お弁当を食べ終わって、アレンと星奈は広い芝生の公園でバドミントンをしはじめた。

 その仲睦まじい、楽しそうな様子を眼で追いながら、柊は由紀子と傍らのベンチに腰かけていた。

「あの…」

 由紀子が、おずおずと口を開く。

「なに?」

「野々村さんと、北川さんて、幼なじみなんですよね?」

「ああ、星奈に訊いたんだね。うん、そうだよ」

 柊があまりにも自然に認めたので、由紀子は自分がいったい何を訊きたかったのかわからなくなった。

 だから、思ってもいなかったことが口からこぼれ出てしまったのはそのせいなのだ、と由紀子は思った。

「北川さんて、昔からモテたんですか?」

「昔から?」

 柊が少し身体の向きを自分の方へ変えたのが、由紀子にはわかった。

「はい。いまも教務課の高橋さんとか、お料理教室の三宅さんとか…」

 三宅?訊いたことのない名前が出て、柊の心がざわつく。それを気取られないように、柊は由紀子に訊ねた。

「料理教室って、北川さんと同じとこに通ってるの?」

「はい、北川さんの紹介で習いはじめたんです」

「そう。その、三宅さんて女性も?」

 柊のかけたカマに、由紀子は生真面目に引っかかった。

「女性じゃないです、前の会社の上司みたいで。36歳だったかな、奥様がご病気で長いこと入院してるみたいで…」

 そう言いながら、由紀子は柊の横顔を窺った。

「奥様がずっと入院してるなんて、それで男の人なのにお料理習って…まさか…」

「まさか?」

「ふ、不倫とか、じゃないですよね?」

 思い切ってそう言いながら、由紀子は柊の顔が見られなかった。

「さあ、僕にはわからないな」

 その声に何の動揺も感じられなくて、由紀子は密かにほっと息を吐いた。

「高橋さんも、北川さんに写真のモデル頼んだみたいで。やっぱり綺麗な人の方が、写真も撮りがいありますよね」

 やはり断れなかったんだ、モデル。そしてそれはもう、周知の事実にされているんだ、と柊は唇を噛んだ。

「よく知ってるんだね、北川さんのこと」

 その声音に少し皮肉が込められているような気がして、由紀子ははっとした。

「私、私、ごめんなさい、くだらない話をして」

 そっと盗むように窺った柊の横顔は、睫毛が長くて男の人なのに美しい憂いがあった。それにぼぉっと見とれていると、その横顔が小さく笑った。


「海はいいね、いろんなことを忘れられる。そして大事なことだけが、波に洗われたようにくっきりと浮かび上がる。来てよかったな、今日」

 その意味を勘違いした由紀子が、顔を赤らめて柊をじっと見つめる。見つめ返した柊の眼は、由紀子への憐憫と無関心に満ちていた。



 ✵ ✵ ✵


「今日も東京から?ご苦労様だねぇ」

 6年もの間通っているせいか、この療養病院のスタッフにも顔見知りがふえたと灯里は思う。

「こんにちは、いつもお世話になっています」

 白髪が目立ちはじめた初老の男性職員に、灯里はそう挨拶した。

 いつものように来院名簿に名前を書き終え、階段の方へ向かおうとした灯里に職員が言う。

「そういえばこの間、若い男性が面会に来てたけど、ご兄弟?親戚の方かな?」

 若い男性? 心当たりがない、父ではないとすれば勝哉だが、もう30代半ばの男性を若いと言うだろうか。

「いつ頃ですか?」

「夏、だったな。酷く暑い日だったのを覚えているから」

「そうですか。誰だろう、心当たりがなくて…」

「そう、じゃあ帰る頃までに、名簿確認しておくよ」

 お願いします、と頭を下げて灯里はリツの病室へ向かった。


 小1時間ほど病室で過ごし、帰り際の灯里に、あの事務員がまた声を掛ける。

「ああ、北川さん。見つけたよ、野々村柊という人だ」

 そう言って名簿のその箇所を示されて、灯里は確かに柊の筆跡をそこに認めた。

 柊ちゃん…どうして…。

「? どうしたの、知り合いじゃなかった?」

 表情が固まってしまった灯里を、怪訝そうに事務員が覗き見る。

「あ、いえ。懐かしいなと思って。幼なじみです」

「そう」

 事務員はいつものようににこりと笑うと、「ご苦労様」と言った。


 日付は、8月のお盆過ぎになっていた。

 柊は、そのことに何も触れなかった。お祖母様のお見舞いに来てくれてたなんて。

 どこまで優しいのだ、と灯里は目頭が熱くなる。

 いや、優しいだけではない。もしかしたら、柊の気持ちは…。


 眼を背け続けていた一つの疑問に、向き合うには遅すぎた。

 柊ちゃん、もしもそうだったとしたら…

 私は、自分がやったことを、なおさら許せない。

 自分の身勝手さ、傲慢さがいっそ憎い。


 見上げた空は高かった。

 急に風が強くなって、療養病院の駐車場を囲むように植えられている樹々の葉がざわざわと不穏に揺れた。

 頼りなげに、でもどこか必死に枝にしがみついているような木の葉が、いまにも風にさらわれてしまいそうだと灯里は思った。


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