十四 恋は乱心

昨日二階から突き落とされて、本気で死を覚悟した。

着地した先が土だったからなんとか助かった。

それでも全身が痛くて、今やっとこうして日記が書けるようになった。

梨緒も私の後から飛び降りたからみんな引いてて、それからは何もしてこなかった。

同じ痛い思いをしても、痛みは絶対半分にはならなくて、二人とも別々に痛いだけなのに、どうしてこんなことをするんだろう。


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 なんだかもう、全てが嫌になる。

 昨日の私はあまりにも感情まかせだった。こんなに強い激情に駆られたのは初めてで、どうしてあんな真似ができたのかまるでわからない。反芻すればするほど、心臓が押しつぶされるような圧迫感に襲われて、何も考えたくなくなっていく。

 しかし、勝手に昨日の色々が脳裏に浮かんでは消えてまた浮かんでくるので、考えずにはいられない。紗友里の言葉が何度も何度も思い出される。

 紗友里の言うことは本来ご尤もで、常識的には正しいのかもしれない。しかし私の気持ちは何度脳内再生を重ねてもそちらに傾く気配がなく、思い返しているうちに、どう考えるのが正しいのか、だんだんわからなくなってきてしまった。


 停止しかけた思考の中で、今日はバイトがあったことをかろうじて思い出した。大学内の図書館に併設されたスタバ。春休みなんだから一人くらいいなくたってなんとかなりそうなものだけれど、バイトをしていた方が少しは気が紛れそうだと思い、大きな溜息とともにソファーから立ち上がった。

 まだバイトに行くには早かった。しかし家にいてもこうして鬱々としてしまうだけで、そのうち本当に動けなくなってしまうという確信があったので、もう家を出ることにした。図書館で適当に本でも読んでいれば勝手に時間はやってくる。それか何か甘いものでも飲んで気持ちを落ちつけよう。

 雪は溶けかけていて、固形物の混ざったシャーベット状になっていた。薄汚れて土なんかが混じっているし足音もジャクジャクいうので、ロマンチックな雪のイメージとはまるでかけ離れている。しかしこの地域では普通のことで、私にとっては雪がロマンチックなんていうのは雪の積もらない地域で語られる幻想でしかない。バスは遅れるし電車も止まる。自転車にも乗れない。靴に雪が染み込んで、凍ったように冷たく、動かなくなる。

 しかし私にとっての恋も、そういう地域の人にとっての雪と同じだったのかもしれないとふと思った。どんな努力をしても何一つ思い描いていた通りにはなってくれなくて、消耗していくばかり。こんなに醜い思いに溢れているし、恋敵と罵り合うし、本気で消えてほしいと思ってしまうし。

 初恋の終わりは「儚い」なんて美しい言葉で表せるものでは確実になかった。そして儚くなんかないことを理解して尚、私は紗友里のことを未だに許せない気持ちでいるので手におえない。


 池が見えてくるとますます自己嫌悪が激しくなって、いっそ飛び込んでしまおうかとさえ思ってしまう。紗友里なんて落ちてしまえばいいのにと思ったあの池。自分の真っ黒な部分を嫌というほど思い出して、心がすっかりズタズタになってしまった。

 池の縁を眺めていると、白と淀んだ黒の中に、ぽつんとピンクの何かが見えた。それは紐状の物体で、くったりとして氷の表面に貼りついている。こんな真冬にはまるで似つかわしくない、桜の花びらのような色。

 その色には、見覚えがあった。

 背筋が凍るような感覚が走った。

 別の何かであってほしいと思いながらそろそろと細いピンクの物体に近づいていく。あれはどこにでもある普通のリボンだし、飛ばされたり、誰かが落としたりしたという可能性も捨てきれない。そうであってほしい。

 屈んで確認しようとしたその瞬間、不意に背後から声をかけられた。

「鈴ちゃん」

 誰なのかは、振り向かなくてもわかる。待ち伏せされていたのかもしれない。

 心臓が大きな音を立てて暴れ出す。呼吸が速く、浅くなって、息を吸っている実感が湧かない。

 怖くて顔を見ることができない。梨緒、と言おうとしたけれどうまく声にできず、体が強張っていくばかりで、無意識のうちに拳を強く握ってしまう。私は自分の肩越しに梨緒に視線を向けた。私がしているのと同じ手袋が目に入る。

「あのね、紗友里ちゃんが」

 梨緒は勝手に話し始めた。待ってましたとばかりに。

 私は続く言葉を待った。

 いや、待ってはいなかった。言わないで言わないでと口の中で唱え続けていた。

「死んじゃった」

 しかし梨緒は、無情にも現実を突き付けてきた。

 もう、わかっていた。目の前のリボンは確かに私がフィナンシェのラッピングに使ったリボンだ。これを渡すという口実で紗友里を呼び出して、突き落としたのだろう。私が昨日咄嗟に思い描いた筋書き通りだった。

「そこで、私の目の前で」

 事も無げに、どこか嬉しそうな声で梨緒は続ける。

「昨日、鈴ちゃんに頼まれた忘れ物、渡そうと思って呼び出したんだけど、なんか紗友里ちゃん、落ちちゃって」

 言いながら梨緒の声が明るくなっていって、口角が上がっていることがわかる。冷たく冴えた空気の上を滑るように、梨緒の声は高く通った。

「でね、どんどん沈んでっちゃったんだけど、私、怖くてどうしても助けられなくて」

 狂っている。これは、私の知っている梨緒じゃない。絶対何かの間違いだ。梨緒は私のことを正しく理解してくれて、私のためだけに泣いてくれる、心優しい子だったはず。

「呪われちゃったかな? 私」


 叫び声を上げることもしなかった。できなかった。気がついたら逃げていた。

 嘘だ。何かの間違いだ。二人で私を騙してるんだ。きっとそう。きっと紗友里が追いついて、「ごめん、ドッキリだよ」なんて言ってくれるんだろう。

 わかってる。そんなわけない。梨緒は本当に殺したんだ。私の嘘を、本当だと信じて。

 別に、私は殺せって言ったわけじゃない。一言もそんなこと言ってない。「最近よく見る夢」の話をしただけ。

 でもそれはあくまで夢の話。あんな夢何回も何回も見てしまったものだから、現実と混同してしまったんだ。夢が悪い。私は何も悪くない。

 それに私が原因になったという証拠は? そんなのあるわけない。梨緒の記憶の中にしかない。人間の記憶だって曖昧なものだ。梨緒が全て覚えているとも限らない。

 でも、梨緒がもし、誰かにこの話をしたら? 梨緒の異常さは折り紙つきだ。「鈴ちゃんとおそろいなの」なんてぽろっと言ったら、私が殺させたと思われかねない。噂は一気に拡散されてしまう。そうなってしまったら、ここで生きていくことなんてできない。

 夢のせいにするのも無理がある。あれは真っ赤な嘘なのだから。あんな夢、本当は一回も見たことがない。

 胸を突き破って出て来るんじゃないかってくらい、心臓が暴れて暴れて仕方がない。何かがぐううっとこみ上げてきて、どうしようもないほど吐き気がする。内臓を全て吐き出してしまいそう。

 吐き気を必死で堪えながら私は、もういっそのこと死にたいと考えていた。何もかもから解放されたい。こんな十字架を背負って生きることなんてできない。

 私はきっと生きている限り梨緒に粘着され続ける。私が拒絶しない限り。でも拒絶したら私は独りになってしまうし、梨緒がいつ誰に紗友里を殺した話をするかわからない。結局私は梨緒と運命を共にするしかなくて、だったらいっそのこと死んでしまった方がマシだ。それが一番いいのかもしれない。

「鈴ちゃん!」

 遠くから梨緒が駆けてくる。私とおそろいの五センチヒールのブーツで。

 改めて今日の梨緒を見てみると、グレーのチェスターコート、黒いファーのマフラー、黒い豚皮の手袋、白いプリーツスカート、黒タイツ、グレージュのサイドゴアブーツ。頭のてっぺんから足の先まで私と全く同じ格好をしていて、本気で気味が悪かった。

「こんなところにいたんだ」

 私に追いついた梨緒は、息を整えてにっこりと微笑んだ。いつもの笑顔なのに、今は狂っているようにしか見えない。人を殺しておいて、こんなに無邪気に笑っていられる梨緒が、心底恐ろしくてたまらない。少しでも梨緒のことを「私にとって必要な人」と認識した過去の私に、それは大きな間違いだと言ってやりたい。

「これからバイトだよね、近くまで一緒に行っていい?」

 大きな間違いを犯した私は、しかし拒絶することもできず、梨緒の顔から目を逸らすようにして力なく頷いた。

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