十一 恋は強欲
石鹸を口に突っ込まれた。
吐き出したくてもすごい力で口を閉じられてしまって、吐き出せなかった。
梨緒は黙って近づいてきて、助けるんじゃなくて、私と同じように石鹸を口に含んだ。
奴らはドン引きしていなくなった。
結果として助けてもらったわけだけど、そんなことしてまで助けてくれなくてもよかったのに。
あんなもの食べさせてしまったのと、梨緒がけろっとしてたのと、助けられてしまったのとで、罪悪感だったり、嬉しかったり、心がごちゃまぜ。
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紗友里は電話には出なかった。しかし、不在着信として強制的に切られたその直後に送ったメッセージには、一瞬で既読がついた。
ますます許せない。心配するふりして、私のことを弄んでたんだ。
携帯を叩き割りたい衝動に駆られながら、私は簡潔に「話したいから学校まで来て」とメッセージを送った。
これにもすぐに既読がついて、私は携帯をベッドに叩きつけた。
せめて紗友里よりきちんとしようと思い、私は鏡に向かった。
汗ばんだ黒いタイツはグレーのタイツに代え、赤いベルトをして、赤いリップを塗る。
真っ黒で死にかけだった私は、これで幾分か生気を取り戻した。そして同時に、こんな私より紗友里の方が上だと思うと、ますます腹が立って仕方がなかった。
家を出ようとすると、
「わかった」
と返信が来た。
すぐに既読をつけたんだからすぐに返事を寄越せばいいものを、こんな四文字の返信一つでこれだけ勿体つけて、こんなに性格が悪かったのか。今まで気がつかなかった自分に辟易する。
ユウも、紗友里の本性に気づいていないのかもしれない。騙されてるんだ、きっと。
だったら、二年前のように別れさせてしまえばいい。
二年前、何気なくユウのSNSを覗いていて、彼女ができたことに気づいてしまった。友人との会話内容、アップロードされた写真、更新時間の変化などから察するのは難しいことではなかった。
ある日、土鍋と取り皿二つが写った写真がアップロードされていた。土鍋、皿、箸など、どれを見てもユウの部屋のものであることは明らかで、ユウのアパートで「お家デート」をしていると私は確信した。
ユウとのLINEの履歴を辿った。ユウが風邪を引いたときのLINE。
「風邪引いた」
「動きたくない」
「っていうか動けない」
「一人暮らしってこういうとき辛いな」
日付が写りこまないように調節してこの部分のスクリーンショットを撮り、私は隣の家に向かった。
過保護なあの人を動かすのは簡単だった。
スクリーンショットを見せて、
「ユウが風邪引いてるんです」
と訴える。そして
「勝手に見せてしまったので、私が見せたことは伏せてください」
と言っておく。
二人が別れてくれるという保証はなかった。ただ、あの人がデートの場を引っ掻き回してくれたら、そのうち別れてくれるかもしれない。そう思ってのことだった。
結果は大成功で、帰省時に「母親のせいで彼女と別れた」という愚痴をこぼしていた。
私が嗾けたことは、ばれていないようだった。
今回は私の立ち位置的に、このときのようにはいかないだろう。ユウも私を疑うかもしれない。もはや直接ぶつかりあうしか手はないように思えた。
待ち合わせ場所を「学校」としか伝えなかったので、外で待つことにした。メッセージを送ることも考えはしたけれど、私の側が手間をかけるのはどうにも癪だった。
それに、これだけ寒いところで待っていれば、それだけ私の本気や苦労を示せるような気もして、私は耐えることにした。
寒空の下、しばらく待っていると、いかにも心配していそうな顔の紗友里が現れた。
しかし目線はせわしなく動いて、私をその中心に捉えることはなかったので、その顔は演技なのが丸わかり。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ」
思わず吐き捨てるように言うと、紗友里は体を強張らせた。
「大丈夫じゃないけど、紗友里の話が聞きたいの。今後の参考に」
そう言って、入れそうな講義棟に向かって歩き出す。
紗友里は黙って半歩ほど後ろをついてきた。
春休みに突入した学校には、人がほとんどいない。大して除雪されることなく積もった雪に足跡が点々とついている程度で、川の流れる音しか聞こえないほどに静か。川の流れつく先は池になっていて、薄い氷が張っている。噂だとこの池は結構な深さがあるらしい。
ここに紗友里を突き落としてやりたい。
勝手に足を滑らせて落ちてくれないだろうか。
溺れていなくなってくれたらどんなにいいことか。
辿り着いた講義棟の手近な部屋に入り、机に適当に腰掛けた。紗友里はドアを閉めると、そのまま佇んでいた。
じっと突っ立って動かない紗友里に私は声を投げかける。
「紗友里って、いつから好きになったの? 彼氏さんのこと」
紗友里は答えない。答えられないんだろう。
「ねえ」
威圧するように促すと、やっと紗友里は口を開いた。
「去年の、春頃から」
「じゃあ好きになって一年くらいか」
「そうなるね」
たったの一年。出会ってたったの一年の紗友里に私はユウをとられたのか。
私は物心ついた頃からずっと好きだったのに。
心の中で呟いたつもりだったけれど、口に出してしまっていたようで、紗友里は微かに反応を示した。
「どんな人だっけ、なんで好きになったの?」
体を乗り出して、私は畳み掛けた。
「ねえ、なんで?」
「鈴、怖いよ」
「そんなことないよ、いつもこんな感じでしょ?」
怖い、なんて誰のせいなのかわかってるくせに、どうしてそんなにわかりきったことしか言わないんだろう。
「どんな人だっけ? 確か、優しくて、料理上手で、紗友里より少し背が低くて、服装がダサくて、紗友里とリュックがおそろいなんだよね」
頭にかっと血が上る感覚を覚え、感情のままに捲し立ててしまった。捲し立てながら、頭どころか全身が火照ったように熱くなっていく。
紗友里はコートの裾を掴んで俯いている。顔を上げようとする気配はなく、この期に及んで被害者面をするのかと思うと更に苛立ちが湧きあがる。
「ねえ、名前は?」
この質問の答えで、全てが明るみになる。
本当はお互いにわかりきったことではあるけれど、ここで出させなければ紗友里は被害者面をし続けるし、私は構図的に加害者のようで気分が悪い。
俯いた前髪の下から覗く薄紫の唇を睨み続けていると、やっと観念して言葉を発した。
「佐藤、優さん」
「鮪さん、でしょ?」
往生際の悪さに更に怒りが込み上げて、思わず答えを言ってしまう。
「ねえ、知ってたの? 知ってて、告白したの?」
紗友里は口を噤んで、答えない。私をやり過ごすための答えを、足りない頭で探しているのだろう。馬鹿にされたような気がして、何かがぷつりと切れた。
「初めて相談したのってちょうど一年くらい前だよね、あたしの気持ち知ってたよね、それなのに、一か月? 一か月前に、付き合い始めたって、何? 何なの? あたしの気持ち知ってて、それで、相談乗るふりなんかして」
溢れ出した思いが言葉になって次から次へとこぼれていく。
「あーもう意味わかんない。ひどすぎるよこんなの。ずっと好きだった人がいきなりとられるなんて、しかもその犯人は友達のふりしてたなんて、こんなにひどいことって、あっていいの? 本当に世の中って不公平だよね、ずっと好きで好きでたまらなかったのに、絶対あたしの方がユウのこと、大好きなのに、なんで紗友里なんかにとられなきゃいけないの、意味わかんない!」
「そんな、取るとか取られるとか」
ここまで何も言わなかったくせにいきなり口を開くので、
「うるさいなあ」
と怒鳴ってしまう。
「取ったくせに何なの、黙ってよ! 返して、今すぐ別れて!」
掴みかかる勢いで詰め寄ると、紗友里は唇を噛んで視線を逸らした。
「あー、なんで気づかなかったんだろ、よく考えたらユウと特徴合ってんじゃんね。ばっかみたい。目の前でぺらぺらぺらぺらのろけながら自慢しながら、あんたの好きな人とあたしは付き合ってるんだよって思いながら、内心で嘲笑って、ほんっとひどいよね。」
ふらふらと歩いて壁に寄りかかり、そのまま壁に頭を預けた。
壁に触れた部分から熱が抜けていき、少しずつ心に平静を取り戻す。
限りなく静寂に近い時が流れた。
「もういい」
静寂を破ったのは紗友里の方だった。
「何も聞く気ないでしょ」
「聞く価値ないし?」
そもそも私を深く傷つけたその立場で「もういい」って何なんだ。
「じゃあ勝手に言わせてもらうわ」
何、と反応する暇も与えず、紗友里は喋り始めた。
「何も行動起こさなかったくせに何言ってんの? 告ってもらえんの待ってたの? ずっと? 鈴が好きになるってことは誰かも同じように好きになる可能性だってあるんだよ? 現にあたしは好きになった。自分で行動した。それで今に至ってる。その何が悪いの?」
私の気持ちも知らないで、ぺらぺらと紗友里は言葉を並べていく。
こんな言葉、私を貶めるための中傷だ。聞いてはいけない。
必死に言葉の意味を理解しないように、私は自分に言い聞かせ続ける。
それでも、紗友里の声はだんだん鋭さを帯びていく。
「大体、幼馴染だからって何もしてこなかった鈴にはそんなこと言われる筋合いないよ! とったとか、とらないとか、人のこと物扱いだし、自分の方が好きなのにとかわけわかんない、あたしも鈴も、お互いの気持ちなんてわかるわけないじゃん!」
鋭利な言葉は真正面からぐさぐさと私をメッタ刺しにしていく。
「なんで思考がそんなに幼いの? 頭の成長止まってんの? そういうのせめて高校生で卒業しなよ、今時中学生でもそんなこと言わないって!」
やめてやめてやめてと必死で言葉を理解しないように体を縮めていく。
紗友里の顔を見ることができない。
いつの間にか私はすっかり小さくなって涙ぐんでいた。
「あ、ごめん、言い過ぎた」
もう、何も聞きたくない。
聞こえるもの全てシャットアウトして、引きこもってしまいたい。
「もういい、帰って、帰ってよ!」
私はドアを開けて、紗友里を力ずくで外に押し出した。そしてぴしゃりとドアを閉めると、その場に蹲った。
もう既に枯れてしまったと思っていたのに涙はどんどん溢れて、リノリウムの床にぽたぽたと落ちた。
紗友里はしばらくドアの前に立ち尽くしていたようだったけれど、そのうち足音が聞こえて、私の涙声に消されるようにその音は消えていった。
ユウは私の全てだった。
ユウのことが好きで好きで仕方がなくて生きてきて、にもかかわらず失ってしまった今、どうやって生きていったらいいのか私にはわからない。
全てを奪っていった紗友里が憎い。憎くて憎くてどうしようもない。
紗友里が正しいとか間違ってるとかそういうんじゃなくて、単純に私の心が、紗友里への憎悪で溢れていく。
ドロドロとしたどす黒い思いは、とどまることを知らずに、私の心を、体を、蝕んでいくようだった。
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