十二 恋は贋者
自転車で上級生にぶつかって、何も言わずに逃げてしまった。
擦りむいた膝が痛い。
目撃者はいないようだったけれど、そのうちばれてしまうだろうか。
ばれたら何をされるんだろう。
ばれないことを祈るしかない。
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母の出張土産のマフラーは入手まで二週間かかると予想していたけれど、この予想は完全に裏切られた。あれから四日しか経っていないのに梨緒の首元には私と同じもふもふが巻き付いていて、オーバーサイズのチェスターコートのVゾーンでうまく調和していた。
梨緒は、
「話したいんだけど、今から時間ある?」
という何の脈絡もないメッセージに瞬時に反応して電話をくれた。
どうしたの? どこでも行くよ、ちょっと待ってて、と本当に心配してくれて、人の優しさにやっと触れられた気がした私は泣きそうになってしまった。
「初めて来たな、鈴ちゃんの部屋」
「そうだっけ」
「そうだよ。片付いてないからダメって、いつも言ってた」
私は短く
「そっか」
と返して、カーペットの上にぺたんと座った。
梨緒を呼び出したのは私の部屋。招くのはこれが初めてだった。
案の定、梨緒は嬉しそうに私の部屋を見回し始めた。照明から棚の中の文庫本まで、梨緒は全てをその目に焼き付けるかのように視線を隅々まで行き渡らせている。
そんな梨緒の姿を眺めながら、何日くらいで家具や小物などを揃えきるのかぼーっとした頭で考えてみる。
どこのブランドのものかもわからないどころか、どこに売っているのかもわからない海外製マフラーをこんなに簡単に手に入れてしまったのだから、Noceの家具やFrancfrancの雑貨など、買い揃えるのに一週間もかからないだろう。
「そうだ、鈴ちゃん、話って何?」
部屋全体に向けられていた視線と意識が一気に私に集中して、梨緒はやっと話す態勢になった。
「ごめん、呼び出しといて悪いんだけど、やっぱり話しづらいかも」
そういえば紗友里のことも自分で呼び出しておきながら帰らせたのだけれど、裏切り者だしどうでもいい。一人で寒さに震えていればいいんだ。
しかし話しづらいというのは本当で、胸に抱えたこの真っ黒いもやもやをどう切り出して吐き出すのか、私は全く考えていなかった。見切り発車にも程がある。
梨緒は絶対私の話を聞いてくれるという確信はあったけれど、肝心の話の切り口が、自分の中で定まっていなかった。
「それって、話したら楽になること?」
「え?」
「だって鈴ちゃん、すごく辛そう」
一人悶々と思いを巡らせていると、勝手に梨緒はそれを辛いためだと解釈してくれた。
「私でいいなら話してよ」
梨緒は私の目をまっすぐに見つめて言った。
奥歯だけを噛みしめながら、私も梨緒を見つめ返した。
澄み渡った色素の薄い茶色い目は、私の心の奥深くまでを覗き込んでいるようだった。
澄んだ目を見ながら私は、梨緒に何度も救われたことを思い出した。いじめっ子に果敢に立ち向かっていくようなことはなかったけれど、いつだって隣に梨緒がいるというただそれだけで心強かった。
これは傷の舐め合いかもしれない。それどころか、傷を舐めてもらっていただけなのかもしれない。しかし私にはやっぱり梨緒が必要で、そしてきっと梨緒も同様に私のことを必要としていたのだと思う。救い、救われる関係。私たちは、二人で一つだ。
「絶対驚かない? 引かない? 友達、やめたりしない?」
「やめるわけないでしょ?」
私の言葉を遮るかの如く、梨緒は間髪入れずに強く断言した。
梨緒は私のことを正しく理解してくれる。
そう思った私は、考えたことをそのままそっくり、吐き出すことにした。
「あの、あたしね、最近よく怖い夢を見るんだ、昔の夢」
「どんな夢?」
梨緒は体を乗り出した。
そして私の左手にそっと右手を重ねて、壊れ物を扱うように、きゅっと軽く握った。手の平からじんわりと梨緒の体温が伝わる。
「どんな、夢?」
梨緒の手の温かさに冷え切った心はすっかり溶かされ、穏やかに澄み渡った。
私は一つ一つの言葉を自分の中で確かめるように、自分の中にうまく落とし込みながら、ゆっくりと話し始めた。
「あの、あたし、まだ言ってなかったと思うんだけど、小学生のときに、人を」
体内の息を全て吐き出すように言って言葉を切り、反動で短く息を吸う。ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえる。
「人を、殺しちゃったことがあって」
私の爆弾発言にはさすがの梨緒も反応に困ってしまったようで、え、と息を漏らすような小さな声だけを発して、それ以上は何も言えないようだった。
「事故だったんだけどさ、池に友達、落ちちゃって」
殺したと言ってしまったそばから私は責任逃れがしたくなって、梨緒が何も言えないでいるうちに言い訳じみた言葉をつらつらと繋いでいく。
「あたし、助けらんなくて。その日は終業式で、荷物が重くって、手、伸ばしたんだけど、自分も沈みそうで、怖くて、手、放しちゃって」
だんだん私が見た夢というものが頭の中で具体的に形作られていく。
一つ一つ本当にあったことのように鮮明に思い浮かべながら、言葉を選ばずに、そのまま詳細に素直に描写する。
「最近そのときの夢よく見るの、明るくて可愛くて活発で人気者なその子が、あたしより背の高いその子が、どんどん、どんどん小さくなっていって、やだ、もうやだ、あたし、あの子に呪われてんのかな? 誰にも言えない、言いたくない、でも、言わないと苦しい」
「鈴ちゃん!」
梨緒の右手に力が入って、私は想像の世界から私の部屋に戻ってきた。
梨緒はうっすらと目の縁に涙を浮かべて私を見つめていた。
「もういいよ。大丈夫。私がついてるよ」
どんなにいじめられても泣かなかった梨緒が、私のために涙を流そうとしていると思うと、言いようもなく胸がざわついた。
「事故だったんだよ。鈴ちゃんは悪くないよ、何も」
「でも」
「だって、池でしょ?」
「うん、大学のあの、深い池」
薄く氷が張った深い池。紗友里を突き落してやりたくなったあの池を思い浮かべながら私は話していた。
「助けようとしたら、鈴ちゃんだって、一緒に死んじゃってたんでしょ?」
「わかんないけど、多分」
「大丈夫だよ。そのお友達もきっと、わかってくれてるよ。大丈夫」
「ありがとう」
私はそう言って涙ぐんで見せた。
「こんなこと、誰にも話せなくて、ずっと辛かったんだ」
「そうだよね、話しにくいよね」
梨緒はすっかりいつもの梨緒になっていて、うんうん頷きながら私の話を聞いていた。
「誰かに言わないと、なんか、許してもらえないみたいな気がして」
「うん」
「ずっと考えてたんだけど、やっぱり言うなら、梨緒かなって思って」
梨緒の右手の上に空いていた右手を重ね、上目づかいでじっと梨緒を見つめた。
梨緒は驚いたように手元を見やると、その手を包み込むように左手を重ね、これまで見たことがないくらい幸せそうににっこりと笑って、ありがとう、と言った。
そうして私たちはしばしの間見つめ合った。
いつの間にか外はすっかり夜が差し迫っていて、限りなく黒に近いダークネイビーの空が広がっていた。大粒の雪がその中でちらちらと揺れ、景色に溶けこみながら落ちていく。
外が暗いのに気付くと梨緒は、
「もうこんなに真っ暗なんだ、そろそろ帰るね」
と言って、帰る仕度を始めた。
「また何かあったら、いつでも相談してね」
そう言って梨緒は部屋を簡単に見回し直して立ち上がった。
梨緒を見送ろうと私も立ち上がる。すると、勉強机の上にぽつんと置かれたフィナンシェが目に入って、思いつきで梨緒を呼び止めた。
「ねえ梨緒、これ、紗友里に渡しておいてくれる?」
私は、ユウに渡そうとして渡せなかったその包みを差し出した。
「この前うちに忘れてったんだよね」
と言うと、梨緒はあっさり信じて快諾し、可愛い、と呟いて、大事そうにポシェットにしまった。
梨緒の姿が見えなくなるまで玄関で見送って、鍵を閉めた。
途端に緊張の糸がぷつりと切れ、私は一人玄関で放心する。
信じた。
こんな嘘みたいで本当に嘘の話を、梨緒は本気で信じてしまった。
高揚感に満ちた震えが足先から全身を回って、やがて乾いた笑いになった。
こんなにうまくいくなんて思っていなかった。生きるか死ぬか、生かすか殺すかの状況なんて、リアリティーがなさすぎて信じてもらえないと思っていた。
明確な殺意が、私を女優にしたのかもしれない。
これで、死んでくれたらいい。
私は本気でそう思いながら、いつも通り、夕飯の仕度にとりかかることにした。
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