第3話 ボーイ・ミーツ・ガール


 ザルツブルクは、標高四二四メートルに位置し、十五万人の人口を擁するオーストリアの都市である。ザルツは塩、ブルクは砦の意で、南のハライン地区から輸送されてきた岩塩をノンベルク尼僧院の前で船に積み、ザルツァッハ川によってヨーロッパ各地に送っていた為にこの名がある。

 また、かのモーツァルトが二十五歳まで住んでいた事で、世界中の音楽愛好家にとっての巡礼地にもなっており、とりわけザルツブルク音楽祭の開催される夏のシーズンはホテルがどこも満員になり、モーツァルトの生家のあるゲトライデ通りはもともとの狭さに比例してさらに狭く感じられるほどの混雑になるという。

 晴天の空の下、ライヒはザルツブルク旧市街の南にあるホーエンザルツブルク城へ向かって、メンヒスベルク丘陵を散歩がてらに徒歩で登っていた。ケーブルカーを使うより歩きのほうが小説構想の発想がよく浮かぶからだ。

 ふいに横合いから声をかけられたのは、その道中であった。

「ねえ、きみ」

 立ち止まり振り向いたライヒの眼に映ったのは、赤いとんがり帽子をかぶった金髪緑眼の少年だった。十代前半というところか、あどけなさを残したやんちゃな顔立ちが印象的だ。

「私に何か?」

「うん、きみ、かわいいね」

「……えっ」

 まったく出し抜けに言われ、ライヒは少し頬を赤らめた。初対面でいきなりそんなことを口にされたのは初めてであり、どう対応したものか思考がまとまらない。

 そんな美少女の様子をまじまじと眺め、少年は面白そうにさわやかな笑顔を見せた。

 からかわれたと感じたライヒは、つんとして再び歩き始める。すると少年はあわてたように追い抜いて彼女の前を通せんぼした。

「ごめん、ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけどな」

「……あなたいくつ?」

「ぼく? ぼくは十二歳だけど」

 なら自分とふたつしか違わない。むしろ歳相応といえるだろう。

「えっと、きみ、名前なんていうのかな」

 いや、歳相応ながら随分となれなれしいではないか。なにより男の子とはいえ男性としてレディーに対する態度がなっていない。

「そういうときはまず自分から名乗るのが作法ってものでしょ」

「ああ、そっか、それもそうだね」

 まるでいま気づいたかのようなとぼけた調子で、軽やかに手を振る少年。

「ぼくはカシュー・パレク。みんなからはカシュパーレクって呼ばれてる」

「道化人形? 変わってるわね」

 カシュパーレクとは、十九世紀にチェコの名もない人々によって生み出された喜劇タイプのパペットの名称である。現在ではカシュパーレクというと、人形個人の名前と、一般的な道化の意味で通っている。

 言われてみれば、とんがり帽子をかぶった眼前の少年はピエロに見えないこともない。

 周りからカシュパーレクと呼ばれているということは、この少年はチェコ人なのだろうか。そういえば少年の喋るドイツ語はところどころチェコ訛りがある。

「ぼくは孤児だから自分の本当の名前を知らないんだ。カシューって名前は、里親になってくれたパレクおじさんが付けてくれたのさ」

「孤児っていうわりには、えらくさばさばと話すじゃない」

「現状に不満があるわけじゃないから。パレクおじさんもぼくのことよくしてくれてるし。それに名前も顔も知らない、会った事もない、あまつさえ自分を捨てた本当の両親に、何か感情を抱けっていうほうが無理だよ。これまでの境遇が悪かったなら、恨み言でもこぼしてるだろうけどね」

「ふうん……そんなものなのかしら」

 とはいえ、ちゃんと両親がいるのにすっかり疎遠になってしまっている自分はどうなのか。

 心の中で溜息をついて、ライヒは軽く頭を振った。

「それで、どうして私に声をかけたの? カスパー」

「あっ、その呼び方は初めてだよ。いいね、カスパーか。うん、そう呼んでくれて結構」

 いいもなにも、カスパーはドイツ読みだ。ドイツ語が公用語であるオーストリア人からすればごく当たり前の呼び方であろう。

「おっと、ぼくが名乗ったんだから、きみも名前を教えてくれないと困るよ。人に名乗りを要求しておいて自分はスルーなんて、淑女の作法じゃないよね?」

 皮肉めいた口調でにやにやと見つめてくるカシュパーレクに、少女は眉をぴくりとさせた。

「私はライヒ。ライヒ・パステルツェよ」

「ライヒ……パステルツェ? もしかして、新人少女作家の!?」

「ちょ、近っ、顔近いってば!」

 眼を丸くして覗き込んできた少年の肩を押さえて突き離すライヒ。

 遠慮知らずな態度に怒りを通り越して呆れるが、作家としての自分を知っていることには興味が湧いた。

「私のこと、知ってるんだ」

「うん。一部の人しか読まないような偏った内容を独自の切込みで鋭く書いているところが気に入ってる。どう考えても人気は出ないし売れないだろうけど気にする必要はないさ。ここにいるぼくのように、きみの作品のよさを理解してる読者は少数でもちゃんといるんだから」

「……それはどうも」

 自分の小説の肝をわかってくれるのは嬉しいが、一言多いため微妙な気分だった。

 確かに彼女が書くものは内容や論点が偏りすぎていて一般受けはせず、一部の読者に支えられて細々とやっている状態だ。添削の副業を合わせてようやく普通に生活できるだけの収入であり、月収としては両親が毎月入金してくる仕送りのほうが多額だったりするのが悩みどころである。

「いやー、でもまさかたまたま声をかけた女の子がライヒ・パステルツェなんて、今日はついてるなあ。しかもこんなかわいいときた。それだけかわいいのにどうして著者近影に顔を載せないのか不思議だね」

「あまり世間一般に顔をさらしたくないだけよ」

 かわいいと連呼されるのが照れくさく、そっぽを向くライヒ。

 それをまじまじと眺めて、少年は言った。

「ところで、下着の色は何色?」

「は――?」

 突拍子もない質問にライヒが思わず振り返るや否や、カシュパーレクは彼女のスカートの裾に手をかけて思いっきりめくりあげた。

 白い太ももと、濃い紫のショーツがあらわになる。

「な、な、な……」

 あまりのことに一瞬茫然と口をぱくぱくさせていたライヒだったが、ばっとスカートを押さえ、羞恥で顔を真っ赤にしてカシュパーレクをにらみつける。しかし少年のほうもほのかに顔を赤らめていた。

「うわあ……上品なシルクだけど、派手な色の下着履いてるね」

「あ、あのねぇ」

 激高寸前といった少女は、何とかひとつ深呼吸すると、それで気を静めたのである。

 少年は意外そうに感心の相を浮かべた。

「へえ、怒らないんだ」

「子供の幼稚ないたずらに腹を立てても仕方ないから」

 そう言ってすたすたと歩き出すライヒ。カシュパーレクはひゅうと口笛を吹くと、またしても彼女を追い越して正面に立ち、何かを差し出した。

 お洒落にラッピングされた正方形の紙包みを訝しげに見やり、ライヒは歩を止めた。

「なによそれ」

「なにってチョコレートだよ。今日は二月十四日でしょ? これがきみに声をかけた理由」

 そういえば今日はバレンタインデーだ。日本の御納戸町では、今頃ヴィエは悪戦苦闘して作ったチョコを恋人に渡していたりするのだろうかと、ふと思った。

「用件はわかったけど、私達、初対面よね」

「もちろん。いやー、実を言うとね、ホーエンザルツブルク城を観光しにチェコから来たんだ。それでせっかくのバレンタインだし、かわいい女の子とお近づきになりたいなと思って、さっきからぼく好みの女の子に声をかけてたんだけど、全然相手にされなくてさ」

「はあ……」

「でもきみなら受け取ってくれるよね。ボーイフレンドなんか一人もいないって感じだし」

「な、なんでそう思うのかしら」

「だって態度からして同年代の男付き合いなさそうじゃない。なんていうかな、きみ、へんに大人ぶらないほうがもっとかわいいと思うよ?」

 思ったことをずけずけと口に出す少年に、ライヒはみるみる眼を据わらせた。

「このクラーヴァ!」

 チェコ語で牡牛、バカを意味する言葉で怒鳴りつけ、紙包みをひったくると、乱暴に包装を開けて中のチョコレートをものすごい勢いでむしゃむしゃやりだす。

 あっという間に食べ終わると、空になった包装紙をぐしゃぐしゃと丸め、呆気に取られているカシュパーレクにぽんと手渡した。

「ごちそうさま。そしてさようなら」

 きびすを返し、眉をつりあげながらメンヒスベルク丘陵を下っていくライヒ。

 今度はさすがに後を追うようなことはせず、少年は苦笑して後頭部に手を当てた。

「うーん……怒らせちゃったかな」


 自宅に到着する頃には、ライヒの怒りはすっかり沸騰していた。

 なぜ見ず知らずの少年に好き放題言われなくてはならないのか。あんな口の悪いずうずうしい態度をとっていたら、それはいくら女の子に声をかけても相手にされないだろう。

 このまま怒りを抑えるよりは、シュヴェイクに日頃の鬱憤をぶつけようと思った。ちょうどいい機会だ、それくらいしたって普段のことを考えるとお釣りが来る。

 そう決めて居間へ行くと、シュヴェイクはグラスに飲み物を注いでいるところだった。

「シュヴェイク!」

 さっそく激高をぶつけようとするライヒであったが、シュヴェイクはいつものとおり、その特有の暖かい、やさしい眼差しでライヒを見つめてきた。そのとき彼の顔は明るさと安らかさに満ちており、いかにも好人物らしく、殉教者よろしくの表情で、シュヴェイクの青い眼はやさしく訴えるような調子でこう呼びかけるのであった。さあ何か言ってください、ねえ何か言うんですよ!

 すると不思議なことに、いまにも爆発しそうだった怒りが急速にひいていくのを感じ、ライヒは初めの思惑とは違って、ただシュヴェイクの顔を見つめ返すに終わった。

「それにしても、ほんとうになんともいえないトンマな顔つきをしているわね」

 それだけを言うにとどまり、ライヒの視線は液体がなみなみと注がれたグラスへ移った。

 さっきまで気が立っていたせいか喉がからからだ。

「シュヴェイク、それ飲ませてもらうわよ」

 言うが早いかライヒは返事も聞かずにグラスを手に取ると、一気に口へ傾けた。含んだとき違和感に気づいたが、構わずぐいと飲み干した。

 途端、なんだかぱあっと熱くなった気がして、頭にもやがかかったようになる。

「あふぅ、なにこのジュース、おいしいー。こんなのうちにあったかしらぁ?」

「申しあげます、司祭殿、それはベヘロフカというチェコの薬草酒なのであります。アルコール濃度は約四十パーセント、多種の薬草が使われている強いハーブリキュールなのであります」

「そうなんだあ~、でも美味しいー、もっとちょうだーい♪」

 それに対しシュヴェイクは、「司祭殿ではすぐに泥酔してしまうのであります」と言うつもりだったのだが、結局考え直してやめたのであった。もう赤ら顔になっている司祭にこんなことを言ってみたところではじまらない。もっと欲しいと言っているんだから、飲ませてやれば文句は言わないさ!

 そんなわけでものの数分後には、ライヒはぐでんぐでんに酔っ払ってわけのわからないことをのたまう始末だった。

 するうち千鳥足をよろけさせたライヒは、ふらふらとソファに近寄り、ごろりと横になった。夢見心地でまだ何か喋りつづけていたが、その声はだんだん遠く、低くなってゆき、最後にはすやすやという寝息に取って代わったのである。

 こうして人生初めての度数の高い酒を体験したライヒは、そのままいい気持ちで寝入った。

 気のいいシュヴェイクは自分の外套をぬいで、風邪をひかないよう彼女の体にかけてやった。


 翌朝、居間のソファで眼を覚ました少女はきょとんと部屋を見回した。

「あれ……なんで私、こんなところで……あっ、痛っ、いだだだ! えっ、なに、なにこれ?」

 これまで経験したことのない頭痛に襲われ、涙目で困惑しているところへ、シュヴェイクが天下泰平こともなしといった顔つきで部屋に入ってきた。

「申しあげます、司祭殿、それはまちがいなく二日酔いなのであります」

「ふつかよい……? なんで、どうして私が」

「司祭殿は昨日ベヘロフカをたくさん飲んで酔っ払ったのであります。それはもう、こう酔っ払っちゃ、神様もへったくれもありゃしない、こうなりゃどうしようもないというぐらいの有様だったのであります。そして司祭殿はそのままごろりとソファに眠り込んだのであります」

「え、ええぇぇ~」

 帰ってきたとき、グラスの飲み物を口につけたところまでは思い出したが、それから先はまったく覚えていない。シュヴェイクの言葉を聞いていくうち、自分がシュヴェイクの前でみっともない醜態をさらしたということの恥ずかしさと、ずきずきとした頭の痛みに、ライヒはもう泣きたくなった。

「うう……みんなあいつのせいなんだから」

 両手で頭を抱えながら、メンヒスベルク丘陵で出会ったとんがり帽子の少年を思い浮かべる。

 結局ライヒは、頭痛薬代わりに濃い目のコーヒーを飲んで、昼まで寝直す羽目になったのであった。

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