袋の中の内弁慶
第23話 朔間緑子の変化
朔間緑子は、引っ越しを終えた。
荷物はほとんどない。今まで住んでいたアパートに、自分の持ち物はない。
緑子は、両親の顔を知らなかった。
中学までは義務教育で通わされた。
中学生の時に里親が見つかり、半ばあきらめていた高校に通わせてもらうことになった。
血のつながらない弟は、里親の血を引いた、本物の子どもだった。
里親は優しく、辛い思いはしなかった。
問題は、緑子が高校生の身分でありながら、公務員の身分にもなり、給料をもらい始めてしまったことだ。
里親のことは嫌いではなかったが、毎月一人で生活できるだけのお金が貰える。高校にも通える。
緑子と4人の同年齢の少女たちを戦力として管理している警察の中谷警部補の口利きで、警察の寮への入居が認められた。
都心の一等地である。独身寮であるため1LDKの間取りではあるが、月5万の家賃は格安だった。
一人になった。
決して里親や弟が嫌いだったわけではないが、緑子は全身で解放感を味わった。
薄い壁の向こうには、警察の先輩がいる。緑子は自衛隊所属のため警察官は先輩ではないが、人生の先輩であると緑子は信じていた。
狭い部屋ながら、一人だと広く感じる。
里親に頼っていた間はほとんどお金を使わなかった。お給料をもらう身分になり、貯金は溜まっていた。実際の社会人からは大した金額ではないとは、高校生の緑子にはわからなかった。
これからもお給料は貰えるだろう。ならば、身の回りの家具を買えるだけ溜まれば十分だ。
畳を敷いた部屋で、緑子は横になって手足を伸ばした。
大の字になり、うたた寝した。
ひとしきり寝て起きると、少ない荷物を紐解いた。
ホットプレートと土鍋が出てくる。
部屋に来る前に買ってきたのだ。
ホットプレートと土鍋があれば、世の中のことはなんとかなる。緑子はそう信じていた。
「うん。さすが私……」
取り出した鍋を高々と掲げ、緑子はこれから鍋の中で調理される食材に思いを馳せた。自ら誉めたのは、土鍋を買ってきた判断に対してである。
「で、中身はどうしますの?」
「うん。それはこれから……って、波野さん! どうしているの?」
緑子が機嫌よく土鍋の蓋を開けたり閉めたりしている傍らで、長い黒髪が美しい黒縁眼鏡の美少女が覗き込んでいた。
「だって、緑子さんの転居でしょ? お祝いしない理由がありますの?」
「そんなに……おめでたいことじゃないよ」
「どうしましたの? 喜んで下さると思いましたのに」
波野は黒縁の眼鏡を曇らせた。緑子がそう感じただけだろう。眼鏡を意識して曇らせることなど、普通はできないのだ。
「みんな、どう思うかなって……ちょっと心配だっただけ。私だけ、一人暮らし始めましたって言ったら……どう思う?」
「いいんじゃありませんの? 独立心があるのはいことじゃないですの? 緑子さんが最初にっていうのは、少し意外だったかもしれませんけどね。わたくしの予想では……藤原さんかと思いましたわ」
「美香ちゃんは、一人になったら生きて行けなさそうだけど……」
「ああ……そうかもしれませんわね。じゃあ、早房さんかしら。家族と折り合いが悪いんじゃないでしょうか?」
「案外、ご両親も同じだったりして」
「それじゃあ……カタギの方じゃなくなってしまいますわ」
「波野さん、酷い……」
「あらっ……事実じゃありませんの?」
「俺の名前はいつ出るんだ?」
突然窓が開き、飯塚京子が真っ赤な髪を突き出した。
「京子ちゃん、いつからいたの?」
「結構前からですわね」
飯塚ではなく、波野が答えた。
「波野さん、気づいていたの?」
「だって……一緒に来ましたもの」
「えっ?」
「俺は、人の部屋に勝手に入らないぐらいの常識はあるからさ」
飯塚がにたりと笑った。
「わたくしが常識ないみたいに聞こえますわよ」
「違うのか?」
「当然、違いますとも」
「常識のある奴が、本人の前で悪口なんか言わないんじゃねえか?」
飯塚はさらに笑みを深めた。
「あらっ、わたくし、飯塚さんの悪口なんて言っていませんことよ」
「早房さん、どこかにいるの?」
緑子が、飯塚の言おうとしていることを察した。
「ここ」
突然視界が、黄色いものに覆われた。
緑子がひっくり返る。
ただの黄色ではなかった。
女子高生の顔が、逆さまに降って来たのだ。
「ひゃあぁぁぁっ!」
「あらっ。いけませんわ。拳でなぐったり足蹴にしたりなさったら、篠原さんのお顔がぐちゃぐちゃにつぶれてしまいますわよ」
悲鳴を上げながら突き出していた緑子の拳と足を、波野が手のひらで止めていた。
「篠原さんって……美香ちゃん? どうして?」
天井から逆さまに降って来たのは、緑子の仲間の一人、篠原美香だった。
天井からぶら下がり、緑子と視線を合わせて止まっている。腕がだらりと下がり、畳を撫でていた。
「面白いからに決まっているだろ」
声はさらに上からした。
緑子が見ると、篠原の短いスカートが重力に従ってすべてめくれている。
篠原が死んだように無表情でいるのとは対照的に、天井に張り付いた長い茶色い髪をした少女がにかりと笑った。早房華麗である。
早房はどうやって天井に張り付いているのか。
手のひらの吸盤である。
自ら張り付き、さらに篠原の体重を支えるほど、力が強い。
「というか……全員そろっちゃったね……」
「わたくしたちに隠し事なんて、水臭いですわ」
「そうだぜ」
飯塚が、部屋に入ろうとする。
「京子ちゃん、わざわざ窓から入らなくてもいい……いいよ。窓から入ってもいいから、靴は脱いで」
「はいよ」
飯塚が靴を脱いで、窓から入ってくる。
「仕方ないね……」
緑子は4人を見回した。
制服はすべて違う。ただし、同学年だ。
通っている学校も違えば、そもそも通っていない少女もいる。
だが、5人は揃った。
仲間意識がある。
することは一つだ。
4人の少女は緑子の言葉を待っていた。緑子は意を決して発言した。
「せっかく集まったんだし、今日はお鍋にしようか」
「いいね。気が利くじゃねぇか」
早房が指を鳴らした。
「あらっ、まだ冷蔵庫もありませんのに?」
「お前を当てにしているんじゃないか?」
部屋を見回した波野に、飯塚が笑いかける。
「わたくしを? 確かに、お料理ぐらいできますけど……」
「違うよ。波野、緑子が当てにしているのは、お前の財布だよ」
早房がたばこを取り出し、何故かすでに設置されている火災報知器を見つけて懐に戻しながら言った。
「まあ!」
「ご免さない」
「お前も、少しは誤魔化せよ」
認めて謝った緑子の頭髪を、飯塚がごりごりと擦る。
「いいですわよ。わたくしも、引っ越しのお祝いをどうしようか考えていたところだったのですもの」
「まだ……テーブルがない」
篠原がぼそりと指摘した。
「いいんじゃないか? 畳なんだし、ここに置いて食えば」
飯塚が畳をばんばんと叩いた。
「嫌ですわ。お行儀の悪い」
波野が逆らう。
「じゃあ……多数決だ。テーブルがあったほうがいいと思う奴、手を上げろ」
「華麗ちゃんて、意外に民主的だよね」
緑子の言い方に、早房がにやりと笑う。
「昔の海賊船みたい」
篠原がぼそりと言った。
「いい喩だな」
飯塚が笑った。
「うん……似合う」
緑子が、海賊キャップを被った早房を想像した。
「あっ……朔間まで裏切りやがった」
「いいじゃねぇか。海賊、嫌いか? 流行りだぜ」
飯塚に肩を叩かれると、早房は舌打ちして話題を変えた。
「話がずれたな。鍋を囲むのに、テーブルがあったほうがいいと思う奴、手を上げろ」
全員が一斉に手を上げた。
「ちょっと、どういうことですの?」
「じゃあ、言い出しっぺの波野がテーブル。オレたちは食材を買ってくる」
飯塚が凶悪な笑みを浮かべた。当然、食材よりテーブルの方が高価である。
「騙しましたわね」
「ご、ごめん。そんなつもりは……」
緑子が慌てた。結果として、波野をはめたことになった責任は、緑子の引っ越しが原因なのだ。
「朔間さんは……テーブルを買いに行きますわよね? ずっと使うものですし、朔間さんの趣味にあわせるほうがよろしいですわ」
「どんなに重いテーブルでも、お前らなら平気だものな」
早房が言った。飯塚が、篠原に視線を向ける。
「お前はどっちにいく?」
「聞くまでもないだろ」
篠原は、天井から下ろされてから、ずっと緑子のスカートのすそを摘まんでいたのだ。
「……食材、オレと早房にまかせていいのか?」
飯塚は早房と自分を指さした。
「不安ですけど……任せますわ。お鍋ですもの。よほどのことがない限り、食べられないことはないでしょうし」
「そんなことないよ。華麗ちゃんって、とっても家庭的なんだから」
「どうして、朔間さんがそんなこと知っていますの?」
「えっ……だって……なんとなく……」
「そこは、もうちょっと頑張れよ」
家庭的と言われた早房が苦笑いをした。
「朔間の妄想だろ。で……オレは?」
飯塚が自分を指さした。
「えっ……お肉だけじゃなくて、野菜も買ってきてね」
「確かに、この二人に任せると、肉と魚だけの鍋になりそうですわね」
波野が納得した。
「それ……何か問題なのか?」
早房は、栄養のバランスというものを考慮するつもりはないらしかった。
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