「行ってらっしゃい」

 春休みだというのに、実験が佳境とかで毎日のように大学院の研究室に通う柊を、灯里は玄関で見送った。

「なんだか…」

 一度ドアを開けた柊が、灯里の方を振り返る。

「なに?」

「いや…」

 少し照れたように言葉を濁すと、柊は灯里の方へ戻ってきて、軽く口づけをした。

「…柊ちゃん」

 灯里の少し驚いたような顔に、柊は微笑んで言った。

「じゃ、行ってきます。今日は早めに帰るよ」

 そう言ってドアを閉めた柊に、なんだかくすぐったい幸福を灯里は覚えた。


 いってらっしゃい、今日は早めに帰るよ、か。

 エレベータに乗り込みながら、柊は思わずそう呟いた。

 なんだか新婚カップルみたいで照れるな。

 幸せな気分になりながらマンションの外に出ると、柊はマフラーを巻き直した。


 朝食の食器を洗ったり、部屋の掃除をしてひと段落すると、灯里は自分のために香りのよい紅茶を入れた。

 そろそろ、新しい仕事を探しはじめた方がいいかもしれない。柊には、大学の契約を打ち切られたことはまだ話していなかった。だけど、4月になればわかってしまうこと。その前に就職を決めたかったが、そう思うようにいくだろうか。

 でも今日の灯里の気分は、これまでにないくらい前向きで明るかった。


 くよくよしたって、しょうがないじゃない。前に進もう。

 そうだ、今日は久しぶりにショッピングにでも行って、帰りに食材を買ってきて何か柊の好きなものでもつくろう。だって、今日は早く帰るって言ったから。


 そう思い立ち、灯里は化粧をすると着替えた。シンプルなウールコートとロングブーツという格好で、灯里はマンションを出た。駅へ向かって歩き出し、すぐ傍の小さな公園を通りかかったとき、灯里はこちらに向かって歩いてくる男の姿を認めた。

 あれは…。それが誰かがわかって、灯里の足は前に進むことができなくなった。男の方も灯里に気がついて、小走りに近づいてくる。はっとして、灯里は踵を返すといま来た道を駆け戻ろうとした。

「灯里お嬢さん!」

 男の叫ぶような声が、再び灯里の足を動けなくした。




 ✵ ✵ ✵


 実験研究室でデータをチェックしていた柊に、星奈が声を掛けた。

「お疲れ、柊。コーヒー、できたよ」

「おお、ありがと」

 春休みの実験研究室は、出てきている院生も半分くらいだ。いつもより静かで、のんびりとした雰囲気の中、柊は予想通りの実験データにほっとしながら、星奈の入れてくれたコーヒーを飲もうと休憩室へ向かった。

 コーヒーメーカーから淹れ立てのコーヒーを、コップに注ぐ。香ばしい香りが立ち上って、思わず眼を閉じる。柊は、いつもブラックだ。特別に高価な豆でなくとも、淹れ立てのコーヒーはやはりおいしい。

 香りとまろやかな苦みを楽しみながら、今朝の灯里とのやり取りを思い出して微笑んだところに、携帯が着信を知らせた。


「ん、繭里?」

 昨年の夏に交換した繭里の電話番号が、表示されていた。でも、繭里からメールはおろか電話がかかってきたのもこれが初めてだ。怪訝に思いながらも、柊は電話に出た。

「もしもし、繭里?久しぶ…」

 柊の言葉は、繭里の切羽詰ったような声で遮られた。

「え、なんだって?」

「お願い、柊ちゃん。お姉ちゃんのマンションに一緒に行って!」

「いきなり、どうして?」

「勝哉さんが、勝哉さんが…」

 繭里の声が、泣き声に変わる。

「勝哉さんが、どうしたって言うんだ! 繭里っ、繭里!」



 ✵ ✵ ✵


 小さな公園で、灯里は勝哉と向かい合っていた。昼過ぎの冬の小さな公園は、遊んでいる子供も、犬を散歩させている人もいない。

 「話がある」と勝哉に言われて、灯里は自分の部屋はもちろん喫茶店すら屋内で勝哉とふたりきり向き合うのは嫌だった。いや、むしろ恐怖と嫌悪を感じた。

 そのために「公園でもいいか」と訊いた灯里に、勝哉は黙って頷いたのだった。

 相手の顔が見られずに、下を向いたままの灯里と、勝哉はしばしの間ただ向き合っているだけだったが、やがて唐突にこう言った。

「私は、『北賀楼』を辞めてきました」

 えっ?

 突然のことに、灯里は言葉を失い、思わず勝哉を見てしまう。そんな灯里を、勝哉はじっと見つめていた。

「辞めた?」

 勝哉は頷くと、一歩前に出た。その気配に、灯里がさっと後ずさる。

「やはり、灯里お嬢さんはまだ、私が怖いですか?」

 唇を震わせたまま、灯里は何も言わずに勝哉を凝視した。

「当然です。あんなことをしたんですから。怖がられて、いや許されなくて、当然です」

 勝哉はそう言うと、表情を歪めて笑った。

「辞めたって…どうして…」

 やっとの思いで、灯里は口を開いた。


「申し訳…ありませんでしたっ」

 勝哉はそう言うと、突然、地面に両膝と両手をつき頭を深く垂れた。

「今更、今更、謝ったって、取り返しがつかないことはわかっています。でも、でも、お、俺はこうでもしないと…女将さんの葬儀でお嬢さんを見てから、やっぱり俺は…俺なりのけじめを…」

 勝哉の肩が震えている。そしてその口から、やがて嗚咽が零れはじめた。

「繭里を、繭を愛してしまったから…。俺はアイツの姉を犯した男なのに。灯里お嬢さんを犯しておいて、その妹と…俺は…。もう、耐えられないんだ。耐えられないからっ」

 灯里は目の前で跪き、見栄も矜持きょうじもかなぐり捨てたように咽び泣く男を見下ろした。



 それなら、それなら、あたしだって同罪。

 姉を犯した男に「妹には言わないで」と言ったのは

 誰でもない、あたしなのだから。

 そして何も知らない妹と、その男の結婚を黙って遠くから見ていた。


 無邪気に「勝哉さんが好き」と言った繭里。

 その思いを叶えてあげるつもりで、父に繭里の気持ちを伝え、

 ふたりの結婚を進言した。

 自分が東京へ進学するために、勝哉との結婚を避けるために。


 初めは了承した勝哉は、あたしが東京へ行く前日の夜、母屋へ訪ねてきた。

 そして、無理やり犯したのだ。


「俺の気持ちを、なんだと思ってるんだ。俺は、俺はっ、灯里お嬢さんがずっと好きだったのに。『北賀楼』の花板を眼の前にぶら下げられたら…、女将さんへの恩を…っ、卑怯だ、お嬢さんは卑怯だっ」


 そう、あたしは卑怯者、そして裏切り者。

 昔も、今も。

 お祖母様、繭里、お父さん、勝哉さん、ごめんなさい。

 ごめんなさい、柊ちゃん。

 悪いのは、あたし。

 決して、幸せになってはいけない。

 決して、幸せになってはいけない。

 誰よりも、不幸でいることが贖罪しょくざいなのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る