「北川さん?」

 療養病院を出ようとした灯里は、一人の男性に呼び止められた。

「あ、三宅課長」

 それは灯里が証券会社に勤めていた頃、別の部署で課長を勤めていた三宅雅彦だった。

「奇遇だねぇ、お見舞い?」

「はい、祖母の。課長は?」

 何気なく訊ね返した灯里は、一瞬曇った三宅の顔に、触れられたくないことを訊いてしまったのだと思った。

「私は…」

「あ、ごめんなさい。プライベートなことですよね」

 すぐにそう言った灯里に、三宅は疲れた微笑みを見せながら言った。

「いや、いいんだ。私は、妻の見舞いだ」

 三宅課長は37歳、仕事ができ、部下からの信頼も厚いが、あまり社内の人間とお酒などのつきあいを好まないと訊いたことがある。

 背が高く、スマートで、顔立ちも整っているので、女子社員からの人気も高かった。

「でも飲み会に誘っても、決して来ないのよ。何でかしら?」

 更衣室で、先輩社員がそう話しているのを訊いたこともある。


「奥様、ですか」

「うん。北川さんは、わざわざ東京から?」

「はい。私、出身がこっちなんです」

「そう。実は妻の実家も、こっちでね」

 そうなんですか、と灯里は頷いた。

「ところで北川さん、帰りはタクシー?」

「いえ、いつもバスです」

「そう。待ち時間が大変でしょう。よかったら、一緒に乗っていく?タクシー」

 この長期療養病院は寝たきりや介護が必要な入院患者が多く、必然的に通常の病院よりも立地条件が悪い。病院自体は清潔で看護体制が行き届いているので、待機患者がいるほどだが、通う家族は不便を強いられる。そのため次第に足が遠のく家族もいると訊く。


「お願いします」

 バス停まで10分ほど歩かなければならないし、バスの本数自体も少ないので、灯里は素直にそう言った。

 慣れた様子で、携帯からタクシー会社に電話した三宅は言った。

「5分ほどで来るそうだよ」

「ありがとうございます。助かりました」

 やがてやってきたタクシーに乗り、駅まで25分ほどで着いた。バスよりはやはり早い。

 「半分払わせてください」という灯里に、「独りでも同じだから」と三宅は笑った。

 駅からは特急に乗り、途中で新幹線に乗り換えて東京まで約4時間。月1回通うのでも、なかなか大変だ。三宅はいったいどれくらいの頻度で通っているのだろう、と灯里は思った。

 新幹線に乗って、灯里は三宅の分もコーヒーを買った。

「タクシーのお礼には、程遠いですけど」

 そう言う灯里に、鷹揚に微笑みながら三宅が言った。

「北川さんは、若いのに律儀だね。夏目老人が、気に入る訳だ」

「ご存知だったんですか?」

「うん。北川さんが辞めてから、ちょっと噂に訊いた」

「夏目さんにご迷惑をかけたんじゃ」

 灯里は心配になった。

「大丈夫だよ。羨ましいと思う者はいても、夏目老人に面と向かってそれを言える者などいない。言ったところで、どこ吹く風の方だから」

 そう言われて、灯里はほっとした。

「新しい職場は、楽しい?」

「はい」

 少し控え目に、でも素直に灯里は言った。

「そう、それはよかった」


 車窓に流れる景色を見ながら、三宅と灯里はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。

「お祖母さん、入院して何年?」

 窓の景色に眼をやりながら、三宅がそう訊く。

「6年です」

「そう」

 それから三宅は、コーヒーをひと口飲むとさらりと言った。

「私は、5年だ。北川さんの方が、先輩だね」

 5年だって十分長い。しかも祖父や祖母ではなく、妻なのだ。

 奥様はお幾つなんだろう、と思っても訊くことができない。

「北川さんは、不思議な人だ」

「不思議な人?」

 唐突に三宅にそう言われて、灯里は戸惑った。

「うん。夏目老人の件でもそう思ったけど、人を動かす力を持っている気がする」

「そんな…買い被り過ぎです」

 思わず照れ笑いしてしまった灯里に、三宅が真剣な眼を向けた。

「妻のことを、話してもいいだろうか?」

「え」

「急に、誰かに訊いてもらいたくなった。いや、誰かじゃないな。北川さんになら、話したいと思った」

 そして新幹線が東京駅に着くまで、三宅は妻がなぜ長期療養病院に入院することになったかを、静かに語り続けた。



 ✵ ✵ ✵


「週末は会えない」

 そう言った灯里を思わず問い詰めてしまったことを、柊は後悔していた。


 金曜の夜、ダンスのレッスンだとかで遅く帰ってきた灯里を、柊はマンションの前で待っていた。

「ストーカーみたいなこと止めて」

 灯里にそう言われて、情けないのと同時に腹が立った。


 あの夜、あれだけふたりで躰を重ね合ったのに。せつなさと幸福が綯い交ぜになった快楽の波間に一緒に溺れ、疲れ果てた子供のように抱き合って眠ったと思ったのは僕だけなのか?じゃあ、僕はいったいキミのなんなんだ。

 心の中で、当然のようにそう灯里を非難するほど、柊はもう彼女のことしか考えられなかった。


「僕は、ストーカーから灯里を守ったつもりだけど」

 不満そうに訴える柊に、灯里はため息をつきながら言った。

「予定があるの」

「どんな?」

「日曜日は、お料理教室」

「土曜日は?」

「出かけるの」

「どこへ?」

 食い下がる柊を、灯里は呆れたように見つめる。

「どこへだっていいでしょう?」

 よくなんかない。出かけるって独りでか?それとも、別の男…。

「教えられないことなの?」

 教えられないことだ。祖母の見舞いのために毎月、帰郷していることは父以外に知られてはならない。

「そうよ」

「なぜ?」

 執拗な柊に灯里が唖然とした表情をして、それが柊の気持ちを傷つける。

「柊ちゃん、いいかげんにして」

「灯里、部屋へ入れて」

「ダメよ」

「どうして?」

「だって」

 灯里は怖い。ほんの少しでいいから想い出をつくる、それだけでいいと思っていたはずが、これまで知らなかった快楽を知ってしまった。しかも毎回、新たな快楽へ引きずり込もうとするのは、灯里が6年間苦しんでも諦められなかった幼なじみなのだ。

 このままでは、離れられなくなる。この関係を続けて行っても未来がないことに、灯里は再び絶望しはじめていた。

 柊が、言い放つ。

「灯里は言ったよね、激しく抱いて傷つけてって。あれは僕を利用しただけなの?それならそれで構わない。ただし、利用するなら、最後まで利用し続けろよ」

 滅茶苦茶な論理だと、柊にはわかっていた。でもそれでも、柊は灯里を求めずにいられない。もう知ってしまったから。灯里が自分にとって、心も躰も特別な女だということを。

「明日は早いの」

 とうとう灯里が諦めたように言う。

「わかった、無茶はしないよ。約束する」


 そう言ったのに。

 灯里がイク姿をもっと見たくて、自分の手で灯里をもっともっと狂わせたくて、柊はつい試してしまった、いろいろと。もう「男に二言はない」と言ったアレンを責める資格は、柊にはない。

 別な意味で灯里が泣いて、「もうダメ。許して」と言うまで、柊は止めることができなかった。そして初めて柊は、やりすぎたと灯里に謝罪した。

 くたりと力が抜けた灯里が「いいの、わかってくれたなら」とやっとのことで言う。


 翌朝、早く起きてどこかへ出かける灯里を見送って、柊は自分のアパートへ戻った。そして謝罪した訳をすっぽり忘れ去ったように、再び研究に励んだ。

 繰り返すが、もともと研究熱心な性格で突き詰めなければ気が済まない。ただ今度の研究対象が、灯里と快楽というだけのこと。

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