星司祭ライヒ
皇帝栄ちゃん
第1話 シュヴェイク ライヒ司祭の従卒になる
ここは〈夢の国〉の天空都市セラニアン。壮麗なる光明の都セレファイスの姉妹都市であり、いま執務室で幾束の書類にペンを走らせているこの男こそ、オオス=ナルガイの造物主にして、セレファイスとセラニアンを治める偉大な王クラネスである。
かのランドルフ・カーターと双璧を成す至高の「夢見る人」たる彼は、半年ごとに両都市の玉座に交互に君臨し、王としての執務についている。
誰もが敬い憧れる偉大な「夢見る人」クラネスは、〈夢の国〉でも屈指の美しさと栄華を誇るセレファイスでの永遠の統治を約束されているにも関わらず、その胸中は常にある愁いに満ちており、心の安らぎを見出せずにいるのだ。誰もが羨むあらゆるものを意のままにできる存在にありながら、決して晴れぬ愁いに沈んでいるのだった。
執務が一段落して一息ついたとき、ようやくクラネスの表情が薄く和らいだ。彼は客を待たせていた。一時でも心弾ませてくれる数少ない友人の久しぶりの来訪。
一拍置いて執務室に入ってきたのは、六、七歳と思しき娘で、二年前に知り合い交友を深め、いまではクラネス王の小さな友人となった幼き「夢見る人」。
上品なスカートの裾をつまんで恭しく会釈した少女の顔を見やったクラネスは、穏やかな微笑を、おや、という表情に変化させた。
小さな友人の青い双眸は、片方が紅玉のごとき朱に染まっていたから。
そしてもうひとつ、ただの「夢見る人」にはない魔力が小柄な体躯から感じ取れた。
「その……なんといえばいいのか……私、魔道士になってしまったみたいです」
そう彼女は口にした。
覚醒世界の時間にして、数年前の出来事である。
ダークブラウンのストレートロングヘアーに、赤い右目と青い左目をしたオッドアイの少女。オーストリアの名門パステルツェ家の令嬢であるライヒ・パステルツェが、ザルツブルクにある自宅の屋敷に戻ったのは夕刻を過ぎた頃であった。
割合に質素だがお洒落な外観の屋敷の中は無人であり召使とて一人もいない。両親は首都ウィーンに居を構えているが、多忙で世界を飛び回っているため年に数回しか帰ってこない。ライヒが物心つく時分からそうだったので、親に対する愛情は年々薄れている。昨年十歳になった彼女は、新人の少女作家として自立したのを機にウィーンを離れ、ザルツブルクに移って一人暮らしを始めたというわけだ。
彼女が今日どこから戻ってきたかというと、世界の何処かに存在するという『星の智慧派』本部からである。ライヒは『星の智慧派』の司祭――すなわち幹部であり、優秀な魔道士でもあるが、それは一般人である両親の知るところではない。
幼少時に「夢見る人」として覚醒した彼女は、数年前に〈夢の国〉のある場所で事件に巻き込まれ、目が覚めてみると右の瞳がルビーのような赤眼に変色していた。同時に高い魔力が体内から発生し、彼女が魔道士となったのはそれからであった。程なくして、その資質に眼をつけたナイ神父から『星の智慧派』に誘われ、一時はとまどい躊躇したものの、家庭環境と社交的な交友関係に嫌気が差してきたこともあり、新たな世界を求めて教団に入信するに至った。そしてわずか数年で最年少の幹部になったのである。
夕食を終えたライヒは小奇麗な自室でひとつの事柄に思案をめぐらせていた。
『星の智慧派』本部で行われた会合では、幹部のなかでもナイ神父の後継者候補に名を連ねるほどの司祭であるマグヌス・オプスが、極東の島国で展開された大規模な計画の結果を報告した。ライヒ同様、最近幹部になったばかりの羽丘隆志という青年が実行した事象の顛末についてである。
隆志は能力的には優れているものの特に秀でたところはない人物だが、神代の超戦士である不死兵を目覚めさせる事に成功したばかりか、従順と伴わせさえしたのだ。それにより司祭に昇格したうえ一気にナイ神父の後継者候補筆頭にすらのぼりつめた彼は、『星の智慧派』の至宝たる〈輝くトラペゾへドロン〉まで賜って今回の壮大な事象に着手した。
同行して協力したマグヌスの報告によると、事象の完成は失敗に終わり、隆志と不死兵も消息不明という散々たる結果。場内にどよめきが上がったのは無理からぬことで、会合に参席したライヒも驚かずにはいられなかった。〈輝くトラペゾへドロン〉はナイ神父の手で無事に回収され、組織としての損失は最小限だったことが幸いと言えるだろう。ただ、少なからず多方面の眼をひくことになったので、今回のような大規模なことは当面のあいだ行えなくなったのは間違いない。
さて、ライヒが強く関心を持ったのがフヴィエズダ・ウビジュラのことである。
何故ならそのフヴィエズダ――通称ヴィエたる魔道士の少女は、隆志の実行した計画に敵対して関わっていたばかりか、破綻の原因にもなったらしいのだ。そういうわけで実際に会いにいってみようと思った。
しかしマグヌスの副官であるアルカへストをも葬った実力の持ち主である、決してひけをとる気はないが、用心するに越したことはない。そこで英霊をひとり召喚して従わせることに決めた。有力な英霊を連れておけば、フヴィエズダと対峙したとき万が一にということもなくなるだろう。不測の事態は大敵であり、決して起きてはならないのだ。
ライヒは屋敷地下にある魔術儀式用の部屋に移動し、英霊召喚の儀式を始めた。
「やっぱりオーストリア国民としてはカール大公かプリンツ・オイゲン公の英霊よね」
オーストリアの二大英雄として称されるどちらかを、彼女は召喚するつもりでいた。
なにしろ英霊の召喚はそう易々とできるものではない。星の周期も関係してくることから、いま実行すれば後十年は不可能になるだろう。失敗するわけにはいかない。丹念に準備を整え、慎重かつ精確に召喚の儀を展開させるライヒ。
やがて術式は完成し、儀式は成った。
ライヒは、イレギュラーや予想外、想定外といったものが大嫌いである。
昔から臨機応変が苦手なのだ。どんなときでも物事は型に嵌まっているのが一番だ。
だからというべきか、いま客間にてソファに腰を下ろしている彼女は、テーブルに肘をついて両手で顔を覆いうなだれるのであった。
「どうしてこんなことになったのよ……」
百万回がっかりしてもなお足りない風な落胆ぶりの原因は、正面のソファにきびきびと腰掛けている不精ひげを生やした一人の男だった。かつてのオーストリア・ハンガリー帝国の軍服を着た兵士で、ライヒから見ればおじさんと形容できる容貌だが、なによりも特徴的なのはとても善良そうで愛想のいい顔立ちに他ならない。
「申しあげます、司祭殿。現在わたくしがここにおりますのは、司祭殿がわたくしをここにお呼び出しになられたからにちがいないのであります」
「そんなことはわかっているわよ、シュヴェイク。私が聞きたいのは、どうしてあなたみたいなのが召喚されたのかってことなんだから」
溜息をついて顔をあげ、眼前の男を見つめるライヒ。
彼の名はヨゼフ・シュヴェイク。チェコの作家ヤロスラフ・ハシェクが書いた反戦諷刺小説の主人公で、実在の人物ではない。
いわば架空の英霊なのだが、問題なのはそのキャラクターというか人物像であり、それがライヒを大いに悩ませる要因そのものなのである。
「申しあげます。それは司祭殿がわたくしを召喚されたからであり、わたくしには皆目見当がつかぬものであり、司祭殿にしかわからないことと思われるのであります」
「はあ……本当に何を考えているのかさっぱりわからない人間ね」
疲れたように首を振るライヒへ、シュヴェイクは無邪気な平静さで言った。
「申しあげます。わたくしは何も考えていないのであります」
「息つく間もないんだから。いったい全体なぜ考えないのかしら?」
「申しあげます。わたくしが考えないのは、それが兵役中の兵士に禁ぜられているからであります。わたくしがかつて九十一連隊にいたとき、連隊長殿はいつもこう言われたのであります」
「『兵士は自分で考えてはいけない。上官が代りに考えてくれる。兵士が考え出したら最後、兵士ではなくなって、どこにでもころがっているただの民間人になってしまう』でしょ?」
「申しあげます。そのとおりなのであります」
シュヴェイクの返事を聞き、ライヒはにやりと笑んだ。してやったりという表情だ。
彼女も作家の端くれ。チェコ文学の有名作家ハシェクの代表作、シュヴェイクが主人公の長編小説は全部読んである。すなわちシュヴェイクの台詞も大体は頭に入っているため、彼が得意の喋りを出してきても機先を制することができる。小説の中の人物は小説の中の例えしか話せないことを逆手に取ったわけだ。
「そういうわけだから、白痴は白痴らしくおとなしくしておきなさい」
「申しあげます、司祭殿。わたくしは間違いなく神に誓いましてほんとうの白痴なのです。かつてわたくしは白痴だと判断されて軍隊を除隊になり、特別委員会でもこいつは箸にも棒にもかからぬ白痴だとの宣告を公に受けたのです」
「はいはい。そんなこと知ってるから黙っててね」
「申しあげます。わかったであります」
まったく動じることなく、ひたすら愛想よくほほえむシュヴェイクの言葉に、ライヒは思わず眉をぴくつかせたものの、優位は自分にあると気を静めて席を立った。
「とりあえずあなたの居場所を用意してあげるからついてきて」
夜半すぎ、ライヒはシュヴェイクを連れて『星の智慧派』本部を訪れ、自分の部屋に到着した。幹部たる司祭には専用の豪奢な個室が与えられているのだ。
「シュヴェイク、私はこれから私用で日本へ向かうから、あなたはここで待機してなさい」
ライヒは結局単身でフヴィエズダに会いに行くことにした。シュヴェイクは送還してしまおうとも考えたが、こんなのでもせっかく召喚した英霊には違いなく、まだどんな能力を持っているかもわからないうちに役立たずと見なしてしまうには軽率すぎる。暫くは様子を見て、それから判断するほうがずっと賢明だろう。
だからといってフヴィエズダとの対峙に連れて行くわけにはいかない。現状ではシュヴェイクの存在は不確定要素きわまりないからであり、ゆえに待機させておくにかぎる。
「申しあげます、司祭殿。ここで待機しておくのであります」
「ああちょっとまって、ただ待機していても退屈だろうから仕事を与えてあげる。部屋を掃除しておきなさい」
「申しあげます、司祭殿の部屋でありますか?」
「そうよ。掃除用具はあそこに入ってあるから、終わったらちゃんと片付けておくこと。あと書斎の本は好きに読んでいいわ。わかったかしら」
「申しあげます。わかったであります」
まばたきもせずシュヴェイクがうやうやしく返事すると、ライヒは満足げに頷いた。
シュヴェイクの人どなりは知っているつもりだが、英霊として現実に具現化した彼は小説との相違点があるかもしれない。待機と仕事を命じることで、本当に召喚者たる自分に忠実なのか、どの程度の仕事能力があるかがわかるというものだ。
そうして彼女は意気揚々と『星の智慧派』本部を後にするのだった。
御納戸町の商店街にある本屋で、ヴィエは真剣な様子でお菓子作りの本を読んでいた。彼女が苦手とする数少ないもののひとつこそ料理なのである。
大抵のものは少し着手すれば簡単に習得してしまうヴィエだが、料理は何度かやってみて散々な有様になるばかりだったので、天才が努力して駄目なものはそれ以上やるだけ無駄とすっぱり諦めた。
そんな彼女が久しぶりに再び挑戦してみようという気になったのは、来月の十四日に感化されてのことだ。チェコのバレンタインにもチョコレートを渡す習慣がないこともないが、男性から女性にプレゼントするものだし、花束を交換しあったりお酒を飲んで楽しんだりといった具合だ。そもそも諸外国に比べて日本におけるバレンタインデーは独自の風習が強い。当の日本人には内心なかば煙たがられている行事と成り果ててしまっている感があるが、ヴィエとしては、女性が好きな男性にチョコレートを贈るという行為はまんざらでもなかった。
なによりサイモンの存在。彼はドイツ人だが日本の二次元美少女媒体にどっぷり倒錯しているため、バレンタインを意識しているのは間違いない。それも手作りチョコに強い期待を持っているようだ。そんなわけで最愛の恋人を喜ばせてあげたいがゆえ、現状に至る。
お菓子作りの本に眼を通していると、同じくらいの背丈の少女が隣に立った。エルダーサインの反応により魔道士ということは先刻承知だ。
ダークブラウンの髪を腰まで下ろしたその少女は、無言で振り向いたヴィエにお嬢様然と微笑した。赤と青のオッドアイが端正な容姿と相まって神秘的な印象を与える。
ヴィエは社交辞令の微笑を返すと、本を閉じてそのままレジへ向かった。
「それで、どちら様?」
とヴィエが訊いたのは、御納戸川にかかる橋の上まで来たときだった。それまでオッドアイの少女はずっと後をついてきたのである。
スカートの裾をつまんで軽く会釈すると、少女は上品に挨拶した。
「初めまして、ウビジュラ家当主フヴィエズダ。私はライヒ・パステルツェ」
その自己紹介にヴィエは、へえーと関心をあらわにした。
「パステルツェ家のご息女が魔道士だったなんてはじめて知った」
オーストリアの名門パステルツェのことは知っていたが、魔術や超常とは無縁の家系のはずだ。その令嬢がまさか魔道士とは思いもよらず、しかも濃密な魔力の持ち主ときた。
「とりあえずわたしのことはヴィエでいいわよ」
「じゃあそのとおりに呼ばせてもらうわ。くだけた話し方のほうが好きみたいね」
「まあね。それでライヒ、あなたが遠路はるばる日本くんだりまでやってきたのは、わたしに会うためだったりする?」
「ええそうよ。そのうちじっくりお話したいと思って」
「それならわたしの家に来る? 美味しい紅茶とかご馳走するけど」
「せっかくのお誘いだけど、今日は挨拶に来ただけなの。それはそうと、さっきの本……まさかと思うけどお菓子作りのお勉強かしら」
「そのまさかで悪い? わたしにだって苦手なことくらいあるんだから」
少し不愉快そうにそっぽを向くヴィエに、ライヒは愉悦めいた表情を見せた。
「あらごめんなさい。でもかわいいところあるのね」
くすくすとほほえむその態度が、癇に障る。
「そういうあなたはどうなの」
「私は普通くらいには嗜んでるわよ」
ライヒは物心つく頃から家族の温もりとは離れていたので、暇つぶしによく召使いの眼を盗んでシェフに料理を教えてもらっていた。パティシェを呼んでお菓子作りも学んだ。
「へえー、そうなんだ。食べさせる相手もいないのに?」
「む……」
片眉をぴくりとさせて声を詰まらせるライヒ。虚栄心を満たすための相手ならいくらでもいるが、本当に腕を振るいたい相手はいなかった。
どうやら図星だと見てとったヴィエは遠慮なく愉悦の表情を浮かべる。
「それは寂しいね~。恋人がいればよかったのに」
「わ、私はまだ十歳なんだから、そんなのいるはずないでしょ」
「わたし十二歳だけどいるよ? 心だけじゃなくて体もふかーい関係になってるの♪」
「え……あ、え……っ!?」
意味を察したライヒは、見る間に信じられないとでもいうふうに顔を赤らめた。
思ったよりも純情なその挙動。ヴィエは愉しくて愉しくて仕方がない。
「あらごめんなさい。でもかわいいところあるのね」
さっきの自分のセリフをイントネーションまでそっくりそのまま言い返され、ライヒは奥歯をかみしめた。気を落ち着けて瞳を閉じると、精密な魔力を展開させる。
次の瞬間、周囲から人の気配が消えた。橋一帯を別次元の閉鎖空間に切り替えたのだ。
「挨拶代わりよ」
そう口にしたライヒが手のひらから透明なビー玉を落とした。
橋の上をころころ転がる小さな球体は、突如として運動会の玉ころがしほどの大きさに変化すると、ぎらつく牙を生やした巨大な口を開けてヴィエへと跳躍したのである。
ヴィエが右手を伸ばして開くと、その掌に燃え上がる五芒星形が浮かんだ。
シュールな怪球は狂乱の叫びを発して反転し、ライヒへ飛びかかった。
少女の眼前に到達する前に、それは無数の紫色の蝶と化して一斉に舞った。
相手の生命を吸い取る蝶の大群は瞬く間にヴィエを紫色に染めたが、たちまち、二羽の白い鳩に変化してはばたいた。
この国において平和を象徴する小柄な鳥は、左右に分かれてライヒの両肩にとまった。
途端、ものすごい重圧が発生した。その重みは十トンにも達し、魔力で堪えるライヒの足もとがぶるぶる震えだす。眉根を寄せた顔にひとすじの汗が伝う。
ライヒが何かをつぶやくと、彼女を押し潰さんとしていた白鳩はオモチャのロケットになった。ロケットは重圧から解き放たれ垂直に飛んでいき、見えなくなった。
「やるじゃない」
感心の色を声に添えて、ヴィエが言った。
「どういたしまして」
軽く呼吸を整えて、ライヒが言った。
「挨拶だけのつもりだったけど……気が変わったわ」
せっかくだから『星の智慧派』本部へ連れていこう。つまり拉致だ。
そう決めたライヒの右の眼が輝くや、濃い赤みのかかった妖しい怪光が放たれた。得体の知れぬ独自の生命を宿して脈打っているような光だった。
すると、ヴィエは愕然として立ちくらみを起こした。原因不明の猛烈な眠気が生じ、ふらふらとその場に膝をつく。魔術や催眠術、超能力等によるものでは断じてない。
エルダーサインの発動がなければ一瞬で前後不覚に陥っていただろう。
「こ……れは……?」
「まだ意識を保っているなんて流石ね。でも数分ともたないわよ」
これこそダイラス・リーンの災厄と称され畏怖されるライヒの特殊能力にして、ナイ神父に眼をかけられ、僅か数年で『星の智慧派』の司祭に選ばれた理由である。
即座に展開させた対処魔術もまったく効果がなく、その威力は恐ろしいものだった。
ヴィエは、どうでもよくなりかける思考の停滞と必死に抗い、手のひらを上向けた。
ロザリオの形をした、鈍くくすんだ銀色の鍵が現れる。
ライヒがはっとなった。
朦朧としたおぼつかない手つきで、ヴィエが鍵を半回転させると、彼女の姿は、眼前の空間に生じた小さな黒点に吸い込まれて消えた。
ぽかんと立ち尽くすライヒ。『銀の鍵』による転移を妨げることは不可能である。
「なるほど……あれはヴィエの手に渡っていたのね」
納得してつぶやくと、彼女は閉鎖空間を解いた。
「思ったより楽しかったわ」
その口もとは、好敵手を得たとばかりにうきうきと綻んでいた。
御納戸町住宅街の外れに建つゴシック様式の洋館で、バイトから帰ってきたサイモンは、居間のカーペットに靴のまま寝転がってぼんやりしているヴィエを発見して慌てふためくことになる。大声で呼びかけても体をゆすっても無気力状態のままで、恋人の少女の意識がはっきりしたのは、たっぷり八分も経ってからのことだった。
『星の智慧派』本部に戻ってきたライヒは、すれちがうごとに信者達から遠巻きの不自然な視線を向けられ、訝しげに首をひねった。
自室に入ると、まず眼に入ったのはきちんと整頓された室内だった。
どうやら命令に従って部屋を掃除したようだと感心したところへ、シュヴェイクがなにやら憤然とした様子でライヒの帰還を出迎えたのである。
「よろしい、ちゃんと言いつけを守ったようね。……どうしたの?」
「申しあげます、司祭殿。おそれながら司祭殿の命令された任務を完遂することができなかったのであります」
おおまじめに憤る善良な兵士の言葉に、部屋を見渡したライヒはきょとんとした。
「え、でも見た限りきれいになってるようだけど……」
そこまで言ってから、思わずピンときた。
「シュヴェイク、あなた他の司祭の部屋も掃除しようとしたわね!?」
「そのとおりであります! 司祭殿のご命令どおり、司祭殿の部屋を掃除しようとしたのであります。ここの清掃を終えたわたくしは、次の司祭殿の部屋へ向かったのでありますが、あろうことか、門前払いされたのであります。わたくしもそれで引き下がるわけにはいきませんから、これはライヒ・パステルツェ司祭殿に与えられたご命令ゆえ、何が何でも遂行しなければならないのですと声の限り何度も何度もまくし立てたのでありますが、聞き入れてはもらえないどころか追い払われてしまったのであります。こういうのを世間で、お手あげというのであります。と言いますのは、1989年11月、ヴルタヴァ川にかかる十四本の橋がヴァーツラフ広場に向かう人で溢れたのは、抑圧への反抗からデモを起こした学生が警察との乱闘で負傷したことをきっかけとして、連日二十万ともいわれる民主化を求める市民が広場に集ったからなのです。その圧力に屈して共産党政権はわずか一週間で退陣することを余儀なくされたものでありますから……」
前半の言葉を聞いていくうち、あまりの羞恥に、ライヒの顔はみるみる真っ赤になった。穴があったら入りたい。
「それから司祭殿、申しあげます、司祭殿の部屋に無断で入ろうとした畜生を始末したのであります」
「畜生?」
「猿のような姿をした生き物なのであります。そいつは動物でありながら司祭殿の部屋に用があると人間の言葉で喋ったのであります。わたくしは、そんなことは司祭殿から聞いていないから誰も入れるわけにはいかないと言ったのでありますが、お前じゃ話にならんと、こともあろうに不法侵入しようとしたのであります。そこでわたくしは銃剣で一突きにしてやったのであります」
ライヒは茫然と耳にした。その猿のような生き物とは、『星の智慧派』の司祭ヘルマイヤー・ストラトスの使い魔に違いなく、この本部で知らない者はいないのだった。聞き間違いでなければ、それをこの男は始末したと言ったのだ。
「わたくしは畜生の死骸を地下室にほうりこんだのであります。ただし、お隣の地下室にであります。まったく、とんだ猿畜生もいたものであります」
ライヒの顔はふたたび真っ赤になった。今度は羞恥にあらず憤怒によるものだった。
「よくわかったわ。確かにあなたはシュヴェイクのようね」
「申しあげます、そうにちがいないと思うのです。わたくしのおやじはシュヴェイクでしたし、おふくろもシュヴェイコヴァーでありましたから。自分の名を否認して、おやじやおふくろに恥をかかせるわけにはいかないのであります」
ライヒは射すくめるような恐ろしい視線をシュヴェイクに投げかけ、思案した。
いったいこいつをどうしてやろう。まず両方の頬をきつく引っ叩いて、鼻柱をたたき折る。それから、そうだ、日本の伝承にある因幡の白兎のように全身の皮を剥いでしまうのだ。そうしてやれば向こうにも顔が立つだろう。
そう腹に決めて、ライヒはまずシュヴェイクを怒鳴りつけた。
「シュヴェイク、畜生はあなたよ! おお外なる神よ、シュヴェイク、あなたはなんてことしてくれたの? これで私は当分あの陰湿でねちっこいヘルマイヤーに頭が上がらないじゃない! あなたは確かに箸にも棒にもかからないバカよ」
「申しあげます、司祭殿、そのとおりなのであります!――小さいときからわたくしはこういうヘマばかりやっているのであります。わたくしはいつも今度こそ前にヘマをやった分まで取り返してやろう、りっぱにやろう、と思うのでありますが……」
「うるさい! 黙りなさい! あなたが猿畜生を始末したように、私があなたを始末してあげるわ。このうすらトンマ、手の付けようのない抜け作っ」
怒りを抑え、ライヒはさきほど思案したことを実行に移そうとした。
ところが彼女の真正面では、シュヴェイクのいかにも人がよさそうで、無邪気な眼が二つ彼女を、おだやかな光を湛えてじっと見ているではないか!
その絶対的な精神の安定状態をあらわす暖かい光に満ちた、いかにも人がよさそうな、やさしい眼差しにさらされているうちに、ライヒは何だか拍子抜けして椅子に腰を下ろすと、どっと溜息をついた。
そういえばシュヴェイクは掃除のことを喋ったとき、後半、ビロード革命のことを語っていたが、なぜ近年の史実を知っているのだろうか。
すぐ思い当たった。書斎の本を好きに読んでいいと言ったのは自分ではないか。
ふと眼が合い、シュヴェイクがまた何か口にしようとしたので、ライヒは少したじろいだ。すっかり疲れたところにバカらしい講釈を延々と聞かされるのはごめんだ。
「ま、まって、お願いだから黙ってて」
ライヒが元気のない声でそう言うと、シュヴェイクはこのうえない無邪気な顔をし、やさしいほほえみを浮かべながら口を開いた。
「申しあげます、司祭殿、上の立場にある者が、お願いなどという言葉を簡単に口に出してはいけないと思うのであります」
「な……なんでよ」
「司祭殿、なぜかと申しますと、ある巨大な組織にモンティナ・マックスという総統がいたのであります。この男は何十年かかろうと金も力も権力も愛情も仲間も手に入れるつもりだったのでありますが、敵対部隊の罠にはまり追い詰められ、もと組織の一員で殺し屋だったアンデルセン神父に自分を撃ってくれと言う事になったのであります。自殺はしたくない、だから、人に初めてこの言葉を言おう、『頼む』、と最期にそう言ったのであります。そして神父はエイメンと口にしてモンティナを撃ったのであります。このことからもわかるように……」
「もう嫌ぁぁーーーーーーーっ!」
ライヒは思わず何年かぶりに、歳相応の子供のように泣き出した。
そんなわけでシュヴェイクは『星の智慧派』本部に置いておけず、ザルツブルクにある彼女の自宅にて住まわせることになったのである。
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