11.戦火

 逃げた。

 逃げて逃げて、逃げた。

 敵から。

 味方から。

 逃げた自分自身から。


 刃がぶつかる音。

人の叫び、うめき。

敵を呪い、味方を鼓舞する双方の言葉が飛び交う。



 山の中を駆け、つまずいて転び、一人叫び、立ち上がってでたらめに剣を振り回した。切れた枝葉の向こうに平穏がある気がして、また走り出す。

 16歳のコルナーは戦場から逃げ出した。相手は20。こちらは50。仲間を見捨てた。

 50だぞ。勝てるはずがない。

 頬を伝う汗に涙が混じっていることにも気づかない。死への恐怖。裏切りへの後悔。


 コルナーが逃げた先の藪をくぐると、やっと戦の音が遠のいた。聞こえるのが自分の呼吸だけになって、ようやく周囲が目に入る。汗と涙を拭う。

 窪地だった。辺りは急速に夜を迎えていて、間もなく視界は閉ざされる。パントタノスに土地勘はない。迷うと面倒なことになる。手近な場所で身を隠しつつ朝を待たねば。

 まず、灯だ。回らない頭を無理矢理動かし、枝を集めて火をつける。


 灯りを確保して安心し、揺れる炎を見ている内に疲れが出たのかもしれない。何分も経っていないはずだったが、気配に気づいたときは遅かった。馬より大きな熊がもう数歩先にいる。

 火を警戒しないのか? むしろ刺激しない方がいいか? 矢は間に合うか?

 コルナーはいつも考え過ぎる。そうしていつも通りなにも決まらず、後ずさりして尻餅をついた。

 熊はコルナーの弱気を知ってか、一直線に飛びかかる。


 コルナーが悲鳴を上げたのと、緑の風が熊の頭を蹴ったのはほぼ同時だった。「うわあぁぁ?」悲鳴の最後は受け手のいない質問になる。

 男の子だ。自分より頭一つ小さい、緑の髪。衝撃が軽かったのか熊はよろけながらも立ち上がる。

 続いて体の大きな男が藪から飛び出した。持った枝でいきなり熊の頭を打つ。

 旅人の軽装姿の女の子が出て来た。「よし! 晩ごはん!」と叫ぶ。

 

 三人は熊の倒し方をああだこうだと話し合う。仲間なんだろうか。男たちは喧嘩ごしにすら見える。

 なんなんだ、君たち?

 緑の髪がコルナーを見た。「キミ、誰?」

 いや、僕のせりふなんだけど。


 革のマントをきた少年と、大柄な剣士と、こんな場に不釣り合いの少女。取り合わせが妙なら出会った場所も普通じゃない。

 ここ、戦地だぞ? すぐ後ろで殺し合いをしてるんだ。

「どうした?」 男がコルナーを見る。

 また涙が出ていた。鼻が垂れるのも構わず、泣いた。



 火が温かい。当たり前のことにコルナーはひどく驚く。たき火の熱でどうにか心臓が動いているようだった。

 少女と少年がコルナーを案内した。熊を倒した場所からさほど遠くないところに、小さな洞窟があった。かがんでどうにか通れるくらいの穴の先は意外に広く、天井も高い。真上が大木なのか太い根が張り出していて、そこにフクロウが停まっていて驚く。たき火の向こうにはこの奇妙な一団の荷物が置いてある。


「ここに住んでるのか?」つい口にしてからコルナーは後悔した。こいつら、どっちの国だ? セジャビースであってくれ。パントタノスだったらおしまいだ。

 二人は顔を見合わせた。少女がためらいがちに口を開く。「あたしたち、サヌマから来たの」

「は?」サヌマ? 三国向こうの? 旅人が、どうしてこんな山中に。大体今は戦で入国なんて許可されないはずだ。

「えぇと、どうする、リケルト?」少女が緑の髪を見た。六番目の風リケルト? 変な名前。

「大丈夫、悪い人じゃない」リケルトが笑顔を見せた。「俺たち、賢者の森を探してる」

「賢者の森? あの、賢者の森?」おとぎ話の? 実在するなんて聞いたことない。

「そう、おとぎ話の。なにか知らないかな」

「…いや。俺はここ、戦で初めて来たから」

 大柄な男が熊の肉をさばいて持って来て、話は途切れる。


 バルシスと呼ばれたその男は器用に肉を串刺しにする。「ちょっと火、弱いな」そう言われたリケルトがたき火に向かって差し出すように手の平を掲げると、風が吹き込んで火が大きくなった。なんだ今のは?


「俺は火起こし係じゃない」

「俺だって肉屋じゃねぇぞ。ここ最近、薬草だ、キノコだと。俺の剣をなんだと思ってる」

「…万能包丁」

「やたー! 久しぶりに肉!」

「…カルーシャ様、言葉遣いをもう少し」

「いいじゃない。さ、食べよ」

 仲がいいのか悪いのか、それでも一団は揃って熊肉を食べ始める。


「お前も食えよ」バルシスが素っ気なく言う。「冷めるとまずいぞ…その前になくなるな」

「あぁ」食欲はもちろん、ない。

「そっちは?」バルシスはフクロウに呼び掛けたが、主のように構えていた鳥は眉を動かしただけだった。そして夜の闇へ飛び立つ。

「いらないってさ。大体フクロウが熊、食うかよ」リケルトが笑う。

「フクロウが何食うかなんて知らねえよ」


 食事が済んでも誰も動かない。たき火は少し小さくなって、枝が火にはじける他に音はない。沈黙が心地よかった。謎の一団は、自分に気を使ってくれているようだ。コルナーは口を開いた。開くべきだと思った。

「助けてくれてありがとう。セジャビース少年軍のコルナーだ。といっても即席軍だし、階級はないけど」

「あたしが訊くのも変だけど、どうしてここにいるの? あなたの国じゃないんでしょ?」

「パントタノス領域に入ったつもりはなかったんだ。パントタノスの連中が森の国境まで偵察を出したって情報が入って、驚かせてやれって指示が出て」

 本当にそれだけのはずだった。それがこんなことになるなんて。今朝はまだ冗談を言う余裕もあったのに。



 少年軍とは名ばかりで、実際は近隣の村落からこどもを集めただけの固まりだった。朝に集まり、あそびの延長のような木刀指南を受け、陽が沈めば家に帰る。大人の男が防衛に呼ばれ始めて半年になるが、月に一度はちゃんと帰って来たし、本当の戦になるとは思ってもいなかった。戦を始めるという契りも交わされる気配はない。


 今日も昼前まではいつもと変わらなかった。だが指南役のズーラーに使いが現れ、しばらく話した後、午後の出陣が告げられた。少年たちは驚いた。

「なに、パントタノスの連中が様子を見に忍び寄っているだけだ。多くて4,5名だろう。わざと全員で、正面から行こうじゃないか。こどもだって訓練していると知ったらやつらは逃げ出すぞ」

 訓練に来ていたという遠方のこどもも加わった、50名あまりで行進が決まった。初陣だ。


 少年たちはいつもより急いで昼食をたいらげた。戦闘はおろか、剣を抜くことすらないとたかをくくった。敵を驚かせてやる。うまくいけば、敵国へ大げさに報告するだろう。警戒が強まれば迂闊に手出しもできなくなる。戦わずして勝つ、だ。気分は高揚していた。誰かが歌いだすと皆が同調し、ズーラーも止めなかった。まるで散歩に出たようだった。


 だから突如武装したパントタノスの一団が現れたときは、全員が仰天した。弓をつがえ槍を構え、ぴたりと少年軍に狙いを定めている。少年たちの顔は一瞬で凍りついた。


「交戦の契りは届いておらんが」ズーラーが落ち着いてパントタノスに呼び掛けた。

「なんの約束がいるものか。お前たちはこうして、我が国土に侵入している。侵入者を打ち払うのは当然の事」

 パントタノスまで進行していた? 驚きを理解する前に、コルナーの横にいた少年が呻いて倒れた。首に矢が刺さっている。


「待て!」ズーラーが叫んだが遅かった。襲いかかる矢の雨。少年軍は散り散りになり、コルナーは大木に隠れた。既に数人の少年が伏して動かない。

 逃げなくては。セジャビースまで戻れば、戦闘の理由がなくなる。だが、ズーラーが叫んだ。

「迎え撃て! 友の敵を取り、怪我人を連れて帰るのだ!」

 ばかな。相手は大人の戦闘兵。動きをみれば訓練されているのが分かる。勝てるわけがない。


 自分でも気づかないまま、大木に登っていた。弓を持つ手が震え、落としてしまったが、合戦の中で誰にも気づかれなかった。

 少年軍は無謀にも正面から打ち合った。斬り方を知らず、逃げ方も知らなかった。操り人形の糸が切れるようにばたばたと倒れていく。


 逃げろ。逃げてくれ。

 樹上の祈りはどこにも届かない。

 パントタノス兵の一人がコルナーを見つけて矢を射た。間一髪矢を交わし、飛び降りた。

 振り返らずに逃げる。



「その指揮官はどうした」バルシスが静かに訊く。

「分からない。途中から声が聞こえなかった」多分、そういうことだ。

「愚かな」剣士は目を閉じる。

「俺、逃げたんだ。卑怯者さ」コルナーはやっとそれだけ言えた。

「そうじゃない」リケルトが強い口調になり、全員が驚く。「生き残るのは卑怯じゃないさ」


 フクロウが舞い戻り、掴んでいた赤い果実をコルナーの膝に落とす。「え」

「食えってさ」リケルトは笑った。「食って、生きろと。生きてりゃ意味が、きっと見つかる」

 コルナーは答えられなかった。おかしな一団の温かさを感じながら、また泣いた。

 いいなぁ、あたしにも取って来てよ。カルーシャがフクロウを睨んで夜は更けた。

 戦になるだろう、と全員が思い、止めなくては、と全員が誓った。



 夜が眠れないのはサヌマを離れてからずっとだ。石化したジーノを戻すには、賢者の森でなにか手掛かりを得るしかない。しかし辿り着いたのは偶然だ。森に入る確実な方法はない。闇にうずくまると時間が早く流れそうでリケルトはあせる。

 それでも体を休める気になれるのは、あのフクロウのおかげだった。どこをどう飛ぶのか、二日姿が見えないと思ったら手紙を持ってきた。トーニャからだ。ジーノは石化したものの脈打ち、その姿はうっすら輝いているという。


 異術の狭間――そういったものがあるとして、だが――ジーノは呪いと祝福の間にいる。玉座としるしの力が今のところ、彼女を守っている。だがそれがいつまでも続く保証もない。

 あせるな。自分に言い聞かせる。

 大丈夫。きっと手はある。


 寝返りを打つリケルトをカルーシャが見つめていた。

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ジートニア伝記 泉 遍理 @henry

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