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終電を過ぎても、灯里は帰ってこなかった。
マンションの前と灯里の部屋の前を、4時間も往復し続けた柊は、とうとう諦めた。自分のアパートまで2駅、走って帰れる距離だ。朝のランニングを、夜中にしたと思えば同じこと。
ふと眼を向けると、灯里のマンションの隣りに建設中のアパートはもう外観が出来上がっていた。
再び、懐かしい記憶が蘇る。あの頃、『北賀楼』の斜め向かいにある2階の自分の部屋から見た、見つめ続けたたくさんの灯里の姿。
毎朝、セーラー服姿で出かける灯里。新体操の練習で、夜遅く帰ってくる灯里。休日は、可愛らしい私服で外出する姿に、もしや彼氏でもできたのではと落ち着かない気分にさせられた。
そして。
思い出したくない記憶もある。新体操の練習で遅くなった灯里を送ってきた、高校の先輩らしき男。その男が送ってもらった礼を言って勝手口に入ろうとした灯里を、呼び止めた。
「何ですか?先輩」
という灯里の声を、柊は明りを消した部屋の細く開けた窓から訊いた。
「うん」
先輩と呼ばれた男は、少し躊躇しているようだった。
そのとき勝手口から、一人の板前が出てきた。成川勝哉だった。
「あ、おかえりなさい。灯里お嬢さん」
「た、ただいま」
成川勝哉は昔やんちゃをしていたと噂のある男で、引き締まった肉体と鋭い眼光を持った、比較的いい男だった。その大人で強そうな男は、高校生をひと睨みして言い放ったのだ。
「私の許婚である灯里お嬢さんを送ってくださったようで。ありがとうございました。でももう、お帰りいただいて結構です」
雷に打たれたように、その先輩は瞬間硬直した様子だったが、すぐにこう言って踵を返した。
「失礼しましたっ」
他に言いようがなかったのだろう。
勝哉の口から初めて訊いた「許婚」という言葉…。既に知っていた事実を改めて聞かされた柊でさえ、暗闇の中で硬直していたのだから。
灯里、キミが心に想うのはあの勝哉なのか?もう、繭里と結婚してしまった。
何があったのかわからないけど、キミはいまもあの勝哉のことが忘れられないのか?だから、あんな悲しそうな眼で僕に言ったのか?
「激しく抱いて傷つけて」
灯里、今夜キミは、別の男にその言葉を言っていないよね?
キミを激しく抱いて傷つけるのは、僕だから。僕以外にいないから。どうか、その役割を僕から奪わないでくれ。そしてキミと同じくらい、僕にも血を流させてくれ。頼むよ、灯里。
✵ ✵ ✵
翌朝、教務課に灯里の姿を見つけて、柊はほっとした。
純粋に、ただただ心配だったから。
でも灯里、今日は帰ってくるよね?今晩は、僕の灯里だよね?
「何、ぼーっとしてんのよ」
柊は、アランと星奈と一緒に今日も学食でランチを食べていた。喧嘩していたはずのアランと星奈は、またいつものふたりに戻っていて、そんなことももうすっかり日常茶飯事だ。
「いや、ちょっと寝不足だから」
そう言った柊に、アランが食いついた。
「寝不足?なんでだよ?それ、あのMissアバ…おっと失礼。幼なじみに関係あんの?」
明らかに面白がっているアレンを見ながら、柊は思った。
別の意味でだけど、当たってる。
「なんで柊の寝不足が、幼なじみと関係あるのよ」
星奈が怪訝な顔でそう訊く。
「あれ、星奈。お前わかんないの?察しが悪いなぁ。やっぱ処女って、男女間のもろもろに疎いんだなぁ」
アランの言葉に、星奈がキッと気色ばんだ。再び雲行きが怪しくなって、本当にこのふたりは懲りないなと柊は思う。
「し、失礼なこと言わないでっ。名誉毀損で訴えるわよ、このえろタイガー!」
「へぇ。名誉毀損て、事実に反することを言われた場合だろ?」
アランの憎らしいほどの態度に、星奈の怒りは沸点に達したようだ。顔を真っ赤にして、アランを睨みつける。
「そ、そんなことわかんないでしょ、アンタに」
あぁあ、星奈。それじゃ、認めたようなもんだ、と柊は思った。
「ばぁか。わかるんだよ、それくらい。なんなら俺が、手伝ってやろうか?処女卒業の」
「卒業もできなかったアンタに、そんなことしてもらったら、院生の名が
「名が廃るって…じゃ、柊ならいいのかよ?」
焦った星奈の滅茶苦茶な論理に、アランが堪え切れずに吹き出し、つい柊までつられて吹いてしまった。
とうとう星奈が、Bランチのトレイを持って立ち上がった。もちろん、今日もきっちり完食済みなのは言うまでもない。
「えろタイガー、無期限で絶交!柊は、今日一日話しかけないでっ」
そう言い捨てると、さっさと下膳コーナーへと歩いて行った。
くくく、とお腹をかかえて笑うアレンに、とばっちりを食らった柊は呆れながら言った。
「お前、なんで星奈にはいつもそうなんだ?」
「え?だって、
涙まで溜めて、笑っている。
「やり過ぎだよ。今回は、マジ怒らせたぞ」
「大丈夫だよ。星奈は、怒っても怒り続けることができない気のいいヤツだ」
「それはそうだけど。星奈だって女子なんだから、デリカシーを持てよ」
「俺は、ちゃんと女子として扱ってるよ。女子じゃなきゃ、処女なんて卒業できないしな」
そういうことではないんだと思いながら、柊はそれ以上、アレンに無駄な忠告をするのを諦めた。
「それより、お前は自分のこと心配しろ」
アレンが突然、真顔になって言う。
「なんだよ、急に」
「Missアバスレ、じゃなかった。Miss幼なじみな、昨日の夜、男と一緒だったぞ」
そのひと言で、柊の血相が変わった。
あぁあ、わかりやすすぎるんだよ、とアレンはいっそう心配になる。
「どこで、誰と?なんでお前が知ってるんだ」
心の中で再び、嘆息しながらアレンは言った。
「俺のバイト先のバーに来たんだ。ダンサーの男と」
「ダンサーって…どんな男だ、何時までバーにいたんだ。灯里は酔ってたか?」
アレンが呆れたような顔で、普段は生真面目で冷静な友人を見たが、柊にはそんな悪友の気持ちなどどうでもよかった。
「Miss幼なじみは、それほど酔ってはいなかったな。むしろ酔ってたのは、友達の女のダンサーの方だったな」
え? 柊は一瞬、訳がわからなくなった。そして、その気持ちを柊の表情から正確に読み取ったアレンは続けた。
「2人で来てたなんて、言ったか?女2人と男1人の3人でいたんだよ」
やられた、と柊は心の底で地団駄を踏んだ。
「最初に、それを言えよ」
悔しさを滲ませながらも安心した様子の親友に、今度はアレンが不安になった。
「あの娘、危険な匂いがする。柊、気をつけろ」
「いいんだ」
「いいんだって、どういう意味だ」
「灯里は、純粋で傷つきやすくて、僕の支えを必要としている」
その言葉に、アレンがめずらしくマジに反論した。
「不純でしたたかで、お前を利用して笑ってるんじゃないのかっ?」
そんなアレンを、憐れむような眼で柊は見た。
「灯里はそんな女じゃない。幼なじみの僕が、彼女を幼い頃から見てきた僕が、一番よく知っている」
「人は、変わるだろう」
アレンは食い下がった。
「変わらない。灯里はどんなことがあっても、あの頃の灯里のままだ。ダイヤモンドが傷つかないように、誰も灯里を傷つけることなんてできないんだ」
頑固にそう言い切る柊に、お手上げだと言わんばかりにアレンは両手を上げた。
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