第10話 想定外の訓練

 朔間緑子は、技の型だけ教えてもらった後、飯塚に唐突に尋ねられた。


「朔間、あれ持ってるか?」

「『あれ』って……これのこと?」


 左腕にまかれた、腕時計を示した。


「ああ。それだ」


 飯塚も左腕を見せた。


「このデザイン、何とかならないのかな。肌身離すなっていうなら、もっとお洒落なのにしてほしい」

「デザインのことはいいや。これ、スイッチ入れてみないか?」


 飯塚は顔を近づけ、緑子に耳打ちするように話していた。


「なんで?」

「お前、ゴリラだろ。パワー型の奴とどう戦うかってのが、オレの課題だからよ。それに……面白そうだろ?」

「京子ちゃんもスイッチ入れるの?」

「そうだな。ゴリラのパワーがどのくらいかわらねぇし……怪我はしたくねぇ。オレもそうするか」

「……わかった。ならいいよ」


 警官たちは、乱取りと呼ばれる稽古を続けていた。時間を決め、相手を順番に代わっていくようだ。試合とは違い、立ち技のみに限定されている。

 その合間、相手が代わるときを狙い、緑子と飯塚は紛れ込んだ。いままでは素人の緑子が邪魔になるため、道場の端で教わっていたのだ。

 緑子と飯塚が、同時に腕時計型の機械に命を吹き込んだ。


『始め!』


 野太い声が響く。威勢のよい掛け声があちこちからあがった。

 緑子の視界から、飯塚が消えた。どこにもいない。これだけ人が密集していれば、消えられるはずがない。ならば、上だ。

 正解だった。頭上を、影が横切った。急いで振りあおぐ。そこにも、飯塚はいなかった。


 気がつくと、緑子の胴体に細い腕が巻きついていた。細いといっても、飯塚の腕は並の男子よりはるかに太い。ゴリラの遺伝子を覚醒させた緑子の重量級の体重が、安々と持ち上がった。

 成す術はなかった。なにも思いつかなかった。だが、体が勝手に反応した。


 体が持ち上がり、後方に叩きつけられようとした瞬間、緑子の腹筋が縮んだ。その反動で、さらに後方に勢いをつける。後方宙返りをしてから、つまり、飯塚の体の上で回転してから、飯塚の腕を逃れ、畳の上に着地を決めた。


「やるじゃねぇか」


 飯塚は、実に楽しげに言った。当の緑子はきょとんとしていた。森の賢者と讃えられ、霊長類に分類されるゴリラは、最もバランスの良い動物だ。


「手加減しねぇぜ」


 突進してきた。今度は正攻法だ。緑子の襟を右手で、袖を左手で、飯塚は教科書どおりに握ってきた。

 その勢いで技に入ろうとし、動きが止まった。緑子が、同様に飯塚の襟と袖を掴んでいたからだ。ちゃんと教わったとおりにやった。それだけだったが、飯塚は、身動きがとれなくなっていた。

 ゴリラの怪力は、ヒョウの力をはるかに凌いだ。


「ちっ」


 舌打ちをしながら飯塚は袖と衿を掴んだまま緑子に正対し、片足を緑子の腹にあてがった。

 飯塚自身は後方に寝転がろうとするかのように体重をかけた。捨て身の技、巴投げだ。体格で劣る者にとっては切り札ともいえるが、緑子には通用しなかった。

 若干、腕が長くなったような気もする。緑子は体勢を崩さず、寝転がろうとした飯塚を、両手で高々と持ち上げたのだ。


「えっと……これからどうしよう」

「投げろ!」


 横合いから眺めていた早房の声が響く。緑子はそれに従った。悔しそうな声を漏らして、飯塚が逃げようとする。

 全くの素人である朔間に、プライドにかけても負けられないというところだろう。結果、緑子が投げたのは柔道着だけだった。


「あぶねぇ」


 緑子のすぐ脇に、白いシャツ姿の飯塚が着地を決めた。男子とは違い、当然柔道着の下には白いシャツを着ている。


「あっ、ずるい」

「悪く思うなよ」


 飯塚は、柔道着を投げて振り下ろした緑子の右腕を取った。緑子がどうしていいかわからずにいるうちに、飯塚の体は宙を舞った。

 飯塚の左足が緑子の顔を覆い、そのまま、飯塚は天地を逆にして緑子の腕にぶら下がった。立ったままで、関節技に入ったのだ。腕ひしぎを裏でやる体勢である。


「痛い!」

「参ったしろ」


 従わなかった。朔間の細い腕は、ゴリラの膂力を与えられている。畳に倒れず、飯塚の体を安々と持ち上げ、投げ飛ばした。飯塚は、空中で二回転してから畳に降りた。

 このときには、周りの警官たちは既に遠巻きにしていた。下手に近づくと危ないことを理解したのだ。


 緑子が仁王立ち、胸を両手で叩いた。無意識の動作だった。緑子の周囲を、飯塚が円を描くように、舌なめずりしながら、体勢を低くして移動していた。

 両手の爪と牙が、長く伸びていた。飯塚の動作も、意識してのものには見えない。だが、獲物を狙う肉食動物そのものだった。

 飯塚が畳を蹴った。緑子が反応する。攻撃は緑子からしかけた。左腕を叩き込んだ。紙一重でかわした飯塚の鉤爪が迫った。


 飯塚の胴を、さらに緑子の拳が突き上げた。同時に緑子の喉から血が舞った。長く鋭い爪に抉られていた。飯塚の体が、緑子の突き上げた拳によって跳ね上がる。畳に転がった。

 飯塚は時を置かずして起き上がる。だがその足首を、どこからか伸びてきた、異様に長い腕が掴んだ。飯塚を引きずり倒した。


 遠ざかる敵に対して遠吠えをするかのように咆哮し、自らの胸を叩こうと拳を上げた緑子の体が、畳に突っ伏した。上に波野が乗っていた。波野は緑子の左腕をねじり上げ、機械の電源を落とした。

 緑子の体から力が抜けた。飯塚も同じ状況だった。


「全く、世話の焼ける奴だぜ」

「仲間同士で殺しあって、どうするんですの。やっぱり、わたくしがいないと駄目じゃありませんか」


 戦闘を終えた緑子は、波野と早房の声を聞きながら、反論することができなかった。意識が遠のいていた。






 意識は戻っていた。懐かしい臭いを感じた。密林にいるような、そんな臭いだった。畳の臭いかもしれない。朔間緑子は目覚めていたが、体が動かなかった。


「……ん?」


 飯塚京子の、特徴ある太い声が聞こえた。よかった。飯塚は無事なのだ。どうして飯塚の身を心配していたのか、それすらも忘れてしまった。


「お目覚めかい」


 早房の声だった。なぜか不機嫌だ。早房が機嫌よくしているところなど想像できなかったが、それにしても不機嫌だ。


「……ここは……ああそうか。警察の道場か。珍しいな。早房が自分から警察に来るなんて」

「まあな。このお嬢ちゃんに誘われると、弱くてな」


 早房が緑子を指したような気がした。緑子は早房を確かに誘ったのだ。だが『お嬢ちゃん』などと呼ばれると、照れてしまう。


「……朔間! どうした!」


 飯塚の声が裏返った。


「てめぇがやったんだろが」

「……そうだったな」


 畳の臭いがすると思ったら、柔道場の片隅だった。額には冷たい布巾が置かれていたらしい。飯塚の額から白い布が転げ落ちた。緑子の額が冷たい。きっと、同じように布巾が置かれているのだろう。


「途中から覚えていない。久しぶりに、すげぇ楽しいファイトが出来た気がするんだが」

「ほぅ。面白れぇことを言うじゃねぇか。お前……もう一歩でこいつを殺すところだったぜ」


 早房は横になっている緑子の頭をまたいだ。意識だけは戻っていた緑子がどきどきしていると、頭をつかまれた。上向かせられる。喉を晒すことになる。

 顎の下が痛む。飯塚の爪で抉られたのを思い出した。飯塚が息を飲み、自分の手を見やった。腹筋が痛むのか、手を当てて顔をゆがめた。緑子が殴ったような気がした。


「これの電源を入れている間は、回復力もあがるらしい。すぐに血も止まったから問題はねぇだろうが、本当にこいつが死んでたら、あたしと波野でお前を殺すところだ」

「……悪かったよ」


 飯塚は唇を噛んでいた。緑子は、逆に申し訳ないような気持ちになった。体は動かなかったが、声を出そうと思えば出せるのだ。起きていることを言い出すタイミングを失ってしまった。


「もしこの機械がなかったら、2人とも変化していたかもな」

「ああ」


 沈痛な顔をして、飯塚と早房が視線を交わしていた。波野がやってきた。手に缶ジュースを持っている。思わず緑子は飛び起きてしまった。


「駄目だよ波野さん、『飲食厳禁』って張り紙してあるじゃない」

「おい、大丈夫か!」


 緑子の注意を無視して、飯塚が肩をつかんだ。

 つい飛び起きてしまった。さっきの会話を聞いていたことを怒られるだろうか。

 どきどきしながらお下げ髪を振りまわして周囲を見る。飯塚と練習に入る前の情況を思い出した。


「えっと……うん。大丈夫。華麗ちゃん、来たんだね。だから、波野さん、ジュースは駄目だよ」


 缶ジュースを差し出していた波野が、顔をほころばした。緑子が注意してあったのにも関わらず、プルタブを引きあけたのだ。


「あらっ、おかしいですわね。飲んではいけないなら、どうして自動販売機があるんですの? きちんと購入したものですから、責められる筋合いはありませんわ」

「道場内で飲んじゃ駄目なんじゃないの?」


 いつのまにか、体も動く。起き上がった緑子の頭部を、嬉しそうに飯塚がつかんだ。撫でようとしたらしいが、わしづかみにされた、という感触しかなかった。


「オレには見えねぇ」

「見えていたところで、関係ねぇよ」


 早房が後押しする。


「よくないよぉ」


 緑子の抗議は無視して、飯塚と早房も缶を開けた。緑子がどうしていいかわからず缶をもてあましていると、飯塚が奪い取って無理やり空けてしまった。緑子に差し出しながら、笑いかける。


「飲まねぇと、口移しで流し込むぞ」


 緑子は、警官たちの様子を横目で見ながら従った。

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