第30話 社会的猛獣の非社会的最後
緑子は早房の手を握り、空中を散歩した。ただ落ちているというのが実際のところである。
真下に、停止した戦車を見ることができた。止まっている。凹んでいる。この世で最も頑丈な乗り物の一つである戦車が、まるで踏みつぶされたようにひしゃげていた。
事実、踏みつぶされたのだ。踏みつぶした張本人が、降りてくる緑子に向かって嬉しそうに手を振っていた。
地上まで30メートルのところで、緑子は早房の手を離した。緑子はゴリラの遺伝情報を持つ。決して身軽ではない。その分、骨密度が人間の比ではない。
戦車を踏みつぶした波野の姿が近づいてくる。戦車は、波野が立つ位置を中心に、クレーターを形作っているのがわかる。
ゾウの巨体は五トンを超える。真上から加速度をもってその質量に襲われては、戦車といえどもひとたまりもなかったのだろう。
緑子は、狙い通り波野の隣に着地した。つまり、戦車の上である。波野ほどの衝撃ではないだろうが、いったん破壊された戦車には十分な衝撃だったらしい。緑子の足元で鉄板が跳ね上がり、まるで押し出されるかのように、毛むくじゃらの塊が飛び出した。
「あら、お元気そうね」
凶暴な目つきを隠そうともしない、ほぼ全身がオオカミそのものの直立した相手に、波野は室内犬でも見るかのようにほほ笑んだ。
「みんなも直ぐにくるよ」
緑子も、オオカミ男を恐ろしいとは思わなかった。
自らの野生の力が上がっている。それは緑子自身も自覚していることだった。波野にしても早房にしても、本来の動物そのものにはできないほどの能力をすでに顕している。
オオカミに変身しただけの人間で、さらに人間としての知恵すら失った相手など、怖いとは思わなかった。
「そうですの。じゃあ、その前に終わらせましょうね」
いかにも楽しそうに、波野は口元に拳をあて、笑いながら言った。オオカミの姿をしたケダモノは、待つことなく2人に迫ってきていた。
逃げるつもりはないらしい。
「ヴォヲヲヲォォォ」
直立から四肢での移動に移り、四本の足でアスファルトを蹴った。
四肢の爪は、長く、固そうだ。犬族の習性だろうか、頭から突っ込んでくる。
緑子が前に出た。
黒い鼻柱の先端が近づいてくる。
避けなかった。
額をぶつけた。そのまま、緑子は頭を振り下ろす。
「キャウン」
そんな声を上げ、ケダモノが仰け反った。がら空きになった胴体に、緑子が腕をまわした。
背中まではとても腕が回らない。太い胴体だった。それに捲きついた腕が、鈍い音とともに沈みこんだ。
肋骨がへし折れたのだと、抱き付いた緑子は感触で悟った。
表情はわからないが、苦悶の仕草なのだろう、オオカミは首を左右に振った。
口からは泡を飛ばす。
両手の鍵爪で、緑子の白く華奢な首筋をかきむしる。皮膚が裂け、血がほとばしるのを感じた。さらに首の奥に爪が潜り込む。
緑子は動けない。
「あぶねーなぁ。もう少し注意しろよ」
オオカミ男の両の腕を、たったいま降ってきた赤髪の少女がねじりあげた。
飯塚自身は、オオカミの毛だらけの肩の上にいる。オオカミの手をつかみ、体を回転させた。
緑子が、抱いていたオオカミ男の胴体を放す。
飯塚の回転に巻き込まれ、オオカミ男が宙を舞い、結果、頭から地面に激突した。
緑子を突き飛ばし、距離を空けると、飯塚は選手交代とばかりにアスファルトに降り立った。
「来いよ」
挑発的に指を立て、舌で唇を舐めて戦闘に備えたが、状況を不利ととったか、ケダモノは逃走に移った。
オオカミ男の背後には、波野が立っていた。緑子をの肩を抱き、静かに推移を見守っている。
前後をヒョウとゾウに挟まれた。
つまり左右は空いている。そのように見えたのだろう。
すでにオオカミ男の両腕は肩から外れ、肋骨も数本完全に折れたままで、なおも高く跳躍した。
「逃げますわよ!」
「ちっ、根性無しが」
毒づきながらも、赤髪の少女の声も余裕を失っていた。逃がしてしまえば、野生の猛獣そのものだ。
再び補足するまでに、余計な被害が出ないとは限らない。
ところが、そのケダモノは、空中で不自然に停止した。直後に、まるで叩き落されたかのように、突然落下した。足首をつかんでいる手があった。
「遅いよう」
三つ網をした緑子が、飛び上がって抗議した。その相手は、一番遠い位置にいた。その腕が、ケダモノの足首を掴んでいた。
「悪りいな。こいつが飛び降りるのを恐がってよ」
早房は、背後の黄色い髪の少女を指差した。
特攻服の少女は、長く伸びた自分の腕を引き戻そうとした。毛だらけの足をつかんだままである。
ケダモノがアスファルトを引き摺られた。
「早く留めをさせよ」
特攻服の早房の声に、緑子と飯塚が視線を交差させた。
迷う場面ではない。
いつもなら、飯塚が相談する暇もなくとびかかるところだ。しかし、視線を交わしてしまったことが動揺させたのか、飯塚は一瞬の躊躇を見せた。
緑子は、もともと自分が相手を殺してしまうとは考えていなかった。2人とも、戸惑った。
一人、戸惑わなかった少女がいた。
戦車から、波野が飛び降りた。
眼鏡を指先で直しながら、ケダモノの心臓部に飛び降りた。
ケダモノの体が、踏み潰されて薄くなった。さらに、アスファルトに亀裂を走らせながら、半分めり込んだ。
「最悪の死に方だな」
好戦的な赤髪の少女すら、目をそらしていた。特攻服の少女は無言でタバコをくわえ、黄色い髪は、無線のインカムを耳に当てた。
「作業終了。目標は沈黙」
『了解』
その応答は、緑子の耳にも聞こえた。
「『沈黙』かぁ。そんな言い方もあるんだね」
確かに、『死んだ』とか『殺した』とかいうより、その言葉は美しく響いた。
緑子は、しきりに感心してみせる。
「永遠にね」
留めをさした眼鏡の少女は、潰れたケダモノの上に乗ったまま、にっこりと微笑んだ。
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