強くなりたい、強くなりたい、強くなりたい。

 サンドバッグに右ストレートを埋めるように突き出しながら、柊はその思いも激しくぶつけた。

 強くなりたいという気持ちが執拗に膨れ上がったのは、あれがキッカケだったのかもしれない。

 今でも明確に脳裏に浮かぶ、勝哉の姿、その表情、あの言葉。

 大人で強そうで、自信たっぷりに「私の許婚の灯里お嬢さん」と言った勝哉。中学生だった柊は、その全てに衝撃を受けた。

 僕は、子供だ。弱い。灯里を好きだと想う気持ちだけでは、どうにもならないのだ。悔しかった。この悔しさをどこへぶつければいい。

 目の前の目標は、進学校への合格だ。それから灯里と同じく、東京の大学を目指して、そこで好きな科学を学び、それを活かせる会社に就職する。そして、灯里と…。

 思い描いた未来は、そこで途絶えた。僕に、灯里との未来はないんだ。

 がっくりと項垂れたあの日の自分に、言ってやりたい。

 手を伸ばせば、灯里はいま触れられる距離にいる。抱きしめることだってできるんだと。


 あの白くやわらかく、瑞々しい弾力を持った素晴らしい肌。裸で、その肌を感じたとき、それだけで柊はどうにかなりそうだった。吸いつくようにしっとりと滑らかで、離れたくない。抱きしめているだけで、快感が躰を駆け巡る。灯里のナカへ入ったら、どうなってしまうのだろう?僕は気が狂ってしまうのではないか?

 柊だって、経験がないわけじゃない。でも、これまでのどんな女の子とも灯里は違っていた。いや、柊の想いの違いがそう感じさせていたのかもしれないが。

 貪るように、無我夢中で、必死に、なりふり構わず、抱いてしまった。灯里が感じていたかなんて、わからなかった。細かな状況が記憶から飛んでいる。余裕など全くなかった自分が、いまは情けない。

「激しく抱いて傷つけて」と灯里は言ったけど、そう言われたからではなく、ただもう嵐のように過ぎた時間だったというのが偽らざる実感だ。

 だけど今夜は、灯里を昇りつめさせたい。感じたときの灯里がどんな表情になるのか、どんな声で啼くのか、どんな風に身悶えるのか。灯里の全てを手に入れて、引き出し、味わい尽くしたい。

 こんな想いになったのは初めてだ。でも、その欲望にもう抗わない。ちゃんと余裕を持って、研究して。 

 もともと研究熱心な性格の柊である。そして現代、研究材料には事欠かない。実践というハードルはあるが、それを確実に越えようという頑固な意思もある。



 ✵ ✵ ✵


 大量にかいた汗をシャワーで流そうと、柊はロッカールームへ入っていった。

 一つしかないシャワールームから、ちょうどアレンが腰にバスタオルを巻いて出てきたところだった。

「おお、お疲れ」

 そう言ってアレンは、自分の荷物を入れたロッカーの前に向かう。その背中を何気なく見ていた柊の眼の前で、アレンの腰に巻かれていたバスタオルがずり落ちた。

 慌ててそれを拾うアレンが、らしくない。彼なら素っ裸で前が見えたって、意に介さないくらいの図太い神経の持ち主だ。しかしさらにらしくないことに、アレンはゆっくりうかがうように柊の方へ振り返ろうとした。

 その瞬間、柊はさっとシャワールームに入った。動揺を隠すように急いでコックを捻り、勢いよくシャワーを出す。


 僕は、いま、何を見た?


 それはほんの数秒だったはずだ。しかし、その通常ではない光景を凝視してしまった。柊の脳裏にいま見たばかりの残像が焼きついている。

 最初は、麻疹はしかか何かの跡かと思った。しかし尻の全面に、その部分だけを狙ったように無数につけられた跡。そう、それは意図的につけられたものだ。

 煙草?確信を持って浮かんだ答えにゾッとして、柊はそれを振り払うかのようにシャワーを浴び続けた。



「飯、食ってく?」

 シャワーを浴びて着替え、帰ろうとする柊にアレンが訊いた。

「いや。用事があるんだ」

「Miss幼なじみか?」

 そう悪戯っぽく眼を光らせたアレンは、いつもの彼だった。

 きっと自分が見たとは、思っていないのだろう。良かった、と柊は思った。

「関係ないだろ」

 柊も、いつも通りに返せた。

「頑固だな」

「よく言われるよ」

「ま。納得いくまで、突き進めよ」

「当然だ」

 じゃあな、と言ってアレンは先にジムを出て行った。

 陽気で、男女を問わず気さくにつき合う超イケメン、バイリンガルのハーフ、口は悪いが気のいいヤツ。そんな陽の部分しか感じさせないアレンの陰の部分に、柊は今日初めて触れた気がした。


 誰にだって、人に話せない秘密やトラウマがある。灯里のそれは、一体なんなのだろう。詮索するつもりはない。ただ、灯里がもう大丈夫と言うまで、柊はつき合う覚悟だ。

 ジムの近くでハンバーガーを食べ、柊は灯里のマンションへと向かった。



 ✵ ✵ ✵


 昨日、カオルの家に泊まる羽目になった灯里は、今日は仕事が終わると早めに帰宅した。

 同じ服だとマズイからと、カオルに貸してもらったブラウスは、やっぱりカオル・テイストで灯里にはいまいち似合っていない。気はバッチリ合うのに洋服の趣味は微妙に違うんだな、となんだか可笑しくなる。

 灯里はまず、バスに入浴剤を入れてお湯を溜めた。ゆっくりと全身の筋肉一つ一つをほぐすように入浴して、部屋着に着替えると習慣になっているストレッチをする。

 それから、おもむろに冷蔵庫を覗く。何、食べようかな。常備菜のレンコンのきんぴらは明日のお弁当用に取っておきたいし、ほかにも副菜をつくっておかなくちゃ。

 しばし考えて、灯里はお弁当にも入れられるブロッコリーのサラダと菜の花の胡麻和え、夕食用にアスパラの豚肉巻き、冷奴を用意した。後は炊きたてのご飯と、茗荷とナスのお味噌汁。

 夕食を食べ終え、ほうじ茶を飲んでいるとチャイムが鳴った。

 一応マンションとなってはいるが、来客を確認できるインターホンはない。灯里は玄関のドアスコープを覗いた。

「灯里」

 柊の姿を確認すると同時に、そう声が聞こえた。

 柊ちゃん…。意外だった。柊がわざわざ訪ねてくるなんて。そう思いながら、灯里はドアを開けた。

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