十三 恋は薄氷

上級生が自転車にはねられたという噂を聞いた。

梨緒には怖くて聞けなかった。

でも、私と同じ位置に傷を作っていたので、犯人は絶対に梨緒だと思う。

どうしてそこまでするのか、わからない。

何を考えているのか、全然わからない。


**************************


 最低。最低だ。こんなこと、こんなときに言わなくてもよかったのに。

 鈴が失恋したのは私のせいだ。タイミングも最悪だった。意図的ではないにしてもそれは事実。気が立つのも無理はない。失恋する可能性を考えず安易に嗾けた昨日の自分の軽率さに、心の底から嫌気がさす。

 鈴に言ったことは正しいという自信はある。でも、場合によっては正論をぶつけることが必ずしも正しいとは限らない。正論は時に凶器に代わる。

 それに、形は違うにせよ佐藤さんは鈴のことを心の底から大切に思っていて、そのことを伝えたくて行ったはずだった。それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう? 私が言いたかったことは「思考が幼い」でも「頭の成長止まってんの」でもなく、「ユウさんは、『優』という名前を付けてくれた鈴のことを、心から大切に思っている」だったのに。

 一瞬滑って転びそうになり、思考は急停止した。昼間に溶けたらしい表面が凍結して、足元はスケートリンクのように滑りやすくなっている。しかもでこぼこと歪なので、余計に足を取られやすい。

 止まった思考をもう一度動かそうとして、はたと考える。どうして私はこんなに鈴のことを考えているんだろう。大勢いる友人の一人でしかないのに。それどころか、単位を取るために利用している、友人と言えるかすら危うい関係であるというのに。

 ぐるぐるとまとまらない思考をまとめようとしてもどうにもならなくて、とりあえず走ることにした。走ると余計なことを考えずに済む。まとまらないなら一旦リセットした方がいい。路面は凍結しているけれど、構わない。転んでもいい。

 私は重いリュックを背負っていることも忘れて、ブーツのまま走り出した。

 吸って、吐いて、吐いて、吸って、吐いて、吐いて、吸って。何度か転びそうになりながらも走っていると、だんだん頭がクリアになってきた。

 ちょっとうざったく思っていたのも、利用していたのも事実。しかし、嫌いになったわけではない。かっとなって怒鳴ってしまったけれど、あれはきっとお互い頭に血が上っていただけで、鈴だってそのうち理解するだろう。

 それでも私は許してもらえない。それはなんとなくわかっている。頭で理解することと心に従うことは大きく違う。深く傷つけてしまったのだから、これは仕方がない。謝罪すら受け入れてもらえないかもしれない。

 しかし、鈴を友人だと思えていることが自分の中ではっきりした。それだけでも私は幾分か満足した。


 走り続けていると公園の自販機が目に入り、喉の渇きを自覚した。鈴と喧嘩する前に飲んだきり何も飲んでいなかったことを思い出し、何でもいいから飲もうと足を止めた。

 気がつくと辺りはすっかり暗くなっていて、財布の中身が上手く見られないほどだった。

 自販機も節電仕様で光が弱く、仕方ないので適当に何円玉かもよくわからないコインを放り込んでゲータレードを購入し、ベンチに積もった雪をざっと適当に払って腰かけた。

 一気に半分ほど飲み干して一息ついた。

 適当に走ってきてしまったけれど、ここはどこだろう。いつの間にか、見覚えのない場所に来てしまった。大きな木がある以外は普通の公園で、名前もわからない。

 現在地を確認しようとして携帯を取り出すとちょうど電話がかかってきて、マップの画面は読み込みが終わる前に消されてしまった。

 発信者の名前を確認すると「望月梨緒」と表示されていた。

 一瞬、誰だろうと首を捻った。しかしすぐに思い出した。そういえばもっちーは望月さんだった。

 一年以上の付き合いがあるけれど、電話がかかってきたのは今回が初めてだ。

「もしもし?」

「紗友里ちゃん? いきなりごめんね」

 ごめんね、とは言っているけれど、心なしか声が弾んでいる気がする。

「いや、いいけど。電話なんて珍しいじゃん。どうかしたの?」

「あのね、紗友里ちゃんに、ちょっと渡したいものがあって。今から会えない?」

「まあいいんだけど、今どこにいるかわかんないんだよね、迷っちゃって。明日でいい?」

 自虐的に笑いながら言うと、紗友里ちゃん、と、背後で声がした。

 思わず肩がビクリとはねた。

 振り返ると、携帯を耳に当ててきょとんとしたもっちーが立っていた。

「紗友里ちゃん」

「びっくりした、なんでいんの」

「え、だってお家近いから」

 そう言って、もっちーは住宅街を指さす。立派な家が連なったいかにも高級住宅地、といった印象。学生アパートだらけの学校付近とは雰囲気がまるで違っていて、にじみ出る育ちの良さにも頷ける。

「この辺なんだ」

「うん」

 もっちーは右手に何かを持っていて、渡したいものがあると言っていたことを思い出した。

「渡したいものって何?」

「あ、これ」

 そう言ってもっちーが差し出したものを見て、私は言葉を失った。

 リボンがかけられたその袋は、ユウさんに渡すと息巻いていた鈴の焼き菓子の包みだった。

「鈴ちゃんが渡してって」

「鈴が?」

 私は困惑した。何のあてつけだろう。

 もっちーは私の手をゆっくりと開くと、焼き菓子の包みを乗せた。そうして私と目を合わせ、にっこりと微笑んだ。

 途端にぞわっと嫌な予感がして、言いようもない不安感や焦燥感のような何かが急速に全身を回っていくのを感じた。

 私はもっちーの制止する声も聞かず、焼き菓子を放り投げ、無意識のうちに走り出していた。

 吸って吐いて吐いて吸って吐いて吐いてを意識的に繰り返し、無我夢中で逃げる。何から逃げているのかもわからないまま、ひたすらに走る。さっき走ったときはあんなに清々しい気分になれたのに、今はただただ重苦しくて、それから逃げるために脚を動かし続けた。

 なんで、どうして、わからない、怖い。そんな言葉ばかりが頭に浮かんでは消える。走っても走ってもすっきりしないばかりか、混乱していく。

 自分でもわかるほど息が浅く苦しくなり、気がつくと私は立ち止まって肩で呼吸をしていた。膝に手をつき、ぜえぜえと咳き込むと、喉の途中で息が詰まるような感覚がした。


 街灯がやけに少ないと思って辺りを見回してみると大学の池の前に来ていて、どうやら戻ってきてしまったようだった。

 流れて流れて止まらない汗をコートの袖で拭っていると、視界に見慣れたブーツの先が入り込んだ。

「紗友里ちゃん」

 スポーツは苦手だと聞いていたのに、もう追いつかれていた。

「どうして逃げるの」

 もっちーは少しずつ近づいてくる。息切れはしていない。私はこんなに疲れているというのに。距離を詰められた分だけ、思わず後ずさる。

「来ないで」

 咄嗟に、自分でも驚くほど強い声が出た。はっとして

「ごめん」

と言うと、いつもの優しい声で

「大丈夫だよ」

と言われた。

 しかし私は大丈夫ではなかった。

「ごめん、ほんと、今、無理」

 掠れた喉から声を絞り出す。

 私の声が聞こえていたのかいないのか、更に距離を詰めてくる。

 嫌、と声にならない声を本能的に上げたような気がしたその瞬間、足元でぱきっという音がして、私は水の中に飲み込まれた。

 地上に上がろうともがくけれど、リュックが重くてうまくいかない。もがいて手が触れるたび、うっすらと張った氷は砕けた。

 私は、助けを求め、手を伸ばした。するともっちーが近づいてきて、私の目の前にしゃがみ、私の手を取った。

 助かった、と思った。

 しかし私の手には先ほど投げ出した焼き菓子が握らされただけで、私を引き上げてくれるはずのその手はあっさりと離されてしまった。

「落としちゃだめだよ、紗友里ちゃんのでしょ?」

 服が氷水を吸って重たくなっていく。体温が急激に奪われ、下がっていくのがわかる。手足の感覚がすっかりなくなって、もう動くことができない。

「鈴ちゃん」

 いや、もう動いても、絶対に助けてはくれないのだろう。人懐っこそうないつもの笑顔が悪魔に見える。景色がゆらめき、悪魔の笑顔もだんだんと霞んでいく。

「おそろいだよ」

 私は絶望の中、薄氷の向こう側に引きずり込まれるのを感じていた。

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