先輩とショタ

@ragy_cranks

ショタ

 夕方の病室。面会時間も終わり際。諸事情あってこれ以上の風景描写は僕には難しい。

 とにかく、お見舞いの品に手をつけようかという頃合いだった。いつものごとく先輩が林檎の皮を剥くと、瞼を覆う夕陽の柔らかさと共に、心地良い沈黙が流れる。

「いやあ、言葉っていうのはすごいね」

 それはすぐに、先輩の自己完結した合いの手か、もしくは突拍子も無い問いで破られることになる。

「急な話なんだけど、ロリコンの語源って知ってる?」

 そして今日はその両方を矢継ぎ早にまくし立てて来た。

「ええ。ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』ですよね」

 僕にとってもその流れは、もはや定番化しつつあった。だから以前ほどは狼狽えずに返せる。

「即答はちょっと気持ち悪いわね。多読も本を選ばないと良いこととは言えないわ」

「まあ今僕が読める本って限られてますからね。以前の勘を取り戻す為につい濫読しちゃいますよ」

 流石に『ロリータ』は、こうなる前に読んだ本だけど。

「……そうね、御免なさい」

 先輩は肩を強張らせた、のだろう。皮剥きの手が止まる。先輩は僕をよくおちょくるが、この手の自虐ネタを挟めばそれ以上深追いしてこない。

 やってしまったな。

 先輩の座るパイプ椅子が軋んだ。それで、彼女が身を縮ませて項垂れるのがわかる。

 このしゅんとした仕草は少し愛らしい。

 けれど、やり過ぎると本当に傷つけてしまうので注意だ。身体的には僕の方が傷だらけでも……いや、だからこういうのが駄目なんだって。

「あんまり気にしないで下さい、言葉の綾なので。それより、なんで急にロリコンなんですか?」

 流石に意図して女の子を落ち込ませ、悦に浸る趣味まではない。

 話題を戻すと先輩は顔を上げる。そうそう、ロリコンの話、と気を取り直してくれたようだ。

「今でこそ“ロリコン”は小児性愛者の方を指す言葉だけど、最初は女の子の目線で使われる言葉だったのよ」

「というと?」

「出典はさっきと同じ『ロリータ』なんだけどね。けれど元々は、ロリータという少女の心理を説明する為に、用意された概念だっていうことよ」

「そうだったんですか?」

 そこまでは知らなかった。例の本は有名どころだからと流し読みしていただけだ。そのせいで、それにまつわる学説の経緯までは追えていない。

 本文も、言葉遊びの残骸のみが窺える和訳版では、ひたすら不自然で難解だった。だから内容そのものもそんなに理解している訳ではない。

「本編のロリータ、つまりドローレス・ヘイズの心理ってことは……」

「思春期女性が年上の男性に心惹かれてしまう理由」

「へ?」

「だから、成長過程にある女の子が、どうして自分よりうんと年の離れた男性に魅力を感じることがあるのか、っていうこと。確かその説明では、不在の父親を求めるが故に、父と年の近い男を求めてしまう……じゃなかったかな」

「『ロリータ』ってそんな話でしたっけ?」

 予想を大きく外れる流れに首を傾げてしまう。

 僕の読んだ印象だと、ヒロインのロー側については、主人公の男を慕う描写はかなり乏しかったような気がする。目立っていたのは、彼からの一方的な想いのみだ。

 実際、ローは主人公のハンバート・ハンバートからの求愛を拒んで、別の若い男と結ばれたのではなかったか。

 最初のロリータ・コンプレックスを唱えた人物は、碌に原作を読んでいないと見える。

「まぁなんていうか、どこかの学者さんが自説の補強の為に、有名な文学作品を持ち出すっていうのはよくあるじゃない」

「オイディプス・コンプレックスみたいに?」

「そうそう。最初の“ロリコン”定義だと、“女版オイディプス・コンプレックス”に近いんだよね」

 ローちゃんが母親を憎むっていう描写はないけど。

 それを言い終えると先輩は長めの息を吐き、一旦話を区切った。


 でも大抵、先輩の話はここからが始まりみたいなところがある。林檎の皮剥きもまだ終わっていない。


「ところで、ショタコンの方も語源知ってたりするかな」

 今の僕にその話をしますかね。

「今の僕にその話をしますか……」

 虚を突かれてつい口に出てしまった。

 俯いて自分の手を軽く握ってみると、やけに骨っぽくか細い。直接見ることは出来ないが、その感触は育ちきっていない少年の指のものになっている。

 少女性愛も少年性愛も一括りにしてしまえばどちらも小児性愛だ。けれど、片方は今の自分が有する属性だけあって、さっきまでのように他人事風に朗々と話すのが躊躇われた。

 でも流れからすると変でもないのか。先輩は本題(見舞い中の雑談に本題も脇道もないだろうけど、敢えて分けるとすれば、だ)に入る前には、それと対立する物事を持ってくることが多い。

「まぁ、そりゃあ一応は知ってますよ。『鉄人28号』の正太郎くんからとって“ショウタロー・コンプレックス”と呼ぶようになったのが始まりで、それが縮まったんでしたっけ?」

「一応知ってるんだ……私は君の守備範囲がちょっと怖いよ」

 でも今の僕の姿なら、年端もいかない子供がそういう対象になってもおかしくはない外見年齢なんだよなぁ、っていやいやいや。

「別に僕の嗜好がそっち寄りってわけではないですよ。単なる知識として知ってるだけで、好み自体は昔言ったことと変わっていません」

「……ん」

 僕にしてみれば、雑談にロリショタの話を持ちかける先輩の方が、よほどとんでもない人に思える。

 この人、学校ではどんな立ち位置なのだろうか? それは事故の前から気になっていたことではあった。ただ、今となっては確認する手段はほぼ無い。

 僕はもう学校を辞めているし。

「それで、今度はどうしてショタコンなんですか?」

「うん。“ショタコン”って言葉の始まりはさっきの通り。1980年代に雑誌で取り上げられたのが最初なんだよね。どういう経緯でこれが出てきたかっていうと、切っ掛けは読者からの質問コーナーだったらしい。“少女を好きな男性はロリコンと呼ばれるが、では少年を好きな女性は何と呼ぶべきか?”ってね」

「その時にはもう日本に“ロリコン”は浸透してたんですね、今の意味で」

「ええ。ちょうど同じ時期、つまり1980年代からの4、5年が、ロリコンブームの黄金期とされているわ」

 現代と比べたら信じられないくらいのゆるゆる規制だったらしいしね、と添える。

 そういえば、『ロリータ』刊行は確か1950年代だった。邦訳版がいつ出たかは知らないが、時期を考えれば自然な流れのように思える。

「で、ロリコンほどじゃないにせよ、その後を追う形で現れたショタコンも、1ジャンルとして確立するまでのブームになる、って感じですか」

「それはその通り。なんだけど、その辺について、もっと突っ込んで考えてもらいたいの」

「どういうことですか?」

「ショタコンブームについて。事の起こりは確認したとおり、ある雑誌の質問コーナーなわけ。質問者の意図としては、ロリコンに対応するような、少年愛の呼び名が欲しい、ということだった。それが“ショタコン”と名付けられるようになって、以降急速に流行していく、というストーリー……ちょっと気になるところがあるよね」

「そうですか? そんなに変だとは感じませんけど」

「順番があべこべじゃない? “ショタコン”の名前が広まる前から、世間には少年愛に対する一定の需要があった。ショタコンは、ロリコンの対立概念として、急に生み出されたわけじゃないでしょ? だったら、最初の質問が起こりえないんだから。でもやっぱり、世に言うショタコンブームが始まったのは、“ショタコン”って言葉が生み出されてからなの」

 そう言われれば少しちぐはぐな印象をうけかねない。けれど、

「ショタコンに限らず、ロリコンも……っていうか、大方の流行はそうじゃないですか?

 そりゃあ、流行が始まる以前に、それを指すなにかが既にあるのは当然ですよ。でもそれが一つの存在として他の多くの人々に了解されるようになるのは、やっぱり“ロリコン”なり“ショタコン”なりといった言葉で纏められるからで――」

 言い終わる前に、先輩が林檎を剥く際、最初に口にした言葉を思い出した。

「そう。だから――」

「言葉っていうのはすごいね、ですか」

 成程。

「正解。林檎剥けたよ」

 気付けばナイフの音が止んでいた。既に皿にも盛りつけ終わっているようで、酸味と甘みが鼻に抜けていく。

 腰の辺りに、ハローキティ3分の1の質量が加わった。

 無造作に手を下ろすと指が爪楊枝に触れる。それは裸になった林檎を、申し訳程度に突き刺していた。

「ありがとう、じゃあ、いただきます」

 昔のように、一本の爪楊枝で数片の林檎を巻き込み、大口を開けて頬張った。

 不意に、まだ僕に僕の体があって、こんな風に林檎を食べていたことを思い出す。

 そんな情報はこのの脳みそには無い筈なのに、本当に不思議な話だ。

「うん、美味しいです。先輩は林檎の皮剥きが上手だ」

「どうも。でも、味の感想なら私のお婆ちゃんによろしくね」

「確かに」

「ふふ……」

 軽快な音を立てながら、口の中の欠片を磨り潰す。滴る汁の一滴一滴を、新しい体に覚え込ませようとした。

 林檎を食べているのは僕だ。

 この体の持ち主では無く、この意識の持ち主である僕。この意識の……?

 あまり考えないようにしよう。僕はこういうのがすぐ顔に出るタイプだから、目の前の先輩を無闇に心配させてもいけない。

 林檎の事を思うと自分の事に思い至ってしまうから、何か別のことを。

 そう考えたが、そうなれば残るのは先輩の事しか無かった。

「先輩は――」

「ん? なにかな?」

「先輩は――――先輩ですか」


 昔の話。

 年下の男が好みだと言うから、当時の僕は迂闊にも舞い上がってしまった。

 結局僕くらいの年齢になると近すぎるから、という理由で振られてしまったが。


 今はどうなんだろう。、こうして僕の意識は続いている。

 体の元の持ち主はとんでもない大病だった。僕と入れ替わる時に「もう自分で生きなくていい」と心中呟いて以来、意識の片隅で眠る彼の代わりに、体を使わせてもらっている。

 僕は昔拒絶された僕のままで、先輩の好むであろう、近すぎない年下の男になっている。

 毎日見舞いに来て雑談し、林檎を食べるくらいの気安い関係ではあるけれど、それ以上に求めるものが先輩にはあるのだろうか。

 それをはっきりさせるのは怖くて、僕は先輩の表情が見えないのをいいことに、「彼女の気持ちは僕には見当もつかない」と言うほかない。

 本当、嫌になるくらい言葉っていうのは凄い。だから、このすれすれの関係など彼らにかかれば一瞬で弾け飛ぶ。そうなれば、僕は本当の意味で死んでしまうだろう。

 その日が来ないことを願いつつ、この西日に包まれた闇の中で、僕はいつまでも林檎を食べたい。


「ええ。私は私よ。あなたが知っている頃の私と、何も変わってないわ」

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