第2話 競馬場
夏は過ぎたはずなのに、太陽はその灼熱を容赦なく俺たちに振りかざす。それでも、朝方はマシになった方だ。昼を過ぎれば三十五度を超えるけど。
仁川駅の改札を出るとすぐに、地下へ続く長い階段がある。馬券を買えない中学生の頃、この階段を下りていくのでさえ心が躍ったものだ。今はただ当たり前の光景になってしまった。
地下を歩き終え階段を上った先で広大なターフ”阪神競馬場”が俺たちを迎え入れる。
時計を見ると、現時刻は九時十分前。少し早かったかと考えながらも入口に向かい昨日の老人を探す。開場九時からなので、入口前には多くの人が並んでいる。
「さすがに、この中から探すのは無理だろ」
まあ、確実に会う約束をしたわけでもないし一方的に言われただけだ。もともと来る予定だった俺からすれば老人がいてもいなくても同じこと。
並んでいる列から少し離れて、通路の壁にもたれかかるり新聞を取り出す。
1レースは2歳未勝利ダート1800メートル戦12頭立て。
本命はおそらく――いや、間違いなく一番人気になりそうなプロローグだ。新馬、未勝利と二戦を走り共に二着。その他の馬は良くても前走掲示板止まりの馬ばかりで、一本被りになりそうだ。
「単勝百五十円ってところかな」
新聞を後ろポケットに突っ込み煙草を取り出したところで、隣に人の立つ気配がした。
「良い予想じゃな。思った通り中々詳しいようじゃの」
昨日とはまた違うがこれまた質の良さそうなグレーのスーツを着ている老人が声を掛けてきた。
「いや、俺なんて所詮にわかだよ。趣味の延長だ」
常に思っていることを口にしたはずが、老人は意味ありげに頷いている。その表情はどこか満足そうだ。
「どれくらい出来るんじゃ」
「年間九十六パー。パチと違って遊ばせてもらってるよ」
「なるほど、やはりお主は出来るようじゃの」
年間収支でマイナスの俺が出来る? それはあり得ない。そう思ったところで一つの可能性に行きつき、老人に質問をする。
「じいさんはどのくらいだ?」
「わしか――それは今日が終われば分かるじゃろ」
意味ありげに口の端を釣り上げている。普通こういうニヒルな笑い方をすると、どこかいやらしくなるものだが、この老人には当てはまらないようだ。
「開場したようじゃな」
その声に反応して入口の方を向く。人々の熱気が次々と競馬場へと吸い込まれていく。
「わしらも行くとするかの」
入口のゲートが見えるぐらいまで人が飲まれたところで、老人が動き始める。その場に残っているほどの熱気を冷ますかのように涼しい表情で入口へと向かう。
なぜだかわからないが俺の本能が訴えている。
――その後ろ姿についていけば今日は何とかなる。
それが、躍動の一日の幕開けだった。
阪神競馬場は、ゲートくぐるとまず正面に受付があり、その裏――正確には裏側の下――にはパドックがある。開場するのは1レースが始まる1時間も前なので、競走馬達はまだ周回していない。
パドックからさらに進むと、彼らと俺たちの戦場である広大なターフが広がっている。壮大に輝く芝を眺め深呼吸する。
熱気もロマンもドラマもすべてはここから生まれる。これを趣味にして間違えたと思ったことは一度たりともない。それこそ年間収支がいくらマイナスになった年でもだ。そんな俺の心を読んだのか、老人は感心したかのよに頷いている。
「お主は本当に競馬が好きなんじゃな。見込んだことはあるわい」
老人の言葉聞いて思い出したことがあった。
「そういえば、じいさん。なんで俺が今日ここに来るってわかったんだ」
「簡単なことじゃ。わしはお主を知っておった。ただそれだけじゃ」
やっぱりか。おそらく――
「会ったのは、ってか見たのはここって事だよな」
「そうじゃの」
「どうして俺なんかを気にしたんだ」
「理由は多い。その内の一番の理由は目の良さじゃ」
なるほど、それなら心当たりがある。
「それじゃあ、爺さんが俺を見たのは今年の春。大阪杯の日だな」
爺さんが口の端をいやらしく釣り上げる。それ以外の意思は表示しないようだ。
「確かにあの日は調子がよかったよ」というよりも、春のG1戦線が始まる頃は俺の得意な季節でもある。
阪神開催がある週末は必ず仁川へとやってくる。基本一人で来るけど、あの日はたまたま友人と来ていた。一人で来るのと二人で来るのには明確な違いがある。
話す相手がいる、ということだ。
「爺さんは俺とあいつがパドックで会話しているのを聞いてたってことだろ」
「あの日はお主らのすぐ後ろで聞いておった。全レースじゃ」
「まったく気付かなかったよ」
「まあ、そうじゃろうな。お主ほどの目を持っていれば、周りなんぞ気にせんじゃろ」
「買いかぶりすぎだよ。言っただろ、あの日はたまたま調子が良かっただけだよ。俺の年間収支マイナスだぜ」
老人は首を横に振る。
「たまたまであの1Rは当てれんだろ。ブービー人気からの馬券なんぞな」
あの日の1レース、新聞片手にパドックを眺める俺の目は一頭の馬から目を離せなくなった。
「4番の馬いいよ。血統的にもこの舞台はプラスだ」
「ありだな。前走2着の2頭に人気が集中しているけど、大型馬で二戦目の4は狙える。それに馬体はよく見える、マイナス20キロは変わり身が見込める」
一緒に来ていた連れは高校の時からの仲で、ガキの頃から競馬を見ていたというおかげで互い馬券を助け合っている。あいつは血統やデータ、俺はパドックという点で。
「あれは俺の予想といよりも二人の予想みたいなモノだからな。やっぱりまぐれだよ」
「それも実力じゃの。事実予想して買っておる。勝てない奴はその馬に気付きすらしない。騒ぐのはレースが終わってから嘆くだけじゃ」
老人は自信ありげに行っているが、俺に言わせれば競馬はやはり運によるところが強いものだと思っている。
「じいさんもわかってるだろうけど、競馬に絶対はないだろ。すべてがまぐれ、完璧に予想してその通りに来たところで、その予想自体がまぐれなんだよ」
「なかなか深い事を言いよるの」
「深くなんてないだろ。競馬好きとして当たり前の事だろ」
老人は無言で頷くだけだなので、俺は肩をすくめて見せた。
ギャンブル Zumi @c-c-c
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