崇徳天皇~史上最強の怨霊と守護神~(日本史・平安時代)
そしてこの
しかし、
たぶん、「誰?」というイメージあるいは「保元の乱で負けた人」くらいではないかと思います。
ですが、そのイメージは本日までです。
実はこの
【崇徳天皇、その経歴】
そもそもこの天皇。出自からして不遇です。
祖父は
即位しても兄弟の
こちらは
まあ、親子関係
その後、父親の
しかも「
そんな中、脱出した
これが
ここで活躍したのが
さて、この乱に勝利したのは
天皇が
『
心を込めて書いた写経が送り返されたことに激怒した
「日本国の
「この経を魔道に
と、書いたそうです。
なお『
亡くなった後も、朝廷は喪に服したりも葬儀を行う事もなく、国司によって葬礼が行われただけで、依然として罪人扱いだったようです。
【七百年も続いた祟り】
さあ、ここからが本領発揮です。
翌年には
鹿ケ
ここで朝廷も遂に
貴族の日記にも頻繁に「崇徳院の怨霊の仕業ではないか」と書かれ始めていたようです。
精神的に追い詰められた
1184年、
しかしその後は武家が台頭。
朝廷の権力は落ち、
そこから鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と約700年もの長い間、政治は武士によって牛耳られることになります。
途中、
さて、ようやく朝廷が実権を取り戻して明治時代に入ります。
首都も東京へと変わり、明治天皇は即位します。
この際、
さらに、昭和天皇は
どれだけ恐れられていたのかがわかりますね。
中世以降における怨霊の元はこの方と言う事になりますね。
つまり、怨霊として恐れられた期間やその規模は
余談ですが、京都の
「縁切りの神社」として知られています。
『あいつと別れられますように(ソフトに言って)』と言ったような内容の絵馬が多数あるようです。
御利益はさて置き、内容がかなり過激なものもあるので、私自身の気持ちで言わせてもらえば正直人間の情念の方が怖いです(汗)
【崇徳院ちょっといい話】
さて、ここから先は
実は、怨霊としての知名度の一方で四国の守護神としての伝説もありました。
その後、
他にも、室町時代には
(『
つまり、朝廷には厳しかったのですが、自分に対して敬意をもって接してくれた相手には最大限の加護を与えていたと言う事ですね。
礼儀は大切です。
また、文化人としても知られており、歌も多く遺されております。
有名どころは小倉百人一首の『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』でしょうか。
流れる水は岩にぶつかると二つに割れますが、また一つに戻りますので、現世では結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれるでしょうという意味ですね。
それでは、この辺で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます