宿は、浜名湖に面する温泉街のホテルだった。

 部屋に入ると早速、浴衣に着替え、須藤と灯里はまず温泉を楽しむことにした。この宿の露天風呂からは浜名湖が一望できるらしく、時刻もちょうど夕暮れどきで旅情あふれる風景に期待が膨らむ。

 浜松の市の花「ミカンの白い花」と、浜名湖と遠州灘の白波をイメージしたというオリジナル柄の浴衣は可愛らしく、揃ってそれに袖を通し、須藤と灯里はウキウキしながら温泉に向かう。

 朝夕とで男女が入れ替わるシステムの浴室は、入口に朱色と紺色の暖簾が掲げられていて、灯里たちは朱色の暖簾の方に入る。

 脱衣所はホテルらしく近代的できれいで明るい。浴場内は黒い石とヒノキが効果的に使われていて、日替わりのハーブバスやジェットバスまであって温浴施設のようだ。

 泉質はナトリウム、カルシウム、塩化物強塩温泉と記してある。

「昨年、改装したらしいの。こんなに近代的になってるなんて、思わなかった」

「なんだか、昔の宿の温泉とは違いますね」

 でも軽く体を流してから入った湯は程よい温度で、一気に心と躰がほどけていく。

「露天風呂、行こっ?」

 少しはしゃぎ気味の須藤に促されて、開放感いっぱいの空間に移動した。

 夕刻の色に染まる静かな浜名湖の湖面を眺め、ぽつぽつと控え目に灯りはじめた対岸の明かりを数えていると、やわらかな幸福に包まれる。ああ、なんだかこの感じ久しぶりで、ずっと忘れていたような気が灯里はした。

「どう?来てよかったかな?」

 須藤が灯里の顔を窺うように訊く。

「もちろんです。とても楽しいし、いまはすごく癒されてます」

 灯里がそう笑うと、須藤も嬉しそうに笑った。

「よかった!そう言ってもらえると、誘った甲斐があったなぁ」


 夕食は大食堂だったので、須藤と灯里はまた洋服に着替え軽く化粧をしたが、男性たちは揃って浴衣姿だった。

「温泉は入ったの?」

 洋服姿の灯里たちに高橋が訊いた。

「入ったわよ。露天風呂からの夕景が凄くよかったわぁ。ね、北川さん」

 テーブルには人数分の料理がすでに並べられていて、5人が席に着くと飲み物のオーダーを制服姿の女性が取りに来た。

 最初は瓶ビールを頼んで全員で乾杯、それが済むと同じ女性スタッフがそれぞれの一人用コンロに火を点けてくれた。女性スタッフの説明によると、地元のブランド牛のすき焼きらしい。

 そのほかに冷やし鉢や刺身、煮物、天麩羅、うなぎの櫃まぶしなどが並んでいる。

「まあ、提携施設だから部屋食じゃないけど、味は結構いいらしいわよ」

 そう須藤が言って、早くも空になった高橋のコップにビールを注ぐ。灯里も近藤と中田に、ビールを注いだ。

 賑やかな大食堂での食事は意外に楽しく、灯里は部屋食よりも緊張しなくて済んだ。

 一番おしゃべりなのはやはり須藤で、その相手はもっぱら高橋で、近藤と中田は相変わらず無口だ。このメンバーで飽きずに4年も旅行してきたんだなぁ、灯里は少し可笑しくなった。


「ところで、秋学期から教務課に新しい人が入るらしいわよ」

 須藤がそういうと、高橋も言う。

「まぁ、島津さんの替わりが必要だから。なんでも24歳の女性らしいよ」

「あらっ、じゃあ最年少じゃないの」

 軽く驚いた声を上げた須藤に、近藤が言う。

「よく、すぐに決まったね」

「24歳て、次長情報?」

 と中田の表情が少し変わった。

「あらっ。中田さん、気になるの?やっぱり男の人は若い方がいいのね」

 そうおどけて睨む須藤に、中田がちょっと顔を赤くしながら言う。

「いやいや、そんなことないよ」

「北川さんは、早くも先輩になるんだね。北川さんはまだ半年なのに、飲み込みが早くて仕事の手際がいいから、面倒を見てあげてね」

 そう高橋に優しく言われて、灯里は「はい」と頷いた。


 ビールの後は、高橋と須藤が芋焼酎、近藤はハイボール、中田は日本酒を注文している。皆、意外に酒豪揃いのようだ。灯里は静岡県らしいお茶割りというのを頼んでみたが、さっぱりと飲みやすくおいしかった。

 食事の後は、恒例のカラオケだと言う。カラオケの雰囲気もあまり好きではない灯里は、何とか逃れようと試みたが、強引な須藤が許してくれなかった。

 無理やり1曲歌わされた後は、他の4人が酒量も進み、かなり盛り上がってきたので、タイミングを見計らって「温泉へ行く」と逃げた。

 漆黒の闇の中で、月明かりを受けて輝く浜名湖の静かな湖面を眺めていると、時空間を忘れてしまいそうだ。うなじにはらりと落ちた一筋の髪を、手櫛でもう一度まとめ上げ直すと、灯里は露天風呂を後にした。

 部屋に戻ると、須藤が帰っていた。

「あら、お帰りなさい。温泉、今度はゆっくり入れた?」

「はい、人も少なくて。夜の湖も幻想的で綺麗でした」

「私も入りたいところだけど、結構飲んだからなぁ」

 そう言う須藤を、灯里は慌てて止めた。

「危ないから、止めておいた方がいいです」

「そうね、明日の朝、早く起きて入ろっと」

 そう言ったくせに、須藤はまだ缶ビールを飲んでいる。

「冷蔵庫に何缶か冷えてるから、北川さんもお風呂上がりにどう?」

「あたしは、もう。でも、皆さんが強いのには驚きました」

「そうねぇ、私たちの旅行はこうしてお酒飲んで、カラオケできるから続いてるってのもあるかもね。そうそう、高橋さんたらね…」

 それからひとしきり須藤は、灯里に高橋の噂話を訊かせる。酔いのせいもあって、もう須藤の胸の内はバレバレだ。

 高橋の気持ちはどうなのだろう。想う者同士が皆、引き寄せられるように気持ちが通じ合えたらいいのに、と灯里は思った。



 ✵ ✵ ✵


 翌朝は、生憎の小雨だった。

 早く起きて温泉に入るといった須藤は、飲みすぎたせいでまだ布団の中で、温泉は断念したらしい。それでも朝食の時間には、割にすっきりした顔でテーブルに着いたから、灯里は恐れ入った。

 男性たちも二日酔いなど無縁の顔で、朝食のバイキングを食べている。

「皆さん、本当にお酒が強いんですね」

 灯里は思わずそう言ってしまった。

「まあ、いつもこうだから。それより北川さんて、雨女?」

「え?違うと思いますけど」

 須藤に訊かれて灯里は戸惑った。あまり意識したことはないが、雨女だとは思ってこなかった。

「須藤さん、いきなり失礼だろ、それ」

 近藤が苦笑しながら、たしなめる。

「あ、ごめんね。いままでこのメンバーで、雨が降った記憶があまりなかったから。そうだよね、失礼だったよね。ごめんね」

 慌てて謝る須藤に、灯里は笑った。

「そんな。いいんです。自分でも気づいていなかっただけかもしれませんから」

 すると、高橋が言った。

「俺だよ。俺、実は小雨男」

「小雨男ぉ~?なに、その中途半端な感じ」

 須藤がそう言って破顔する。

「でも、いままで雨、降らなかったけどな?」

 と中田が言うと、高橋は可笑しそうに言う。

「それはさ、俺の小雨な運命を、須藤さんと島津さんの強力な晴れ女たちが救ってくれたからだよ」

「ああ、そうか」

 近藤の言葉に中田が納得して、また大笑いとなった。


 雨は昼過ぎから、小雨から本格的な降りとなったので、予定より早めに帰路に就くことになった。

 いまはまだ遠くに見える真っ黒な雷雲が、少しずつ迫ってくるのが不気味な感じがした。

 帰りは、近藤が運転する車に中田と灯里が乗ることになった。高橋と須藤をふたりにしてあげたくて灯里がそう提案すると、すかさず須藤が乗ってきたからだ。

 途中、あらかじめ申し合わせていたパーキングエリアで休憩を取った。トイレに向かう灯里に、高橋が背後から声を掛けてきた。

「北川さん」

「?」

 振り向いた灯里に、高橋が小走りに近寄る。

「あの…」

「はい…」

 背の高い高橋を見上げるように見た灯里に、その人は全く予想もしていなかったことを言った。

「写真のモデルになってくれないか?」

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