4.酒場にて
来るなよ。来るなよ。
松明を握る手に力が入りっぱなしだ。手の平にべったりと汗をかき、染み込んだ汗で火が消えるのではないかと思う。新米憲兵ラースは一人、革袋の水を飲み、また一口飲んだ。
俺は戦闘向きじゃないんだってば。しかも侵入者は異術を使うっていうじゃないか。それじゃ余計に俺なんか役に立たない。
異術の才があれば僕だってその手の仕事に就いたさ。でもなにも理解できなかったんだ。だからこんな仕事をしてるってのに。しかも腕力だってない。どうだ、俺には剣技も異術もないんだぞ! 疲れ切った憲兵は半ばやけを起こしている。
中庭で不審な花火が起こったあと、それは誰かのいたずら程度の行為だと結論付けられたが、明日の戴冠式に不測があってはならないと、夜間警備が倍増されることになった。戦闘兵は交代で仮眠を取ることにしたがそれだけでは人数が足らず、本来は支援業務の憲兵まで駆り出されることとなった。昼間城門で通行改めをしたラースは寝床に入るなり叩き起こされた。
まったく、冗談じゃない。立ち仕事で足がパンパンだってのに。おまけに、紛れこんだこどもを探すという余計な手間まで増えた。あのこども。こっちはねぎらいの言葉までかけてやったのに。大人をばかにするな。おかげで閉門まで走り回ることになった。
21になったばかりのラースが疲れと怒りに思いを巡らせて庭の角を曲がると、マントを着たこどもに出くわした。花火の件は頭から消えていた。気まずそうにしているこどもを見て、ラースの記憶が弾けた。
「お前、昼間の!」
こどもに心当たりはないようだった。「え、なに?」
「貴様、ジルーの馬車に紛れて町に侵入しただろう!」
「あ…え、そっち?」
「そっちとは、なんだ」
「…いや、てっきり、その…ね?」
「……」
ラースはようやく、最新の任務を思い出した。「貴様、ここでなにをしている!」
「ちょっと、お城を見物に」こどもらしく見えるよう、笑顔も足してみる。
「ふざけるな!」ラースは完全に落ち着きを失っていた。こども? だが、異術を使うと警戒が飛んでいた。城に押し入る気か? 今度も取り逃したら、戴冠式の前に絞首刑になりかねない。
「動くな!」と叫ぶなり、ラースは自分が動いていた。松明を捨てる。大人としての威厳なんてどうでもいい。このこどもを全力で制圧せねば。もしかしたら、今日はもう寝てもいいと言われるかもしれない。
左足を踏み出すなり腰左の剣を抜こうとして――抜けない。慌てたところで勢いだけが前に出た。燃え盛る松明を踏み抜いた。
熱い。
続けて転び、激しく顔を打つ。
痛い。
最後に聞いたのはこどものため息だった。
バルシスは夜の町を歩いていた。今日の勤務を解かれているので、今宮殿でなにが起きているのか彼は知らない。明日が早いので、一杯飲んで下宿に戻ると周囲には告げてある。
酒場には寄らなかった。まっすぐ通りを抜け、路地の鍛冶屋に入る。
「おぉ。今日は来ないかと思ったぞ」老練の鍛冶屋は半分眠りこけていた。「珍しい型だが、よく打ち込んである」
バルシスは研ぎに出していた剣を受け取った。握りは短く刀身は細いが、短剣に比べて長さがある。反りはなく、直線の一撃で相手を貫くことができそうだった。
「ただ、せり合いの保証はせんよ」鍛冶屋は続ける。「この細さで強度はぎりぎりだ。剣同士でやりあえば打ち負けるだろう」一撃必殺の暗殺用だな、とは訊かない。誰を斬るのかに興味を持ってはならない。武器はその人の人生を現している。鍛冶屋は信用商売なのだ。
「飾りでぶら下げとくだけだから大丈夫さ」バルシスは嘘をつく。
「戴冠式の正装か、この剣で? 若いもんの趣味はよく分からん」鍛冶屋は疑いを持たなかったようだ。2ガニスでいいよ、と口にする。
バルシスがガニス金貨を出すと、「銀貨は持ってないかね。新しいヤツで」と訊いてきた。
「なぜ?」
「いや、まじないみたいなもんだ」
革袋に新しい半ガニス銀貨があったので、銅貨と合わせて支払いをする。鍛冶屋から「幸運を」と予想もしない言葉が出てくる。
もうやけだ。ラースは酒をあおる。でもなんで俺、酒場にいるんだ?
覚えているのは剣が抜けなかったこと、鮮やかに転んだこと、あの忌々しい緑の髪のこどものため息――隣ではそのこどもが涼しい顔で炭酸果汁を飲んでいる――銅貨を何枚か卓に出しているところをみると、奢ってくれるつもりのようだ。それならいい。飲んでしまえ。
どうやったのか知らないが、このこどもがラースを城下の酒場に運んできたのは間違いないようだった。ラースは勝手に城を抜け出したのと、こどもと戦って負けたのと、どっちが重罪か考えようとして、やめる。
城で起きていることを教えて欲しいというのがこどもの要求だった。
噂、権力争い、誰と誰が結託したか、裏切ったか。小さなことでもいい。特にこの3年間。
「というわけでだ。先王が亡くなってから、急に剣士が優遇されるようになったってわけ。なんだよ王命三傑って。聞いたことねーよ。昼間から飲むは賭け事をするは、ろくな連中じゃねぇ」城内で言おうものなら処罰必至の暴言も、酒がなめらかに吐き出させる。
「お兄さん…ラースさんは、じゃあ異術派なんだね」
「それを言うなよ。俺はなーんも使えないの。ところでキミは、何者だ?」
「うーん、説明が難しいな」リケルトは周囲を見渡す。以前にはなかった酒場だ。顔を知っている人間もいそうにない。
「異術、使えるだろ」
「使えるね」
「それもかなり高度の」
「そうだね」言いながら、水滴を器用に手の平で転がしている。
こんなこどもが隠す様子も謙遜する様子もない! ラースはやや不機嫌になる。それでも王を襲撃するような危険性は感じない。ラースは既に、このこどもを軍に突き出す気はなかった。
「俺のことはいいからさ、ラースさん、明日のこと教えてよ。戴冠式。誰がトーニャの傍に座るとかさ」
「お前、せめてトーニャ様って呼べよ…式は市場の前の中央広場で行われる。隣国六か国全部の王が来る予定だ」
「近隣国の王が全員?」
「そ。大したもんだろ。っつっても半日の滞在だけどな。でタイノス大祭司が宣誓をして。もちろん王命三傑も並ぶんだぞ? 呼んでもいねぇのに」
半日とはいえ、この地方の国すべての王が一堂に介するのか。
「ま、キタサン地方の国で戴冠式があるときはそれが習わしだからな。王の力ってヤツ。古い習慣だよなぁ」ラースは新しい酒を注文する。
違う。リケルトは唇を噛む。
ただの習慣じゃない。【王の力】は具体的に存在する。戴冠式は異能力の継承式だ。
「あれ、お前」
リケルトはラースを担いで酒場を出たところで声をかけられた。兵士のようだ。無視すればよかった、と思ったがもう遅い。だが、声の主はラースに呼びかけているようだ。
「おいお前、新入りの憲兵じゃないのか。なにやってんだ、こんな時間に」
「えー」ラースは目の焦点が合っていない。「まぁいいじゃないっすか。この子と語り合ってたんすよ。この子すごいんすよ、異術使えて」
やめろ。仕方なくリケルトは言い訳を考える。
「あー、ちょっと荷物運んでもらったんで一杯お礼したんだけど、飲みすぎちゃったみたいで。お城まで送ります」
「待て」声の主は続ける。「そっちのお前、どこかで」今度はリケルトを見た。
リケルトも初めて声の主の顔を見る。
げ。あれは確か…トーニャのとこにいた剣士。バルシスといったか。二、三度顔を合わせたことがある。異術を否定する、分かりやすいくらいの筋肉ばか。リケルトが月下群舞の一員だったことを覚えているだろうか。
「…インチキまじないしだな?」
「ふざけんな」思い出し方がひどすぎる。
「なんでウチの憲兵と一緒なんだ?」
「だから」
「俺が連れて戻る。お前はさっさと寮に帰れ。こどもが出歩いていい時間じゃない」どうやら他の異術使いたちと混同しているらしい。都合がよかった。バスシスにラースを引き渡す。
バルシスはラースに肩を貸す。風が心地いい。振り返ると、さっきのこどもの姿はなかった。あいつ、もっと前にどこかで―?
思考を太鼓の音が遮った。人々が歓声を上げ、道という道に笑顔が溢れる。
日が変わったのだ。3年間という王位不在の長き闇が明ける日。このまま明日になるまで店はどこも開きっぱなし、市場も昼夜問わず賑わうだろう。
酔いつぶれた憲兵が目立ってはいけない。バルシスは足を速める。
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