第17話 突甘



第十七章 『突甘』



私はいま、パフェを食べている。

50歳を過ぎた中年が、とある喫茶店で頼んだ食べ物。

私はそれをはじめて食べた。


甘くて冷たいアイスクリームが、おかしなガラスの器に入り、フルーツやスナック菓子のようなもので満たされている食べ物。

私は、それをスプーンですくってひとくち口に入れてみる。

キーン・・・

冷たいアイスが歯にしみる。そして甘い。

なんというか、饅頭のあんことはまた違う、まろやかで優しい甘さ。

私が子供の頃といえば、アイスキャンディー屋さんが、自転車でよく売りにきていたものだ。

それから考えると、目の前にあるパフェという食べ物は、どこかの貴族が食べるような豪華な雰囲気を醸し出している。


ふたくちめを口に放る。

キイィーン・・・

ダメだ、ものすごく歯にしみる。こんなもの食えたものではない。

私はそれをふたくち口に入れただけで食べるのをやめ、暖かい緑茶を頼んだ。

あぁ、あったかい。

雪の降りしきる山の中で、温泉に入ったような気持ちよさだ。

私は何故、このようなものを注文してしまったのだろうか?


動揺・・・なのかもしれない。

それは、これから会う人物が、私をそうさせているのかもしれない。


平日の昼下がり、街中の喫茶店に私達はいた。

今日はいい天気だった。

店の大きな窓ガラスからは、暖かい日差しがさんさんと降り注いでいる。

秋になって少し肌寒いので厚着をしたせいだろうか?

私が、パフェというメニューを注文した理由はそれだからなのだろうか?

だが、そんなことはどうでもいい。

暑いときに冷たいものを頼みたくなるのは、暑い空気を涼しくしたいからなのだ。


私は、もういちどパフェに挑戦しようとした。

スプーンでアイスをどかし、その下のスナック菓子のようなものをすくう。

だが、それを口に入れようという気は起きず、結局、スプーンを置いて食べるのをやめた。

私の座っている右斜め前方に、若い女性がふたり座っていた。

その格好は、今時の若者という服装で、髪を茶色く染め、ツメを真っ赤にしていたり、ツブツブのようなものをつけていたりした。どうやら未成年のようだ。

そいつらの話し声がまた大きく、まわりにまで声が聞こえるほどだった。

聞きたくないのだが聞こえてしまった話の内容は、誰と誰が付き合っているとか、どこそこの店の何が美味しいとか、本当に幼稚でくだらない内容の話だった。

私はくだらないなと思いつつ、そいつらを冷ややかな目で傍観していた。

すると、ツメにツブツブをつけた女が、私の視線に気付いたようだ。

もうひとりの女に耳打ちすると、私の方を腐った魚でも見るかのような目で見てきたので、私はそいつらをジッと睨みつけてやった。すると、そいつらは気味悪がって私の視線を急いではずした。

クソガキどもめ・・・

おまえらが粋がって生きていられるのは、すべて親のスネをかじっているおかげなのだ。

クソガキどもめ・・・

おまえらみたいなクズは、大の大人は本気で相手にしないんだよ。

クソガキどもめ・・・

せいぜい社会人になってボロキレになるまでこき使われるがいい。

クソガキどもめ・・・

クソガキどもめ・・・!

クソガキどもめぇッ・・・!!


「なんだ、もう食べないのか?シュウちゃん」

私は突然の声にびっくりして顔を上げた。

そこには、白いスーツに身を包んだアップルちゃんがいた。

「あ、ああ・・どうも歯にしみてね・・・」

アプウウrちゃんは椅子にこしかけると帽子をとった。

「そんならワシにちょうだい」

「別にいいけど・・・同じものを頼もうかい?」

「いんや、シュウちゃんの食べてるやつでいいよ」

「それなら、どうぞ」

私は、パフェをアップルちゃんの前にすすめた。


ガシッ!


突然、アップルちゃんは私の手をつかんだ。

はっと顔を上げる私。アップルちゃんの顔は私の手をジッと見詰めていた。

「この手・・・」

「え?」

「この手でふたりの人を殺めたんやな・・・」

「う・・・」」

私は、とっさに掴まれた手を引いた。

「はっは!冗談じゃ!ちょっと悪ふざけをしてみただけじゃよ」

「・・・あ、アップルちゃんには申し訳ないと思っているよ・・・」

「なぁに、ふたりくらい人を殺したくらいで落ち込まんでもええよ!」

アップルちゃんは店内に聞こえるくらいの声で言ったので、私はあわてた。

「ふあっ、ふあっ、大丈夫だって!シュウちゃんは心配症じゃのう!」

心配性とかそういう問題ではない・・・私の額に冷や汗が流れた。


私はしばし考え込んだ。

私は確かに松下をこの手で殺めた。それは事実だ。

あの瞬間、私は奴に殺意を抱いた。それも事実だ。

だが、松下のようにおせっかいな性格が嫌いだったわけではない。

いや、むしろ私にとっては有難かったのかもしれない。

突欲によって一変した私の人生。

喜びもあったが、そこに迷いや葛藤がなかったわけではない。

誰かにすがりたい、誰かに助けて欲しいと願った部分もあったのだ。

松下はおせっかいであったが、私のことをいろいろと手伝い、助けてくれた。

私が会社からいなくなれば、心配して探しにくることもわかっていたことだ。

なのに、私はそれを拒み、こともあろうに殺してしまった。

はたして、その行動は正しかったのだろうか?

ひょっとしたら、間違っていたのかもしれない。

いや、世間一般的に言えば、殺人を犯すこと自体が完全に誤りなのだ。

私は後悔しているのか?己の絶対的自信によって行動した行為に、私は後悔しているのか?

たぶん私は、後悔している・・・


「シュウちゃん・・・」

「な、なんだい?」

アップルちゃんは葉巻に火をつけると、それをスゥっと吸い込み、静かに吐き出した。

「後戻りするなや・・・」

「!」

「自分の進んだ道を後悔したならば、それは己が悪であることを認めたことになる・・・」

「し、しかし・・・」

「己を悪と認めたなら、それは生きる価値を見失ったことになるんじゃ・・・」

アップルちゃんは、もう一度煙を吐き捨てた。


アップルちゃんの言っていることは滅茶苦茶だ。

だが、私にはその意味がなんとなく理解できる。

アップルちゃんという人間が、たとえ悪を行っていても、こうして胸を張って生きていられるのは、自分を悪だと認めていないからだ。

認めない悪は正義にもなるのだという絶対的自信。

傲慢であるが故の定義。

そもそも、正義と悪を定義した人間は、正義なのか悪なのか?

悪の人間の定義した善悪は、正義の人間が定義した善悪よりも悪が強い。

正義の人間の定義した善悪は、悪の人間が定義した善悪よりも正義が強い。

そうなると、正義か悪か、などという陳腐な言葉は意味がないことになるのではないか?

わからない・・・というより、わからなくて当然なのだ。

不完全な人間が定義した不完全な定義。

それに従う道理は、不完全な人間である我々にはないのかもしれない・・・


私は黙ってアップルちゃんの顔を見詰めた。

「どうやら・・わかってくれたようだの、シュウちゃん」

「ああ・・・罪だと認めるということは、罪を犯したということだから・・・だろ?」

「そうじゃ、本来それが逆であるんじゃが、それを逆だと決めつけることはないんじゃ」

「私は人を殺したくて殺したんじゃない。殺されるべきであった男がいたから殺したんだ」

「それでいい。というより、そうするべきなんじゃ」


そうだ・・そうだ・・そうだ・・

私は何も間違ったことをしていない。

それはアップルちゃんのおかげで確信に変えることができた。

私は、この相手ならば、包み隠さず全てを話してもいいと思った。

それに、私の犯した罪を全て知ってしまっているのだから、それも当然だ。

「松下は・・・」

「ブタ下、じゃろ?」

「どうしてそれを・・・」

「ふぉ、ふぉ。なんとなくじゃ」

アップルちゃんは、私が松下を殺した現場にいたのだから、私たちの会話を聞いていたとしても不思議ではない。ならば、私が隠し事をしても意味がないだろう。

「ブタ下を殺したいと思ったのは、何も今に始まったわけじゃない・・・高校の時から、私はあいつを殺してやりたかったんだ・・・」

「だから、その時がきただけか」

「そ、そうだ・・・とにかく、目の前から消えて欲しい目障りな存在を、私は消しただけなんだ」

「金が欲しけりゃ貯めればいい、女が欲しかったら奪えばいい、人を殺したかったら殺せばいい・・」

私とアップルちゃんは見詰め合った。

私は、アップルちゃんとガッチリ握手をした。

そして、札束の入ったアタッシュケースを渡そうとすると、またもアップルちゃんは拒んだ。

私は、もう一度アップルちゃんの手を強く握った。

「ところでシュウちゃん、パフェはほんとにいらのか?」

「ああ・・もうひとくちもいらないよ・・・」



やがて、昼過ぎになって休憩をするサラリーマンが店内に増えてきた。

コーヒーを注文し、喫煙席でタバコを吸い、新聞や週刊誌を手にとって読む。

私はそれが鬱陶しくなった。

そんな当たり前の風景が、とても鬱陶しくなった。

スーツを着て、ネクタイを締め、書類の詰まったカバンを持つ、サラリーマンファッション。

どこからどう見ても、サラリーを稼ぐためだけに存在する存在。

以前の私もそうだった。

金を稼ぐことが、自分の夢に近づくことだと思って疑わなかった。

生活するために金を貯め、マイホームを買うために金を貯め、老後のために金を貯め。

金を貯めることが一番であり全てだった。

いや、金が全てだとは思わなかった。

だがそれは、所詮、自分の心がそう言い切るのを許さなかっただけだ。

金が全てだと思うことは、同時に虚しいことだと実感することなのだ。

だから、それを誤魔化すために、人々は、趣味や、子育てや、別の事で満足しようと自分を偽る。

私はそこに、昔の自分自身を投影していた。

ドブ川に死んでいる、腐った魚の目のように、ぼうっと虚空をみつめる自分。

ああ、おまえは苦労したんだな。

鬱憤を押さえ、憤慨を我慢していたんだな。

張り叫びたくなるような衝動を抑え、自らを殺していたんだな。

生きていたくても生きていなかったんだな。

可哀相に。惨めで情けなくて浮かばれない。

それが以前の私だったんだな。

だけど、今の私は何なのだ?


私は喫茶店から出ると、街中をとぼとぼと歩いた。

街は機能している。

それは、街という生き物がいて、勝手に生きているわけではない。

街を形成する建物、ビルやお店やマンション。

そして、そこを経営したり、住んだりしている人間がいる。

当然、その人間にも感情はあるわけで、その感情があるからこそ、よりよい暮らしを求めたり、よりよい収入を得るために生きる。

だからこそ、この街はこうして生きていられるのだな。

当たり前のようで、その仕組みを考えると、なんとも不思議なものだ。

無機物の集合体であるこの街を支えているのは、人間に備わっている欲という感情なのだから。

そうすると世界は?

この世界は何のために、誰のおかげで世界というものを構成しているのだ?

海と陸があって、山と川があって、砂漠と氷山があって、雲と空と空気。

そこに住む生物。魚、鳥、獣。

それらの集合体が、この世界であり、この地球であるのだな。

そうすると?

ここに人間なんていなくてもいいんだろうな。

地球という一個の存在を定義するのに、別に人間はいなくても良い存在なのだろうな。

私のまわりには、別に存在しなくてもいい人間どもが歩いている。

夢をもつものもいるが、夢をもたないものもいる。そんなことはどうでもいい。

この地球が存在するために、私のまわりを歩いている人間の命は消えても問題ないのだ。

殺したい・・・

というか、生命を絶ってやりたい。

それが、もしかすると優しさにつながるのではないか?

いや、もしかしなくても、間違いなく地球にとって優しいのだろう。

私は偽善者ではなく、本当に地球にとってためになることをすることが出来るのだ。

ここにいる人間の生命を消すだけで、私は報われる。

私は横断歩道の真ん中に立ち止まり、両手をあげて大声で叫んだ。

それが天に届き、地球全体に響き、宇宙にまで浸透していった。

しかし、私を見る若者やサラリーマンやOLは、私のことをただの気ちがいだと思っているだろう。

宇宙に対するメッセンジャーも、ここではただの愚者に過ぎない。

私は事の矛盾を感じた。

宇宙の理は絶対であるはずなのに、この地球の日本の街というくくりでは、それが通用しないのだ。


横断歩道が赤になり、私を道路の真ん中に取り残し、車は動き出していく。

車のクラクション。運転手の怒声。それらは私を殺そうとしているのだ。

社会のルールでは、信号の赤は止まれ、青は進めなのだから。

それらを見て判断すれば、車の行っている行為は正しい。

だが、今の状況で、私というひとりの人間が危険にさらされていても、それは正しいのだろうか?

赤信号を無視した車は悪い。では、赤信号を無視した人間は?

これも人間が悪いと思うが、では、それならば車は人間をひき殺しても良いということではない。

車に乗っている人間は、青信号で車が通過してもよいのに、道路の真ん中に人がいるのが悪いという大義名分を手にしたのだ。

やつらの目は、私のことを疎ましく思っていると同時に、一度でいいから人間をひき殺してやりたいという願望にとらわれているのだろう。

この場合、どっちが正義か悪なのかを定義すると、社会ルールでは私が悪いが、人間ルールだと車が悪いことになる。

視点を変えることによって変化する結果。

こんなものが、人が信じてよいルールと呼べるのだろうか?

こんなものが、不完全な人間をさらに不完全にしているだけなのではないか?

ダンプカーが突進してくる。だが、私は避けない。

ダンプカーの運転手は、一瞬でも私をひき殺しても私が悪いと認識したはずだ。

だが、道路交通法上、それでは自分も悪くなってしまうので、そうなりたくないために、私を轢くのを躊躇したのだ。それでやっと脳から命令された信号が足に伝達し、嫌々ブレーキを踏んだに過ぎないのだ。

私はダンプカーの運転手にこう言ってやりたかった。

「おまえは自分勝手な生き物だ」、と。

横断歩道付近は、ダンプカーの停止によって渋滞していた。

私はその隙に、何事もなかったように横断歩道をわたると、人ごみに姿を消していった。


虚しい・・・

すべてが虚しい。

私は社長になって多額の金を手に入れることができた。

裏と表の療法の世界で仕事をし、充実を手に入れることができた。

そして極めつけは、人を殺しても、罪を受けることはなくなった。

いくら社長や有名人になって大成功し、巨万の富を築いたとしても、統治国家の法の前には逆らうことはできないだろう。

私は手に入れたのだ。それらに抗わなくともよい運命を。

だが、それでも。

私の心の器は、充実と安心で満たされることはない・・・


ふと気がつくと、私は駅の前にきていた。

そこは同時に、私が以前勤めていた会社の近くでもあった。

思い返すと、ここには様々な思い出がつまっている。

いや、思い出したくない過去が詰まっているといっても過言ではない。

ここで私は、あの少女の姿を追い求め、そしてここで自分を失った。

普通だったら、二度と近づきたくない場所のはずだが、私はここに近づこうとしている。

何かが変わるわけではないのに、何かを求めるように、私は駅のホームへと向かった。

人々の活気があるように見えて、実は無機質な空間。

駅のホームに来ると、ちょうど電車がやってきた。

今は午後なので、それほど込み合っているわけではないが、それでも、そこそこの人数が電車に乗っていた。

私はそれを無関心に傍観する。

誰ひとりとして、意味もなく電車に乗っているひとはいない。

すべての人が皆、何か目的を持ってこの電車に乗っているのだ。

言うなれば、この電車は、目的を持った生命をある場所まで運んでいるのだ。

とすると、その価値は多大だ。無意味ではない。

その電車に、以前の私も乗っていたのだと考えると、少しだけ誇らしげに思える。

私は、いつも通勤時に降りるホームとは反対のホームへと向かった。

あたりを見回す。何も変わった様子のない普通のホーム。

そこに、あの少女の姿はない。

私は残念がっている?あの少女に会いたいのか?

会ってどうする?おひさしぶり、とでも言うつもりか?

・・・そんなことを考えても意味はないか・・・

あの少女と再会するわけでもないし、再会するために探すつもりもない。


私は駅のホームから改札口を通って外に出た。

あの時、私は少女に破廉恥な行為をし、犯罪者として捕まる一歩手前だった。

私は、あの時の記憶を思い出し、走って逃げた道を通ってみた。

あの時、絶望を実感した私は、恐怖と戦慄に怯えていた。

私は、ここでアップルちゃんとはじめて出会ったのだ。

あの時、ただの老人だと思っていた人物は、私にとってかけがえのない友人になった。

私は、その瞬間から生まれ変わり、突欲に目覚め、まだ見ぬ世界へと潜っていった。

あの時、私は今の自分を想像できただろうか?いや、それはない。

私は、自分の今の自分を選択してきたつもりでいたが、結局、時間という海を流されていたのだ。


私は、駅前でタクシーをひろった。

「○○海岸まで・・」

「はぁ?」

私の行き先が聞こえなかったのか、タクシーの運転手は再度聞き返してきた。

その海岸が、ここからかなり距離のある場所なのは、運転手にとって幸運だったのだろう。

遠くへ行って距離が伸びれば伸びるほど、運転手の見入りも大きい。

運転手はニカッと笑い、愛想がよくなったのを私は感じた。

そりゃそうか。最近のタクシー業界は、自由化に禁煙に値上げとくれば、客の取り合いになるのも当然であり、生き残るために必死なのだ。いやはや、頭が下がる。

純粋に真面目に労働しても報われない世界は、どこにでもあるものだ。

それは何だ?誰が悪いのか?

単純に政治家か?それとも協会か?

それとも、金を払って利用しない一般市民のせいなのか?

誰のせいでもないが、誰かのせいであるのは確かである。

その原因を追究し、その責任を負わせるのは、百歩譲って、まぁわかる話だ。

だが、それからどうするのだ?

責任をとってどうするつもりなのだ?

お互いがお互い同士に責任をなすりつける行為に、何か意味はあるのか?

あるのかもしれないし、ないのかもしれない。

あると言えばあるし、ないと言えばない。

あるか?ないか?それを私は知りたいのか?どうしても知りたいのか?

知りたいという興味に反し、知りたくないという面倒くさい感覚もある。

どうすればいいのだろうか?どうしたくもないのだろうな・・・たぶん。

いたずらに知りたいという感覚の、錯覚を増大させることにより、私は未知なる興味心を追求しようと誤魔化しているに過ぎないのだろう。

いわば、作られた自分の尊厳。

本来の私はちっぽけなのだ。何も興味を持たず、誰とも接することもせず、だたひとりでいたいだけだったのかもしれない。

何もないサラリーマン生活から、ちょっと頑張って人に威張れるくらいの成功を成し遂げる。

そして、周りの人間は、決まって「すごいね!」と口をそろえて言うだろう。

そこで私はこう言ってやるのだ。「たいしたことじゃないよ」、と。

それでよかったのかもしれない。その程度の優越感で、私は満足できたのかもしれない。

だけど、今の私は、自分の枠を大きく超えてしまった立場に立ち、自分の枠を大きく超えてしまった現状に立っているのだろう。

そこまで私は求めていなかったのだ。ちょっぴりの優越感だけで良かったのだ。

人を殺めても、金で解決してしまうような、外道になりたくはなかったのだ。


景色はただ垂れ流される。

私は真剣に考えているようで、いいかげんに考えている。

というより、真剣に考えたところでどうなる話でもないのはわかっているつもりだ。

だったら、真剣に考えるだけ無駄で、どうでもよく考えたほうが丁度いいのだ。

もし、これをすべて納得のいくまで考えを突き詰めていったならば、そこに答えはないだろう。

いつまでも、堂々巡りを繰り返す螺旋階段と無限地獄が待っているだけだ。

・・・疲れた。もう考えるのは疲れてきた。

体を動かしているよりも、精神に負担をかけているほうが数倍も疲れるのだ。

人間は、考え、悩む生き物だ。それが霊長類の運命かもしれない。

でも、寿命だったら、人間よりも長生きする動物はいくらでもいる。ゾウだって100歳まで生きる。

人間はくだらない生き物だ。

それに、自分に自信をなくしている人間もいるのだから、人間というのはとても低俗な生き物だ。

ああ、もう疲れた・・・こんなくだらないことを考えているとどんどん疲れてくる。

もうやめよう。こんなことに考える時間を費やすのをやめよう。

人は、考えることを無駄かどうかを判断する能力が疎い。

とりあえず、考えることが大切で、考える前にそれが必要か無駄かを判別する術に欠けている。

ということは、考えるという事の、結果よりも過程が大事ということなのだろうか?

過程というのは、悩んでいる時間と言い換えることが出来る。

だったら、最初から結果を求めようとせず、自分は悩んでいるんだということに満足できれば、悩んだ結果に意味を見出さずに済むのではないだろうか?

人は、人に認められたい。

自分で満足できるほど、人は完全ではない未熟な生き物なのだ。


キーッ・・・

タクシーは海岸についた。

私は、万札を運転手に渡して車を降りた。ニッカリと笑う運転手。

ツンとくる磯のにおいが鼻を突く。潮風が生暖かく肌にまとわりつく。

不快だ・・・気分が悪い。

私は、以前訪れた店に向かった。

そこは、昼間から酒を飲んだくれている人が多い海の家兼飲み屋だった。

私は、磯のにおいを嗅ぎたくないのだが、何故か鼻はそれを嗅いでしまいながら、そこに向かった。

ガラガラとたてつけの悪い扉を開くと、そこには、わんさかと呑んだくれどもが顔を赤くしていた。

私は、大あさりの酒蒸しと、さざえのつぼ焼き、そしてほたてバターを頼んだ。

お腹が減っていたわけではないが、酒のつまみは沢山必要だと思った。

店のおばちゃんは、普通だったら昼から酒を飲む客を疎ましくも思わず、さも当然のように酒を出してくれた。

熱燗の酒は、コップの下に敷かれた皿に、わざとこぼれた状態で注がれた。

なんというか、こぼれた分が下の皿に溜まるので、それがなんだか得に感じてしまう。

まずはそれを、コップを手に持たずに直接口をつけてすすってみる。

ズズズ・・という音をたてて、それは喉に吸い込まれてゆく。

熱い液体が、喉を激しく掻き毟りながら、胃の中へ蓄積されていく様は、灼熱に熔けた鉛を流し込むような感覚であった。

熱い液体は、舌を乾かせ、潤いのある純露を欲す。

磯味の強い貝類を口に寄せ、私はそれをぐっと噛みしだいた。

あさりのぶりりんとした弾力と、小ざっぱりとした舌奥の充実。

ひとことで言えば、「うまい」であるが、それだけの表現ではあさりに申し訳ないと思う。

例えば、美人に対して、「キレイだね」と言ってみても、それは当たり前の反応だろう。

苦味と臭み、それと潮のうっとおしさ。

にゅるりとした舌触りに、はむりとした噛み心地。

それらをまとめるのが酒であり、これらの個性的な分野をまとめる立役者でもある。

かのような結果、大あさりという存在が私に訴えかけた代償はでかい。

私の舌が、もっとたくさん美味しい大あさりを食べたいという衝動に、駆られた責任を取ってもらいたいほどだ。

だが、大あさりを食べたのは私の個人的な意思である以上、大あさりに対して責任を負わせるのは間違いだと気付く。結果、大あさりをもう一皿頼めば良いということにも気付いた。

大あさりともう一皿頼む頃、さざえのつぼ焼きがきた。

これを食す。そして、堪能した。

次に、ほたてバターがきた。これも食す。

熱燗をもう一杯おかわりする。その間に、外に見える海のざわめきを耳で食す。

五感が満たされ、もうお腹いっぱいだ。

それでも二皿目の大あさりを熱燗でやっつけ、私は太陽の日差しを浴びるだけでも満足してきた。

時計を見ると・・・まだ、昼の3時だ。

平日の、午後の昼間から、海の幸をつまみにして酒を飲む。

一般のサラリーマンからすれば、それが、どれだけ贅沢な行動なのかは言うまでもないだろう。

私はそれを忘れていたのかもしれない。

いつのまにか、時間に余裕のある自分に慣れてしまっていたのかもしれない。

もっと、この時間をありがたく噛み締めるべきなのだ。


私は以前、この店でとんでもない老人に会った。

それは、多額の借金をかかえていた人生に、いきなり宝クジで一億円を手にした老人だった。

だが、その老人は、けして幸せではなかった。むしろ、不幸であったかもしれない。

私は、ふとその老人が気になり、店のおばちゃんにそれとなく尋ねてみた。

すると、その老人は、今はもうこの世にいないという。

遺産相続でもめて、身内に刺されて死んだそうだ。

借金地獄という自我の証明。それが生きがいでありすべてであった老人。

常識を超えるだけの金額を手にした人間がどうなるだろうか?

まわりの人間や身内の人間はどう変わってしまうのだろうか?

その答えがここにあった。間違いなく、その老人には多額とは無用の長物であったのだ。

単純に金があれば幸せになれるのか?という問いの答えが、ここに証明されたのだ。


私は店を出た。その頃には潮風の生臭い香りも気にならなくなっていた。

たぶん、酒に酔ったせいだろう。

私はその勢いで、あの少女が運ばれた病院に行ってみようと思った。

あの場所は、私にとって思い出したくない嫌な場所であるのだが、それでも、もう一度足を運びたくなるのは、私にとって思い出したくないのではない場所であるのかもしれないのだ。

私は受付の女性の前に立った。

すると、その女性は、私のことを覚えていたらしく、はっと何かを思い出したようだ。

「あ、あなたは・・・な、何か用ですか?」

「憶えていると思うが、私がここに運んで来た少女はどうしたのだ?」

「し、知りません・・そ、そんなことはお答えできません!」

「私の言ったことが聞こえなかったのか?あの少女はどうしたと聞いている・・・」

私は、受付の女性の前に顔を近づけ、脅すような低いドスのきいた声で言った。

すると、女性は顔を引きつらせ、男性のスタッフに助けを求めた。すると、その男性スタッフは、私の顔を不振な目で見ると、こちらにやってきた。

「あの~・・失礼ですが、その少女とどういうご関係でしょうか?」

「関係も何もないよ。関係あるとすれば、私がその少女を溺れている海から助けたんだ。それからどうなったかを、私には知る権利があると思うがね」

「そ、そうですか・・・ちょ、ちょっとお待ちください」

しばらく待たされると、男性スタッフは難しい顔をしながらやってきた。

「個人情報についてはお教え兼ねますのをまず了承して欲しいのですが、どうやら、その少女は無事に退院したようですね」

「・・・そうか、それで、親か誰かは来たのかね?」

「さぁ、そこまでは存じませんが・・・」

すると、受付の女性が横から顔を出してきた。

「あの、私は憶えてますよ。その少女は、退院する歳に、自分でお金を払ってました」

「自分で?親には連絡しなかったのかね?」

「私もそうしなさいと言ったのですが、本人がお金を払ってくれたし、家もここから近いので、また親と一緒に来ると言っていたものですから・・・」

「そうか・・・ありがとう・・・」

私は病院を出ようとしたが、さっきの男性スタッフが席を外してトイレに行くのを見た。

私もトイレに入っていくと、その男性がいたので、となりに立った。

「さっきはどうも」

すると男性は、少し驚いた表情で言葉を返した。

「あっ!どうも」

男性は私に会釈をすると、すぐに視線を背けた。だが、それも当然だ。

さっき会ったばかりの赤の他人に、トイレで挨拶されても気持ちのよいものではない。

その男性は、私より先に用を済ませると、手洗い場へと移動した。

私も手洗い場に移動し、また横にならんだ。

さすがに今度は、その男性は私が隣にきても何も反応を示さなかった。

「やっぱり忙しいんですかね?病院って」

「え?あ、はは・・そうですね」

男性は、素っ気無く答えた。

「今は、医者の数も少なくて、他の病院から手伝いにきたりするんですよね」

「おっしゃるとおりですよ、忙しいわりに給料も少なくてね、ヤになっちゃいますよ」

「大変ですなぁ。ところで・・・さっきの少女の件なのですが・・・」

私は、スーツの内ポケットから10万円を取り出すと、男性に良く見えるように取り出した。

男性の目つきが変わり喉が鳴るのが聞こえた。

いける・・こいつは現金を目の前にして、特別な反応を見せた。

こいつなら、金のために情報を売ることぐらいわけもないだろう。

「さっきの少女の住所と名前・・・売ってもらえませんかね?」

「あ・・・い、いや、イヤイヤ!だ、ダメですよ、そんなこと・・」

そうは言いながらも、男性の目は現金10万円に釘付けになっていた。

「別にカルテをくれと言っているわけではありません。ただ、住所と名前を私の耳元で、そっと伝えてくれればいいだけの話です」

「・・・う~ん・・・でも・・・」

私はもうもう10万円をプラスさせ、男性の手に握らせた。

「これで困っている人間を救えるのです。あなたは人助けをした代わりに、報酬を得る当然の権利を持っているのですよ」

「・・・・・・」

男性は無言であったが、現金20万円をじっと見詰め、コクリと頷いた。

商談成立。私が病院の外で待っていると、しばらくしてその男性が出てきた。

そして、何気なく私にメモをわたすと去っていった。私はメモを見て驚いた。


圷 志保 (あくつ しほ) 住所不明


「な、なんだ?住所不明だと?」

私はメモをくれた男性を呼びとめようとしたが、その姿はすでになかった。

しかし、メモの裏には何か書いてあった。


住所は本人も引っ越してきたばかりで憶えていないとのこと。

保険は使えなかったが、本人は現金で支払ったらしいです。


・・・引っ越してきたばかりだと?本当だろうか?

それに、保険を使わずに診察料を払ったとなると、子供にとってはかなりの金額ではないか?

疑問は尽きない。だが、それでも少女の名前がわかっただけでも収穫があった。

しかし、これも偽名だとしたら?本名を語りたくない訳があったとしたら?

あの少女には、なにか特別な生立ちが隠されているに違いない。

私はそう思って止まなかった。


夜。

私はずっと少女のことを考えていた。

場所をバーに移し、ひとり酒を飲みながらメモをみつめていた。

圷 志保か・・・

どうして、この少女は住所を隠す必要があったのだろうか?

どうして、海で溺れて病院にいたのに親を呼ばなかったのだろうか?

どうして、あの海を見詰め、私が近づくと飛び込まなければならなかったのだろうか?

疑問だらけが私の頭の中をぐるぐるとまわる。そして、アルコールがさらに回転を乱す。

考えてもわからないことは考えるだけ無駄だ。

そうわかっているはずなのだが、私は何故か無駄なことをしている。

もじもじと、ハッキリせずに、まんじりとしている私。

気持ちが悪くて不快なのだが、それを取り除こうとする勇気のない自分。

なんだ・・・何をしているのだ、私は?

あの少女のことが頭から離れない・・・

山根の奥さんを殺したときも、松下を殺したときも、こんなにも悩まなかったのに・・・

今日の酒は美味しくない。

苦くはないのだが、どこか肝臓の悪い部分を刺激しているだけのような、自分を誤魔化すような飲みなのだ。まぁ、ひとりで飲んでいれば、そんなに楽しい酒のわけはないが、それでも心が不安定なのは否めない。

誰かを呼ぼうか?朱雀江さんか、それともみそのくんか。

いや、どちらも呼びにくい・・・私がデザイアを辞めてというか、勝手に放ってしまったのに、いまさら合わせる顔がない。

というか、このバーにいたら、朱雀江さんたちに会う可能性があるかもしれないのに、私がここにいる理由は何なのだろうか?実は、朱雀江さんたちに会いたいのではないだろうか?

だが、会ってどうする?松下を殺したのは私だ。それがバレないまでも、どの面をして顔を合わせればよいのだろうか?

とにかく、これ以上酒を飲むことは、私の体の健康管理上よろしくないが、それでも私は止まらなかった。ぐちぐち、ちびちびと格好悪い酒を飲み続けたのだった。


気がつけば、私は知らぬラーメン屋にいた。

酔ったてわけがわからなくなった状態で、ラーメンを注文していた。

何を注文したのか自分でもうろおぼえだが、とんこつチャーシューに、ネギとにんにくたっぷりに、たまごをトッピングしたようなくどいラーメンだった気がする。

酔った勢いで、私はこれを強引に胃に流し込んだ。

当然、こんなくどいラーメンを、深酒したあとに食べれば、胃が逆流するのが当たり前である。

ラーメン屋を出てすぐの電柱に、わたしは思いっきりゲロを吐いた。

勢いあまって鼻から麺が飛び出し、それが苦しかったので手で引っ張って強引に抜いた。

とにかく最悪な気分で、私の飲みは終わったのだ。

気がつけば、タクシーになんとか乗り込んだようで、家の玄関を開けて居間に倒れていた。


「・・・たまに帰ってきたと思えば、いつも酔っ払っているんだから」

「うるせー・・・」

私は妻の言葉を鬱陶しく感じた。

台所にいって水を飲もうとすると、テーブルの上に見慣れぬものが置いてあった。

私はそれを手にとってみた。

「なんだ、これは・・?」

「パフェよ、あんたも食べる?」

「・・・・・・」


その次の朝、居間には妻の死体があった。

次々と消えていく命。私のまわりで頻繁に起きていく殺人。

これが突欲のもたらした運命なのだろうか?

気だるく重いからだを、私は休ませたかった。

今はゆっくり寝たい。ただそう思うだけだった。

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