

 正之は三代家光と四代家綱を補佐し、多くの政策に携わっています。

 武断政治から文治政治への切り替えが行われ、増加する牢人対策として末期養子の禁の緩和、大名証人制度の廃止に殉死の禁止が行われます。


 末期養子とは、後継ぎのいない大名が死に臨んで(末期)急に相続人(養子)を願い出ることですが、ほとんど認められずに系統断絶による改易が多く発生していました。しかし、50歳以上の大名に限り、末期養子を認める様になります。


 大名証人制度は、幕府が大名と藩の重臣の身内を人質にして江戸に住まわせる制度です。

 かつては下剋上の世の為、国元で下剋上が起きれば藩主の人質の価値がなくなる危険性があったため、藩の重臣の身内も人質に取っていましたが、幕藩体制の安定によって下剋上の可能性が無くなったために重臣の身内に関しては廃止されます。


 殉死については、元々武士は二君に仕えずと言う考えがあったのですが、藩主が亡くなると仕えていた家臣が後を追って腹を切ることがあったため、後継ぎの代で藩政を担える有能な家臣がいなくなってしまう問題が発生していました。そのため、殉死を禁じて従者は主君個人ではなく、主家に奉公すると言う関係を定めることになります。これによって下剋上の可能性も無くなったと言えます。


 他にも、玉川上水を使って江戸への水の安定供給に取り組む。

 米を備蓄して天災に備える制度(のちに寛政の改革でも用いられた社倉)を作り上げる。

 他にも90歳以上の老人に身分を問わず一日あたり玄米五合を支給したそうです。今で言う年金制度みたいなものでしょうか。

 1657年には、明暦の大火が発生します。

 これによって江戸城の天守が焼け落ちますが、復旧をせずその費用を民への救済米に充てたと伝えられています。


【『誠』の忠義を!】

 長い間幕政を支えた正之は1669年、息子に家督を譲り隠居。

 1672年に63歳(満61歳)で亡くなりました。


 既に将軍の子としても認知されていたため、幕府からは松平姓を名乗ることも許されていましたし、葵の紋も使用して良いとされていました。

 しかし、養育してくれた保科家への恩義から、生涯保科姓を通しています。


 三代目藩主の正容の代でようやく松平姓が使われるようになります。

 これによって家の通字も保科家の『正』から『容』へ変更。

 会津松平家が成立し、親藩大名に列することになります。


「会津」「松平」「通字が『容』」

 ここまで来ると勘の良い方ならピンと来た方もいるかもしれません。

 会津松平家の藩主は幕末にある人物が登場します。




 新撰組しんせんぐみを従えていた京都守護職、松平容保まつだいらかたもりです。




 残念ながら途中で血筋が途切れ、容保かたもり自身は水戸藩の血筋ですが会津松平家の魂は受け継がれています。

 保科正之は1668年に『会津家訓十五箇条』を定めました。

 その第一条にはこう記されています。


「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。

 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」


 徳川家に尽くせ。

 他国を見て判断するな。

 もし、徳川家に逆らう藩主が現れたのであればそれは我が子孫ではない。

 家臣は決して従ってはならない。


 通常、家訓と言えば家の掟です。

 家を守るためにと言う内容をさて置いて「徳川宗家を支えよ」と第一条から述べているわけです。

 藩主・藩士はこれを代々守り続け、松平容保もまた最後まで幕府を守るため戦い抜いたのです。




 今回はこの辺で。それでは。

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