第26話 将軍は笑わない

 小高い丘の上から、男が平野を見下ろしている。


 灰色の髪に顎先を覆う髭、雄雄しい眉をしたその中年の男。

 彼は、眼下に広がる自軍と敵軍の布陣をつぶさに観察していた。


 蟻の這い出る隙間もない完璧な包囲網。

 長槍部隊が敵の騎馬部隊を釘付けにする一方で、自軍の騎馬部隊はこことはまた別の丘に布陣し、強襲を行えるように待機している。


 弓兵たちは風上に布陣していた。

 その奥にはダメ押しのように砲や投擲機が控えている。


 この睨み合いは、かれこれ、一週間続いていた。


 目的は一つ。

 この睨みあう陣の向こうにある都市。

 隣国の副都を巡る攻防のためである。


 その都市に、かの国の第二皇女が運悪く逗留していた。

 攻め手の狙いはこの皇女の身柄の確保である。


 この布陣にあるように、既に、この二つの国の勝敗は決していた。

 あとはどうやって、お互いの流す血を少なくするか。


 つぶさに陣を見下ろす将軍――男の狙いはそれであった。


「そろそろ向こうが音をあげる頃でしょうか?」


 男の隣に立った書記官の女がなんでもない感じに言った。

 ちらり、と、その女の方を見た将軍は、煩わしそうにその顎鬚を摩った。


「だろうな」


「降伏の条件はいかがいたします?」


「第二皇女の身柄の引渡し。それと都市の城壁の破壊。そのほかについては好きにしろと伝えてやれ」


 筆を走らせる女に眼もくれず、男はまた視線を陣へと向ける。

 そんな彼の様子が何かおかしかったのだろう。

 女はくすりと、口元を隠して笑った。


 見咎めるようなことはしない。

 ただ、振り向きもせずに、将軍は溜息を鼻から抜いた。


「何がおかしい」


「いえ、すみません、トーレス将軍」


「年下の娘に笑われる身を考えろ。俺でなければ、お前の首は飛んでいたぞ」


「はい。しかし、鬼よ竜よと隣国に言われる貴方様でも、やはり人の親だったのだと思ってしまうと、どうにもおかしくて」


 トーレスと呼ばれた男は、つまらなさそうにまた鼻を鳴らした。


 彼の一粒種。息子トランはその視線の先、敵軍と相対するその最前線で、指揮官として馬上にあった。

 父の武勇と聡明さを余すところなく受け継いだ彼の青年は、千人の兵からなる大隊を預かる隊長である。


 もちろん、トーレスの行動に女に言われたような意図はない。

 彼は、自分の息子が、面白くないくらいに自分に似ていることを知っていた。

 万に一つも彼が敵軍に遅れを取るとは思ってもいなかった。


 だとして、彼が気になっているのは、彼と相対する騎馬兵――敵軍の将。


「あの鎧、どこかで見た気がする」


 トーレスが呟いた。


 その時だ。

 見覚えのある騎馬兵が、なぜか単身、自軍の方へと駆け出して来た。

 彼が向かったのはトーレスの息子、トランの前。


 馬上で何かを語り合う二人。

 半刻ほどそうしていただろうか。突然に、自軍から溢れんばかりの勝どきの声が辺りに響いた。


「降伏交渉がなったようですね。お手柄ですね、トランさまは」


「あいつは槍働きがしたくてうずうずしておるだろうよ。そういう奴だ」


「随分と、自分の息子さんに辛らつなのですね、将軍は」


 いよいよ堪えきれなくなったのだろう。

 将軍はため息を口から抜いた。


 同時に、その目から――緊迫した険しさがぽろりとこぼれた。


「面白くないのだよ」


「面白い?」


「あいつには、自分というものがないのだ。それが気に入らん。苦労というものを知らないのがいけなかった。こんなことになるなら、川にでも流してゴブリンにでも育てさせるんだった――と今にしてみて思うよ」


 くすくすと、憚ることなく、女官は心底面白そうに笑った。

 口元はちゃんと隠していたが、この口の悪さに反して人のできた将軍が相手でなければ、彼女が笑い続けることはできなかっただろう。

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