第18話 突欲



第十八章 『突欲』



床下にこぼれているパフェ。

散乱した部屋。割れたガラス。


私はカップにインスタントコーヒーを入れ、そこに熱湯を注いだ。

荒れた胃に熱い刺激。目が覚めるといより、叩き起こされたような感じだ。

ワイシャツを着て、ネクタイを締め、スーツを羽織る。


まるで、以前、サラリーマンだった私が迎えていたような、いつもと変わらぬ朝のようだ。

ただあの時とちがうこと。

私は一般市民ではなくなっていること。

私は人を殺めても裁かれないこと。

・・・変わってしまっている。私はあの時と比べて全く変わってしまった。

では、この朝は。いつもと変わらぬようなこの朝も、いつもとは変わった朝になっているのか。


目の前に転がっている死体。

白目を向き、手足は硬直し、口からは唾液が垂れている。

私はそれを、黙って傍観している。さほど興味のない光景だった。


ふぅ。

私はコーヒーをごくりと飲み終えると、部屋を出た。

狭い玄関で靴べらで革靴を履き鍵を閉めた。

いつもは、妻が家でごろごろしているので、鍵を自分でかけることなどあまりなかった。

(これで、ここも最後か・・・特に何の思い入れのない家だったな・・・)

何というか、この家には、長い年月を生活をしてきたという感慨は何も無い。

無味乾燥とした箱庭。いや、庭は無いからただの箱か。

例えるなら、模型のようなつくられた家。

ひょっとしたら、家庭すらも誰かに作られた他人事のような感覚。

これが、サラリーマンが生涯年収を費やして求めるものの実態なのだろうか。

私は、我が家をあとにして、二度と振り返ることはなかった。


私は満員電車を避け、歩いてとある場所へと向かった。

昨晩の酒をぬくためには、多少汗をかいたほうがちょうどよい。

なぁに、急ぐ必要はない。私には時間が余るほどある。

いそいそと、時間と仕事に追われる必要などないのだ。

のんびりいけばいい。そうすれば、きっと進みたい方向へと進んでいくはずだ。

望むべき未来が手に入るはずだ。私はそう思って止まなかった。

いや、今はそう思うのが当たり前になっていたのだ。


私は、とある興信所へと向かった。

とある人物を探してもらうために。

あの少女、圷志保(あくつ しほ)

彼女は何者か?そしてどこに住んでいるのか?

私の興味はそれだけであり、それが全てであった。

私は、あの少女を探して、いったいどうしようというのだろうか?

それすらもわからないままに、私は私の心が思うままに行動するだけだった。

そして、一ヶ月が過ぎた。



雪の降る晩。

なじみの料亭で、私は酒を飲んでいた。

彼女はまだみつからない。

料亭の個室からは庭が見え、そこに雪が積もっていた。

雪を見ながら飲む酒は、なんとも言えず格別だ。

でも、私の心はそれとは別に、まだあの少女のことを考えていた。

あの少女こそ、私の突欲の原因であった。

そして、松下が死ぬ間際に残した言葉。松下は私の耳にこうささやいた。


「少女に会え・・・それが・・・おまえの・・25年前の呪縛の正体だ・・・」


松下が何故、あの少女のことを知っていたのだろうか?

少女とは、私が駅で会った少女のことを指しているのだろうか?

そして、25年前の呪縛とは、何のことだろうか?

私は最近とある考えが、頭の中をよくよぎるようになっていた。

謎の言葉をあることに当て嵌めてみると、おぼろげであるが、これらの謎に説明がつくのだった。

だがそれは、所詮、他愛のない妄想に過ぎないと、私は自分に言い聞かせていた。


ピルルルル・・・・


携帯電話に着信が入った。相手はアップルちゃんであった。

「もしもし、アップルちゃん」

「シュウちゃん、元気かや?」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

おかしなことに、私とアップルちゃんは、しばらく無言だった。

普通だったら、電話をかけてきた方が用件を言い、電話をとった方が用件を聞く。

しかし、お互いは黙ったままだった。

「シュウちゃんの探し物・・・みつかったぜ」

「・・・わかった。どこにいけばいい?」

私はアップルちゃんの電話を切ると、立ち上がってスーツを羽織った。

アップルちゃんが何故、私の探しているものを見つけたのだろうか?

いや、私が何かを探していることを、なぜ知っているのだろうか?

それが疑問ではあるが、それが何故か当然のように思えた。

それが、アップルちゃんなら・・・


料亭の外に停めてあるタクシーに乗り込もうとすると、そこに意外な人物がいた。

「河合さん・・・」

「きみは・・・」

そこにいたのは、疲労困憊した表情の後藤くんだった。

以前、同じ会社にいた彼を、私は借金地獄の道へと誘ってあげたのだ。

「さがしましたよ、河合さん」

「それはごくろうだったね」

素っ気無く会話をかわし、再度、私はタクシーに乗り込もうとした。

「待てッ!どこへいくつもりだ!」

「その手を放したまえ、後藤くん。わたしは急いでいるのだ」

「あなたはボクの人生をメチャクチャにした!ぜったいに許さないぞ!」

「なんだって?・・・はっはっは!」

「な、何がおかしいんだ!ボクは調べたんだぞ、あなたが裏の世界で行ってきた悪行を!」

「そうか、調べたか・・・」

「そ、そうだ!さぁ警察に来い!罪をつぐなうんだ!」

後藤くんは、私の腕を引っ張ったので、私はそれを振りほどいた。

「はなせッ!」

「!!」

後藤くんは私の剣幕に押され手を放した。

「今の自分がいるのは、もとはと言えば誰のせいだと思う?・・・すべて自分だ!原因も、結果も、ぜんぶ自分が起こしたんだ!それを他人のせいにしているから、おまえは腐っていったのだ!」

「うぐ!・・ち、ちがう・・・ボクのせいじゃない!」

「いや、ちがわない、おまえ自身の責任なのだ。そこをどけ」

「ううぅ・・・け、警察に連絡するぞ!」

私は、後藤くんに顔を近づけた。

「やってみろ・・・私は人を殺しても、罪を償わなくて良い人間なんだ・・・おぼえておけ」

後藤くんは押し黙り、ただぶるぶると震えていた。

タクシーに乗って料亭を後にする私。後藤くんは、そこに崩れ落ちた。

結局、負け犬がいくら吠えようが、それは負け犬の遠吠えに過ぎないのだ。

「お、お客さん・・・あの・・」

今の話を一部始終聞いていた運転手が、不振になって私に何かをたずねようとしていた。

「ああ、心配ないよ・・あの男はギャンブルによって破産した男だ。まぁ、今の時期に多いんじゃないかな?ははは」

私は明るく笑い飛ばすと、運転手はそれ以上なにも聞いてくることはなかった。


アップルちゃんが指定したバーに到着すると、私はタクシーを降りた。

店内には誰の姿もなかったので、私はアップルちゃんに電話を入れようとした。

カラン・・・

するとそこに、見慣れた人物が入店してきたのだった。

「朱雀江さん・・・」

「おひさしぶり。元気そうね河合さん」

「・・・きみも元気そうだね、みそのくんも」

「おひさしぶりです、河合さん」

朱雀江さゆりと、羽鳥みその。

久しぶりに再会した者同士の何気ない会話。

だが、本来は、こんな悠長な会話をしている場合ではないのだ。

私は、デザイアという会社の社長であるにもかかわらず、仕事を放棄し消息を絶った。

それは、会社の長であるべき人物には許されない行為なのだ。

怒鳴られたり、嫌味を言われたり、愛想をつかされて当然なのだ。

それなのに、目の前の朱雀江さんとみそのくんは、ニッコリとした笑顔で私を迎えてくれている。

アップルちゃんと待ち合わせした場所に、何故、朱雀江さんとみそのくんがいるのか?

それとも、このバーで出会ったのはただの偶然であろうか?

そう疑問に思うところだが、これも、アップルちゃんの仕組んだ余興であると察した。

今の私には、全ての謎に踏み入る権利と、全ての謎を知る権利があるのだ。

「ひょっとして、何か私に用かね?」

私はしらじらしく聞いてみた。

「別に用はないわ。でも、これからあなたは全てを受け入れなければならない・・・その覚悟ができて?」

「・・・そのつもりだよ。ここに来た以上はね・・・」

「そう、だったら私からは、もう何も言うことはないわね」

私は無言でうなずいた。

「さぁ、しめっぽい話はこれでおしまい。河合さんの前途を祈ってカンパイしましょう!」

「はい、賛成です。さぁ河合さん、すわってすわって」

みそのくんは、私の背中を押して席につかせた。

テーブルの上のグラスにはシャンパンが注がれた。

「河合さん、おめでとう、そして、さようなら」

意味深な朱雀江さんの言葉。だが、私はそれを深く考えずに聞き流し、シャンパンを喉に流した。

「うまいな・・・酒はこうしてみんなで飲んだほうが美味い」

「本当ね、できればこうしていつまでも、みんなで楽しく飲みたいわね」

私は、朱雀絵さんの顔をじっと見た。

「それは、これからはこうして飲めないという意味かな?」

私は、少しイジワルく聞いた。

「さぁ、どうかしら。ね、みその?」

「はい、お姉さま。どうでしょうか」

「ははは!これはキツイな、わはは!」

私は声を出して笑った。

そして、シャンパンを1本飲み干す。

「さて・・そろそろ行くか。あまりアップルちゃんを待たしても悪いしな」

「どこへ向かうべきか、河合さんにはわかっているの?」

「さあ、わからんな。ただ、やるべきことがわかっていれば、おのずとそれは進行していってしまうものじゃないのかな・・・」

「まぁ、河合さんったらキザね」

「ははは、そうかな?・・・じゃ、失礼するよ」

おそらく、アップルちゃんはこの店にはやって来ない。

どこかで、私が来るのを待っているのだ。私にはそれがわかる。

きっと、この店を出れば、そこにタクシーかハイヤーが止まっているのだろう。

私はそれに乗ればいいのだ。そう思ってドアを開ける私。

やっぱり・・・

そこには、一台のタクシーが停車していた。

乗客は乗っていなし、店にも客は私たちしかいない。

ということは、このタクシーは、アップルちゃんが用意してくれたタクシーの可能性が高い。

私は運転席を覗いた。すると、これは用意されたタクシーなのだということが確信できた。

タクシーを運転していたのは、二ノ宮だった。

「どうも、社長」

「ひさしぶりだな、二ノ宮。だが、わたしはもう社長ではないんだぞ」

「いえ、私にとってはずっと社長ですよ。さぁ、乗ってください」

「そうか、では、たのむ」


タクシーは走り出す。私は黙って窓の外を眺める。

「あれから私は、ずっと考えたんですよ。これからどうやって生きていこうかって・・」

二ノ宮は、私に耳を引きちぎられたにもかからわず、いつものように普通に接してきた。

耳にはまだ包帯が巻かれていたので、耳がくっついたのかどうかはわからなかった。

「そうか・・・それで、答えは出たのかね?」

「はい。結婚することにしました」

「ほう、それはめでたいな。おめでとう」

「ありがとうございます、社長。実は、もう子供も生まれる予定なんです。それで、いつまでも考えていても仕方ないから、思い切って結婚に踏み込んでみようと思ったんです」

「その選択は正しいはずだよ・・・おまえの顔を見ていればわかる」

「私は何の取柄もない人間でした。だから、またこうして運転手をやることにしました」

「そうか・・・」

それっきり会話は途絶えてしまったが、私はそれで満足だった。

自分のもとで働いてくれた若者が、生きる道をみつけ、立派に道を歩もうとしていることに。

「到着しました、社長」

「うん・・・ここか・・・」

二ノ宮の運転するタクシーが止まった場所。

それは、都心から外れた場所であったが、門が立派な大きなお屋敷であった。

「ここにいるんだな?・・・アップルちゃんが」

「・・・はい。さようです」

「じゃあ、ここでお別れだな。しっかりな・・・」

「社長・・・」

私は、二ノ宮もアップルちゃんと何らかの繋がりがあるのだとわかっていた。

だが、あえてそれは聞かないことにした。

聞かずとも、ここへ入ればそれは自ずとわかるはずだから。

私は二ノ宮に別れを告げると、その大きな門の前に立った。

和風の立派な門からは、一般人ではない人物が住んでいることが容易に想像できる。

(なるほどな・・・ここがアップルちゃんの家か・・・)

私は、その大きくて立派な門を見上げた。

その時・・・

「社長!あぶないッ!」


ドズッ


振り返ると、そこには嫌らしい笑みを浮かべる後藤くんの顔があった。

そして、手にはナイフを持ち、それが私の腹部に突き刺さっていた。

「どうしてここに・・?」

「ずっと後をつけてきたんだ!あんたに復讐するためにだッ!」

「おろかな・・・」

私は、腹部から血がしたたるのを見ながら、この男の醜さに呆れる仕草をみせた。

「このやろう!地獄へ堕ちやがれッ!」

私の腹部からナイフを抜き、再度、襲いかかってきた後藤くん。

バギッ!ドガッ!

そこに、二ノ宮が駆けつけ、手に持った木刀で後藤くんを強打した。何回も何回も。

やがて、後藤くんは白目を向いて、額から血をどくどく流しながら倒れた。

「社長!大丈夫ですか?!」

「なに、ちょっと目眩がするだけだ。なんてことはない」

「しかし・・・」

「大丈夫だと言っている・・・人間は流血しても、アドレナリンの分泌量を著しく増やせば止血できるらしいからな」

私はふたたび門の前に立つと、ぬるりと血のついた手で戸を開けた。

「では、いってくるぞ」

「はい・・・社長・・・」


私は門をくぐって庭の中を進んでいった。

立派な灯篭や、手の込んだ植木が立ち並ぶ庭の中を見ると、そうとうの金額が掛けられた庭だとわかる。小金持ちレベルではこの庭を維持することは無理だろう。

庭を少し歩いていくと、これまた立派な玄関に遭遇した。

コトコトコト・・・子気味良い音を立てながら玄関は開いた。

「!・・・」

どんなことが起きても驚かないと思っていた私だったが、さすがに驚かずにはいられなかった。

そこには、なんと、あの少女がいたのだった。

着物を着て、三つ指をついて玄関に座っていたのだった。

「ようこそおいでくださいました・・」

私は、その少女の声を聞いたのは初めてだった。

ひばりの鳴く声のような、美しくて洗練された声だった。それは私の予想通りの声だった。

「・・・きみは・・・圷志保(あくつしほ)さんだね?・・・」

「はい・・」

私はこの少女と会ったのは何度目だろうか?

いつも駅のホームで見ていたのを一度目とすると、二度目は駅のトイレ前、三度目は海の港だ。

そして四度目。やっと四度目にして、対面することができたのだ。

「いえ・・五度目・・」

「え?いまなんと言ったんだね?」

少女の口からは、小声ではあるが確かに五度目と聞こえた。

もしかしたら私は、心の中で思ったことを口に出して言ってしまったのだろうか?

「山根さんが亡くなった時・・私は駅のホームにいました・・」

「なんだって?キミがあの現場にいたというのか・・・」

山根は、奥さんの浮気相手の男に背中を押されて電車に轢かれて死んだ。

何故その場この少女がいたのだ?偶然?それに何故、山根を知っているのだ?

ひょっとして、この少女は私の心の中を読んだのではないだろうか?

「こちらへ・・・」

その少女、圷志保に招かれるまま、私は家の中に案内された。

家の中は和風の佇まいで、長い廊下から立派な庭が一望できた。

私は、圷志保の着物姿と、長い黒髪に魅せられていた。

今、私の目の前には、私を狂わせた張本人がいる。

漆黒のように煌く黒髪は、まるで天馬のたてがみのように神々しい。

私は、それを手にとって心行くまでじっくり眺めていたかった。

私は、それを実行しようとし、その黒髪に私の手が伸び、それに触れようとした瞬間。

「お足元にお気をつけください・・」

圷志保が注意を促す為に振り返ったので、私は急いで手を引っ込め、咳払いをして誤魔化した。

「うおっほん!・・・ええと、キミはその・・・」

「志保とお呼びください」

「あ、そ、そうか・・し、志保はその・・いつも着物を着ているのかね?」

私は自分でも意味不明の質問をしてしまった。

「はい、すきなんです・・着物が」

「そ、そうか・・・」

私は、その言葉を聞いて、なんだか心が暖まる気がした。

この少女、志保のもつ雰囲気が、私にそう働きかけているのだろう。


しばらく広い屋敷内を歩き、大広間を通ると、そこにはさらに巨大な空間があった。

洋風の部屋に、大きな階段と大きなシャンデリア。それはまるで、館かお城の中にいるようだった。

私が呆気にとられていると、そこに誰かの気配を感じた。

階段の上から降りてきたのは、紋付袴を着たアップルちゃんだった。

「やぁ、よく来たの、シュウちゃん」

「アップルちゃん・・・おじゃまさせてもらっているよ・・・」

階段の途中で止まり、私を上から見下ろしているアップルちゃん。

私は顔を見上げ、アップルちゃんの顔を黙って見詰める。

「まぁ、そこらへんに座ってくれや」

アップルちゃんがニッコリと笑うと金歯が見えた。

そこらへんと言われても、部屋の中央に立派なテーブルがあったので、私はそこに腰掛けた。

「ん?シュウちゃん。どうやらケガをしておるようだな?」

後藤くんに刺された脇腹から出血し、シャツが赤く染まっている。

「だ、大丈夫だ。ただのつまらないカスリ傷さ・・」

内臓に届いていないのが幸いしたのか、出血はどうやらおさまったようだ。

それにしても、極度の興奮で本当に血は止まるものだなと思った。

それは、志保のおかげかもしれない。

「そうか・・シュウちゃんが大丈夫と言うならいいが・・・おい」

アップルちゃんの合図で志保がうなずいた。

「お茶にしましょうか、お紅茶にしましょうか?」

志保がそう聞いてきたので、私はお茶を頼んだ。

アップルちゃんは階段を下りると、イスに腰掛けずに、手を後ろに組んでぶらぶらと歩いた。

そして、窓際から庭を眺めたので、私も視線をそちらに移した。

「いい夜だねぇ・・雪が積もるなんて珍しい・・・な?」

アップルちゃんは、私の方を振り返ってニッコリ笑った。金歯が見える。

「そうだね・・・何かがはじまり、そして何かが終わる・・・例えるならそんな夜かな」

「おっ!なんだか詩人のようだな、今日のシュウちゃん」

「そうかな・・そう思えるのは、やっぱり、今日が特別の日・・だからかな」

「ふぁ、ふぁ、特別ときたかや。どうじゃ、こいつでも?」

アップルちゃんは、戸棚からブランデーの瓶を取り出した。

「いや、いまはやめておくよ。せっかくお茶を入れてもらっているからね」

「そうか、志保の入れるお茶はうまいからのぉ」

ピクリ・・私は、志保という言葉に少し反応してしまった。

その様を、アップルちゃんは一瞬たりとも見逃さなかったのだろう。

アップルちゃんがブランデーの瓶を戸棚にしまっていると、そこにお茶が運ばれてきた。

アップルちゃんは、7人ほど座れるテーブルの玉座に腰掛けた。私は、そこから一番離れている下の席にいる。

アップルちゃんと私は、テーブルに置かれたお茶を飲んだ。

「志保、たしか饅頭があったはずだ。それを持ってきてくれ」

「いや、遠慮しておくよ。ちょっと糖尿の気があるんだ」

「そうか、そうか。お互い歳はとりたくないもんだな。ふぁ、ふぁ!」


アップルちゃんは、なかなか本題に入ろうとしない。

まるで、じらして痺れを切れさせ、そんな私を見て楽しんでいるようにも思える。

私は、このままでは拉致があかないと思い、話の本題に入ろうと切り出した。

「アップルちゃん、さっきの電話で、私の探している物が見つかったって言ってたけど、どういうことだい?」

「ん~・・はて、そんなこと言ったかのぉ?正直言うと、シュウちゃんにこの家に遊びに来てもらいたかったんだよ」

またはぐらかされた。これもワザとか。ならば。

「立派なお宅だね・・お金もかかってそうだけど、この場所なら人目にも付き難いね」

少しだけ、アップルちゃんの顔が反応したような気がした。手応えありか。

「何がいいたいんだ?シュウちゃん」

「私は人を殺した・・・山根の奥さん、松下、そして自分の妻を・・・」

私は、志保のほうをチラッと見た。志保は何事もなかったような顔をしている。

「私は人殺しの罪を受けず、金でそれを解決した・・・それを頼んだ人物とはどんな人物か?それに興味があるんだ」

「ワシ?・・ワシに興味あるのか?オイオイ、シュウちゃん・・」

「その人物の奥に潜んでいる者の正体を知りたいんだ!」

私達はお互いに黙ったまま、目を見詰め合っていた。

「そうかい・・じゃあ、何から聞きたいんだ?」

「まずは・・私が人殺しをしたのを、どういった方法で揉み消したのか?」

「わかった・・だが、その前に」

アップルちゃんは、志保に指で合図を送った。すると志保は、戸棚からブランデーを運んできた。

「話の前に、まずはこいつを・・・シュウちゃんも飲んでくれるよな?」

「・・・ああ、もちろんいただくよ」

ふちの厚いグラスには氷も水もない。ストレートにブランデーだけが注がれていく。

アップルちゃんがそれを手に持ったのを確認すると、私もグラスを手にした。

「では、カンパイ」

「うん、カンパイ」

ぐびり、ぐびりと、芳醇な液体が喉を通過していく。なんとも、まろやかで旨味のある液体だ。

私が半分ほど飲むと、すでにアップルちゃんはグラスを空けていた。

「あいかわらず早いね」

「なぁに、ただのアル中だ」

私も残り半分を飲み干すと、グラスをテーブルの上にタンと置いた。

「さぁ、話の続きをしようかい・・・まずは、えぇと・・そうか、殺人の話だったな」

私は無言で頷いた。

「この世の中には成功者と呼ばれる人がいる・・・大金を得た者、名声を得た者、広大な土地を得た者・・・それらをひっくるめて成功者と呼ぶ。だが、実はそれより上の人間がいるんだ」

「成功者より上の人間?」

「そうだ、成功者になくて、成功者より上の人間にあるもの・・・それは何だと思う?」

私はしばらく考えるふりをした。私にはそれがおぼろげながら解っていた。

「裁かれざる権利・・・じゃないかな?」

ニンマ~。アップルちゃんの金歯がずらりと並んで見えた。

「そうだ。金や名声を得た人間など掃いて捨てるほどいる。さらにそこから選ばれし者、それこそが、王の中の王、裁かれざる者だ」

「なるほど・・アップルちゃんはその権利を手にいれ、そして、殺人を揉み消すことができた・・」

「さぁてな~、ワシがその権利を持っているかどうかは秘密だ。もしかしたら、ワシがその権利を持っている人間に頼んだかもしれないぜ?」

「じゃあ、次の質問をさせてもらうよ」

「また質問かよ?つぎはなんだい?」

「私はただのサラリーマンだった・・・その私が何故、今のような環境にいることが出来たのか?」

「・・・意味がわからんな」

「もっと解り易く説明すると、うだつの上がらない万年平社員の私が、急に社長になれたのは、アップルちゃんや朱雀江さんとの出会いがあったからなんだ。私ひとりの力では無理だった」

「いんや、出会いはきっかけに過ぎん。シュウちゃんには素質があったんだ」

「ちがう!・・いや、仮に百歩下がってそうだとしても、どうしても説明のつかないことが多すぎる」

「説明のつかない事とは、科学でも証明されないということだけだ。説明のつかない事でも真実はある。そうすると、説明のつかない事が全て嘘だということはないんだぜ」

「それは一理あるけど・・・じゃあ、その少女はなんだい?」

「少女?・・志保のことか?志保がどうかしたのか?」

「その少女は、私がずっと追い求めていた安らぎだった・・その少女が私のまわりに何度も現れ、そして今、またこの場にいることの説明はどうつけるんだい?」

「なぁに、ただの偶然だろ。ワシが雇ったお手伝いさんが、たまたまシュウちゃんの前に何度か現れただけだろ?」

「いや、たまたま会っただけじゃない。私が海の防波堤で会った時も、その少女は心に闇を抱えた目で私を見ていた。そして、海に飛び込んだ。私の事を知っていて、それで恐れて飛び込んだんだ」

「ふぅむ、なかなかどうして。シュウちゃんはカンが鋭いなぁ」

アップルちゃんは、頭をポリポリと掻きながら、困った顔をしていた。

「しかたない、すべてを話すか。志保、こっちこいや」

アップルちゃんは、志保に何やら耳打ちすると、志保は階段を上がって奥の部屋に入っていった。

「?・・・」

「シュウちゃんにならすべてを見せてもいいだろう。このワシは何者か?そして志保の正体をな」

アップルちゃんは、ブランデーをグラスに注いだ。もう4杯目だろうか。

そして、それをグビリと一気に流し込むと、ぷふぅと息を吐き、指をパチンと鳴らした。

すると、階段の上にある部屋のドアが開き、そこから人影が見えた。

シャンデリアの光はそこに届いていなかったので、その人影の姿はよく見えなかった。

だが、その小柄な人影からは、あの少女、志保であることがわかった。ところが・・・

なんと!その姿は!


はだか


階段を下りる志保の姿は、衣服という布を一枚もつけていない状態だった。

私はその光景が目に飛び込み、思わず息と唾を飲んだ。

階段を下り、アップルちゃんの前を素通りし、私の目の前に立つ志保。

裸であるにもかかわらず、恥ずかしがりもせずに、恥部を隠しもせずに。

志保の裸体は、私の眼から外れることはなかった。私の目が外そうとしなかった。

そのきめ細かな白い肌。きゃしゃであるが、局所に丸みを帯びた女性らしい曲線。

美しい・・・可愛らしい・・・そして素晴らしい・・・

私の股間ははちきれんばかりに、溶けた鉛のように熱くなっていた。

おもむろにズボンのジッパーを下げ、一物を引き抜くように取り出した。

そして、渾身の力を込めそれをしごいた。

二度!三度!四度!

ひとしごきするたびに、私の脳内からは得たいの知れない分泌物が放出するのがわかる。

口元からはよだれが垂れるほどの快楽の頂上、快楽の終着駅、快楽の最終戦争!

そこで私は迎えた。全身の毛穴から噴出す生命感と、例えようのない悦びを。

志保の体には、私の生命力が噴きかけられた。

志保の表情はなにひとつ変わらない。頬から顎に垂れる液体を拭おうともしない。

私はハッと我に返り、アップルちゃんを見た。

「ふあっ、ふあっ、どうしたい、シュウちゃん。そんなに驚いた顔しちゃってよぉ!」

私は何も言えなかった。何も言い返せなかった。

私は私のした行為を理解しているが、私は私のした行為の意味を理解していない。

自分でも、どうしてここまでの行為をしてしまったのか、皆目検討がつかない。

(・・・こ、これが・・・) 私は心の中で思った。

「そうだ、これがシュウちゃんの突欲だ」

アップルちゃんは、私のズボンから垂れ下がっているものを見ると、ペロリと舌なめずりをした。


突欲・・・

私は、ただ呆然としていた。

私がここに来たのは、アップルちゃんの正体を暴くため、私の身に起きた出来事を整理するためだった。だがしかし、私はこともあろうに、我を忘れて突欲のおもむくままの行動をしてしまった。

自分でも思いがけない衝動を心の底にもっていた私。

それを見事に、アップルちゃんによって暴かれてしまったのだ。


「志保、着替えてきてえぇよ」

アップルちゃんがそう言うと、志保は何事もなかったように一階の奥の部屋へと去っていった。

「ワシがこれで何をしたかったかわかっただろ?ワシはシュウちゃんのそんな姿を見たかったんだ」

「・・・まさか?・・・」

私の脳裏に、ある出来事が浮かんだ。

それは、以前バーで酔っ払って記憶を失った時の、お尻の痛みだった。

「おっと、そっちの気はないんぜ。そっちは松下の趣味だぜ」

「!・・・なんだって・・・松下が・・・」

そうか、松下は、私の事を執拗に気にかけてくれていた。

それは友情なんかではない。もっと、さらに先の、男と男の付き合いを求めていたというのか?

そういえば学生の頃、妙に私と一緒に帰ろうと誘われたことが何回かあった?

あの頃から、松下は男性に興味があったのだ。それならば納得できる。

「松下は同性愛者だったのか・・・」

「そうだ。金があっても本当の愛は手に入らない・・そう思ったヤツは、ワシに自分を売った」

「自分を売った?どういうことだい?」

「正確にはワシと取引をしたんだ。松下の求める物を与えることで、ワシの欲する物を手に入れた」

「わからない・・・言っている意味がぜんぜんわからない!」

困惑する私を尻目に、アップルちゃんは話を続けた。

「朱雀江さゆりと、羽鳥美園・・・あのふたりにも、松下と同じ共通点があったはずだ」

「朱雀江さん達と松下の共通点?・・・あっ!お互いとも同性愛者だったことか・・・」

「そうだ、あのふたりもワシに自分を売ったんだ。だから、ワシはそれを買っただけだ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ・・さっきから売ったとか買ったとか言っているけど、一体何を売り買いしたんだい?」

「・・・それは・・・時間だ・・・」

アップルちゃんは立ち上がった。そして、窓際に向かって歩き出した。

「さゆりん・・いや、朱雀江さゆりは、もとワシの愛人だった・・・」

「!・・・」

「だが、あいつはワシの金が目当てだった。金の力で好きなことをやり、気に入った女を手にいれるためにワシの愛人になったんだ」

「そ、そんなことがあったなんて・・・なら、ならば!みそのくんは?」

「ご存知の通り、さゆりんの毒牙にかかった女・・・だ、みそのんもそれを自ら望んでいたんだ」

「みそのん?・・・みそのくんのことか」

「ワシは、さゆりんと松下の時間を買った。松下の会社もワシが世話をしてやったんだ」

「松下も、朱雀江さんと同じく、自分の突欲のために自分を売ったというのか・・・?」

「自分を売るということは、代償としてワシに金を払わせるだけではない」

「事実上、その人の時間を買った・・・その人の人生を買ったということか・・・」

「そのとおりだ。そして、ワシは破格の金を払い、もうひとつある条件をつけた。それは、ある人物の監視だった」

「ある人物の監視・・・」

「監視とはいささか違うかもしれない。監視というよりは、影響・・だな」

「影響だって?・・」

「ある人物の人生に影響を与え、ワシの思い通りに操作させる・・それこそが、ワシの突欲だ!」

「!・・・・・」

私は言葉が出なかった。いや、出せなかった。

アップルちゃんの話を聞いて、すべてのつじつまが合ったのだ。

いままで悶々としていた謎が、これで全て繋がった。

アップルちゃんの突欲とは、ある男の人生の操作。

その人物とは・・・?

「それが、シュウちゃん・・・アンタだのことだ」

「・・・・・・」

「どうだい?怒ったかい?」


怒る・・・というより、怒って良いのやら悲しんで良いのやら、頭の整理がつかなかった。

もし、仮に、アップルちゃんの言うとおりに、私の人生が操作されていたとしたら、それは他人が手を出して良い代物ではないことは明白だ。

だが、私は。今の私は、今の自分が嫌いなのか・・・そうではない。今の自分が気に入っている。

昔のように、うだつの上がらない一生を、兎小屋購入のためだけに働く人間ではなくなっている。

社長にもなれたし、金も手に入ったし、自由も手に入った。そして、楽しい仲間達も。

これが操作された人生だとしたら、私は感謝しないといけないのではないだろうか?

操作されたと言うより、人生を良い方向に変えてくれたと言うべきではないだろうか?

しかし、わからないのは、何故、アップルちゃんは私のようなどこにでもいる普通の人間の人生を操作したかったのだろうか?もっと、特別の、面白味のある人間を選んだ方がよかったのではないか?

まだだ・・まだ、この男の全ての謎が解けた訳ではない・・


「でも、なぜ私の人生なんか・・・」

「ふぁ、ふぁ、どうしてかなぁ。お、雪がやんだようだ、どれ・・」

アップルちゃんは、大きな窓ガラスをカラカラと開けた。

「ワシは子供の頃から雪を見るのが好きだった。寒かったら言ってくれよ、暖房を強くするから」

部屋の中に冷たい空気が入ってくる。私は少し身震いをした。

まてよ・・・

松下は死ぬ間際にこう言っていた。『25年前の呪縛』だと・・・

私の年齢が53歳だから、今から25年前は28歳の時だ。

28歳の頃の私はどうしていただろうか?・・・

たしか、結婚したのは25歳で、盲腸の手術をしたのが26歳の時だった憶えがある。

28歳、28歳・・・

「あッ!!」

思い出した・・というより、その記憶は、私自身が深く閉じ込めて封印しておいたのだ。

思い出したくない記憶・・・それは、子供の死であった。

私の娘、『絹』は、生まれたときに産道に詰まり仮死状態で生まれてきた。

なんとか順調に育っていくように思えたが、1歳を迎えると、突然死んでしまった・・・

よちよちと歩き、言葉にならない言葉を喋り、まん丸とした穢れのない目で、絹はいつも笑っていた。

それが、朝起きたら呼吸をしていなかった。


「まさか、アップルちゃん・・・」

「ん、どうしたい、シュウちゃんもこっちへ来て庭を眺めんか?」

「まさか!アップルちゃん!」

私の胸の鼓動が爆発し、それは怒りとなって放出していった。

アップルちゃんは、私の怒鳴り声に振り返りもしなかった。

「どうしたんだい・・・大声だして・・・」

「まさか・・・絹を殺したのは・・・」

「その名は、シュウちゃんの娘の名前。でも、ワシじゃない。殺したのはワシじゃない・・」

ウソだ!

アップルちゃんは知っている。私が28歳の頃から私を知っている。

そして、アップルちゃんは、その頃から私の人生を操作していたのだ!

私は、驚くよりも震えが止まらなかった。

そんなに昔から私の人生を操作していた。いや、狂わしていたとは!

「ワシじゃあないよ・・・ワシじゃあな・・・」

「うっ!!」

私の脳にある推測が生まれた。その推測をした途端、私は激しい吐き気に襲われた。

「まさか・・まさか、絹を殺したのはッ!」

アップルちゃんは、振り返ってニンマリと笑った。

「それは、あいつ!私の妻がやったことだと言うのかッ?!」


激しい激痛に私の脳が揺れる。

そして、口からは吐しゃ物が吐き出され、その場に崩れこんだ。

あってはいけない、あってはならない事実。

他人の人生を操作するためとはいえ、赤ん坊まで殺めるとは・・・

しかも、その犯人は、私の妻であった。

すると、25年間私はずっと妻に騙され続けていたことになるのだ。

衝撃の真実に、私の突欲はどこへいこうとしているのだろうか・・・

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