第16話 突謎
第十六章 『突謎』
とある高層ビル。
そのとある一室。
私は、とある高層ビルのとある一室に居た。
そして、とある高層ビルのとある一室に居てとある人物を待っていた。
私は、壁一面の窓ガラスから夜空を見た。
そして、壁一面の窓ガラスから夜空を見てタバコに火をつけた。
私は、とある高層ビルのとある一室に居てとある人物を待ち、壁一面の窓ガラスから夜空を見てタバコに火をつけたのだ。
そして、とある高層ビルのとある一室に居てとある人物を待ち、壁一面の窓ガラスから夜空を見てタバコに火をつけスコッチを飲み干した。
無駄だ。
なんという無駄な言葉の羅列なのだろうか。
言葉とは、自分の行ってきた行動を表現するために便利な言葉だ。
だが、その言葉をあらためて言葉にしてみても、その言葉にはほとんど意味がない。
日記とか、感想文とか、言葉を文字にして残すという行為をしてみても、そこから何が生まれてくるのか私には皆目検討がつかないし、皆目検討がつきたくもない。
だったら。
それらの行為をすべて無と考えるのならば、いっそ、それらの行為をすべてやめてしまえばいい。
そうすれば、過去に起こった出来事などは無に等しくなるし、現在に起こっている出来事も、一秒経過してしまえば過去になるので、それも無に等しいことになるのではないだろうか。
やはり。
こうしてあらためて言葉という行為を実践してみても、そこには何も生まれてこない。
言葉という人間の生み出した狡賢い行為には、狡賢い人間の行為しか生まれてこない。
めんどくさい。
つまらない。
意味がない。
もうこれはやめるべきなのだ。
そもそも、言葉というのは人間が便利だと思って生み出したコミュニケーションであるが、その言葉のせいで、言いたくもない言葉を使わなければならなくなってしまったのだ。
めんどくさい挨拶に、小難しい会話、つまらない会話、それらが全て意味がない。
どうだ?あてはまっているだろう?
だから、言葉を喋っている狡賢い人間は淘汰されるべきなのだ。
いっそ、言葉なんかなくなってしまえばいい。
そうすれば、口下手な人も助かるし、口上手な人に騙される人もいなくなるのだ。
言葉がなくなってしまうと不便になるのではないか?
そう考える人はちょっと考えてほしい。
人間は鳥のようには飛べない。
高いところにあるものを手にするために、人間は背中に羽がはえる努力をしただろうか?
飛行機などの、飛ぶことを代弁する行為を行う物体を発明したではないか。
それならば、言葉というものがなくなれば、人は言葉の代わりになるものを発明するだろう。
いや、発明しなくても、それは自然に芽生えてくるかもしれない。
それがテレパシーなのか、どんな方法なのかわからないが、何かの形で実現するだろう。
とにかく、あれこれ言ってもはじまらない。
言葉をなくしてしまわなければ、それは始まらないし生まれてこないのだ。
無いものを欲する気持ち。
それがまず、ありきでなければならないのだ。
そうしてゼロから発生した何かは、人間というフィルターを通して増肥し、欲というものに生成されていくのだ。
言葉がなくなることで発生した欲。
それは何だろうか?どんなものなのだろうか?
私はそれを見てみたい気もするが、私にはそれを見ることが出来ないだろう。
その欲とは、自分のまわりに存在するかもしれないが、自分からは気付くことができないのだ。
なんと、不便で、自分勝手な存在なのだろうか?
例えば、こんな話はどうだろうか。
ある占いの本に、こんなことが書かれていた。
Aさんは結婚して子供がいます。でも働くのがキライで月収は五万円しかありません。
嫁と子供を養っていくのには、生活費が10万円かかります。
さて、あなたはどうしますか?
A・・・10万円稼げるようにがんばって働く。
B・・・嫁に五万円稼ぐように働かせる。
C・・・働かなくても10万円収入を得る方法を探す。
あなたの選んだ選択肢から、次のような性格がわかりました。
Aを選んだ人。
とても真面目で頑張り屋さんのあなたは、家族を大事にする心やさしい人です。
Bを選んだ人。
家族に対する心くばりが足りません。ちょっと自己中心的な性格です。
Cを選んだ人。
破滅型のギャンブル好き。危険なことに自らをさらすことで生きがいを得ようとするでしょう。
あなたはどうだっただろうか?
この結果を見て、「ああ、そういえば当たっているな~」と思ったのだろうか?
バカが!
こんなくだらなく陳腐なものに共感した時点でおまえらはもう終わっているのだ!
当然なことをさも当然に書いてあるだけなのに、それが、「当たっている」などと思う人間は、主体性はおろか思考能力も極限まで低下して腐っているのだ!
頑張って働けば頑張り屋に決まっているし、嫁を働かせれば心配りが足りないに決まっているし、働かずに収入を得ようとしている奴はギャンブル好きに決まっているのだ。
決まっていることを、普通に書いただけなのだ。
私は本を投げ捨てた。
こんなくだらないことを冒頭に書く占いの本などペテンでしかない。
そんな本など読もうとしている自分自身に腹が立ってきた。
私はベッドから立ち上がり、携帯電話を取って催促の電話を入れた。
「トゥルル・・・ブツッ・・・おい!いつまで待たせる気だ!」
「こりゃまいど。へぇ、もう少しでさぁ、ダンナ」
「これだけ待たせるということは、それだけ待たせる価値があるということなのだろうな?」
「へっへ・・そう解釈して頂いてけっこうで」
「フン、その言葉、信じてやろう。ただし、あと五分だ。それ以上は待てん!」
「へぇ、もうすぐ到着しますんで・・では」
私の形態電話から、相手の腐ったような声が聞こえた。
あの男の声は、邪悪な人間の死体から出る汚れた魂を生で喰らったような臭い匂いがして嫌いだ。
できることなら、あんなに臭い声を聞きたくないのだが、いささか仕方がない。
あの男でなければ、私の欲求に答える物を運んではくれないのだから。
私は、あの男の臭い声には聞きなれてしまったので、諦めてもう少しだけ待つことにした。
さぁて。
これから運ばれてくるものには、どんな魂が詰まっているのだろうか?
汚れのない純白な魂?
いやいや、それでは私が困るかもしれない。
逆に、薄汚れた黒っぽい魂ならば、私は安心することが出来るのだから。
しかし、それでは私の薄汚れた心と同化して浸透するだけで意味がないかもしれない。
ここはいっそ、純白な魂を喰らってみるのも、荒療法であるが試してみる価値がある。
・・・まぁ、いいか。
もう、そんなことはどうでもいいか。
今の私には、その魂が白か黒か、綺麗か汚いかなんてどうでもよいかもしれない。
白ければ白くて嬉しいかもしれないが、黒ければ黒くて安心するかもしれない。
どちらにしろ、あと数分でそれがここに来ることを思えば、ささいな問題かもしれない。
私が思うに、それが到着してしまえば、今、私が偉そうに講釈たれながら考えていることなどすべて無意味に吹き飛んでしまうだろう。
それだけの破壊力と弾力と包容力とカリスマを併せ持った存在が、もうすぐここにやって来る。
ピンポーン!ガチャリ・・・
部屋のドアが重厚な音を立てて開いた。
どうやら、何者かがこの部屋に入ってきたことは確かなようだ。
ヒタリ・・ヒタリ・・・
廊下のじゅうたんを踏みしめる音が聞こえる。
その音は、部屋のかどを曲がって、私のいる部屋へと近づいてきた。
窓からさしこむ月明かりが、その人物の影を壁に投影した。
私は、その人物に待ち焦がれていたことを隠すように、その人物に背を向けた。
すると、その人物は、私のすぐ背後まで近づいてきたのが気配でわかった。
私はスックと立ち上がり、ブラインドを閉めた。
部屋が闇と同化し、私の愚劣な行いを覗き見るものは、月でさえいなくなった。
これでいい。
私はこのまま、自分の欲をただ解放しさえすればそれでいいのだ。
闇は敬遠しているだろう。
月も笑っているだろう。
だがそれでいい。
それでこの世界のエネルギーとなる波動の隆起が、潤滑に行ってくれるのならばそれでいい。
私は、そして。
蓄積された欲を淫らな行為にうずめてしまえばいいのであるのだから・・・
雲の静寂。
街の疎外感。
乾いた空気と冷えたアスファルト。
コツコツと革靴の摩擦から奏でる音響。
白い息は白い色をしているからではない。
白く見えるのは、自分が黒い色をしているから。
胆のうがきしむ。胃が泣き叫ぶ。
力の入らない両腕と手の平。
汗は流れない。
見つけた空缶。
無重力の中のとびら。
屈折したタキオン粒子とその仲間たち。
ヒビの入ったグラス。そこに満たされる悪液。
油っぽいプラスチック。
現在、過去、未来。机、ガラス、食物。
時間の流れと物体の合間見えぬハーモニー。
苦痛。満悦。それらを尊ぶ愚者。
限界は近い。
私の生命も終わってしまうのではないだろうか?
カラン・・・
懐かしい空気の反響。
勝手知ったる井出達。
首根っこをつかまれて、そのまま外に放り出される。
それを実感する私。
「てめぇ!いままでどこで何してやがったんだぁ!」
ドガッシャァン!
私の体は宙にフワリと浮いたと思うと、すぐさま重力に引かれて地面に落下した。
そして、慣性の法則により横に転がり壁に激突した。
激突のショックで額の皮膚が損傷し、血液が流出した。
これまた重力によって上から下に、額から顎に流れ落ちる血液。
私はそれをぐいと拭うと、何事もなかったように膝に力を入れてよいしょと立ち上がった。
「河合~ッ!その態度はなんなんだ!」
私は、私の首を掴み、私を放り投げて落下させ、私を壁に激突させて額から血を流させた相手に背を向けた。
「・・・ふう」
そして、パンパンとスーツのホコリを掃うと、ネクタイを少し緩めた。
「おまえがいなくなって、朱雀江さゆりや羽鳥みそのがどれだけ心配しているかわかっているのか!」
「・・・・・・」
「俺やアップルちゃんがどれだけ心配したかわかるかぁッ!」
「・・・・・・」
私はまたも無言だった。
「河合ッ!聞こえているんなら、返事ぐらいしろ!」
「うるさい・・・松下」
私は松下の方をゆっくり振り返って睨んだ。
「なんだと~?その言い草はなんだ!」
ふっくらとした顔に黒ブチメガネ、おでこには大きなホクロ。
松下の顔が、なんだか大仏の顔のように見えた。
大仏の頭のプチプチは、脳ミソがはみ出しているのだと誰かに聞いた事があったが今はそんなことどうでもいいか。
「だからうるさいと言っているんだ・・・俺は会社を辞めた人間だ。デザイアにはもう関わりのない人間なんだよ。ほうっておいてくれ」
「いや、許さん、ほっとかん!おまえがデザイアを辞めようと関係ない!」
「相変わらず無茶苦茶なヤツだなぁ・・・」
私はやれやれという顔をしてため息をついた。
「俺はおまえのそういうところがキライだったんだよ、松下」
「な、なんだと?!・・・河合・・・」
しばしの静寂。
松下は相当ショックを受けているらしく呆然としていた。
大仏のような顔のギョロリとした目をまん丸くしていた。
そして、小雨がポツポツと降ってきた。
「粗野で強引で無神経で・・・」
「え?」
「まわりのみんなに自分は好かれていると勘違いしているブタ野郎め・・」
「か、河合・・・う、ウソだろ?おまえがそんな悪口を言うなんて・・・」
「おめでたい男だな、松下。いいだろう、この際教えてやるよ・・・俺は高校の時からおまえのことが大キライだった・・・」
「!・・・」
「そして、まわりのみんなもおまえの事を嫌って避けていた・・・どうしてかわかるか?」
「う・・ウソをつくな、ウソを!」
私はひと呼吸して、息を吐き捨てるように言った。
「おまえのワキガが臭かったからだよ・・・」
「ぐっ・・!」
「おまえのワキガは強烈だった・・・例えるなら鉛筆削りのような、錆びた鉛を腐った水に浸したような、そんな臭いだったんだよ」
「うそだ!・・・俺はワキガなんかじゃねぇ!ちがう・・」
「それでおまえは、みんなからなんてアダ名をつけられたか知っているか?」
「し、知らない・・・そんなものはなかった・・・みんな松下と呼んでいた」
私はニンマリと口を吊り上げて言ってやった。
「ブタ下だ!」
「な、なんだと~!ウソをつくな!」
「どうだ、お似合いだろ?わははははっ!」
「・・・~ぅう、ウソだ!ウソだ!ウソだぁーッ!」
ドガシャン!
松下はその巨漢で私に体当たりしてきた。勢い余って私はフェンスに激突した。
「河合!ゆるさねぇぞっ!俺をバカにするとゆるさねぇぞぉ!」
松下は怒声を上げながら興奮している様子だ。
「ゆるさないだと・・・?」
私の米神がピクリと動いた。
「そ、そうだ!ゆるさないと言ったんだ!謝れ!この俺に謝るんだぁ!」
私は松下の顔をギロリと睨んだ。
「謝れだと?・・・鉛筆臭いおまえが俺にあやまれだと?そう言っているのか、ブタ下?」
「言うな!俺の悪口を言うなぁ!うわあぁ~!」
ブタ下・・いや、松下は、また私に飛び掛ってきた。
そして、体重のある肥満体で私の体の上に馬乗りになり、私の腕を押さえつけた。
当然、ブタ下のブタのような重い体重を、きゃしゃな私が跳ね除けるだけの腕力があるはずがない。
「ぶはぁ~!ぶはぁ~ッ!」
私は、ブタ下のブタのような臭い体臭と息を浴びせられるハメになった。
「おれはよォ、河合!おまえのことを助けてやったんだぜ?惨めでうだつのあがらなかったサラリーマンのおまえを、俺は救ってやったんだぜぇ!」
「・・・おまえのおかげだとは思っていないよ、ブタ下」
「おれのおかげなんだよ!」
「人に恩を売ることで満足し、自分という自我を確立させる三流の生き物め・・・」
「ふ、ふん!俺が三流だったら、今のおまえは何なんだ?!仕事から逃げ、社会から逃げ、今では人間からも逃げようとしているんじゃないのか?!」
「・・・何のことだ」
「ふふふ・・・しらばっくれるな、どうだ、図星だろう?くぶぶぶぶ」
松下は、まさにブタのように嫌らしい笑い方をした。
私は今、こんなブタのような男に三流と言われた。
こんなブタのような男に説教された。
許さない・・・こいつにだけは笑われるのは許せない・・・
大仏顔で下品で粗野で疎ましくて、鉛の腐ったようなワキガでブタ下なコイツにだけは!
「同じ三流でも質は違うつもりだ・・・おまえより格下ではない」
「ぶわっははは!何を言っているんだ、河合!俺よりも格下ではないだと?どうしたらそんなに偉そうなことを言えるんだ?!」
「・・・・・・・」
「わかっているぞ。調べてあるんだよ、河合!」
「何をだ?」
「おまえのしている行為。おまえはとんでもない行為をしていることをな!」
「・・・・・・」
「おまえは少女を買っているだろ!それもまだ幼い少女をな!」
ブタ下は勝ち誇ったような顔で、私に指差してきた。
私は虫唾が走り、ブタ下の大仏顔を汚らしいものでも見るように睨み付けた。
「おまえは今、心のなかでヤバイと思っただろ?な、そうだろ、そうだろ?」
「別に俺は思っていない。俺は自分の欲する欲を欲しただけだ・・・」
「ひらきなおったか・・・バラしてやるぞ!おまえが少女と売春していることをバラしてやる!」
「売春ではない・・金と時間を交換しただけだ」
「同じことだ!さぁ、どうする?これを世間にバラされるのがイヤなら俺に謝れ!」
「・・・・・・」
「さぁ、どうした!謝れと言っているのだ!地面に顔を擦り付けて!捨てられた子犬のように!惨めな顔で俺に謝るんだぁッ!」
ブスリ・・・
「うっ!?・・・」
私は松下の巨漢を面倒臭そうにどけると、ゆっくりと立ち上がった。
そして、手に持っているアイスピックを道路にカランと放った。
指先には子汚い血がついていたので、手を振ってそれをピッピと払った。
空を見上げると、雨が強くなり大降りになっていた。
「うおお!・・・か、河合ィ・・・てめぇ・・・」
ザアア・・と振る雨は、ブタ下のわき腹から流れる赤い血を地面に染めていった。
小汚い人間の小汚い血液。それが天から降り注いだ聖水によって清められていく・・・
ああ、私はこれが、天命によって起こされた出来事であるのだと実感した。
今、目の前にいる醜態をさらしたブタ男は、これから神の裁きを受けるのだ。
いまに落雷がこの男の頭上に落ち、感電して黒コゲになってブスブスと焼死するのだ。
ご飯を食べる前にいただきますと言うように。
トイレに行ったら手を洗うように。
扉を開けたら閉めるように。
そうするのが当然のごとく、こいつは制裁を受けなければならないのだ。
私がアイスピックでこいつのわき腹を刺したのは、私が自分の意思で行ったのではない。
もとを正せば、こいつが俺の行方を捜し、俺の前に現れ、俺に説教をした。
そして、俺にケンカを売り、俺に攻撃を加え、俺に覆いかぶさってきた。
その時に、私が偶然持っていたアイスピックが、偶然こいつのわき腹に刺さっただけなのだ。
『刺さった』・・・という表現はおかしいかもしれない。
刺さったのではない。吸い込まれていったのだ。
こいつの脂肪だらけの醜い腹の中に吸い込まれるべくして吸い込まれていったのだ。
そして、出るべくして血液が流血したのだ。いや、これも流血ではなく絞り出されたのだ。
これでいい・・・こいつは受けるべくして神の制裁を受けた。
それは抗えない運命であり、当然の報いなのだ。
無神経に私の神経を逆撫でし、自分は好かれているのだと勘違いし思い上がった存在。
もし、人類の歴史上、人間の身分を区別するならば、間違いなくこいつはカスに値するだろう。
もし、ノアの箱舟が存在していたなら、醜い心を持ったこいつは、間違いなく乗船できないだろう。
もし、ムカつく人間を自由に銃殺していいと言われたら、間違いなくこいつから銃殺されるだろう。
私は神の意思を継いだのだ。
醜い人間を裁く権利を手に入れたのだ。
だから、こいつの命をどうしようと私の勝手なのだ。
今ここで、こいつに息の根を止めてやるのが正義の行いなのだ。
ジリ・・・
私は再度、アイスピックを拾ってブタ下に詰め寄った。
「よ・・よせ!」
ブタ下は、わき腹を押さえ、手をこちらに向けて拒んだ。
恐怖で引きつった顔は、以前の大仏のように余裕のある顔からは消えていた。
人を見下したような曇った眼球は、飛び出しそうに見開かれていた。
降り注ぐ雨で、ブタ下のみっともないオールバックの髪が乱れ、だらしなく垂れ下がった。
見ているだけで虫唾が走る・・・
私は、一刻も早く、こいつを視界から消し去りたい衝動に駆られた。
なら!一刻も早く、こいつの命を消し飛ばしてやればいいのだ!
私は無言でブタ下の心臓を狙い済ますと、アイスピックに手を宛がって突進した。
「うおッ!やめろッ!」
ブタ下の戦慄に怯える顔が歪む。
だが私は止まらない。さらに足に力を入れて踏ん張り加速した。
「わっあぁーッ!!」
絶叫するように叫ぶブタ下は、私から逃げようと背を向けて走って逃げた。
「逃がすかぁッ!」
私の口からよだれが垂れた。
私はブタ下の逃げ待とう様を見て嬉しくてたまらなくなった。
ブタ下は必死で走る。そして私も必死で走った。
「ばはぁ!ばはぁ!ぶはぁ~!」
「ぜはッ!ぜはッ!」
50歳を過ぎた中年が、全力で走れる距離などたかが知れている。
場所を工事現場の空き地へと移し、そこでお互いの息が切れた。
ブタ下はブタのように息を荒くして苦しんでいた。
私もさすがに息がきれて足の感覚が鈍くなり、間接とふくらはぎが痛くなった。
するとブタ下は、工事現場にあった三角コーンで殴ってきた。
ボヨヨ~ン。
しかし、そんな柔らかい材質の物で殴られても痛くも痒くもない。
「ひいッ!」
ブタ下はバランスを崩して倒れこんだ。
「とどめ!」
私はアイスピックを振り上げ、それをブタ下の心臓めがけて力いっぱい振り下ろした。
ズガッ!
しかし、ブタ下の転んだ側には、まだ幸運が転がっていたようだ。
ブタ下はそこに落ちていたレンガが拾うと、私のアイスピックの攻撃に合わせてきた。
結果。私の手の平に激痛が走り、アイスピックは弾かれて草むらの中に落ちていった。
「ぶはぁ!こんどはこっちの番だな!河合ィ!」
ガギッ!
今度は私の肘に激痛が走った。
そして、腕でガードしたにもかかわらず、私の額は割られてしまった。
そこから流れ落ちる流血が目に染みた。
「おのれ~・・・ブタ下ぁ!」
私は激怒した。こともあろうに、下等で下劣な存在であるブタ下に、崇高である私の額が割られるなんて許せなかった。
私は怒りにまかせて両腕をブンブンと振り回した。
しかし、さらに腹立たしいことに、ブタ下はそれをひょいひょいとかわし、嫌らしい笑みを浮かべている。
「くっく、立場が逆転したな!」
「うわああー!うるさぁーい!」
私は我武者羅に無我夢中に腕をブンブンと振り回すしかなかった。
ブタ下に見下されることは、一秒たりとも我慢できなかったからだ。
「三流はおまえのほうだ!河合!」
ブンッ!
レンガを持ったブタ下の攻撃に、私はそれをかわすために体勢を崩してしまった。
「うわっ!」
倒れる私。そしてそれを見下すブタ下。
許せない・・・ぜったいに許せない・・・
こんな状況が起きていること事態が許せない。
「河合、残念だがここで眠ってもらうぞ。俺はある人におまえを連れて帰るように頼まれているんだ」
「ある人だと?・・・」
「そうだ」
「だ、誰なんだ、それは?!」
私の視界が赤く滲んだ。どうやら、額からの流血が、さらにドクドクと流れてきたようだ。
「それは言えない」
「ひょっとして、それは・・・アップルちゃんではないのか?」
ブタ下の顔はピクリとも反応しない。
私を連れて帰るだと?それは誰なんだ一体?
もし、それが朱雀江さんならば、名前を出せばいいはずだ。
そうせずに、『あるひと』と限定しているのは、私に名前を知られたくない人物なのだろう。
それとも、あるひとが連れて帰る命令を出したことを隠したい人物なのだろう。
「うらむなよ・・河合・・・25年前の呪縛だ・・・」
「に、25年前だと?どういうことだ?!」
「恨むなといったはずだ。いま言えるのはこれだけだ・・」
ブタ下は、レンガを振り上げ私の頭上を狙う。
いや、正確には私の後頭部を狙ってくるだろう。
こいつはさっき私を連れて帰ると言った。それは、けして殺しはしないということだ。
そこに必ずスキができるだろう。そこが私の勝機だ。
私はブタ下の顔を強く睨んだ。
「ほう・・この状況でまだあきらめないというのか?河合」
「さぁな・・・」
「たいしたものだと言いたいが、この状況では万が一にも、おまえが俺に勝つ可能性はないぞ」
「勝つか負けるかなんて俺には関係ない・・ただ、視界の邪魔者を消すだけだ・・・」
「へらない口だな!河合!死ね!」
「うわあーッ!」
ズムッ!
「ぎゃあおッ!」
ブタ下の絶叫が、私の耳のすぐそばで聞こえた。
ブタ下の体と私の体が重なる。そして、ブタ下のワキの下に私は顔をうずめていた。
ブタ下の振り下ろしたレンガは、私の背中を確実に直撃していた。
「うぐッ・・」
軋む骨と擦り切れるような痛みの皮。
背中に燃える鉄棒を埋め込まれたような、例えられないような苦しみ。
だが、私はこんな痛みで気絶する訳にはいかなかった。
「か、河合~・・・」
私が力を込めた腕の先には、ブタ下のふとももに深々とアイスピックが突き刺さっていた。
「ど、どこで拾いやがった?!それはさっき弾き飛ばしたはずなのに・・・」
「確かにどこかへ飛んでなくなったさ。だったら探す必要なんかない」
「どうして・・・」
「もう一本もっていたということさ!・・だあっ!」
グサリ!
私はブタ下の左足からアイスピックを抜くと、それをもう一方の右足に突き刺した。
「うがあぁぁあッ!」
ブタ下の両足は痛みで言うことをきかないらしく、尻餅をついてじたばたしている。
私は勃起した。
(ふふ・・ふふふ・・ふひひひ・・・)
そして、ブタ下のイモムシのように身動きのとれない姿を見て、またよだれが垂れてきた。
これだ。私の見たかったのはこの瞬間なのだ。
絶望に苛まれ、もがき、苦しむ様を、私は見たかったのだ。
もう一度言う。私は嬉しさのあまり勃起した。股間が熱くてたまらない。
だが、さきほどブタ下に背中を強打された痛みがうずくので、満足感も半減していた。
「さて、話してもらおうか?ブタ下」
「ひい~!たっ、助けてくれ!」
「さっきのことを話したら助けてやろう・・だが、いいかげんな事を言ったらその場で殺す」
「な、なにを話せというんだ?」
「しらばっくれるな。さっきおまえが言っていただろう?25年前の呪縛だと」
私は腰を下ろしてブタ下に近づいた。
「し、知らないよ・・・つ、つい出任せで言ってしまったんだ!」
ブスッ!
私はブタ下の手の平を串刺しにした。
「ぎゃあおッ!・・・い、痛い、痛い!」
「しらばっくれるなと言っただろう!さぁ、言え!」
私はブタ下の目を殺意を込めて睨んだ。
殺されてはかなわないとブタ下も観念したのか、重い口を開き始めた。
私を連れ帰ることを命令した人物がいること。
そして、25年前の呪縛とは?その真実がいま明かされる。
「お、おれがまだ高校生だったころだ・・・」
「?・・・待て!なんで25年前なんだ?25年前だったら28歳の時じゃないのか?高校生だったら、それより10年も前のことじゃないか?そんなの関係ないだろ!?」
私は、もう一度アイスピックを振り上げてブタ下を脅した。
「・・・・・・」
ブタ下は無言のまま、私の顔を覗くように見てきた。
おかしい・・・
ブタ下の目は、これからウソをついて誤魔化そうとするような嫌らしい目ではない。
どちらかというと、隠された重大な真実を話そうと決心したような目つきだった。
「・・・いいだろう、話せ」
「俺が、まだ高校生の頃、あるひとりの好きな人がいた・・・」
「何の話をしている?・・・今はおまえの恋愛話なんか聞いている場合じゃないんだぞ!」
「聞いてくれ、大事な話なんだ」
「よ、よし、続けろ」
「俺の好きになった人は、俺がどう背伸びしても、どうあがいても手に入れられる相手じゃなかった・・・それだけ雲の上のような存在だったんだ・・・」
「・・・それで?」
「それでも俺は、どうしても諦めがつかなかった。だったらどうするか?俺は、その人と時間を少しでも共有さえできればと願った・・・いや、少しでもいいから、その人のためになりたいと思ったんだ」
「よっぽどそいつのことが好きだったという訳だな?だが、それがどうしたんだ?」
「俺はその人のためなら、すべてを投げ打ってもいいと思った。それだけ、その人のことを愛していたし、尊敬していた・・・いや、それ以上だ、信仰さえしていたんだ!」
ブタ下は張り叫ぶような口調で話を続けた。
「だから俺は、その人の奴隷になることを生涯誓ったんだ」
「ま、待て!・・・話がまったく読めないぞ。結局、おまえが好きになった相手とどう関係するんだ!」
私はじれったくなり、話の結末を急がせようとした。
「だから聞けって!」
「うるさい!もう、おまえのくだらない恋愛話なんてうんざりだ!」
私は、ブタ下の額にアイスピックを突き刺そうとして脅した。
しかし、ブタ下はそれを微塵も恐れずに、私の目をジッと見詰めてきた。
この男・・・
どこか、その好きになった相手に対して、絶対的な服従心を持っているような・・・
そうか、ブタ下が私を連れてくるように命令された人物こそ、ブタ下の恋愛相手なのだな・・・
そうすると、その女は絶対的美人なのか?それとも、絶対的に母性愛を持つ女性なのか?
どちらかというと、ブタ下ならば、母性愛を持った女性に惹かれるのではないかと思った。
母親のように、甘えさせてくれるようなタイプの女性だと、私は勝手に想像した。
しかし、だからといってそれがどうしたというのだ?
私を連れて帰る命令を下した事や、25年前にことなど、私と何ら関係ないではないか?
私はすこしイライラしていた。先の見えないこの話に対して。
「それはわかった。おまえにそれほど好きな相手がいたこともわかった。だが、それとこれとどう関係があるんだ?!」
「・・・言っていいのか?」
「な、なに?・・・」
私は少し躊躇した。この男の絶対的自信に躊躇した。
こいつは今から、私にとって衝撃的な話をするだろう。それは、こいつの顔が物語っていた。
私は喉のツバをごくりと飲み込むと、鼻息を軽く噴出すと顔をうなずけた。
しばしの静寂。
リーン。鈴虫が鳴いているようだ。
「いいか、河合?・・・この世の中は、すべてが複雑に絡まっているようであり、実はシンプルな紐によって繋がれているだけなんだ」
「シンプルな・・紐だと?」
「そうだ。その紐は、運命なんだ。だから、俺たちは、その紐のつながっている先によって、運命を左右されていると言っても過言じゃない」
わかる・・・ブタ下の言っていることはなんとなく理解できる。
人間は平等で自由で、しかも努力次第でどうにでも運命を切り開けると言われている。
だが、実際はそうではない。
運命という言葉を、運の延長上としてとらえている以上、すでにそれは、抗えない運命を承諾していることと同じなのだ。
お金を落としたら運が悪かった。
誰かに騙されたら運が悪かった。
仕事に失敗したら運が悪かった。
笑わせるな。
そのどれもが、すべて自分の行動が招いた結果なのだ。
自分の不甲斐無さを、自分の能力のなさを、すべて『運』という概念の責任に押し付けているだけだ。
そして、運という概念を超える更なる概念があるのだ。
それは、自分がいくら努力しても超えられない壁。
生まれた瞬間に死ぬまで変えることのできない決定事項。
それは確実に存在し、確実の私たちを縛っているのだ。
ブタ下のこれから話す真実は、それらを思わせるような言葉であるのだろう。
だから、私もそれ相応の心構えで聞く必要があるのだと思った。
今からブタ下によって話される真実は、間違いなく私の人生に深く係わってくるのだろう。
いいぞ、ブタ下。それならば、いくらでも受けて立とう。
平穏を望んでいた私はもう死んだ。
今ここにいるのは、自分でも理解できないような欲の実態。
そう、『突欲』によって私は形成されるべきであり、それを心から欲しているのだ。
冷たい雨が降り注ぐ中、私はブタ下の口から発せられた空気の反響、言葉の羅列を耳に入れた。
そして、その言葉の羅列が、意味のある文章になり、感情を添えられることにより深みを増した。
私は絶叫したようだ。
だが、それも強く降りしきる雨によって幾分か掻き消されてしまったようだ。
いや、絶叫したことなどは意味がないだろう。
いかに、私がブタ下から聞かされた言葉の重みに、耐えかねられなかったを意味しているのだから。
だから。私はブタ下の首筋に、プスリと刺した。
刺されたのは、当然、アイスピックであるが。
だがしかし、ブタ下は私に対して恨みを持って死んでいったのではないだろう。
ブタ下の目は、自分に課せられた使命をまっとうしたような、清々しい顔をしていたのだから。
だから、私も清々しくブタ下を殺すことができたと言えよう。
どちらにしろ、ブタ下は、抗えない運命の紐によってその生命を終えたのだ。
なんだか羨ましい。そんふうに死ねるブタ下が羨ましかった。
これで最後になるかと思えば、ブタ下のことを松下と言ってあげるのが最後のはなむけの言葉だ。
いや、奴には、最後のはなむけの言葉を言ってやるべきだろう。
「やっぱりおまえはワキガ臭かったな・・・ブタ下・・・」
私はそういい残すと、生命を終えた亡骸が、工事現場の穴の中に落ちていくのを見守った。
そして、おもむろに取り出したスーツのポケットから携帯電話を取り出すと、ある人物に電話を入れたのだった。
ピリリリリリ・・・
その着信音は、すぐ近くから聞こえてきた。
「殺人事件もみ消し・・・もうひとり追加ってかぁ?」
そこには、ニンマリと笑い口から金歯を覗かせているアップルちゃんがいた。
私は、それを黙って見詰めていた。
そして、アップちゃんも、それ以上喋ることなくお互いを見詰め合っていた。
雨と。金歯と。殺人と。
私の突欲は、まだまだ加速していくらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます