≪番外≫ 月下異聞

 満月が頂点を極める時刻。褐色の布を身にまとった術使いたちが、巨大な魔法陣の中で円を描いて踊り、走り、跳ねていた。夜の闇に太鼓の音だけが響き、吹き始めた風は力強さを増す。周囲で見ている者たちは舞いに合わせて低く唸り、跳躍に大きく咆える。


 ナバロ歴482年。サヌマ国の王都、ナガヌ。満月の今夜、移動術が行われていた。ナガヌが誇る長距離高速移動術団、月下群舞が魔術飛行による越境探索に向かう。期限は1年。


 人数も距離も過去最大のこの出発を見送ろうと、多くの者が真夜中になっても家に戻らず、円形広場に集まっている。これは壮行の儀。魔術を使えなくとも、集い祈ることが大きな力を呼ぶことを人々は知っている。


 魔法陣に沿って高く掲げられた複数の松明が揺れる。音が、風が、火が、人がすべて一つとなり、円形広場は巨大な生き物になって呼吸し、唸りを上げる。湖に波が立ち、丘の上の風車がゆっくりと回りだす。その下では王家の一団が成り行きを見守っている。国王リトーニング7世の隣で息子のトーニャが食い入るように群舞を見つめている。


「リケルトはどこ?」いずれ王となる息子が尋ねた。「どうしても行かなくちゃならないの?」

「彼はまだだ。風が安定してから入るだろう」王はそれだけ答える。息子と同じまだ12歳のこどもを危険に巻き込むことに葛藤がないわけではなかった。トーニャもリケルトも、互いを大切な友だちだと思っている。駆け引きのない純粋な友情を、一時であれ断つのは父親としては心苦しい。


 戦火の噂がここまで大きくならなければ急ぎ情報を集める必要も――、いや、あの子ならいずれ自分でこの道を選んだだろう、と自らを納得させる。群舞と共に現れた子。出生の地を知りたいと願うのも無視はない。次に月が安定するのは百日後。そのときに安定した機会を得られるとは限らない。


 踊りの輪は男女合わせて12人。ゆったりした褐色の衣装にそれぞれが髪や首に飾りをつけている。同じ色の布を手首に巻き付け踊る姿が近づき、離れ、一つの渦となる様子は幻想的だった。術使いは全身から汗を流し、息も荒く、しかし目だけは未知への興奮で輝いている。


 風が強さを増す。吹き上げ、巻き込み、秩序なく大地を揺さぶる。


 群舞は肉体の鍛錬、魔法術の習得の両方を高度に修めていなくてはならない。一瞬で山一つどころではない距離を移動するのだ。体がねじれ頭と足が別々に着地しただの、一切の記憶を失っただの、陽の光と共に溶けただの、おぞましい失敗は後を絶たない。素人が真似できる術ではない。見るものは畏敬の念を抱き、ともすれば喉元から飛び出しそうになる恐怖をかけ声でかき散らす。


 未だこの成功率の低い旧式の術に頼らざるを得ないのは、敵国を飛び越えて友好国と連絡を取ることができる唯一の手段だからだ。しかし術者の本心は純粋な未知の地への憧れだった。生まれながらの冒険者。保障された安全の外へ体一つで飛び出すことに恐れはなく、心の底から喜びを感じる者たち。


 月下群舞といえど移動は自在ではなく、行先は魔法陣がある場所に限られている。しかし開拓した地に新しく陣を設ければ次からはそこまでひとっ飛びだ。今回の調査は大陸の動向を探ることと、新しく協力国を探し、魔法陣を設けてくること。できれば西に航路を拓きたい、というのが他国に囲まれたサヌマ国の願いだった。


 風の流れが一つになった。緑の髪の少年が群舞に加わり、民衆のかけ声は熱狂的なものとなった。最年少12歳で月下群舞に入ることを許された少年、リケルト。まだ衣装が大きく、手足と頭だけが出た褐色の風が文字通り宙を舞った。弾むように踊ると太鼓の音が速さを増す。それに応えるように跳ね回る少年には、重さなどないかのようだ。


 リケルト自身は決して特別なこどもではないが、赤子の彼が保護されたときの状況は異質といってよかった。先代の月下群舞が帰還した際、一緒に移動してきたのだ。最後の移動は揺れに揺れ、拠点にしたことのない地を一瞬経由したと群舞全員が証言した。その地のこどもかもしれない。


 これまでもなにかが巻き込まれたことはあったが、生き物、それも人間の子は初めてだった。原因は分からず、その緑の髪から北の大陸の生まれではないかと囁かれていた。群舞は再現を試みたがうまくいかず、リケルトはビストン孤児院で育てられることになった。そこでこどもと同じように学び、叱られて育ったがある日突然、本人の自覚がないまま異術への適応が確認された。


 遊んでいた空き家が火事になり、他のこどもが逃げ出した中、最後に涼しい顔で怪我一つなく出てきたのだ。無意識に風を操って出てきたようだった。煙を吸った様子も火傷の痕もなく、「居眠りしていたら燃えていたから出てきた」という冗談のような話は王宮にまで届き、その資質を認められ、今日の群舞入りに至る。その才は王もトーニャも何度となく目にしてきた。同じ年のこどもが仲良くなるのに時間は必要なかった。


 リケルトの月下群舞入りの目的はただ一つ、生まれ故郷を探すこと。小国での情報は限られる。こどもを最高難度の術に参加させることには慎重な意見も多かった。しかし、弱小国のサヌマにとって、優秀な異術使いの育成は常に優先事項だった。


 それに月下群舞にはリズマがいる。女性ながら武術にも長けた銀髪の24歳は、移動術において歴代最高の実力者と謳われている。今回群舞たちは到着後に3隊に分かれて探索を行うが、隊長の彼女がリケルトと一緒にいれば大丈夫だろうと最後に意見が一致した。


 群舞の動きが激しくなり、跳躍が続く。術の発動が近い。太鼓の響きが早くなる。魔法陣から暖かい風と冷たい風が交互に吹き付け、人々は宙に舞うような、しかし地面に押し付けられるような感覚の中で叫び続ける。魔法陣の文字が赤く光り、炎がちらつく。群舞の頭上に蜃気楼のような影が立ち上った。石造りの城跡。最初の目的地、タータス古城の姿を見た人々は熱狂する。

 

 群舞が走りながら力を溜めている。風が埃を舞い上げ、松明の炎が大きくなり、旅立つ術者たちが最後の跳躍を行った。トーニャとリケルトは一瞬、目が合う。リケルトは笑顔だった。

 

 行ってくる。必ず帰るよ。

 トーニャが手を挙げて応えようとしたそのとき、時間は止まり、着地したはずの群舞の姿は消えた。後には風も残らない。移動術は成功した。

 

 人々が歓声を上げた。拳を突き上げる者も抱き合う者もいる。円形広場がそれぞれの人間に戻り、止まっていた時間が動き出す。群舞が飛ぶ直前、彼らより影が一つ多かったことには誰も気づかなかった。


「酒を。広場の者にも」王もひとまずの安堵に包まれていた。あとは全員が無事に、戦争を回避するための情報を持ち帰ってくれることを待つほかない。トーニャの、友が旅立った寂しさと、大人の仲間入りを先に果たされた悔しさが混ざった顔を見て、王は息子にもよい経験になったと感じる。

 日付が変わった頃だろう。今日は佳き日になりそうだ、と思う。

 

 沸き立つ人々の中に鍛冶屋がいた。彼は一年の終わりに新しい半ガニス銀貨を盃に落とし、表の月が出るか裏の盾が出るかで翌年を占う。今日は特別、その占いを試したくなった。月は吉、盾は凶。ただし商売上、不謹慎だが戦乱が近いといわれる方が儲かりはする。誰にも言えない、自分だけで決めた占い。

 月か盾か。

 半ガニス銀貨は盃の底に立ち、ゆっくり倒れて盾を見せた。



 王が落命するのはそれから半年後。宰相シセが国王代理を務め、即日トーニャを「次の王」とした。しかし即位できるのは【王の力】が継承できる15歳の誕生日。サヌマ国は王位不在の緊急事態に陥った。1年を過ぎても群舞が戻ったという報告はなく、その年の出来事は人々に暗い影を落としたままだった。



 サヌマ史上に残るはずだった最高編成の月下群舞はタータス到着後に壊滅していた。

 飛びかかる影。闇から現れる剣。爆発する異術。タータス古城近隣の村では口々に空が燃えたと言われたが、原因は誰にも分からなかった。城跡の魔法陣では大量の死体が見つかり、「知る者のない大爆発」として真贋確かめようのない噂だけが流れた。


 サヌマにその知らせを伝える者はいない。人々は不安と焦燥にかられ、忘れることで平穏を取り戻そうとした。シセは最善の防衛として大陸とのいくつかの貿易で不利を飲み込み、列強と関係を悪化させぬよう注意を払っていた。

そうして3年の月日が流れた。一度離れた戦火が再びサヌマに近寄っていると噂は立つが、その気配が見えないことに民衆は不安を煽られていた。


 人々は姿の見えない英雄を待っている。

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