「柊、学食行く?」

 実験用の器具を洗い終え、収納棚に整理し終わった星奈が言った。

「あ、悪い、星奈。僕、今日は約束があって」

「そう?じゃ、私はお昼行ってくるね」

 どんな約束かなんて訊きもしない、あっけらかんとした星奈の性格が好ましい。

「今日のAランチはなんだろ」

 そう期待に満ちた声で言いながら、星奈は実験研究室から出て行った。

 それを見送った柊は、おもむろに小さな紙製の手提げ袋を持って部屋から出た。向かう先は、中庭だ。 

 数名の学生に混じって、空いたベンチに腰をかけると柊は空を見上げた。今日が天気でよかった。途中の自販機で買ったペットボトルのお茶を一口飲む。それから、紙袋からハンカチで包まれたお弁当を取り出した。


 昨日は灯里の家へ泊まった。何回か躰を重ねるうちに、ふたりとも寝落ちしてしまったからだ。今朝、柊よりも早く起きた灯里は朝食とお弁当を用意してくれた。

 弁当なんて、高校以来だ。ハンカチを解き、弁当箱の蓋を開ける。

 きれいに形づくられた卵焼き、ウインナーはちゃんとタコさんになっていて微笑ましい。ブロッコリーの緑が綺麗なサラダ、つやつやとしたレンコンのきんぴら、菜の花の胡麻和えが春を添えている。小梅が乗ったご飯に箸をつけると、間に海苔を挟んだ2段ののり弁になっていた。

 旨い、そして幸せだ。きっと灯里もいま頃、この同じ弁当を食べているだろう。

 柊が思いがけない幸福を噛み締めていると、背後から嫌な声がした。


「へぇ、旨そうじゃん。どうしたんだよ、その弁当?」

 アレンだ、振り向かなくともわかる。

「学食へ行ったらさ、めずらしく星奈が一人で飯食ってるから、柊はどうしたって訊いたんだ」

 そう言うと、ベンチをその長い両足で挟むようにして、柊の隣にどかっと座る。

「絶交はどうなったんだ?」

 アレンの顔を見ないようにして、柊は弁当を食べ続ける。アレンはそれには答えずに柊に訊ねる。

「用があるんじゃなかったのか?もう済んだのか?」

「ああ、済んだ」

 柊も意地になって答える。

「ああ、そう。なら、その弁当持って学食へ来りゃよかったのに」

 明らかに面白がっているアレンに、柊は腹が立った。

「アレン…」

「星奈には黙っててやるよ」

「ほんとか?」

 それでやっとアレンの顔を、柊は見た。

「ああ。その代わり、その卵焼き1つ、くれ」

 そう言うが早いか、アレンはひょいと卵焼きを摘まみ上げた。

 灯里がつくった弁当をアレンに食われるのは気に入らなかったが、背に腹は変えられない。揶揄からかわれるのは、アレン一人で十分だ。

「へぇ、旨いじゃん」

 ひと口で食べたアレンが、指を舐めながら言う。

「て、ことはさ。まさか、泊まった訳?」

 鋭い。だけど、なぜそこで朝渡されたと思わずに、泊まったと思うんだ。

「アレン、本当に星奈には…」

「わかってるよ。男に二言はない。さ、卵焼き1つじゃ足りないから、俺はがっつりBランチでも食うよ。今日は白身魚のフライだったな、星奈ががっついてた」

 そう言って立ち上がったアレンを見送って、柊は再び弁当に向かった。今度こそ誰も邪魔するな、この幸せな時間をと念じながら。


 弁当を見えないように紙袋に再び入れて、柊は実験研究室に戻った。

 昼休みはまだ終わっていないというのに、星奈がもうコンピュータの前で実験データを入力している。

「熱心だね」

 柊は、そう星奈に声をかけた。

「う~ん?」

 と言った星奈が、コンピュータの画面を見ながら訊ねた。

「お弁当おいしかったぁ?夜通し運動した翌日はお腹がすくから、余計おいしいよねぇ」

 運動って、何だ。夜通しなんて、してない。明け方近くまでだ、ってそんなことはいまはどうでもよくて。なぜ、そんなことまでわかるんだ。弁当一つで。

 しかも何気に、星奈がアレンに似てきている気がするのも癪に障る。


 おい、アレン。僕は今後一生、お前の「男に二言はない」は信じないぞ。灯里がつくった、俺の卵焼きを返せ!

 アレンの舌を出した楽しそうな顔が、柊の脳裏に浮かんだ。



 ✵ ✵ ✵


 週末、灯里は実家のある駅からバスで40分ほど離れた、長期療養病院にいた。

 脳梗塞で祖母のリツが倒れたのは、灯里が高校3年の秋。それからリツは意識が一度も戻らず、この病院に入院してもう6年が経つ。実家へは一度も帰らない灯里が、毎月必ず、この療養病院を訪れていることを知っているのは父だけだ。リツと折り合いが悪かった繭里の母は滅多に来ないし、繭里も勝哉と料亭のことで頭が一杯で祖母のことまで気が回らないらしい。時折訪ねているらしい父は、仕事が休みの平日に来ているらしく、休日に訪れる灯里と会うことはない。

 流動食の管が繋がれ、もうすっかり枯れ枝のようになってしまったリツを見るのは辛い。気丈で厳しく、いつも女将としての姿勢を崩さないリツは灯里の母親替わりだったからだ。


 お茶やお花の心得があって芯の強い灯里の母、織江を気に入って次男の一史ひとしとお見合い結婚させたのは他でもないリツだ。女将として経営全般を取り仕切るリツの決定は当時絶対で、長男の一行かずゆきより次男の一史に継がせることを言い渡しても、反対するものは一人もいなかったそうだ。

 板前としての才能も、経営者としての才覚もないことを自覚していた一行は、進んで厳格なリツの元を離れ、いまでは自由気ままなサラリーマン生活だ。

 万事につけて強引なリツのやり方が綻びはじめたのは、温厚で優しい父がどうしても諦めきれなかった繭里の母、万祐子との関係を続けているのを知ったときだ。

 リツは織江が知る前になんとか別れさせようと試みたらしいが、従順だと思っていた一史が頑として聞き入れない。そのうちに万祐子が妊娠してしまい、とうとう灯里の母である織江はたった独りの娘を置いて『北賀楼』を去った。


 しかしリツの思惑の最大の綻びは、自分ではなかったかと灯里は思う。

 幼い頃から『北賀楼』の後継者としてリツに厳しく、その一方で手塩にかけるようにして育てられてきた自分が、その恩を仇で、いや最大の裏切りで返してしまったような気がしてならないのだ。

 リツが脳梗塞で倒れたのをいいことに、東京の大学を受験し合格、さっさと『北賀楼』と故郷を捨てて上京してしまったとそしられても、灯里には返す言葉がない。挙句の果てには、勝哉との許婚の解消を父に頼んだ。そして起きてしまったあの忌まわしい出来事。それはリツからの灯里への罰だと、いまでは信じ込むようになった。

 自分は幸せになってはいけない、リツの見舞いに訪れるたびに灯里はそう思う。幸せになっては、リツに合す顔がない。脳裏に浮かぶ愛おしい柊の顔を掻き消すように、灯里は常となっている謝罪を今日も繰り返した。

「ごめんなさい、お祖母様、ごめんなさい。あたしは自分勝手な娘です。でも許しを請うことはしません。お祖母様に決して許されないことが、あたしの贖罪だから。決して幸せを願わず、自分の想いを最後はちゃんと葬ることが、あたしにできる最後の恩返しです」

 柊ちゃんとは必ず終わりにします…想像するだけで身を切られるような思いに捕らわれながらも、灯里は毅然とリツの顔を見つめた。

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