第11話 不可抗力という激情

 波野潤子が練習に参加し、早房華麗はタバコを吸いに出て行った。朔間緑子は飯塚京子と2人で道場の壁に背を預け、練習を眺めていた。飯塚が緑子の喉を覗き込んだ。


「傷は痛むか?」

「ううん。平気」

「本当か? 消毒しとけよ」


 飯塚の顔が傷口に寄った。舌が伸びている。


「うん。ありがと。でも、舐めなくても大丈夫だよ」

「そうか」


 飯塚は残念そうに舌を引っ込めた。代わりに、緑子が飯塚を覗き込んだ。


「それより、京子ちゃんはお腹、大丈夫? 私覚えていないけど、殴っちゃったって聞いたよ」

「いや……まだ痛てぇ。大丈夫じゃないかもな」


 腹を擦りながら、飯塚は意地悪い笑いを浮かべた。その横に、引き摺るような長いスカートをはいた女子が座り込んだ。一服から戻ってきた早房華麗である。


「おい、折角道場に来たんだから、着替えたらどうだ?」


 相変わらずの服装に飯塚が苦言を呈するが、早房は皮肉に唇を曲げただけだった。


「あたしは朔間が誘ったから来ただけだ。別に柔道やりに来たんじゃねえよ」

「私、練習しようって誘ったのに」


 緑子は確かにそう言って誘ったが、言ってみただけである。緑子も練習をしたかったわけではなく、単に珍しい場所に行くのは、大勢いたほうが楽しいと思っただけなのだ。


「細かいことだ。気にするな」


 お下げ髪の頭部を、早房は笑いながら叩く。もともと気にしていたわけでもないので、緑子も笑顔で返した。


「それより飯塚、いいのか? あれを放っていて」

「あん?」


 髪を赤く染めた少女が顔を曇らせた。早房が何のことを言ったのか、理解できなかったのだ。日焼けした少女が、屈みこんだ体勢のままで器用に移動した。

 視界が拓けると、練習風景が目に入ったに違いない。集団で練習している輪から離れて、一組の男女が練習していた。女性の方が初心者らしく、男性に寝技の手ほどきを受けているようだ。


「波野じゃねぇか。それがなにか……あっ!」

「泉さん……っていったっけ?」


 緑子も覚えていた。キリン男を撃退したときに、中谷警部補の部下だと名乗った警官だ。


「ね、寝取られちゃうよ、京子ちゃん」


 慌てて緑子は飯塚の腕をゆさぶった。


「凄い表現するな、お前」


 呟いたのは早房だった。飯塚の顔は見違えるように反応した。


「あいつ! 俺の男を!」

「おい、聞いたか?」


 緑子の袖を早房がつつく。緑子も、驚いて口をぱかりと開けていたところだ。飯塚は顔を真っ赤にして言い直した。


「いや……なんでもない。べ、別に……あんな奴、関係ない」


 取り繕った。視線をそらす飯塚に、緑子はさらに驚いて問い直した。


「『あんな奴、関係ない』って……そんなに深い仲だったの? 波野さんなんか目じゃないって……すごい京子ちゃん」

「ち、違う。あんな男、別になんとも思っちゃいねぇって言ったんだ」


 飯塚はプイッと顔をそむけた。緑子はとても残念に思った。だからつい口に出してしまった。


「えーっ、お似合いだと思うけどなあ」

「すごい年上だろうが」

「でも……あれくらい上の方がいいかもよ。『すごい年上』ってほどじゃないじゃない。恰好いいし、誠実そうだし……私が波野さんに注意してくるよ」


 立ち上がろうとした緑子の腕を飯塚がつかんだ。力でははるかに上回る緑子も、中途半端な姿勢だったため尻をすとんと落とした。


「い、いいよ。放っておけよ」

「で、でも……」


 緑子は心配だったのだ。飯塚が男性関係で器用だとは思えない。その飯塚が、これだけ周囲を気にせず感情を表しているのだ。是非協力したいと思っていた。その隣で、早房が身をよじって笑っていた。


「ねぇ、華麗ちゃん、いくらなんでも笑いすぎだよ」

「だ、だってよぉ、こいつが、あんまりにもあっさりハマルから……」

「ちょっと待て。何だよ、『ハマル』ってのは」


 飯塚は、早房に凶悪な視線を向けた。まさしく肉食獣のような瞳だった。


「お、お前が、泉って奴のこと気に入ってたみたいだから、からかってやろうってな。波野がわざと寝技に誘ったんだ」


 相変らず笑い転げている。飯塚が顔色を変えた。赤らんでいたのが、どす黒く染まる。早房の顔が変形した。頬に、緑子の平手が吸い込まれていた。

 獣の力は解放していない。機械の力など借りなくても、緑子に宿る野生の力は本物だ。早房華麗は顔が変形したのに留まらず、体が浮き上り、壁に叩きつけられた。早房も天然で体が柔らかく、一瞬ぐにゃりと変形して見えた。


「ひどい!」


 叫んで、緑子は駆け出した。波野を止めるのだ。


「お、おい。待てよ」


 飯塚が毒気を抜かれたように狼狽しながら、なぜか緑子に飛び掛ってきた。止めるなら波野ではないのだろうか。緑子は飯塚を引き摺ったまま歩き続けた。


「利いたー」


 早房が頭を振る。しかし、まだ笑い続けていた。


「おっと、こうもしてられねぇな。下手すると、大事になっちまう」


 聞こえる声は早房のものだろうが、緑子は聞く耳を持たなかった。緑子は飯塚を引きずりながら、波野の胸倉を掴み上げた。

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