ベッドサイドの小さなライトだけの薄暗闇に眼が慣れるより先に、真珠色にぼうっと浮かび上がる灯里の小さな胸の膨らみに柊は息を飲んだ。そっと掌を乗せるとちょうど白桃のような大きさで、滑らかでぷるりとした弾力が押し返してきた。

 だけど灯里の肝心の部分は、硬直気味の躰と同じように、まだ固く閉じたままだった。


 僕では、キミは心を開いてくれないの?


 柊にも多少の経験はあったが、豊富というほどではないし、自信があるわけでもない。だからいっそう、初めて抱く愛おしい躰に頭が真っ白になった。無我夢中で愛撫を続け、ひっそりと動かない灯里をかき抱く。胸から鎖骨へ、首筋から耳朶へ、そして頬へと口づけて、柊は灯里が泣いていることに気がついた。


 なぜ、泣くの? そんなに僕が嫌?

 それとも結ばれなかった誰かを、忘れられない誰かを想って、キミは泣くの?

 キミがいまでも心に想うのは、あの勝哉なのか?

 繭里と結婚してしまった、キミの許婚だった…。


 口づけと愛撫が止まってしまった柊を、灯里はぞっとするほど悲しい目で見つめた。そして、言った。

「止めないで、お願い」


 灯里、幼いころから僕はキミの願いはなんだって叶えようとしてきた。だけど、いまのそれは本心なの?本当にいいの?


 灯里が意を決したような眼差しを向けて、さらに言った。

「お願い、柊ちゃん。激しく抱いて傷つけて」


 それはスイッチだった。柊の何かを壊し、何かに火をつける、とても危険な。だけどそれを押してしまったことに、押されてしまったことに、ふたりは気づかない。

 柊はいっそう激しく、せつなく、己の激情と苦悩を灯里にぶつけた。


 灯里は泣いていた。頬を伝う涙以上に、胸の奥が軋みながら泣いている。たった一度だけしかその行為を知らない躰は、快感の何たるかを当然知る由もない。ただ、ずっと心に秘めてきた愛しい人に抱かれる幸せと苦しみが、交互に寄せては去っていく波のようだ。



 許して、柊ちゃん。

 こんな穢れたあたしを抱かせてしまって。

 ごめんね、柊ちゃん。

 初めてをあげられなくて。

 柊ちゃんだけの、灯里になれなくて。

 あのとき、中学生だった柊ちゃんが言った言葉を

 あたしは忘れない、忘れられなかった。

 「汚らわしい」

 それはきっと、あたしに許婚がいるって知ってしまったからだよね?

 だけど、いまのあたしはそのときよりも

 ずっとずっと汚れている。

 それなのに拒めなかった、あなたの手を、キスを。

 たった一度だけでいい。

 それ以上は望まないから。

 今夜だけ、想い出がほしい。

 神様、それも許されない我儘でしょうか?



 ✵ ✵ ✵


 窓を伝う雨は灯里の涙のようだ、と柊は思う。

 あの夜、訳もわからず、ただ夢中で激情をぶつけるように灯里を抱いてしまった。

 甘い悔恨と、まるで夢現(ゆめうつつ)のように蘇る記憶は、それでも柊を不思議に満たしていた。

 各々がそれぞれの研究に没頭している共同実験研究室は静かで、春の雨が心地よいBGMとなって流れている。


「学食、行こっ?」

 今日も星奈は、元気に柊をランチに誘う。あまり食欲のない柊にお構いなく、「お腹すいた~」と組んだ両手を天井に突き上げ伸びをする。

 彼女の元気は周りを明るくする。柊も笑って、一緒に学食へ向かった。


「ねぇ、夏休みの産学協同プロジェクト、もう申し込んだ?」

 今日はミートボールのAランチをおいしそうに食べながら、星奈が訊く。

 それは夏休みに3週間、某企業の筑波にある研究所に泊まり込みで行う研究実験で、それに申し込むということは、もうすぐスタートする産学共同プロジェクトに参加表明することでもある。

「星奈は企業就職、めざしてるの?」

「うーん、本当のこと言うと大学に残って研究したいけど、いつまでも親の脛(すね)齧ってるわけにもいかないし。柊は、どうするの?」

「僕も、実は迷ってる。修士課程の2年が終わって博士課程に進んでも、結局企業を選ぶなら、早く就職したほうがいいのかな、とかね」

「そうだよねぇ」

 

 柊と星奈が将来の話を真剣にしていると、将来のことなど考えてもいないような呑気な声がした。

「よぉ、俺も混ぜろよ」

 Aランチを乗せたトレイを持ったアレンが眼の前にどっかと座った途端、星奈の表情が俄然厳しくなった。

「ちょっと、えろタイガー!こないだはよくも、ろくでもないこと調べろなんて言ってくれたわねっ」

「ん?なんだっけ」

 アレンが明らかにわかっているのに、しらばっくれている。

「だからっ、あれよ!」

「あれって?」

「もうっ、しらばっくれるのもいい加減にしなさいよ。パイズリのことに決まってるでしょ!」

 せ、星奈、そんな大きな声で。しかもここ、学食だし、と柊は焦った。

 案の定、近くにいた何人かの学生が驚いたような視線を星奈に向けてきて、それに気づいたアレンはいまにも吹き出しそうだ。

「星奈、しーっ」

 慌てて制する柊に、星奈もやっと自分の失態に気づいたようだ。そしてとうとう堪え切れなくなって爆笑しているアレンをきっと睨むと、何を思ったか星奈はいきなりもの凄い勢いで残っているAランチを食べはじめた。

「え、星奈?」

 どうしたんだ、やけ食いか?と思って柊とアレンが見ている中、星奈はAランチを完食すると、お茶をごくりとひと口飲んだ。そしてきれいにたいらげたAランチのプレートを持つとすっくと立ち上がり、無言のまま下膳コーナーへ堂々と歩き去った。

 その姿を呆然と見送っていたアレンが、再び大爆笑している。

「柊、見たか?さすが、星奈だ。Aランチ、見事に完食してから去ってったよ。あはは、最高だな!」

 まったく、アレンは。そう呆れている柊に、アレンが突然ニヤリとすると言った。

「ところで柊、ビッグニュースだ」

「ビッグニュース?」

 真顔で頷くアレンに、柊は嫌な予感がした、なぜだかもの凄く。


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