第2話 飢えたる時の狩人


 原稿の校閲を終えてザルツブルクの自宅に帰ってきたライヒは、居間のソファに横になってくつろぎモードに入った。

 それからシュヴェイクのことをふと考える。この家に住まわせることにしたわけだが、英霊とはいえ異性と一つ屋根の下という状況には違いない。自分はまだ十歳の子供に過ぎないにせよ、世の中にはロリコンという輩も多いと聞く。

 そこで、ちょうど居間に入ってきたシュヴェイクにひとつ問いただしてみることにした。

「シュヴェイク、私のことをどう思ってるか答えなさい」

「申しあげます、司祭殿、司祭殿のことは厄介な女の子だと思っているのであります。ある異世界へ飛ばされたサイトという少年は、そこで貴族の魔法使いルイズという女の子の使い魔にされ、犬扱いされたのであります。とかく女というものは後が怖いのであります。わたくしは女の本性をよく知っているのであります」

 ストレートに生々しい返事をされ、ライヒは一瞬眼を丸くした。基本的にどんなことでもおおまじめに語る彼である、少なくとも貞操の危険性はなさそうだと改めて確信を取れた。

 そんなシュヴェイクであるが女性経験が無いなどということはない。小説ではルカーシ中尉の愛人にベッドに誘われて一夜を共にしたこともあるのだから。

「わかった。あなたがこれからも私の命令に忠実であることを理解したわ」

「司祭殿、犬で思い出しましたがわたくしは犬を取り扱う商売をやっていたのであります。見たところこの家にはペットの一匹もおりません。もし司祭殿がご入用であれば、どんな犬でも用意するのであります」

「いらないわ、そんなもの。余計な気を回さなくて結構」

 あっさりと言い捨てるライヒ。彼女は動物が苦手であり、いわゆるペット嫌いの範疇に入る。ゆえにペットを飼っている人間の気持ちを理解する気はなく、過剰に可愛がる様などはとても冷ややかに見るのだった。

 もしシュヴェイクが動物好きであったなら送還してしまっていたであろうが、ライヒは、彼の、生き物を扱う商売についてよく心得ていたのでそうはならなかった。

 シュヴェイクが一番好きな生き物は犬なのだが、その理由というのが、犬を売るコツを会得している者にとってはとてもいい金になるから、といったものだ。しかも野良犬や雑種を純血種と偽装して売りさばくことなどお手の物ときている。それは当時の戦時下においてさほど珍しくもない行為なので、彼の生きた国家と時代、状況下を考えると、そう非難できることではない。

 またシュヴェイクが動物をしつけるときの態度は冷徹そのものであり、その行為などはペット愛好家が見たら怒りのあまり卒倒するのではないかと思えるほどだという。しかし躾を終える頃には主人とペットとしての友愛関係に落ち着いており、いわば飴と鞭の使い方を弁えていて、その辺をライヒは悪くないと思っていたりするのだ。

 そのとき玄関のチャイムが鳴り、シュヴェイクが応対に出て行った。

 程なくして居間のドアからひょっこり顔を出すと、

「申しあげます、司祭殿、本部からの使いの者が来て、司祭殿にすぐヘルマイヤー司祭殿のところへくるように、と言っているのであります。伝令が来たのであります」

 と報告し、それから内緒事のように次の言葉をつけ加えるのであった。

「あの猿畜生のことではないか、と思うのであります」

 ライヒはたちまち胸がむかつく思いに満たされ、シュヴェイクをにらみつけながら部屋を後にした。


『星の智慧派』司祭の一人、ヘルマイヤー・ストラトス。

 禿げあがった頭に、白いふさふさの鼻ひげと顎ひげ、そしてひと目で性根が腐りきっているとわかる顔つきをしたこの老人は、現在の『星の智慧派』メンバー最古参の一人であり、卓越した魔導科学の実力を持った男である。

 彼は本部に住み込んでおり、今日その自室を訪れたライヒの前には、眉間のしわを深くゆがめたヘルマイヤーが難しい顔で長椅子に腰を下ろしていた。

「ライヒ嬢、君は隆志君の実行した件に絡んでいたフヴィエズダ・ウビジュラに強い関心を持ったそうだの。星の智慧の大いなる計画を邪魔した者に眼を移すのは結構なことじゃ。うむ、とても結構じゃ。そんな君ならわかるじゃろうが、従卒の過ちで大事な使い魔を殺害してしまうのは結構なことではないのう。いくら君が年端もいかぬ子供とはいえ、自分の部下の行動ひとつ戒められんなどは、ここでは通用せんのじゃよ。君の従卒に誤って殺されたわしの使い魔は、本部の皆が知ってのとおり高性能での、新たに作るだけでたくさんの触媒を消費するのじゃ」

 ねちねちとした小言を聞きながら、「この因業じじい、早くお迎えが来ないかしら」と、ライヒは無表情に考えていた。

 ヘルマイヤーはしきりに長い顎ひげをさすりつつ、しわがれた口もとをにんまりとさせた。

「だがまあ、君も君なりに反省はしているようじゃし、わしも物分りの良い老人だから、やたら無闇に言及するような真似はせんでおく。話は変わるが、このまえ長距離転移装置を完成させての、行った事がある場所になら地球上のどこへでも一瞬で転移できるのだが、長期間使用のデータを取りたいのじゃ。そこで君がフヴィエズダ某に挨拶してきたことを聞き及んでの、君のためにその転移装置を提供しようと思いついたのだ。わざわざ航空便で日本まで行くのは面倒じゃろう? 君はフヴィエズダ某のためにこれから何度もオーストリアと日本を行ったり来たりすることになるだろうから、御納戸町に仮の住居でも借りて、ザルツブルクの自宅とを行き来できるようにすればよい。なに、礼には及ばんよ」

 こうして話は終わり、部屋を出たライヒはやっと解放されたとばかりに息を吐き、続いて溜息も吐いたのである。


 その夜ライヒは自宅に戻ると、濃いブラックのコーヒーを一杯飲んで思案を始めた。

 今後ヴィエと関わり、また一戦を交えることになるのは確かだ。初戦は向こうに敗北を喫させたが、十八番たるこちらの手の内も見せた。だからといって「ダイラス・リーンの災厄」を破られることはないだろうが、対処される可能性は高いと思われる。

 ヴィエにはナイトゴーントが使い魔として存在している以上、次はそれを使役してくるに違いない。こちらも類するものを用意しておく必要性があり、その役割は英霊に担ってもらうつもりだったが、召喚されたのがあのシュヴェイクであったため当てが外れたのだ。

 ライヒは先刻シュヴェイクが言っていた事を思い出し、駄目もとで訊いてみた。

「ねえシュヴェイク、あなたさっきどんな犬でも用意できるって口にしていたけど、人外の戦闘が可能な犬なんて無理よね?」

 さして期待せずに言ったのだが、シュヴェイクは少し考えるような仕草をし、返事した。

「一つ心当たりがあるのであります、司祭殿。実際に見たことはありませんがとても素晴らしい犬なのであります。ところがそれを手なずけるのは難しいのであります。しかし司祭殿であれば大丈夫と思うのであります。明日お時間をいただければ、その犬を多分連れて来れる、と思うのであります」

「そうなの? 言っておくけど、よその使い魔を盗んでくるのは絶対に駄目よ」

 小説にてルカーシ中尉から犬が欲しいと頼まれたシュヴェイクは、なんと大佐の犬を知り合いに盗んできてもらい提供したのだ。

「問題ないのであります。間違いなく飼い犬とは無縁の生き物なのであります」

「嘘じゃないでしょうね」

「申しあげます、司祭殿、人間も嘘をつくようになったら、おしまいであります。二枚舌を使うほど恐ろしいことはないのであります。青いネコ型ロボットの住む町ではスネ夫という少年がいるのでありますが……」

 ライヒは時計を見て、シュヴェイクの講釈をさえぎった。

「もう就寝の時間だわ。わかった、その犬を連れて来るのに、あなたは明日まる一日当ててもよろしい」

 そう言い置いて、ライヒは寝室へと向かった。シュヴェイクは居間でソファの上に寝そべって、しばらくのあいだ新聞を読んでいた。


 あくる日、シュヴェイクは『星の智慧派』本部のビヤホールで、一人の信者と話し合っていた。やぼったい風貌の二十代後半の男である。シュヴェイクはこの何週間ほどかのうちに、既に何人もの信者たちと打ち解けていたのだ。彼の、これ以上の好人物はいないというような顔つきの効果であった。

 壁際の薄暗いところに腰を下ろして、ふたりがひそひそと話している様子は、何か怪しい陰謀じみた会話にしか見えないが、そもそも邪教団体である『星の智慧派』の本部にあっては珍しくもない光景といえた。

「その薬は本当に遼丹(リャオタン)かね? うちの司祭が欲しがっている犬は、それを使うことで出遭えるほどの存在じゃないと満足しないと思うんだ」

「正真正銘、数世紀前に中国の丹道で使われていたやつさ。お前がシュヴェイクでこのおれがロンメルというように、間違いのない本物だよ。これに数学の知識をくわえれば、時間を遡ることができるはずだ」

 そう言って何粒かの丸薬を見せるロンメル。それを受け取ったシュヴェイクは、おだやかなほほえみと、暖かく、やさしく、人のよさそうな目で彼を見つめた。

「では信じよう、お前とぼくの仲だからね」

「いいってことよ。それよりシュヴェイク、ライヒ司祭のプライベートな写真を本当にくれるんだろうな?」

「そいつはなんとかするよ。この件が成功すりゃ写真の一枚や二枚、文句なしに撮らせてくれるさ」

「頼むぜ、おれはライヒ司祭のファンなんだ。お前の成功を祈ってるよ」

 そんな会話を交わしながら、ふたりはジョッキをかち合わせて乾杯したのだった。


 シュヴェイクがザルツブルクの屋敷に帰ってきたのは夕刻過ぎであった。

 小箱と用紙を手にして戻ってきた従卒を見て、ライヒは少し落胆の顔を見せた。

「あなたが探しに行った犬はどうなったの?」

「申しあげます、司祭殿、準備が整ったので今から連れて来るのであります」

 そう敬礼して居間のソファーに腰を下ろすと、シュヴェイクは手のひらにのせた小さな四角い箱をあけた。中には小粒の丸薬が五つある。ライヒが訝しげに眺めていると、シュヴェイクは膝の上に数学の図表らしきものを広げた。そしてそれを凝視して精神集中を始めると、暫くして丸薬を一粒飲んだのである。

 シュヴェイクは眼を閉じ、ソファーに背をあずけた。たちまち顔面が蒼白になったかと思うと、激しい呼吸を開始した。薬が異常な速さで効果を発揮しているのだ。

 ここまできて、ライヒはようやく何が行われようとしているかを悟った。

「その薬は……遼丹? あなたまさか――!」

「そのまさかなのであります、司祭殿。もう何を言っても、わたくしを止めることはできないのであります。暗くなりはじめ、部屋の中の見慣れた物体が薄れていく。まぶたを通してぼんやり識別できるが、みるみるうちに消えていき、ぼくは部屋を離れていく。ぼくは大きな跳躍をしようとしている――空間を、時間をよぎる跳躍だ」

 そのまま暫く、シュヴェイクは頭をたれて黙っていたが、やがて体を硬直させると、まばたきをしてから大きく眼を見開いた。

「見える、見えるぞ」

 シュヴェイクは前に乗り出し、正面の壁を見つめていたが、しかしライヒには、シュヴェイクがもう部屋の中の物体を見てはいないことがわかった。

「シュヴェイク、なんて危険なまねを……」

 予想外のことにどうしていいものか、ライヒはただ困惑の眼差しを揺らめかせ、さすがに彼の身を危ぶまずにはいられなかった。

 中国の哲学者であり道教の祖であった老子は、遼丹を服用し、薬効のもとにタオを幻視したという。この薬の特性は驚くべきもので、超自然的な知覚力を働かせて服用者の精神を過去にトリップさせるのだ。いわば過去を幻視する時間旅行と言ってもよく、薬を飲む前に凝視していた数学の図表は、現代科学が提供できる数学的な助けを借りることにより、意識が時間という次元を事実上理解するように仕向けて薬の作用を補うためのものだった。

 いまシュヴェイクの意識は、時間を遡り、地球上では対応するものが無い奇妙な角度をよぎり、様々な過去の世界を眺めているに違いない。

「ぼくは不思議な湾曲や角度をよぎり、時間を遡りつづけている。湾曲や角度はぼくのまわりで増加し、湾曲を通して時間の区分を知覚している。大地から人間は姿を消し、巨大な爬虫類や水棲生物も姿を消し、いまでは単細胞になってしまっている」

「わかった、わかったから、もうやめて。それ以上はあぶないから!」

 切羽詰まったような大声をあげるライヒだったが、シュヴェイクは額に冷汗を浮かべながら立ちあがり、肩を発作的にひきつらせるのだった。

「司祭殿、もう遅いのであります。この世のものではない角度を通り抜けた向こうに、見えたのであります。言葉ではあらわせない、異常きわまりない角度をよぎってゆっくり動いている、肉体をそなえていない、――あの猟犬を」

 ライヒが部屋の中のにおいに気がついたのはそのときだった。嗅覚を酷く刺激する名状しがたい悪臭が発生し、その耐えがたいにおいに、ライヒは素早く空気清浄の魔術を発動させた。この段階まできたらもはやシュヴェイクを止めても無意味だ。

「やつらがぼくを嗅ぎつけた。ぼくのほうにゆっくりと向きを変えた。よし、いいぞ、うち一匹をうまくひきつけるのに成功した。よし、まだ、まだだ。ようし、ようし、こっちだ……もう少し、もう少し……よし!」

 シュヴェイクが喉にかかるような発作的な声を発したかと思うと、やがて身を震わせて何度か眼をしばたたいた。どうやら現実に戻ってきたらしい。

 安堵の表情を浮かべたライヒが、やや心配そうに声をかける。

「だ……だいじょうぶ?」

「申しあげます、司祭殿、うまくいったのであります。百万の三乗倍の時間を逃げる際、やつらのうちの一匹を誘導してぎりぎりまでひきつけたのであります。すぐにやってくるのであります」

「すぐにって……はっ!?」

 壁の隅から煙が吹き込んでくる。この世のものにあらぬ息づかいが聴こえる。

 ふたたび室内に悪臭が充満し、そして、部屋の角から何かが勢いよく飛び出してきた。

 それははたして犬と呼べる生物なのだろうか。

 特異な青味がかった膿汁のような原形質で肉体を構成した悪夢めいた姿の怪物が、カーペットの上で四つんばいになって立ち、鋭い牙をそなえた大きな口を開き、太く曲がりくねって鋭く伸びた注射針のような舌を出していた。

「これが――ティンダロスの猟犬」

 眼前に現れた不浄の怪物を見つめ、ライヒは茫然と立ちすくんだ。頭の中は軽いパニックに陥っており、このままでは「あれこれ考えているうちに獣は私の体を食いちぎった」という状態になりかねなかった。

 ところが、今にも襲いかからんとしていた怪物は、ライヒの顔、正確にはその右眼のほうを見やり、急におとなしくなって伏せの姿勢をとったのである。

「やったのであります。司祭殿の右眼に反応しているようなのであります」

「うそ……」

 ライヒは呆気にとられたまま、ぽかんと眼をぱちくりさせた。信じられなかった。

 自分の右眼がいったい何であるのかを、彼女は知らない。それを「ダイラス・リーンの災厄」と呼称したのは『星の智慧派』の指導者であるナイ神父だ。

 そんなことを考えていても仕方がない。ライヒがおそるおそる手を差し出すと、怪物は犬のようにじゃれついてきた。傍から見れば奇怪なクリーチャーとたわむれる美少女といった光景であるが、ライヒにとってはおよそ動物らしくない姿形をしているのが気に入った。

「よろしい、シュヴェイク、欲しいものがあれば言いなさい。私に用意できるものなら褒美として与えてあげるわ」

「申しあげます、司祭殿。それでは司祭殿のプライベートな写真を何枚か撮らせてほしいのであります」

 そんなのでよければ好きなだけ撮りなさいと、上機嫌で承諾して、ライヒは猟犬の頭を撫でながら不敵な笑みを浮かべた。

「まさかティンダロスの猟犬を使い魔にできるなんて思わなかったけど……これなら」


〈夢の国〉の壮麗きわだかな都にて、大小ふたつの人影が真昼の陽光さしわたる段庭を散歩していた。三十代から五十代にも見える風貌の淡白な顔つきをした白人の男と、黒のシックな洋服に身を包んだ栗色ショートヘアーの美少女。

 ランドルフ・カーターとフヴィエズダ・ウビジュラ。

「さて、別段ダイラス・リーンに何かが起こっている風な噂は聞かないね」

「そっかあ……わたしも一応確かめてきたんだけど、これといって変わったことはなかったよ」

 小さく首をひねるヴィエは、一人の少女について考えていた。先日初めて会い、一戦交えることになったライヒ・パステルツェのことである。

 つてを使っていろいろ調べてみたところ、ライヒの右眼から放たれたあの怪光は「ダイラス・リーンの災厄」と呼ばれ、恐れられていることがわかった。対処は可能だが破ることができた人間は一人もいないという。

 確かにあれを受けた者がその威力に畏怖をいだくのは当然だろう。ヴィエとて『銀の鍵』の力でからくも逃れることができたのだから。

 そこでヴィエは〈夢の国〉の港湾都市ダイラス・リーンを訪れ調査したのだが、これといった収穫もなく、カーターなら何か知っているのではとイレク=ヴァドに赴いたというわけだ。

「残念ながら私にもわからないな。もし何か情報が入れば知らせよう」

「うん、お願い。ありがとうカーター」

「それにしてもダイラス・リーンか……仮にあの町がかのサルナスを見舞ったような災厄にさらされることになったとしても、それは仕方のないことだろうね」

 カーターはかつて未知なるカダスを求めて〈夢の国〉を冒険したとき、ダイラス・リーンで、黒いガレー船に乗ってやってきた不気味な商人にかどわかされ、ムーン・ビーストたちの拠点である月の居住区まで拉致されたことがある。

 ウルタールの猫たちによって救出されたカーターはダイラス・リーンに戻ると、黒いガレー船の商人の所業や危険性を伝えまわったのだが、住人はおおむねその話を信用したものの、宝石商人たちは黒いガレー船の商人が持ってくる紅玉をたいそう気に入っていたため、カーターの警告に従うことはなかった。

 ゆえに彼は都を去るとき、こう言い残したという。

『よしダイラス・リーンに住める人ら、風評悪き商人と取引せるゆえに、災厄に見舞わるるとも、そはわが咎ならず』


 現実世界へ戻ってきたヴィエが自室を出ると、部屋の前にサングラスをかけた二十代半ばの男が立っていた。サイモン・コウというドイツ人で、ヴィエの最愛の恋人である。

「どうしたのサイモンくん。夜這いのつもりならまだ半日も早いよ?」

「うひゃあ、少し頬を赤く染めて恥じらいの表情を作ってのその言葉! さすがヴィエちゃん、なんてツボを心得ているんだい! ロマンティックきめてやるぅー!」

 すっかり興奮してその場で跳ねあがるサイモン。この男、日本の二次元萌え媒体にどっぷり浸かっており、自分を見失うことが多々あるのだ。

 ヴィエはそんな彼にぎゅっと抱きつきながら、上目遣いをしてみせた。

「それで、どうしたの?」

「あ、ああ、いけないいけない、俺ってばついうっかり。ヴィエちゃんに手紙がきてたよ」

「ふうん、誰だろ」

 受け取った手紙を裏返し、差出人の名を見たヴィエが、ダークブルーの双眸をすっと細める。

 その場で封を開いて文面に眼を通すと、次のことが書かれてあった。



   ホーエン館より

   二月×日


 フヴィエズダ・ウビジュラ殿


 親愛なるヴィエ

  貴女におかれましてはしばらくぶりです。このたびわたくしはここ御納戸町にホーエン館な る屋敷を建てました。この町における当方の住処として活用するつもりですので、機会があれ ばゆるやかなお茶会などご一緒できることを願っています。

  僭越ながら前回の続きとしてもう一度お手合わせを希望しますので、この手紙が届いておら れるであろう×日の夕刻、御納戸公園の広場にてお待ちしております。もし来られなかった場 合はこちらからお伺いしますので、くれぐれも無視だけはなさらないようお願いします。

  あなたとまたお会いできることを楽しみにしています。

   心よりの敬意とともに

   ライヒ・パステルツェ



 夕暮れがせまる御納戸公園の広場で、オーストリア人とチェコ人の美少女が数メートルの距離を挟んで対面していた。前者の魔術により広場全体が閉鎖空間内にあるため、周囲に常人の姿は見えない。

「ナイトゴーント!」

 ヴィエの呼び声に応じて夜鬼が姿を現し、中空で音もなく翼をはばたかせた。

「さっそくですね」

 落ち着き払った態度で漆黒の魔物を見つめるライヒ。予定内、想定内といった状況における彼女の冷静さは、不動どころか一層の鋭敏さを増す。

 ナイトゴーントが牽制するようにライヒを攻撃し、対するライヒも多彩な魔術で応戦して寄せつけようとはしない。

 ヴィエはその攻防を暫く静観していたが、予想どおり、魔術の行使中は「ダイラス・リーンの災厄」を発することができないことを確信できた。それにおそらく人間にしか効果がないのだろう。えてして強力すぎる能力というものはそれなりの欠点もあるものだ。

 そこまでわかった時点で、ヴィエは魔術でナイトゴーントに加勢した。

 絶え間なく夜鬼が攻撃を繰り返してくるため右眼の力を使うことができず、応戦の魔術もヴィエの魔術に干渉され、ライヒはたちまち不利な状況に陥った。

 しかし余裕の笑みは崩れない。そろそろ頃合であった。

「ティンダロス!」

 ライヒが一声あげるやいなや、電灯の隅から青黒い煙が溢れだす。同時にものすごい悪臭が漂いはじめ、耐えがたいにおいにヴィエは顔をしかめた。まさかと思った次の瞬間、電灯の角張った箇所から出現した何かがナイトゴーントに飛びかかったではないか。

 すれすれで避けた夜鬼は空中で旋回して一旦距離をとり、その間に襲撃者はライヒの近くに降り立って不快なうなり声を発した。

 青い膿汁のような嫌らしい液体をだらだら垂らした、痩せこけた体躯の四つ足の怪物。

「どう? 驚いたかしら」

「……うん、驚いた」

 素直に正直な感想を漏らすヴィエ。

 眼前に現れた怪物はティンダロスの猟犬と呼ばれる不死の生物で、地球上の生命体がまだ単細胞生物だった頃の遥かな太古の、異常な角度を持つ時間の角に棲んでいる恐るべき存在である。

 人間は、時間の角ではなく曲線に沿って生きているため、通常はこの怪物に遭遇する危険はゼロであるが、何らかの手段で時間を遡ったりするようなことをすると、この猟犬の尋常ならざる嗅覚にひっかかってしまうことがある。

 一度でも獲物を知覚した猟犬は、その獲物を捉えて餌食にするまで、時間や次元を超えてどこまでも追い続ける。彼らは絶えず飢えており、飽くことを知らず、清浄から逸脱した存在であるがゆえに、人間などの生物にはある清浄な何かに対して飢えているのだという。また非常に執念深く、妥協は好きでないうえに心変わりもなかなかしないため、一度狙った獲物を諦めることは滅多にない。

 彼らは現実の肉体を備えておらず、物質世界に出現する際は、一切の酸素を欠いた青い膿汁のような原形質で肉体を構成する。しかし、彼らには角度を通してしか実体化できないという制約があるため、必ずどこかの角から姿を現すのだ。ゆえにもし猟犬に狙われた場合は、四隅のすべてをセメントやパテなどで埋めて角度をなくした空間に閉じこもり、猟犬が別の獲物を見つけるまで何とか出し抜くことができれば助かるかもしれない。

 そんなティンダロスの猟犬を人間が使い魔にして使役するなど、およそ考えられないことで、ヴィエはただ率直に驚くばかりであった。

「それもあなたの右眼の力なの?」

「どうかしら。そんなことを話すと思う?」

「ううん。どちらにしても、あなたがティンダロスの猟犬を従えているのは事実ね」

「そういうこと。それじゃあ戦闘再開といきましょう」

 猟犬が宙を駆けて夜鬼に交戦をしかけた。あろうことかこの怪物は何もない空間を足場として立ち、跳躍しているのだった。

 空中で激しく交錯する黒と青の体躯。ティンダロスの猟犬は物理攻撃を全く受けつけない。だが魔力を付与された攻撃や呪文でならダメージを与えることができる。

 魔的な漆黒の爪が不浄の肉体を切りつけ傷を負わせるが、数秒ごとにみるみる再生されてしまい、逆に猟犬が繰り出す前足の攻撃を受けさばく夜鬼の身体に、青黒い膿のごとき粘液がかかった。この粘液は生きていて活性のものであり、付着しただけで毒の効果をもたらす。即座に膿を払う夜鬼だが少量のダメージは免れないため、明らかにティンダロスの猟犬のほうが優勢である。

 エルダーサインで援護しようとするヴィエの前にライヒが立ちはだかった。

 その右眼から赤みがかった光が放出し、まばゆく輝きはじめる。

 反射的にヴィエが何かの呪文を口にした。

 おそるべき赤い発光を前にチェコ第五の魔道士は平然と意思を保っていた。透明な障壁が彼女を包んでいたのだ。

 それを見たライヒは素直に驚いた。

「ナアク=ティトの壁とは……覚醒世界で行使することはできないはずなのに」

 あらゆるものを遮断する絶対防護壁、それがナアク=ティトの障壁であり、ライヒの「ダイラス・リーンの災厄」を完全に防ぐことができる数少ない対処手段であった。

 しかし障壁を展開させている間はその場を動くことができず、他の行動もとれないので、ヴィエはそのまま立ち尽くすのみとなった。「銀の鍵」による転移という戦闘離脱手段もあるが、それを使うのは万策尽きるまで控えたい。

 空中でティンダロスの猟犬とナイトゴーントが熾烈な戦いを繰り広げるなか、二人の少女は一歩も動かず互いに思案をめぐらせる。その状況が暫く続いたとき、突如として音楽が鳴った。それはライヒの携帯から流れる緊急用メロディーだった。

 一体何事かと携帯を耳に傾けるライヒだが、聞きなれた声にたちまちげんなりする。

『申しあげます、司祭殿、一大事なのであります』

「なによ、こんなときに。くだらない用件だったら怒るわよ」

『今すぐ戻ってきてほしいのであります。今晩にも、あのとき出遭ったやつらの残りがやってくるのであります。司祭殿が帰ってきてくれなければ、わたくしは部屋の四隅を石膏で埋めて閉じこもらなければならないのであります』

「……あっ」

 シュヴェイクの言わんとすることを理解したライヒは、思わず口をぽっかり開いた。

 そうだ。彼を知覚したティンダロスの猟犬は複数いたのではなかったか。

 そんなことはわかっていたはずなのに、猟犬の一匹を使い魔にできた興奮のおかげですっかり頭から抜け落ちていた。

 このままではシュヴェイクが無残な餌食になりかねず、彼を見捨ててその結果を平静と受けいれられるほどライヒは冷徹ではない。

「わかったわ、すぐに戻るから」

 そう返事して通話を終えると、『星の智慧派』最年少の司祭はヴィエに向かって一礼した。

「一方的で恐縮だけど、手合わせはこのへんにさせてもらうわ。ごきげんよう」

 戦闘終了の合図に応じるように、ティンダロスの猟犬が手近な角度を通ってこの世界から消える。そして閉鎖空間を解いたライヒは小走りに去っていった。

 遠ざかる小さな背中を眺めつつ、ヴィエは、今夜から睡眠につくときは自分とサイモンのベッドを球体結界で包んでおかなければいけないなと思うのだった。ヴィエの洋館は結界を張ってあるが、あのおそるべき猟犬は角度さえあればそんなものおかまいなしに出現することが可能なのだから。

 その夜、ザルツブルクの自宅に帰ったライヒは、使い魔となった猟犬を通じて、シュヴェイクを狙ってやってきた数匹の猟犬たちとコンタクトをとり、何とか諦めさせて引き返してもらったのである。


 数日後。

 シュヴェイクから受け取った写真を眼にしたロンメルは歓喜のあまり涙を流した。

 そこには、青いオーバーオールと白のノースリーブシャツというカジュアルな格好でソフトアイスを手に持つライヒが写っていた。

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