第7章 かけ違えるボタン

「初めまして、仁科由紀子です。よろしくお願いします」

 新しい事務職員だと次長に紹介されたその女性は、小さな声でそう挨拶すると緊張した面持ちで頭を下げた。配属される教務課はもちろん学生課や総務課など、事務職員全員が揃っているせいか、身の置き所なさそうに小さくなっている。

 そのままそれ以上の自己紹介をする様子もない彼女をもう一度見た次長は、高橋に声を掛けた。

「高橋君、よろしく頼む」

「はい」

 と高橋が落ち着いた声で頷いて、秋学期最初の朝礼は終わった。

  

 自分の席について早速連絡メールの確認をしている灯里を、高橋が呼ぶ。

 振り向いた灯里の斜め後ろに、高橋に伴われた由紀子がうつむき加減に立っていた。

「北川さん、仕事覚えるまで、仁科さんのサポートしてあげてくれるかな?」

「あ、はい」

 椅子から立ち上がった灯里に、由紀子がぺこんと頭を下げた。

「北川灯里です。あたしもまだ入って半年なので、お互い支え合いましょ?よろしくお願いします」

 年齢が近そうに見える同性にそう言われて、由紀子の表情からやっと緊張が消えた。

「よろしくお願いします」

 さっきより少し大きめの声になった由紀子を見て、高橋は言った。

「そうだ、まずキャンパスをざっと案内してくれるかな」

「そうですね。じゃ、仁科さん、行きましょ?」

「はい」

 

 簡単なキャンパスマップを手に、灯里と由紀子は教務課を出た。

「最初に、この教務課がある事務棟を案内しますね。一番、関係がある場所だから」

「はい」

 日本人形のように癖のない黒髪の由紀子が、こくんと頷いた。

 ふたりは教務課や学生課、総務課がある1階から、階段で2階のカフェテリアへ行った。

「ここはね、主に教職員が利用するカフェテリアなの。学生が利用できないわけじゃないけど、彼らには学食があるし、ここは価格的にもちょっと高めだから。あ、カフェのメニューを頼まなくても、お弁当を食べるのもここは自由です。それと、自分の机でお弁当を食べるのは、禁止されているから気をつけてくださいね」

「北川さんは、お弁当ですか?」

「たいだい、そうかな。仁科さんは?」

「私、今日は持ってきていないです。勝手がわからなかったから」

「そう。じゃあ、ここのお薦めは日替わりランチです。スパゲッティは…」

 ちょっと首を竦めた灯里の態度で、あまりおいしくないのだとわかったらしい由紀子は「はい」と頷く。

 次に3階のキャリアサポート室や相談・支援センター、4階~7階の常勤研究室などを案内した。

 それから事務棟を出て、学食や図書館、大講堂、講義が行われる大小の教室がある棟、部室&サークル棟などを案内して回る。

「広いから、一度で覚えきれないかもしれないけど、だんだんわかってくると思いますから」


 そうして大学院の共同研究室や実験室、ゼミ室、特別講義室などがある棟の説明をしているときだった。

「大学院の方々がいる棟なんですか?」

 それまで無口で表情の乏しかった由紀子が質問してきたので、灯里は一瞬あれ?と思った。

「ええ、そうですけど…。あたしたちは、あまりこの棟まで来ることはないから」

「そうですか」

 と笑った由紀子の右口元に、えくぼが浮かんだ。それだけで、ぱっと急に可愛らしく見えることに、灯里は驚いた。

 仁科さん、もっと笑えばいいのに。そのほうが、ずっと可愛いのに。

 そして灯里は、もう一つのことに気づかされた。


 仁科さんが笑うと、繭里に似ている…。

 同じ右側に浮かんだえくぼがそう思わせたのだろうか、灯里は急に由紀子に年上らしい優しい親近感を覚えた。


 キャンパス内を案内し終わり、教務課へ戻ると、高橋が「お疲れさま」と声を掛けてきた。由紀子の席は高橋の隣で、灯里の斜め前だ。

 隣に座った由紀子に高橋が訊ねている。

「コンピュータ-は使えるよね?メールもそうだけど、ワードとか、エクセルとか…」

「あまり慣れてないですけど、ゆっくりなら」

「そう。じゃあ、教務課の基本的な仕事内容を説明するね。午後からは教職員への事務連絡一斉メールをいくつか頼もうかな?」

 由紀子の顔が再び緊張してきて、大丈夫かなと灯里は心配になる。

 頭の回転が速い高橋の説明を訊きながら、由紀子はぽかんとした表情のまま取りあえず頷いている。

「仁科さん、メモ取ると忘れないですよ」

 思わず灯里がそうアドバイスすると、「あ」という表情になったから、おそらくこれまでの高橋の説明もピンときていないはずだ。

 由紀子が慌てて、メモできる紙とペンを探して自分の机の引き出しを開ける。デスクサイドの引き出しの中にペンを見つけたらしい由紀子に、灯里は予備に持っていた使い勝手のいいサイズのメモ帳を渡した。

「ありがとうございます」

 由紀子がお礼を言って、それを受け取る。

 高橋の説明が再開したが、メモを取る速度に合わせざるを得ないので、さっきよりゆっくりになった。このスピードならついていけるだろうと、灯里は再び自分の仕事に戻った。


「さっきは、ありがとうございました」

 そう頭を下げる由紀子と、灯里はカフェテリアにいた。

 由紀子は今日の日替わりのチキンのハーブグリル定食、灯里はいつも通りお弁当を広げていた。

「仁科さんは、ここの前はどこに勤めていたんですか?」

 そう訊く灯里に、由紀子はちょっと顔を赤らめながら答える。

「大学を卒業してから、ずっと家事手伝いっていうか…。就職はしていなかったんです」

「え、じゃ、これが初めてのお勤め?」

「はい」

 どこかおっとりと育ちがよさそうな由紀子は、もしかしたら働く必要などないお嬢様なのかもしれないと灯里は思った。

「じゃあ、いろいろ慣れないかもしれないけど、みんな良い方ばかりだからあまり緊張しないでね」

「はい」

 由紀子はほっとしたように笑って、またえくぼをつくった。


 

 そして。

 その日の業務終了後、まだ残業のない由紀子はロッカーからビニールの傘を取り出した。

 快晴の今朝、人目を気にしながらも持ってきたものだ。満員電車に押し込められ、朝から疲れ果てた通勤・通学客は、晴れた日にビニール傘を大事そうに持った他人のことなど気にも留めない。僅かにホームで賑やかな声をあげて話す女子高生らしき数人が、ちょっと好奇の眼を向けてきたくらいだ。

「会えるかな」

 そう呟いた由紀子の眼が、期待にキラキラと輝いていた。

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