3.策略は巡る
あれ、リケルトじゃないかな。まさか。でもね。
やっぱり髪を結んで来るんだったと後悔しながら歩いているときだった。ジーノは山と抱えた術書に潰されそうになりながら、さっきすれ違ったのはリケルトではないかと思う。思い、否定し、やはり思う。乾いた風が吹いて思わず笑った。
リケルトが走ると大抵、風が吹くよね。
ビストン孤児院でジーノより背が低い男の子はリケルトだけだった。ジーノが女の子の中でずば抜けて背が高かったこともあるが、自分より頭一つ小さな男の子が同じ年だとはなかなか思えなかった。いつもすばしこくて、よく笑うリケルト。赤子のときに月下群舞に巻き込まれてどこかの地からサヌマに流れ着いた、出自不明の男の子。
3年前、最後の月下群舞をジーノは見ていない。こどもは早く寝なさい、と寮長さんがうるさかったからだ。だから翌日、ジーノの毎日から急にリケルトだけが抜け落ちたことがしばらく受け入れなれなかったし、「月下群舞は壊滅した」という噂も信じていなかった。こどもの遺体はなかったという話があったからかもしれない。
14歳になって異術を学ぶことを許され、改めてリケルトがいかに特異だったかがよく分かる。複数の言語が混じって書かれるロロポス文章を初見で読んでいたのだ。ロロポスが読めれば異術の真似事はできる。しかし火の言葉を間違えれば口の中が火傷では済まないし、風の言葉を言い損ねれば自分が飛ばされる。
森羅万象と向き合うのは優しいことではない。成績だけなら主席のジーノでも、星読みの端くれになれればいいな、と望むのが精いっぱいなのだ。リケルトはまるで遊んでいるように手の平で火を転がしたり、乾いた土から一筋の水を掴み上げていた。それだけの力があるなら。
大丈夫。リケルトは帰って来る。
それがジーノの、いわば毎日の呪文だった。なのに目の前を走っていった男の子を見て、リケルトが帰って来たのではと思う自分を否定する自分もいることにジーノは少し驚く。3年の月日がそうさせたのかもしれない。
振り返ると、もうその姿は見えなかった。抱えた術書がなければな、と古人の叡智を恨めしく眺める。理性と感情は相反するって本当だ。と今更の真理を、見当違いに口にする。
成績は群を抜き、今年も主席が確定していても、自分に許されるのは宮殿所蔵の歴史書を読み解くことが許される程度。それで何ができるのだろう。
ただ、ジートニアに関する記述だけが気になっていた。唯一で永遠の疑問。
なぜ滅んだの?
城の廊下を一人思案しながら歩いていた男は立ち止まった。もう擦り切れるほど開き、読み返した手紙を取り出す。
ブラフールという言葉は【策略家】という意味だが、でしゃばった愚か者、成り損ないの賢者という意味も持つ。初めて自分宛てに「ブラフール殿」と記された手紙が届いたときは、意図を図りかねた。しかし今では送り主の真意が手に取るように分かる。
見極めよ。必要ならお前が王になれ。
偶然に埋まれる異能力の結晶、「しるし」を自分が手にしている。手紙に記された場所でそれを手に入れたのは3年前。それだけでも十分な幸運といえた。しかも、しるしの能力は【祝福の交換】。その希少な存在を理解したときには心が震えた。
自分と対象者の立場を入れ替えることができる力。周囲の記憶も書き換えられている。強力な催眠の類だろう。つまり。
誰かの立場を自分のものにできる。望んだときに、いつでも。
しるしを利用してトーニャに近づき、忠誠を尽くしてきた。本当に欲しいのは王の座。だが誰も就いていない立場を交換することはできない。この数年、ひたすらに機を待った。ときには王より都合のよい立場がないかも画策した。結論は変わらなかった。形式上手順に従ってきたが、あの小僧に国は任せられない。
辺りに誰もいないことを確かめ、男はしるしを取り出してみる。鈍く輝く漆黒のしるしは、その能力の絶対さを静かに誇示している。邪魔がいることは承知している。だが、あの者の余命はそう長くない。
明日。この国の王位に着座するのは俺だ。
トーニャが自分の部屋に立ち寄ったのは、ただの気まぐれではなかった。
さっき庭で感じた風。月下群舞が旅立ったあの夜の風。
シセにはわざと父の部屋に向かうと強調し、人を払うと引き返して自室の扉を開けた。灯りを点けるのももどかしく中へ入る。
寝床の衝立の裏に籠が置いてある。こどもが入るくらいの大きさが、逆さまに。昔、彼がこっそり忍び込んでいたときの、二人にしか分からない隠れ場所。
信じられない思いで籠をひっくり返すが、誰もいない。
「さすがにもう入んないよ」寝床の影に潜んでいた少年が立ち上がる。
言葉が出なかった。
「いや、驚かすつもりはなかったんだけど。庭で警備兵に見つかっちゃってさ。当たり前か。久しぶり過ぎて場所分かんなくて、ど真ん中に出ちゃった」笑顔は変わらない。
「リケルトなのか」やっと、声が出る。
頷いた少年は月明かりの中、にこっと笑う。
「うん」
訊きたいことは山のようにあった。言葉が頭から胃に落ちてしまい、互いにぶつかり、上がろうとして喉に詰まる。
「戻って…生きてたのか」
「うん」
「他のみんなは? リズマ団長は?」
リケルトは無言で首を横に振る。リズマが。武術でも五本の指に入るのに。
「でもよかった…きみが無事で」
「うん」
「なんでもっと早く戻らなかったんだ」父が死んだんだ。この国の王を、指導者を失ったんだ。それから。
「お父さ…国王の事は聞いた。残念だった。すぐに戻れなくて、ごめん。それより聞いてくれ。時間がない。明日の戴冠式、やめるわけにはいかないか」
「なにを突然。そんなの無理だ。隣国の王も来る。理由もなくやめれば国の威信に関わる」
「トーニャ、お前の命が狙われてる」
「そんなこと、百も承知だ。国王たるもの、常に近隣の脅威にだな」
「違う、そんなんじゃない」
「なんだよ、そんなのって」トーニャはつい、むきになる。
「異術でお前を殺そうとしてるヤツがいる」
「な…」
「正体は分からない。ただ【影】だけを見た」
「そんな…」
「身内で誰か、思い当たらないか」
「急に言われても…いや、多すぎて絞り込めない」
「は?」呆気にとられたリケルトの顔を見て思わずトーニャは笑う。
「否定はできないんだよ、誰に狙われていないとも」
「…そんなに恨まれてたのか? 確かにお前は昔から、ちょっと性格に問題が」
「おい。つーか俺、王様だぞ? 言葉を慎めよ」
「あ、悪い」
はは、と笑ったのはトーニャだった。肩肘張って大人とやりあう毎日だったのに。久しぶりに、そしてあっという間にあの頃に戻って笑った。
「狙われるとしたら戴冠後だろうな。戴冠前でいいなら、とっくに命を狙われてるさ」
「そうか」リケルトも同意する。狙われているのは【王の力】。事が起こるとしたら戴冠式。【影】にとって、トーニャの戴冠は絶対条件。そこまでは心配ないのかもしれない。それなら今夜は大丈夫。
扉を叩く音がする。「トーニャ様、こちらにおいでですか?」家臣が探しに来たらしい。
「じゃ俺、行くわ」リケルトは窓枠に立つ。
「待て。別に逃げる必要はないだろ」まだ訊きたいことだらけなんだ。
「どう説明するんだよ、この状況」
「堂々と名乗ればいい。月下群舞の一員だと。3年前だ、覚えている家臣も多い」
「月下群舞は壊滅させられた。この城に内通者がいる。今は名乗るわけにはいかない。多分、俺たちを襲った【影】がお前を狙ってる」
「それは…本当なのか?」
「間違いない。でも大丈夫」
「なにが」
「お前のことは、俺が守る」月下群舞を守れなかった。これ以上大切な人を。続く言葉を飲み込む。
トーニャはため息をつく。
「なんでため息つくんだよ」
「俺が王だぞ」
「その王さまちゃんが狙われてんだ」
「だとしてもだ。友を守れないヤツが、国を守れるか」トーニャは微笑む。
「勝手にしろ」リケルトは調子が狂うな、と思う。
「孤児院には行ったのか。ジーノには会ったか?」カルーシャも喜ぶ。
「いや。無事に戴冠式を見届けてからにするよ。それと、このあとひと騒ぎ起こすけど、黙っててくれ」リケルトは窓枠にぶら下がる。
「なんで余計なことすんだよ」
「騒ぎになればみんながお前を守るだろ」そう言い残して緑の髪は消える。
中庭で花火が上がったという知らせが入ったのはそのすぐあとだった。犯人不明。攻撃性はみられず、損壊もなし。ただ、やたら綺麗でした、とあきれるほど無意味な報告が入った。
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