第4話 司祭ライヒの憂鬱
『星の智慧派』本部のひっそりとした会合場で、ライヒは説教壇前に立つ黒人神父に報告を済ませた。
まさしくスペードのエースという形容がしっくりとくるその男は、少女の報告を聞き終えると、サーモンピンクが墨になったかのような黒い唇を笑みの形に浮かせた。
「ご苦労だった、ライヒ・パステルツェよ。隆志の起こした件の失敗以降、先進国の政府特殊機関等が我らの全容を掴んで壊滅させようと、ちょっかいをかけてくることが多くなってきたからな。だが、「旧支配者」の膝元に手を出そうとするものはすべて破滅させられるのだ。先日もどこかの息のかかった精鋭たちとやらが嗅ぎまわってきたが、みな愚かな行為に相応しい最期を遂げたよ」
淡々と語る黒人――ナイ神父。
『星の智慧派』を率いる指導者にして、謎に包まれた暗黒の男。
ライヒは彼に畏敬の念を抱くと同時に名状しがたい戦慄を感じてもいた。いや、水準以上の実力を持つ者でナイ神父に畏怖嫌厭の情を起こさない人間はいないだろう。魔道士でも異能者でもない只者にしか見えないのに、もし直接危害を加えようとすれば一切合切どうなるかわからない、想像と理解の範疇を超えた慄然たる始原的な恐怖に苛まれるのだ。
そうしたわけで、いつもライヒは、報告を終えて退室したところで妙にホッとした気持ちになるのであった。
しかし、その心の平安はすぐに破られることになった。
猿のような魔法生物――すなわちヘルマイヤー司祭の新生使い魔が、いかにも主人からのことづけがあると言わんばかりにライヒの退室を待ち構えていたのである。
日本のとある町。極秘裏に造られた地下施設内に、オッドアイの少女と白衣の老人の姿があった。なめらかなダークブラウンの髪を腰までたらした少女はライヒ・パステルツェであり、ふさふさの白いひげを生やした禿頭の老人はヘルマイヤー・ストラトスに違いない。
『星の智慧派』司祭が二人して現れるとは、この場所に何があるというのか。
ヘルマイヤーの言によると、彼がいま取り組んでいる研究に役立ちそうなものが保管されているとのことで、すみやかに事を運ぶため協力を求められたライヒはしぶしぶ同行に応じたわけなのだ。普段は本部自室にこもりきりのヘルマイヤー自ら出向くことが珍しかったせいもある。
事前に入手した見取り図により、この施設の情報は頭に入ってある。『星の智慧派』メンバーには各国の政財界等に連なる人間も多数存在し、今回情報をリークしたのは、施設に関係する退役軍人の将校だった。
「ときにライヒ君、きみの右眼は使うでないぞ? わしまで痴呆にされてしまってはかなわんからのう」
「言われなくてもわかってるわよ」
ヘルマイヤーの嫌味がましい忠告に、むしろ痴呆になってくたばってくれたらなあと思いながら、つっけんどんに答えるライヒ。
彼女の「ダイラス・リーンの災厄」はおそるべき威力を有する反面、敵味方関係なくその効果を及ぼす。赤みがかった怪光の脅威は相手の識別も限定もできないのだ。
「そろそろ進入に気づかれる頃じゃな。解析は済んだかね」
「うーん、あと少しかしら」
「ほお、ライヒ君が手を煩わされるとは珍しいのう、ふぇふぇふぇ」
「あなたが出向くだけの施設ではあったみたいね。有能な電子使いたちが複数のプロテクトを張り巡らせてるわ」
ライヒは魔術で施設全体の解析を試みていた。大がかりになればなるほど、察知されずに解析するのは難しくなる。
「すみやかに済ませるのは無理そうかのう」
「あら、私を誰だと思ってるの?」
挑発的なヘルマイヤーの言葉に、ライヒは自信家特有の余裕に満ちた笑みで返した。解析・分析においては他の追随を許さぬ彼女ならではの自負だ。
そのとき、通路の前後から完全武装した複数の兵士がやってきて銃を構えた。どうやら気づかれたようだが、進入前に特殊な結界を張ってあるので外部に連絡される心配はない。
「止まれ! お前たち、こんなところで何をしている」
「何を、とは愉快な。見ず知らずの者が入り込んでいるなら答えは多くないじゃろうに」
「おとなしくしないと撃つぞ!」
「いやじゃと言ったら?」
因業の極みともいえる、歪んだ老人の顔。一拍間をおいて銃弾が吹き荒れた。
直後、兵士たちは眼を見張った。白い大きな盾の形状をした幾つもの透明な物質が二人を取り囲み、弾丸の横雨をすべて防いだのだ。
ヘルマイヤーの魔導科学の産物「ヴァイスマオアー」――自動的に瞬間発動する真白き盾であり、物理攻撃やそれ以外も防ぐことのできる優れものだ。
「解析完了」
その間に施設の解析を終えたライヒは、魔力換算したデータを傍らの老人に送信する。
邪悪そのものの笑みを浮かべるヘルマイヤー。この瞬間、施設全体は彼に掌握された。それはただセキュリティが自由になっただけではなく、あらゆるものが意のままになったということだ。
たちまち施設内では面白いことが起きた。各所で隔壁が上下を繰り返しながら通路を「移動」して兵士達をぶつ切りにしたかと思えば、固定設置されたレーザーも生き物のように壁を伝って、パニックに陥る兵士や研究員達に照射するのだった。さらにはドアや通路が変形して組みかえられ、異次元迷路のような模様を呈するまでに至った。
まさに施設は汚怪このうえない地獄の遊園地と化し、いましも天井を滑ってきたレーザーがライヒとヘルマイヤーを取り囲む兵士の何人かを撃ち殺し、残りの兵士達が放った銃弾を浴びて破壊された。
「ちょっとヘルマイヤー、すみやかに事を運ぶんじゃなかったの?」
「それはきみが解析を終えるまでのことだよ。掌握さえしてしまえばあとは思いのままゆえ、好きなように遊んでもよかろう」
愉しげな老人に片眉を上げ、ライヒは兵士たちへと向き直った。
「勝敗は明らかよ。死にたくなければ逃げなさい、私は逃げる者は殺さないから」
不必要な殺害は好きではない。脱兎のごとく逃走してくれればそれでよかったのだが、彼女の意図に反してそうはならなかった。
「断る! 我々はここを守るのが任務だ。最後まで戦い抜く!」
「だ、そうじゃよ?」
にやにやとするヘルマイヤー。一歩も退かず、声を重ねて戦意高揚させる兵士たちを、ライヒは信じられないといった面持ちで見やった。進んで無駄死にすることを選ぶなど、彼女には理解できない精神であった。
その意味で彼らは心身ともに鍛えられた立派な戦士だったのだが、ヘルマイヤーにとっては愉悦を得るためのよい遊び相手に他ならなかった。
「ヴェン・ディー・ロイテ・アゥスアイナンダー・ゲーエン、ダ・ザーゲン・ジー・アゥフ・ヴィーダーゼーエン!」
老人がドイツ語で別れの言葉を言い放つと、見る間に兵士たちはオモチャのように弄ばれ、その悪夢めいた惨殺の様子に、ライヒは不愉快そうに顔をしかめた。
「なに、日本人などという黄色い劣等人種なんぞいくら死んだところで構いやせん。存在してよい黄色人種は『星の智慧派』に属する同士だけじゃ」
ヘルマイヤーは純血のドイツ人であり、それも生粋のアーリア人だった。
一方的な殺戮のなか、遠くから一人の男が疾走してきた。その男はライダースーツに身を包み、常人の眼には止まらぬスピードで、サーベル化した右腕を操っていた。しかもレーザーや銃弾を受けてもすぐに傷がふさがるではないか。サーベルも魔力を帯びているらしく、厚い隔壁を苦もなく切り裂いた。
「この施設で作られた生体兵器のようじゃな。うむ、わしだけで遊ぶのも悪いから、あれの相手はきみにさせてあげよう」
「……それはどうも」
ライヒは溜息をついた。老害の遊戯に付き合ってはいられない、早く終わらせよう。
「ティンダロス」
天井の角から青黒い煙が噴出するや、犬のように見えなくもない四つ足の怪物が現れ、ライダースーツの男に飛びかかった。
サーベルと爪が交錯し、両者は互いに傷を負ったが、どちらも瞬く間に再生した。
と、猟犬が太く捻じ曲がった注射針のような舌を男に刺した。それはすぐに離れたが、刺された部分は深い穴が開いた。奇妙なことに出血も痛みもないのだが、何故か穴はふさがらなかった。
しかし取るに足らない傷と判断し再びサーベルを振るった男は、今度こそ自身に起きた異常に気がついた。薙いだサーベルが壁に当たったとき、それまで隔壁すらも裂いていた刀身が、刃こぼれを起こしたのだ。
そのうえ猟犬の前足による殴打を受けた傷の再生速度が著しく低下していた。
ティンダロスの猟犬の舌による攻撃をまともに受けた者は、肉体的なダメージは何も負わないが、一部の身体機能が半永久的に失われてしまう。身体そのものが兵器である男は、右腕のサーベルの威力も肉体の再生力も、猟犬に吸い取られてしまったのである。
もうどうしようもなかった。恐怖のどん底に落とされた男はおぞましき猟犬の餌食となり、あまりの光景と悪臭に、ライヒは吐き気をもよおして口もとを押さえるのだった。
よいものを見せてくれたと言わんばかりにヘルマイヤーが哄笑していた。
少女の気分はもう最悪だった。
夜半過ぎに御納戸町のホーエン館に帰ってきたライヒは、居間のソファに腰をかけて、ぼんやりとテレビ番組を眺めていた。
するうち食卓のほうからシュヴェイクの鼻歌が聞こえてきた。
大きくなりたいなら
クネドリーキを食べなくちゃね
アイン、ツヴァイ
戦争でも死なないよ
アイン、ツヴァイ
クネドリーキを食べたのでね
ほら、頭のようにでかい
軍のクネドリーキをね
アイン、ツヴァイ
彼はいま食事中だった。食欲の優れないライヒがさっさと夕食を切り上げたので、一人で食べていた。
そしてまた別の鼻歌が聞こえてきた。
おいらは兵隊、おいらは自由
女の子には好かれ、
給料をもらって、気楽な生活……
「あなたは気楽な生活でいいわよね、シュヴェイク」
と呟いて、ライヒは憂鬱な気持ちになった。
テレビではいつの間にか、どこかの主婦がペットの犬を過剰にかわいがる様子が映し出されていて、ライヒの顔は哀れな者を見るような表情へと変わり、侮蔑の眼差しを画面に向けた。
この国は明らかに少子高齢化が進行しているというのに、日本人女性たちは子供を作らず犬や猫を飼っているのだから、これほど呆れることはない。
ライヒは、人間と動物は違う生き物なのだから一緒に生活すること自体がおかしいと思っている。動物は動物の世界で生きるべきであり、共に暮らす必要なんてありはしないのだ。
そこでふと、シュヴェイクが小説内で次のような考えを浮かべていたことを思い出した。
『なんのかんのと言ったところで、つまるところどの兵士もみな、自分の家からかどわかされて来たようなものじゃないか!』
施設での兵士達が記憶に蘇った。彼らはいわば、よく訓練された犬だったのであり、なるほど、兵士が国家の狗と呼ばれるのも納得できるではないか。
それでは自分はどうなのだろう。『星の智慧派』の信者達も、考えようによっては狗と大差ないのでは……。
「ゴット・エアハルテ!」(ドイツ語で、神よ、守りたまえ)
馬鹿な思考を振り払うように一声叫ぶと、ライヒはシュヴェイクが食事を終えるのを見計らって彼を呼んだ。
ドアのところにシュヴェイクの頭があらわれた。
「申しあげます、司祭殿、ちょうど夕食が終わったところなのであります」
「シュヴェイク、こっちへ来て私の肩を揉みなさい」
今日一日で精神的な疲れが結構溜まり、さっきから無性に肩が重かった。
「駄賃として二十ユーロ……もとい三千円あげるから、それでお酒でも飲めばいいわ」
「そういうものはいただくわけにはいかないのであります、司祭殿」
「シュヴェイク、あなたは召喚者である私の命令には絶対服従なの。いまあなたは私の命令に従って私の肩を揉み、駄賃を受け取って、一杯飲まないといけないのよ。わかった?」
「申しあげます、司祭殿、司祭殿のご命令により、一杯飲むために使うであります」
「よろしい、ではさっそく私の肩を揉みなさい」
「ご命令によりまして、司祭殿」
敬礼をして、シュヴェイクはライヒの後ろに回ると、彼女の小さな肩を揉みはじめた。
ライヒはえもいわれぬ気持ちよさにとろけそうになった。
シュヴェイクのがっしりした手が、程よい力加減で肩に心地よい刺激を与え、少女は恍惚とした表情を浮かべて身悶える。
「あふぅ……うぅ……はうん……よろしい、実によろしい!」
とライヒはシュヴェイクを褒めるのだったが、まるでいっさいの重荷をおろしたうえに、海岸の砂の上にのん気に転がって楽しんでいる人のような口調だった。
結局シュヴェイクは彼女の背中から腰までもマッサージすることになり、その間ライヒはずっと上機嫌で気持ちよさそうに安らかな幸せを満喫していた。
学生たちが春休みに入った時期のこと、こうして司祭ライヒの憂鬱な日は終わりを告げたのである。
蒼黒きシナプスの大海。
幾重にも重なり合うニューロンの真白き繊維。
複数の光が燈った。
仄かに明滅する青い光。
『これまでは万遍の狂いなく予定どおりに進行しているな』
赤い光が明滅した。
『でも、今日ヘルマイヤーのやつが入手したものってあの水晶よね? もしかしてライヒのあれに手をつけようという気じゃないかしら』
緑の光が応じた。
『だとしたところで直ぐには何もできんだろうが、警戒は怠るべきではなかろう』
そして再び、青い光。
『いずれにせよ時が至るにはまだ暫くかかる。対処だけは確実にせねばいかんな。我らの――』
記憶の断片たるニューロンと意識の始まりのシナプスに、複数の光が異口同音のごとく明滅した。
『そう――我らの未来のために』
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