第4話 足跡がついてくる
「最初にそれに気がついたのは、電車に乗ってからです。出入り口のところにハの字に跡がありました。雨が降っているわけでもないのに、黒々と濡れているんです。最初は自分があの場所で靴を濡らして、それで跡がついたのだと思いました。自分の足の裏を確かめました。靴は濡れているんです。濡れている、と気付いたと同時に、床の上に足跡が、点々と…。」
男の話は現実味がない。おそらくショックでなんらかの思い込みをしているのだろうと思う。調書をとりながらどうしたものかと鉛筆を持つ手がとまった。額に手をやりながら、「事情は分かりましたが、破損は破損ですから。」と言うと、「すみません。」と頭を下げた。悪気はないようだ。それにもともと大したことじゃない。自転車のベルぐらい。これにかかりきっていると、他の呼び出しを断ることができる。夏祭りで喧嘩の通報が無線に入るが無視を決め込んだ。
逃げようとしたこの男が悪い。念のために話に出た雑居ビルに確認をとる。人がいないのか誰も出ないため、応援を頼んだ。男がその場からした一一〇番通報の記録は合致する。嘘は言っていないようだ。
「それで、足跡の話なんだけど、今も見えるわけ?」「はい。」男はちらちらと床に目を走らせた。本当に見えるとなると別の手続きが必要になる。もちろん床に足跡は見えない。男はサラリーマンで三十路の手前といったぐらいだ。この仕事は転職でストレスになっているんだろう。湯のみに麦茶をついで出してやった。頭を下げるが手をつけない。自分の分を飲みながら、そういう自分も初めてみたときはビビったっけ、と思い出した。
男の話では雑居ビルで排水管が天井のすぐ下を通っていたらしい。そこにネクタイをかけて下がっていた。排水管はヒビが入り、床は水浸しになっていた、という話だ。つま先から垂れる水を想像して気分がめいる。
電車を降りて駅を飛び出し、やみくもに走っていたときに自分の自転車にぶつかった。そのまま走り去ろうとするので引っ張ってきた。
「あんたさ、仮に足跡が見えるとして…。」「はい。」「ようは足跡が見えなくなればいいわけだから、それって靴を脱いだら解決するんじゃないの。」「そうでしょうか。」「試しにやってみたら。」調書に判を押して仕上げる。男は真面目に靴を脱いだ。「あっ」と声を上げる。「何、どうしたの。」と言うと、「足跡がとまりました。」と言った。「なんだって。」男は横目でこっちを見た。「足跡が、ぐるぐる机の周りをまわっていたんですけど、止まったんです。そこのところで。」男はこっちが座っている椅子の足元を見ながら言った。気分が悪くなりながら、目線の先を見る。別に何も見えやしない。「あんたさあ、医者を呼んでやるから、ちょっと見てもらったほうがいいよ。何も病気だって言うんじゃなくて、ちょっとまいっているだけだと思うから。」麦茶の湯のみを持って立ち上がった。空だと思った湯のみは中身がまだ残っており、つかんだ勢いでこぼしてしまう。あっ…と、しまった。靴先を濡らした。雑巾もって拭いてこよう。台所に置いてあるそれを持って戻ってくると、自分にも見えた。麦茶をこぼした床の上に、ハの字に並ぶ足跡が。
「どうすんだよこれ。」足跡は男が言うよりはっきり見えて、墨を落としたように黒い。「冗談じゃないぞ。」と言って後ずさると、足跡が一歩増えた。ワアアと悲鳴を上げてしまう。往来を行く人と目があった。まずいぞ…まずいぞ…。男と目を見合わせる。「こりゃあ、医者より坊さんだ。」電話帳を引っ張ってめくり始める。「あの、何を…。」「神主のほうがいいかな。」
近場の寺に電話をかける。電話に出たのは若い男だった。「住職さんですか?」と聞くと、「住職は不在です。代理の者ですが、どういったことでしょうか。」と言った。「信じてもらえないかもしれないですけど。」「そういったお話は多いです。」「あのですね…。」
祭りで車両規制がかかっているため、男は徒歩で交番まで来た。長くかかって不安がつのった。トイレの用足しをしたあとで扉の外にハの字が並んでいるのだ。気が滅入る。男は「こんばんは。」と言って扉を開けた。床を見るなり、「入れません。」と言った。足跡が見えるらしい。「あなたも見えるんですか。」と男が聞く。「びっしりとしていて、足の踏み場もないですね。」と住職の代理は答えた。
「助けてください。」と言うと、「動かないでください。」と言われる。「すみませんが、いただくわけにはいかないので。」と言われる。「あの、僕はもういいでしょうか。」と男が言った。「この人に移ったんなら、僕はもう、かまわないでしょうか。」と言う。「いいわけないだろ!」と怒鳴る。代理は思案して、「ちょっと待っててください。」と言って通りに出て行った。戻ってきた男は日本酒の瓶を抱えている。屋台で買ってきたらしい。「あののぼりをお借りします。」と言って、通りに出してある交通安全の白いのぼりをはずしてとってきた。
住職の代理はのぼりを丁寧にたたみ、左手に持った。右手の指で印を作りぶつぶつと何かを唱え始めた。終わると日本酒をのぼりにじゃばじゃばとかけた。のぼりの端を持ち、入口から座っている机まで広げた。「まず、そちらの方から。靴は脱いだままでお願いします。」促された男はかばんと靴と靴下を持ち、そろそろとのぼりの上に足を乗せた。敷居をまたいで外に出る。「はあ、大丈夫でしょうか。」かばんを胸に抱えて立つ男の足に、代理は日本酒を注いだ。自分のほうを向いて、「裸足になって、渡ってきてください。」と言った。先に渡った男のまねをして渡る。半分いったところで、そうだ、調書を持って出ようと振り向いた。「駄目です!」と代理が言う。調書に手を伸ばすと手の甲にぽちゃんと水が落ちた。見上げると、天井からぶら下がった体が見える。こちらに背中を向ける形でぶら下がっていた。
背中のシャツをつかまれて引っ張られる。外に出た。手に日本酒をかけられる。足の甲にも。茫然としながら交番の中を見る。床の足跡は消えている。天井の明りがこうこうと光っている。「助かったのか?」とつぶやくと、「いいえ。」と代理が答えた。代理は自分の足元に視線を落とした。代理の横にハの字の足跡が並んでいた。
交番の電話が鳴る。代理が「出ても大丈夫ですよ。」と言うので、中に入って電話に出た。雑居ビルからは首吊りの遺体が出た。男が負債の回収に来る前に、思いつめて自殺したらしい。TVCMで名前が知れているとはいえ、所詮町金融だ。男は「仕事を変えます。」と言った。交代が来るまで三人で過ごす。これからの説明を聞く。徒歩で住職の寺までいき、法事を終えて帰ってくる住職を待つ。それから住職に頼んで祈祷してもらう。「自分で何とかなるかと思ったんですけど、すみません。」と代理はあやまった。「寺に着くまでに、落ちるかもしれませんが。」と言う。どういうことかと聞くと、「今日はお祭りで人が多いので、気がそれて他へ移るかもしれないんです。」と言った。「いいのか、それで。」と聞くと、「かかわり合いができたらなんとかしますが、すべてを全うするには難しいことなんです。」と言った。寺を出るころには交通規制は解除されているだろうと思い、ベルが壊れたのをそのままに、自転車を押して歩いて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます