第2章 彷徨う魂たち

「ビッグニュースって?」

 柊は、アレンの表情を注視しながら慎重に訊ねた。明らかに、何か企んでいるような表情だったからだ。

 警戒心いっぱいの柊を、面白そうに見るとアレンは言った。

「Miss アバズレが、いた」

「…それ、灯里のことか?」

「ああ、灯里っていうのか、あの助けた女は。そう、そのMiss 灯里 アバズレだ」

 名前を教えてもアバズレを繰り返すアレンに腹が立ったが、柊は堪えて訊いた。

「どこにいたって言うんだ?」

「教務課」

「え?」

 なぜ? 何の目的で? 

 柊は一瞬、アレンが誰かと見間違えたのかと思った。しかしそんな柊の気持ちを読むかのように、面白そうに続けた。

「だから。Missア・バ・ズ・レが、ウチの大学の教務課にいるんだよ。職員のネームホルダーぶら下げて」

 柊は食べかけのカレーの器を持って唐突に立ち上がると、それを下膳コーナーへ置き、そのまま急ぐように大学の事務棟へ向かった。

「おいおい、こっちは完食しないのかよ」

 柊を見送ったアレンは、そう呆れながら言って吹き出した。



 ✵ ✵ ✵


 柊は、焦っていた。なぜなのか、わからないままに。

 あの夜、灯里は引っ越したばかりだといった。でも、この大学の事務で働くなんてことは、ひと言も言わなかった。まあ、訊きたいことが多すぎて、大学を卒業してからどんな仕事をしていたかすら訊きもしなかったけど。それに訊きたかったことすら、半分も訊けないままに、ただ夢中で躰を重ねただけだったのだけれど。

 そして、翌朝。ベッドの一番近くに脱ぎ捨てられた柊のシャツを素肌に纏った灯里は、これまで見てきた中で、最も美しく最も淋しげだった。


 

 教務課や学生課など大学の事務は、キャリアサポート室や常勤研究室がある第2校舎3号館にある。廊下に面した側はガラス張りで、職員の姿が見えるようになっている。

 天井から教務課のプレートが下げられた一角を柊は見渡したが、灯里の姿を見つけることはできなかった。ちょうど昼休みということもあり、フロアにいる職員の数は通常より少ない。

 柊は3号館の2階へ向かった。ここには主に教職員が利用することが多い、カフェテリアがある。学食より値段が少し高めでメニューの品数が少ないため、学生の利用度は低いが、その分、教職員が食事や休憩をするのによく利用している。メニューの品を注文せずにお弁当を食べるのも自由な場所らしく、今日もお弁当を広げている女子職員の姿があった。


 中に入らずに入口から、柊は灯里の姿を探した。そして本当に、灯里は職員のネームホルダーを首から下げて、2人の男性職員とともに昼ご飯を食べていた。

 灯里と40代と思われる男性職員はお弁当を、30代と思われる男性職員はミートソースを食べている。

 なんで、男と一緒なんだ。女子同士で食べるだろ、普通。柊は、まずそれが気に入らなかった。

 それから、こんな大事なことを…そうだ、こんなもの凄く大事なことを言わなかった灯里に腹が立った。

 昼休みがもうすぐ終わる。実験研究室に戻らなければ。今夜、灯里のマンションへ行こう、そう柊は心に決めてカフェテリアを後にした。



 ✵ ✵ ✵


 カフェテリアの入口にちらりと見えた柊の姿を、灯里は目の端で捉えていた。

 やっと気づいたんだ、4月の新学期がはじまってから、もう2週間も経つというのに。まるで近くにいる鬼にドキドキしながら、隠れんぼしているような気分で、灯里はこの約2週間を過ごした。

 慌ててカフェまでやってきた様子だったから、きっと誰かに訊いたのだろう。だとしたら、あの夜、柊と一緒にいた青い眼の男の人だ。彼もこの大学の学生だったんだな、と灯里は思った。



 灯里がこの大学の求人を知ったのは、偶然だった。

 大学を卒業して就職した証券会社で、灯里は来店窓口業務を担当していた。新人でまだあまり金融知識が豊富とは言えない灯里をなぜか気に入って、通ってくるご老人がいた。来店すればすぐに上司である課長自らが対応することから、かなりの上客のはずなのだが、手続きの待ち時間の間に必ず灯里を呼んで世間話をする。

 ある日、夏目というそのご老人に、小声で囁かれた。

「北川さん。この仕事あまり興味を持ってないようだけど、ほかになにかやりたい仕事はないの?」

 就職難の時代に、中堅とは言えこの証券会社に就職できたのはラッキーだった。けれども働きはじめてすぐに金融はもとより投資や財テク、いやお金そのものにあまり興味がないことに気づかされた。それを見抜かれていたのが、情けなかった。

「いえ。とくにやりたいことはありませんし、会社にも満足しています」

 ご老人が、すぅと眼を細めた。心の中を読まれたようで、灯里は赤くなった。

「私の知り合いが理事をしている大学があるんだが」

 とさらに声を潜めて、ご老人は言った。

「いま、事務員を募集している。最初は契約雇用だからボーナスは出ないが、2年勤めて勤務態度が良ければ正規雇用にしてあげることができるよ」

 なぜ、そんな提案をされるのかわからなかった。

「え。でも…」

「T大学、考えてみなさい。来週、また来る」

 そう言ってご老人は帰っていった。

 

 T大学。

 それは父から訊いていた、柊が入学した大学だった。

 でも、もしあたしがその大学の事務員になることができたとしても、柊ちゃんはちょうど卒業してしまっている。すれ違い…。

 それでも、と灯里は思った。

 興味が持てない仕事を続けるよりは、彼が4年間を過ごした空間にこの身を置いてみたい。彼がいた時間を思いながら、キャンパスの空気を深呼吸してみたい。

 灰色だった世界が、急に色彩を持ちはじめたのを灯里は感じた。


 翌週、来店したご老人に「お願いします」と灯里は頭を下げた。

「そうか、必ず決まるから安心しておいで」

 そう顔を綻ばすご老人に、灯里は訊ねた。

「なぜ、そんなに良くしてくださるんですか?」

 ご老人は、にっこりとして言った。

「北川さんは唯一、私をおさつだと思わずに、ただの老人だと思って茶飲み話につきあってくれた」

「そんな…お客様に私、そんな失礼な態度を?」

 おや、とご老人は意外そうに灯里を見た。

「嬉しかったと言ってるんだよ。楽しかった。これはそのお礼だ。老人の気まぐれだと思ってくれていい。しかし、これからも肩書きや財力なんかじゃなく、ありのままのその人を見るんだよ。その綺麗な心根を大事にね」

 はい、と灯里は深々と頭を下げた。心の底から感謝をした。



 正式に契約が整って、灯里は引越し先を探した。現在の住まいが職場まで少し遠かったからと、心機一転したかったからだ。 

 転職したことを父に伝えようとした電話で、逆に意外なことを伝えられた。

 柊が、そのまま大学の修士課程に進んだと。

 灯里は、転職の件を父に伝えるのを止めた。どこで働こうが、父にとっては同じこと。

 でも運命が、柊と灯里の意思とは無関係に動き出したのを恐ろしい程に感じた。


 灯里は決心した。

 柊ちゃんに逢おう。そして、最後の想い出をつくろう。柊ちゃんが受け入れてくれるかわからないけど。その想い出さえあれば、あたしはきっと生きていける。

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