第9章 逆 流
ⅰ
12月最初の金曜の朝、通勤の身支度を整えた灯里は、燃えるゴミの袋を持ってマンションの1階へと降りた。自転車置き場の隣にある住民専用のゴミ集積場へそれを出すと、首に巻いたマフラーを顎と唇が隠れるまで引き上げた。
どんよりと曇った日で、カレンダーが残り1枚になってから寒さもひと際厳しくなった気がした。
「おはよう、寒いね」
声がする方を、はっと見やると、柊が同じように自分のアパートの集積場にゴミの袋を置いたところだった。
「おはよう」
伏せ眼がちにそう言って、足早に通り過ぎようとする灯里に、柊はさらに言葉を続けた。
「いつまで逃げるつもり?」
互いに腫れ物に触るような雰囲気になって数か月、その距離は縮まらないままに、微妙で嘘っぱちな平和を保っていた。
「逃げてなんか…」
そう言葉を濁す灯里に、柊は言った。
「ちょっと待ってて。今日は僕も早く行くから。たまには一緒に行こう」
「なんで、そんなこと」
「いいから。1分で支度してくるから、絶対待ってて」
めずらしく強引に言った柊の、階段を駆け上がっていく背中を見ながら灯里は、コートのポケットで携帯が鳴っていることに気がついた。
着信は、父の一史からだった。こんな朝早くからなんだろうと、怪訝に思いながら灯里は着信を受けた。
「はい」
「灯里、お父さんだ…」
大学へ行く支度をして階段を降りた柊は、携帯を耳に当てたまま、茫然とした様子の灯里の姿を見た。
「灯里?どうしたの」
その声にゆっくりと柊の方を見た灯里の唇が震えていて、顔は蒼白だった。
「柊ちゃん…。お、お祖母様が…」
その言葉に打たれたように、柊は灯里の両肩を掴んだ。
それとほぼ同時に灯里の身体から力が抜けて、崩れ落ちそうになるのを柊は両腕と胸で支えた。
「灯里っ。お祖母様が、どうしたんだっ」
胸に抱きとめた灯里が、小さく震えながら
「亡くなったって…たったいま…亡くなっちゃった…お祖母様が…亡くなっ…」
✵ ✵ ✵
故郷へ向かう新幹線の中で、柊は横に座る灯里の身体を抱き続けていた。ときどき顔を覗き込みながら、安心させるように「灯里、灯里?」と呼びかけながら。
真っ青な顔でうつろな眼を正面に向けながら、その
呆然と立ちすくむ灯里の肩を強く揺すり、慌ただしく帰郷の準備をさせ、柊自身もそれを整えながら母親の瞳に電話を入れたのがすいぶん前の気がする。
「ああ、柊?お母さんもいま訊いたの。 …? でも、なんでアンタ、それ知っているの?」
「詳しい話は後で。うん、明日の土曜がお通夜、告別式は日曜なんだね?わかった、僕、いまから帰るよ」
「え、柊。大学院は?帰るのは明日でも、間に合…」
そう言いかけた母の電話を途中で切ると、柊は星奈に電話した。
「ごめん、星奈。急なことで、でも大切な人が亡くなったんだ。これから実家へ帰らないといけない」
「わかった。こっちはみんなでフォローするから。うん、じゃあ、気をつけて」
それから灯里の部屋へ行き、まだふわふわと漂うように荷造りしている灯里に訊いた。
「大学へは電話したの?」
灯里が無言で首を振る。
「灯里、しっかりして。ほら、電話するんだ。祖母が亡くなったので急いで帰郷しなければならなくなりましたって言うんだ」
灯里に携帯を押し付けるように握らせて、柊はもう一度伝えるべき言葉を言い、灯里にそれを繰り返させた。
「大丈夫だね?言えるね、灯里」
少し瞳に光が戻って灯里が頷いたので、柊は教務課の電話番号を探してコールすると、また灯里に携帯を渡した。
なんとか灯里が緊急の件を伝え、電話に出た相手が「ちゃんと事務処理して置くので気をつけて帰ってください」と言ったのが柊の耳にも聞えた。
「さあ、灯里、行こう」
柊は灯里の腕を掴んで立たせると、自分のディバッグを背負い、灯里のスーツケースを引いた。
「灯里、なんか飲む?」
自分たちの車両に車内販売のワゴンが来たのを目にして、柊は灯里に訊ねる。灯里は無言で首を振ったけれど、柊はふたり分のコーヒーを注文した。
灯里がいつもはブラックだと知っていたが、砂糖もミルクも入れたそれを、柊は口許まで持っていってやった。
「温まるから。灯里、ほら飲もう?」
こくりと頷いた灯里が、コーヒーの入ったカップを両手で包み込むように持つと、そっと唇を寄せた。
「熱いから気をつけて」
ゆっくりとひと口、そしてもう一口、灯里の喉はその甘くて温かな液体を受け入れた。
灯里の眼に少し精気が戻ったのを確認して、柊も自分のコーヒーを飲む。灯里が柊の方を向いて、照れたように笑った。
「ありがとう、柊ちゃん」
「僕がいるから。灯里の傍に、だから心配しないで」
「ずっと?」
心細げな眼で、小さくそう訊ねられて、柊の胸は様々な想いで潰れそうになる。
ずっとって、灯里、キミはどういう意味でそう言っているの?
この帰省の間ってこと、それとも…
「うん、ずっと」
柊はきっぱりとそう告げると、安心させるように灯里の頭を自分の方に寄せ、優しく撫でた。
灯里が眼をつむって、ほぅとため息をつく。
灯里。
この細い肩で、強がってばかりの折れそうな心で、
キミはずっと何を背負ってきたんだ。
だけど、もう大丈夫だよ。
何かを背負ったキミごと、僕が引き受けるから。
あの秋の海を見て、僕は悟ったんだ。
キミに何かを求めたりしない。
ただ、僕がキミに差し出すだけだ、僕のすべてを。
そう、ただそれだけのことだったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます