「教えてくれ、教えてくれよ、灯里お嬢さん、俺はどうしたらっ…」

 ふらふらと立ち上がった勝哉が、灯里の両肩を掴んで揺さぶる。恐怖と悔恨に強く捕らわれて、灯里の身体は強張ったまま少しも動けない。


「灯里っ」

「勝哉さん! お姉ちゃんっ」

 猛烈な勢いでかけてきた柊はふたりの間に割って入ると、勝哉の胸ぐらを掴んだ。

「灯里に、何すんだっ!」

 激しい憎悪をむける男の顔を、勝哉は呆けたように見た。

「止めて、柊ちゃんっ」

 柊の激しい剣幕に、繭里が必死で止めに入ろうとする。

 しかし渾身の力で勝哉の胸ぐらを掴んだ柊の腕は、びくともしない。

「殴れよ」

 勝哉が濁った眼で、今度は柊を睨みつけると言った。

「あんた、隣の幼なじみだったよな。女将さんの葬式のときも、灯里お嬢さんにぴったりと付き添ってた」

「勝哉さん、柊ちゃん、お願い、止めて」

 必死で止めようとする繭里の手を、勝哉が払った。

「繭、俺はお前を裏切ってんだよ」

「裏切ったって…」

「お前は知らなかっただろうけど…」

 そう言って勝哉は一度目をつぶると、再びカッと目を見開き言い放った。

「俺は、俺はなっ。お前の姉を、無理やり、力づくで犯した男なんだっ」



 なんだって?

 いま、なんて言った。コイツは、いまなんて言ったんだ。



 身体から血の気が一気に引いて、それから暴力的な憎悪が逆流してくるのを、柊は感じた。

 柊は勝哉をゆっくりと睨みつけながらその胸ぐらをもう一度つかみ直すと、右手で思い切り殴りつけた。

「きゃぁあ~っ!」

 繭里が悲痛に叫ぶと、倒れこんだ勝哉を庇った。

 勝哉は、その繭里をすら退けようとする。

「いや、いやっ」

 それでも繭里は、髪を振り乱して勝哉に縋った。

 地面に座り込んで切れた口元を拭う勝哉を見ながら、柊は思った。

 

 コイツは、こんなに小さな男だったか?

 こんなに弱い、こんなにも無様な…。


 あの頃、あんなに強そうに見えた勝哉を、いまや柊は身長でもボクシングで鍛え上げた肉体でも、遥かに凌いでいた。強くなりたいと自分に思わせた男は、もうただの痩せぎすの幻想だった。

 自分を見下ろす柊に、勝哉は滲んだ血を舐めながら言った。

「カッコいいな、あんた。好きな女を守ったつもりかい?」

「黙れっ」

「ふん。あんた、知ってるか?あんたが昔から好きで好きでたまらなかった女に、やっと手に入れた気でいる灯里お嬢さんに、俺が何をしたか」

 自暴自棄とも取れる表情で、勝哉が言い捨てた。

「もう、止めてっ。お願いだから」

 繭里が悲痛な悲鳴を上げる。

 そんな繭里の肩にいたわるように手を置きながら、勝哉は悲壮な眼で言った。

「繭、許してくれ。俺はもう『北賀楼』にはいられない。お前の傍にはいられないんだよ」

「いやよ、そんなこと言わないで。勝哉さん」

「無理だ、もう無理なんだよ。繭、お前のためにも、こうした方がいいんだ。なっ?」

 肩を優しく擦ってそう言う勝哉に、尚も繭里は縋って激しくイヤイヤをする。

「何を、何をしたっていうんだっ」

 何か恐ろしいことを訊かされる予感がして、込み上げる吐き気をなだめながら、柊はそう勝哉に訊いた。

 勝哉は繭里から視線を外すと、覚悟を決めたように冷たく放った。

「俺は、高校を卒業したばかりの、まだ少女のように可憐で無垢だった灯里お嬢さんを犯した。そうさ、無理やり。力づくで、激しく抱いて傷つけたのさ」

 

 

 犯した? 激しく抱いて傷つけた?



 柊は目の前が真っ白になり、呼吸するのも困難に感じた。

 身体が自分のもののようではなく揺れて、よろけながらなんとか足を踏ん張った。


 うそだ!うそだ!!うそだ!!!


「知ってたわ」

 そのとき、繭里の声が遠くで聞えた。

 驚いた勝哉が繭里を唖然とした目で見つめるのが、なんだか別世界のように映る。

「繭…知ってたって…言ったか?」

 両肩を掴まれた繭里が、勝哉を真っ直ぐ見つめながら微笑んだ。その頬に、涙の跡を光らせながら。

「知ってた。知ってて結婚した」

「繭…」

「そして、忘れた」

「忘れた?」

「うん、そんなこと忘れて、勝哉さんを愛した、精一杯。それで、思った。私がいつも幸せな顔をしていることが、勝哉さんの苦悩を癒すことになるって信じて。帰ってこなくなったお姉ちゃんも、あたしが幸せそうに笑っていたら、いつか自分を責めることから解放されるんじゃないかって思ってた」

 

 繭里…だからなのか。

 あの夏の日、キミが言った言葉、いまならその意味が分かる。

 痛いほど、苦しいほど。

 「あたしは幸せでいなければいけないの、みんなのために」

 繭里、キミは…


 勝哉の眼から、涙が溢れる。繭里の肩を抱いて、勝哉は身体を震わせた。

「繭、お前は…」

 勝哉に抱きしめられながら、繭里は聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべて言った。

「だから、帰ろう?勝哉さん。だって、勝哉さんは『北賀楼』の立派な花板。そして、そして、もうすぐお父さんになるんだよ」

 勝哉がはじかれたように顔を上げて、繭里を見た。

「いま、なんて?」

「3か月だって。お父さんになるんだよ、勝哉さんは」



 そして。

 気がついたとき、灯里の姿はなかった。

 灯里は、再び消えた。



 ✵ ✵ ✵


「柊、大丈夫?」

 アパートに心配したアレンと星奈が訊ねてきた。

「星奈、院の方は大丈夫か?」

「うん。ちょうど春休みだし、柊の研究はみんなでサポートできる。できる、けど」

 困ったような顔で、星奈がアレンを見上げた。

「そうか、じゃあ、頑張ってお前たちは柊の穴を埋めといてくれ」

「うん」

 アレンは、無精ひげを生やしたままベッドでじっと丸くなっている柊の肩に手を置いた。

「柊、しょうがない。いまは苦しめ。きっと、それしかこの闇を抜ける方法はない。だがな、苦しんで苦しんで苦しみつくしたら、戻って来いよ。絶対に、いいな」



 柊は、自分を責めずにいられなかった。 

 6年ぶりに再会した灯里が言った言葉。

 「激しく抱いて傷つけて」というのは、

 灯里のトラウマだったのだとやっと気づいた。

 最初に無理やり知らされた男と女の交わりがそれ。

 だからあんなにも、灯里は震えてぎこちなかったのだ。

 最初にそんな体験をして、

 男に抱かれるのが怖くないはずはない。

 


 どんな想いで、灯里はあの言葉を言ったのだろう。

 そんなキミを僕は救ってやれたかい?

 いや。

 何の役にも立たなかったからこそ、キミは再び消えたんだ。

 僕はバカだ、大バカ者だ。

 だけど灯里、それでも僕はこんなにもキミを求めているんだ。

  


 そして、柊が埒のあかない堂々巡りをしていた間に、

 灯里の部屋から荷物は運びだされ、部屋のカギは取り替えられた。


 キミは消えたのか、永遠に?

 それこそ、僕は正真正銘の救いようがないほどの愚か者だ。


 いつまで続くかわからない闇の中で、柊は不甲斐なさすぎる自分をぶん殴ってやりたいほど嫌悪した。

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