第12話 突変
十二章 『突変』
天から授かった、権力という名の剣。
あるひとは、それを振りかざした。
あるひとは、それを鞘におさめた。
どちらの使い方が正しいということはない。
民衆が恐れるのは、それを手にした者ではなく、
その剣なのだから。
「おはよう!」
私はいつもの様に会社に出勤した。それなのに、課内にざわめきが走る。
当然だろう。
私が会社に出勤したのは一ヶ月ぶりだったからだ。
私が会社を辞めたものだと、誰もが思っていたはずだから。
課長の死と、私が会社に来なくなった事を、何か関係あると不審に思われても仕方のないことだ。
私は皆の視線を浴びながら、自分の席へと向かって悠々と歩いた。そして自席の前で一度立ち止まった。
「お・・・お久しぶりです、河合さん。一体今までどうしていたんですか?」
後藤クンが、心配そうな顔で私に話しかけてきた。だが、その瞳の奥では、どこかで私を疑っている。
「心配かけてすまなかったね・・・あ、それと、今度から私を呼ぶときは、河合さんはやめてくれよ」
「え?・・・それってどういう・・・」
私はにこりと笑うと、自分の机の前を通過し、課長の席の前で立ち止まった。
課長の死後、代理として私より三歳年下の、斉藤という男が課長代理を任されていた。
仕事は出来る男だが、いまいちリーダーシップがないのが出世できない理由だろう。
この斉藤という男にとって、課長の死は、まさに棚からぼた餅だった。
あきらめていた課長の椅子が、まさか、こんな形でまわってくるとは、本人は夢にも思っていなかっただろう。
それだけに可哀想だが、ひと時でも夢を見れたと思えば、まぁ、彼も納得するだろうか。
「な、何の用だね、河合くん」
課長代理の斉藤が、驚いた顔で私に言った。
河合くんか・・・今までは、お互いうだつの上がらない者同士、私を、『さん』づけで呼んでいたのに。
課長になった途端、私を下に見下してくるとは。でもそれも仕方ない。それが社会の仕組みなのだから。
「そこの席を空けてもらいたんだよ、斉藤『クン』・・・」
「なッ!・・何を言っているんだね、キミは!」
「だって、そこは私の席なんだよ?」
課内の空気がキーンと張り詰める。
「わ、わははっ!河合くんは一ヶ月も会社を休んで、頭でもおかしくなったようだね?」
この顔だ・・・この斉藤の今の顔。いやらしく歪んだ笑い顔。
ちっぽけな人間が、ちっぽけな権威をふるって、弱者を貶める行為。
斉藤は、その感覚にすっかり酔ってしまっている。
今までの自分にはなかった力を、ただ偶然手にした人間の愚かな末路。
金を手にした者。
女を手にした者。
権力を手にした者。
その誰もが、自己顕示欲にとりつかれ、相手よりも上に立ったと思い上がることで己の満足心を満たす。
そのときの顔はきまって汚い。どす黒い悪魔の仮面が、顔面にぴったりとこびり付いているのだ。
「早くそこをどいてくれないかな。今日から私が、課長に就任することになったのだよ」
「なっ、何をバカな・・・うそをつくな!河合!」
ついには私の名を呼び捨てか・・・そうとう焦っているようだな。無理もない。
おまえのようなちっぽけな人間には、権力を剥奪されることは、死刑宣告と同じなのだからな。
「どうせ後からわかることだが、朝の朝礼でそう発表される」
「そ、そんなこと聞いてないぞ!だいたい、一ヶ月も休んでいて、どうしておまえが課長になれるんだよ!俺と一緒でうだつの上がらないおまえが!・・・・・」
斉藤はそう言って、はっと我に返った。自らの無能さを自ら認めてしまった哀れな男。
「会社の決定に従うのが、社会人として当然の義務だ。それに斉藤クン・・・私がいままで取引先と接待し、商談をまとめた数はきみの何倍あると思うね?」
「ぐ・・!」
今までは、課長に手柄を全て取られていたので実績は少ないが、経験は間違いなく私の方が上だ。
それは、課の誰もが知っていることだ。年齢と経験を考慮し、私が課長になるのは必然なのだ。
「は、ははぁん!わかったぞ!おまえが課長を殺したんだな、河合!」
「斉藤さん!それは言いすぎですよ!」
後藤クンが、すかさず助け船を入れてくれた。
「だっておかしいじゃないか!課長が自殺し、羽鳥くんは会社を辞め、そして河合が一ヶ月も休むなんて!絶対こいつらは、何か関係があったに決まっている!そ、そうだ、きっと愛人関係かなにかのもつれで、河合が課長を自殺に追いやったんだ!なぁ、みんなもそう思うだろう?!」
しーん・・・
課全体が静まり返った。
言ってはならないタブー。取り乱した斉藤は、禁断の言葉を口にしてしまった。
これでもう、こいつは終わった。最初から終わっていたが、自らとどめを刺してしまったのだ。
人の心・・・
見えない鏡で囲まれた、もろくて崩れやすい箱。
人はそこに、わだかまりを溜め込み、見透かされないように鍵を閉める。
しかしそれは、突然に崩れ去る。
爆発寸前の危うい感情は、一瞬の感情の起伏で外に解き放たれてしまう。
すると、結果、いやらしく醜い存在へと変貌していくのだ。
人の心のはかなさよ・・・
自分を隠すことが、自分を守ること。
それが人の心というもの・・・
私は、朝礼の間、喫煙室でタバコを吸っていた。
今頃は、私が課長に就任したことを発表しているだろう。私はあえて、その場にいることを拒否した。
数十分前の、私に向けられた皆の冷たい目が、この後、どう変わってくるか楽しみであった。
疎ましい存在から、自分達よりも権力を持つ存在になったことを、皆はどう受け止めているだろうか。
納得できない話でも、納得するのが社会人の務めなのだ。私に文句を言うヤツはもういないだろう。
その行為のもたらす結果が、どれだけ自分の出世の道を閉ざすことになるのか、わかっているだろう。
私に文句を言うよりも、私と親身になった方が得ということなのだ。
さて、まずは誰が私のもとへ跪いて来るだろうか?
「かっ、河合課長!」
はぁはぁと息を切らしながら、私のもとへやってきたのは後藤クンだった。
やはりおまえか、後藤。この男の変わり身の早さには恐れ入るよ。ずるがしこいヤツめ!
「おめでとうございます!河合課長!」
「・・・ああ、ありがとう」
私は、無愛想に礼を言った。
「いやぁ、ボクも前々から不思議だったんですよ、何で河合さんに役職がつかないのかって。でも実力から言って課長に就任されたのは当然ですよね!これからもよろしくお願いしますっ!」
クソが。こいつもあれだ。
どす黒い悪魔の仮面をかぶっている。私に嫌われないように、無理をして媚びへつらっている。
まぁ、おまえのような三流のサラリーマンは、上司に尻尾を振っているのがお似合いなんだよ。
間違っても実力を認められず、出世できないタイプだからな、こいつは。
犬だ!こいつは犬が丁度良い。そう考えると、後藤クンのむさ苦しい顔が、犬に見えてきた。
「はっはっは!こいつは傑作だ!はははははっ!」
「か、河合・・課長・・・」
後藤くんは、私の豹変振りに息を飲んでいた。
そして、私の課長としての仕事が始まった。
私はどうやら変わったようだ。
課長としての業務をこなす姿に、皆が驚いている。今までの私にあった甘えや妥協は一切許さない。
そして部下に厳しく接した。私の仕事は部下と仲良くなる事ではない。会社の利益を上げるのが仕事だ。
だから、私に教えられる事は徹底して教え込んだ。そして失敗したら厳しく叱り、正しい方法を諭した。
「なぁ、最近の河合さんのやりかた、あれってちょっと厳しくね?」
「俺もそう思うよ。なんていうか、調子にのってるっていうか」
「そうそう、いくら課長になったからってイバんなっての!」
「でもさぁ、やってることは正しいと思うわ、課の業績も伸びてるし」
「俺は昔の河合さんの方が良かったな~、人間って変わるよな」
これは、ある居酒屋での部下の会話だ。ある方法で、極秘に会話を録音したものだ。
影でいろいろと言われているのも、もちろん承知している。
私のやり方に賛成の者、反対の者、明らかに不信感をもつ者。
これで嫌われるようなら、嫌ってくれて結構だ。先ほども言ったように、私は仕事をしているのだ。
やる気のある者には徹底して教えるが、やる気のない者は全く無視だ。
仕事へのモチベーションを持つ者と持たない者では、成長の度合いに明らかに差が出る。
使い物にならない人間に、仕事を教える時間と労力は無駄なのだ。
ふて腐れて自ら会社を辞めるまで放っておくのが一番だ。
学生気分でお手てつないで、仲良し気分で甘え合いたいのならば、他の会社ですればいい。
即刻辞めてくれて結構だし、私は何も困らない。
もう一度言う、私の仕事は『仕事』なのだ!
そして夜。私は課長から社長に変身する。
昼間の明るい光が差し込んでいたオフィスとは打って変わり、ここはネオンの光がガラス越しに映る。
私に与えられた会社、その名は『ディザイア』。意味は、『欲望』。
なるほど、今の私にふさわしい社名だなと、最初聞いた時に思った。
業務内容は、ひとことで言うならば裏の仕事。
風俗関係、金融関係、その他、だ。
今までの長い人生、表の真面目な仕事しか知らなかった私が、いきなり裏の仕事が出来るだろうか?
はじめはそう思ったが、裏の仕組みが見えてくると、その面白さにすぐに没頭した。
セオリーがセオリーではなく、スタンダードがスタンダードでなくなる。
常識と非常識がひっくり返り、白と黒があからさまに浮き彫りになってくる。
私はそのダークカラーの美しさに酔いしれた。
自分で言うのもなんだが、生真面目な性格が幸いし、落ち度のない完璧な仕事をこなすことが出来た。
朱雀江さんも、これには驚いたようだった。
「河合さんが、こんなにも仕事ができるなんて驚きだわ。私も、うかうかしていられないわね」
朱雀江さんの仕事は、風俗誌の刊行だった。
だが、それは表の姿。すでに裏の仕事であるが、さらにその裏の仕事が存在していた。
彼女は、風俗嬢の引き抜きを主としていた。いうなれば、ヘッドハンターだ。
風俗店で働く女性と交渉し、よりよい賃金でこちらに移ってもらうという仕事だ。
より働きやすい環境と、より多い賃金ならば、誰もが条件の良い店を選ぶだろう。
そして、風俗嬢というのは思ったよりも純粋だ。
失礼な言い方だから訂正するが、その仕事に熱心な女性が多い。
桁違いのお金を稼ぐ理由を背負い、自分の全身全霊で業務をこなす。
それは、ある意味美しく、とても素晴らしいことだ。
だらだらと目標もなく仕事をしている人達に比べれば、十分に価値のある行いなのである。
プルルル・・・
私の携帯に電話がかかってきた。羽鳥みそのクンであった。
「社長、例の3人なんですが、店を移ることに同意してくれました」
「そうか、では、後はこちらで契約までもっていく」
「それではお願いします。では」
「うん、ご苦労」
みそのクンは、もといた会社を辞めた。
そして今は、私のもとで働いている。
仕事内容は、風俗店に従業員として働き、知り合いになった女の子をこちらの店に誘うことだ。
もちろん、みそのクンも体を張って仕事をしている。それを辛いと漏らすこともない。立派だ。
彼女は変わった。
そして私も変わった。
あの一件以来、私は劇的に変化することになったのだ。
そう、あれは突然の欲望によって。
例えるなら、そうだな、『突欲』・・・とでも言おうか。
自分の中に眠っていた感情の目覚め。それを起こしてくれたのは、朱雀江さんとみそのクンだった。
あの日から一ヶ月・・・・
もう思い出すまいとしていた記憶を、私は頭の中で払った。
あの記憶は思い出してはいけない。あんな記憶はもうこりごりだ。
それに比べたら、裏の仕事など楽なものだ。
私は、とある料亭で酒を飲みながら、そんなことを考えていた。
すっかり馴染みになったこの料亭に、私は週に三回ほど足を運ぶ。
落ち着いた和風のたたずまいに、庭先に見える池が心和み、猪脅しが子気味よく反響する。
ここでは、着物の女性が接待してくれるのだが、あえて私はそれをしない。
ここでは、ひとりで至福の時間を堪能するのが正しい楽しみ方だと思った。
ここでは、私は純粋に無心になれる。そして生粋に充実を満喫できるのだ。
『世の中お金』とは誰が言った言葉だろうか?
まさにそれ以上の例えがない程、この社会は金のある人間がさらに金を増やせるシステムになっている。
金のないやつは、余裕もなく目先しか見えなくなってしまうが、金のあるやつは、先を見据えた視野を余裕を持って見ることができる。
具体的に言えば、家を買う際、貧乏人は仕方なく高い利息を払ってローンをする。
それで当然ながら利息分だけ余計に払う事になる。そして、ますます金がなくなる。
アホが。
自分の生涯年収も冷静に算出できない愚か者が、調子に乗って身分不相応な買い物をするんじゃない。
虚栄心で、隣の家に合わせ、見栄えの良い家を買う理由などどこにもないのだ。
それに比べ金持ちは全然逆だ。
ローンをすることがないので利息を払う必要がない。
それに、余った金を投資して増やす事だって出来るのだ。ここが決定的に違うのだ。
貧乏人の投資ほど危険なものはない。
下手すれば、人生が終わってしまうほどの危険性を持っているのだから。
なに?例え失敗しても、損が数十万程度で済むから良いだって?
アホが!
その損失は貧乏人の体にこびりつき、死ぬまで一攫千金を夢見る愚かな行為に気づいていない。
今までの、私の虚しい生活を振り返ると、なるほど、心が虚しくなるのが当然であったと実感できる。
いくら頑張っても越えることの出来ない大きな壁の存在を、改めて思い知らされた。
金のないのには理由が必ず存在する。
それを運と言っている人間は、すでにその時点で終わっているのだ。
自分の能力のなさを、運や何かに変換して誤魔化しているのだ。なんとも卑怯な考え方だ。
そして、一発逆転を狙ったあげくの行動が、ギャンブルという極めて非効率的な選択しかないのだ。
誰もがお金に興味を持っているのに、それをもっと深く掘り下げようとしない。
そして、本屋で売っている胡散臭い成功法や、運のアップする眉唾なお守りを購入するしかないのだ。
もし、誰もがカンタンに成功できるのなら、この世の中は、4億総上流家庭になってしまうだろう。
そんなバカな話はない。
安月給で文句を言いながらも働き、家のローンと子育てを無計画で行う『蟻』の存在があるからこそ、我々は蜜を吸うことが出来るのだ。
発散しきれない欲望を、風俗で、上辺だけ一時的に洗い落とすしか方法がないのだ。
能力のない人間は、自分の労力を、雀の涙ほどの賃金にしか換金する方法を知らないのだ。
能力があれば必ず成功できる訳ではない。能力を金に変える方法を探す能力も必要なのだ。
たった一ヶ月であるが、私の今までの常識は、ゴミクズのように簡単に捨てられた。
そして、本当の意味での常識を、この世の真実を知ったのである。
だからこれからも、私の常識は次々と新しく塗り替えられていくのだろう。
それが今は面白くて仕方ないのだ。
砂漠に放ったバケツの水が、一瞬にして地面に吸い込まれていくように、私の知識はみるみる膨らんでいった。まぁ、私の場合は、濁った水も多分に含まれているが、濁った色だろうが綺麗な水だろうが関係ない。
吸収する水分に、キレイも汚いもないのだから。
さて、今日も酔った。満足な酔い方だ。
ビール一本に、日本酒を2合。酒代を料金に換算してもたかが知れている。
だが、いくら高級な酒を飲んだとしても、必ず気分良く酔える訳ではない。
やはり、酒というのは、心で飲むものなのだ。
荒んだ心では、酒をキレイに蒸留することができず、ムナクソの悪い物質へと変換してしまう。
ひとり酒を口に含み、美味いと思う瞬間。思わず緩む口元。
悩みもなく、希望に満ちた心。
美味しい酒とは、キレイに蒸留することができる、己の心身状態なのだ。
しかめっ面で、安酒をガバガバ飲んでいる人間は、それが毒に変わっていることに気付いていない。
体調を悪くし、寿命を縮めているだけなのだ。しかし、それに気付いたとしてもどうしようもない。
不味い酒しか飲めない人間は、不味い酒しか飲めない理由があるのだ。
自分の欲を押し殺す事が、社会に貢献していると思っている、お門違いの偽善者なのだ。
そもそも、我慢することは、生命の理屈から考えても不自然なのだ。
オシッコをガマンするのが良いことか?
ホシイモノを諦めるのが良いことか?
キライな相手にお世辞を使うのが良いことか?
ツマラナイ仕事を毎日こなすのが良いことか?
ガマンする事はどれも無駄である。そこから何も生まれない。
「生まれるよ」という人は、それは生まれているのではない。
ゾーキンを絞った際、一滴だけ落ちる汚れた水が、ポトリと垂れているだけである。
そして、私は今夜、ある出会いをした。
世の中の不満にまんじりともせず、嫌々仕事をする人間と出会った。
出会った・・・というのはちょっと違って、それは再会と言った方が正しかった。
私は、その料亭で呼んだタクシーに乗った。
「○○町まで」
「・・・・ぁい・・・」
腐ったガスが漏れたような、気のない返事。典型的なやる気のない運転手だった。
だが私は、そういう運転手がいても当然だと思っていたから、特に何とも思わなかった。
車が動き出し、しばらくして携帯が鳴った。みそのクンからだった。
「社長、いま店が終わりました」
「そうか、丁度良かった。今からそっちの店に寄るよ」
「はい、では後で」
みそのクンは、今勤めている店で3人の女の子を引き抜いた。その女の子達と、今から会う約束だった。
三人か・・・あの店での引き抜きもこれで限度だな・・・
あまりにも、露骨に引き抜いてしまっては、その店も黙ってはいない。
トラブルを最小限にする為、ひとつの店から引き抜くのは3人までと決めていた。
「運転手クン、○○○という店に寄ってくれ」
「・・・あ、ああ・・・」
相変わらず気のない返事だ。
「あんた・・どこかで会ったことないか?・・・」
タクシーの運転手が、私に話しかけてきた。
「ん?・・・ああ」
私は思い出した。この運転手は、以前、私が会社を無断欠勤して海に行った時の運転手だった。
運賃が10円足りなく、危うく警察に突き出されそうになった嫌な運転手だ。
だが私は、もうあの時のことなど忘れていた。
殺してやりたい程くやしい思いをしたが、今となってはどうでもいい存在だ。
こんな小物の存在自体、空気中のバクテリアか何か程度にしか感じなかった。
「ど、どうしたんだよ、アンタ?料亭から出てくるわ、風俗で待ち合わせするわで、どこで一発当てたんだ?」
運転手の声が震えているのがわかる。明らかに嫉妬の感情がこもった声だ。
この運転手・・・そうだ思い出した。たしか名前は、『二ノ宮(にのみや)』だ。
こいつは、わたしの豹変ぶりの理由を、ギャンブルか何かで大金を当てたと思っているようだ。
・・小物め・・・所詮、キサマのような小物の考える事はその程度なのだろう。
「いや別に。ちょっと真面目に働いただけさ」
私は、嫌味のないように言ったが、おそらくこの男にとっては、嫌味に聞こえているのだろう。
「ふ、ふん、サラ金から金借りてるだけだろ?き、気をつけろよ、あそこは金利たけーから!」
明らかに悔しがっている様子だった。私は、ルームミラーに写るこの男の顔が、おかしくてたまらなかった。
「ここで一度止めてくれ、人を待たせているんだ」
私は、風俗店の外で待っているみそのクンを乗せた。
「おつかれだったね、みそ・・いや、エリナだったか」
「お店が終わったのですから、みそのでいいですよ、社長」
「いや、これからその子たちと会うんだから、エリナの方がいい」
「はい、ではそうします」
運転手の顔が引きつっていくのがわかる。私が風俗嬢に社長と呼ばれて、驚きを隠せないようだった。
「運転手クン、ペガサスというバーに行ってくれ」
「・・・・・・・」
しかし、二ノ宮の返事はない。
「聞いているかね?運転手クン?」
「社長、この男の精神は安定してないみたいです。別のタクシーに代えましょう」
「いや、私は構わんよ。運転手クン、もう一度言うよ・・・ペガサスというバーに行ってくれ・・・・」
私は、二ノ宮の耳元で、優しくささやいてやった。
「あ・・・あ、ああ・・・・」
ガクッ、ガクッ、ガクッ、プスン!
車のクラッチがうまく繋がらず、エンストを起こしてしまった。二ノ宮は完全に動揺しているようだ。
「ちょっとあなた!気をつけて!」
みそのクンが二ノ宮に注意した。そしてぎこちない運転で、車はやっと動き出した。
ブロロロ・・・
回転数が上がっているのがわかる。どうやら二ノ宮は、ギヤをトップに入れるのを忘れているようだ。
みそのクンは不満そうな顔をしている。
「社長、今回もまた例の方法で?」
「そうだ、とりあえず現金を100万ほど渡しておけば、そいつらもしっかり働いてくれるだろう」
「そうですね、借金に困っている女を選りすぐっておきましたから、それが確実な方法でしょう」
「金が欲しければ股も開く・・か」
「はい。とくにひとりの子は、親の借金で家が抵当に入っているようです」
「それで娘を風呂に沈めるか・・・最低の親だな」
「はい。ですが、私達には最高のカモです。我が社で代理返済し、さらに利息を上げれば、もう一生この業界から抜け出せないでしょう」
「ははは。差し詰めその女は、一生風俗で働き、一生借金を返し続ける金の卵というわけか」
「はい」
キキーッ!
突然、車が急ブレーキを踏んだ。
「あなた!どういう運転をしているの!」
大声で怒鳴るみそのクン。だが私は、腕を差し出してそれを止めた。
「ですが社長!」
「まぁいいから・・・」
二ノ宮の肩はふるふると震えていた。今の話を聞いて、よほど衝撃を受けたのだろう。
無理もない・・普通の一般人には、少しばかりきつい話だったかもしれない。いや、かなりか?
「あ、あ、あ・・・あんた!アンタは何故、そんなに変われたんだッ?!一ヶ月ほど前のアンタは、タクシー代も払えないほどの負け犬だったのに・・!」
「・・・そうだな」
落ち着き払っている私を、二ノ宮は振り返って睨み付けてきた。
「どうしてだよ!なんでそんなに変われたんだよ?!」
「・・・汚い手で私の胸倉を掴み、なにをしているつもりかな?」
私は、二ノ宮の目を睨みつけた。
「あ、いや、すまない・・・じゃ、じゃあ教えてくれ!」
「教える?・・・誰が?何をだね?」
「だ、だから、どうして負け犬だったアンタが、今みたいに社長になって金持ちになれたかをだッ!!」
二ノ宮は、歪んで見苦しい顔を、私の顔に近づけてきた。
「ちょっと外にでようか」
私はそう言って、タクシーから降りた。そして、アタッシュケースの止め具を外し、中身を見せた。
「ここに300万ある。もしキミなら、この金を何に使うかね?」
「300万!!・・」
二ノ宮の喉が鳴るのが聞こえた。
「そ、そうだな、俺だったらまずは車だな・・!ベンツがいい!そして家の頭金にして、それで風俗で豪遊して・・・それで、それであとはパチンコで倍に増やして借金を返す!」
二ノ宮は、気味の悪い笑みで、ささやかな夢を語ってくれた。
「ぷっ、ははは!・・何を言っているんだ、キミは」
私は溜まりかねて噴出してしまった。
「な、なんだと・・・?」
「300万ほどのはした金じゃあ、中古のベンツが関の山だ。それに家の頭金?ブタ小屋でも買うのかね?おまけに風俗で豪遊し、ギャンブルで増やす?・・・わははははっ!!」
「な、何がおかしいんだ?!」
「キサマの存在すべてだ!二ノ宮ッ!」
「うぐ・・・!」
「いいか、よく聞け?今のキサマが、夜中に眠い目をこすって何でタクシーを運転しているかわかるか?」
「な、なんでって言われても・・・」
「私が料亭で美味い酒を飲み、300万という金で、さらに多額の金を生み出せるのかわかるか?!」
「わ、わからねぇ・・・それを教えてほしいんだ!オレとあんたのどこに違いがあるんだ?!」
「それは・・・突欲だ」
「トツヨク?・・・それって一体何なんだ?!」
「それは己の体内から湧き出してくる生命の息吹!それは灼熱の炎に包まれた熱き精神!」
「・・・な、なんだよそれ、何言ってんだよ・・・」
「わからんか?気付かんか?この世に生れ落ちてきた意味を知らず、いたずらに時を浪費することの愚かさを!そして、己の欲を抑制せざるを得ないコメツブほどのちっぽけな存在を!」
グイッ!ガヅン!
私は二ノ宮の胸倉をつかみ、電柱に叩きつけた。
「それが貴様にはわからんのかぁ!」
「うおおお!わからねぇよ!俺のように、仕事何やっても面白くなくて、ギャンブルで借金つくっちまうような人間は、一体何のために生まれてきたのかわかんねぇんだよぉぉッ!」
二ノ宮の拳に力がこもる。
「それを今から探せ!ただ考えただけでわかるような単純なものじゃないんだ!人生は!」
「お!教えてくれ・・!まず何をしたらいい?何から考えたらいいんだ!」
二ノ宮は、哀願するように私の前に跪いた。私はそれを冷酷に無造作に眺めた。
バキッ!
私は、目の前で土下座している二ノ宮を、思いっきり足で蹴った。二ノ宮の口が切れて血がしたたる。
バキッ!
私はもう一度蹴っ飛ばした。さっきよりも強く蹴ったので、二ノ宮は後ろに吹き飛んだ。
バキッ!
三度目のケリは、二ノ宮の額を血で滲ませた。後ろの壁に激突する二ノ宮。
バキッ!
ヤツのまぶたが青く変色した。
バキッ!
バキッ!
バキッ!
もうヤツの顔はプクプクに晴れ上がっていた。それでも二ノ宮は反撃せずに、私の足元に跪いてくる。
「はぁ、はぁ・・・」
私の息が上がってくる。無理も無い。若くない体で、何度もケリを繰り出したのだから。
二ノ宮は血の滴る顔で、私の目をジッと睨んでくる。だがそれは憎しみの目ではなかった。
「よし、いいだろう・・・」
私はそう言って、アタッシュケースの中の100万を取り出して、車のメーターを見た。
「料金は2500円か・・・治療代と合わせて1002500円だな・・よし」
私はサイフから2500円を取り出そうとした。サイフの中には10万円ほど入っていたが、あえて取り出した金額は、2490円だった。
「おっと、1002490円しかないな。10円足りないが・・・どうする?この前のように警察に突き出すのか?」
道端にへたり込んでいる二ノ宮の前で私はしゃがみ、ヤツの顔に札束を近づけてこう言った。
「・・・・・・」
ふるふると震えている二ノ宮の顔は、泣いている赤ん坊のように不安げで悲しげな顔をしていた。
「・・・御代は・・結構でございます・・・社長・・・」
「・・・・そうか・・・・」
そして私は、1002490円と一枚の名刺を二ノ宮に渡した。
「今度ここへ来たまえ。そこにキミの求める世界があるかもしれない」
「・・・あ、ありがとうございますッ!社長ッ!!」
二ノ宮は、深々と頭を下げて土下座した。
「よし、行こうか、みそのクン」
「はい」
私とみそのクンは、別のタクシーを呼び止めそれに乗り込んだ。
ミラー越しに後ろを見ると、二ノ宮はいつまでも土下座を続けていた。
「思ったより骨がありそうなヤツだな・・・」
「私から見れば、薬にも毒にもなりそうな男だと思いますが・・・」
「はっは!それはいい!・・・・面白そうな男になりそうだな!はっはっは!」
「ところで社長、あの男に100万渡してしまって、どうするおつもりですか?」
「あ、そうだった。これから店の女に、300万渡さないといけなかったんだ!」
「まったくもう、私がなんとか用意しますから・・・でもそこが社長らしくていいですわ」
「す、すまんな、みそのクン・・」
「まだエリナ、でしょ?」
「そ、そうだったな、いやはや、すまん、すまん」
「うふふ」
「ははは・・」
それから、風俗嬢と待ち合わせした私とみそのクンは、仕事の契約を始めた。
予想通り、現金をチラつかせた効果は絶大だった。
「職場の雰囲気が合わないから、仕方なく変わるのよ」、と言っていた風俗嬢も豹変し、「お金の為なら何でもする!」と言い切ったのには少し笑いそうになった。
とにかくどんな理由であれ、負債を抱えた人間の心を動かすのは容易いものだ。
ぐらぐらの首根っこを、ちょんと押すだけでいいのだ。
私はひとり、深夜のビルの摩天楼を眺めていた。
少し乾燥した肌寒い風が心地よい。仕事を終えた達成感が胸の奥でジンと馴染む。
コンクリートの塊で覆われた箱の中では、今夜も人の欲と欲とが、何重にも絡み合っているのだ。
それが、もつれ合って竜のような形になり、天へ昇りながら消えていくように見えた。
私は、さっきの二ノ宮と、風俗嬢の顔を思い出していた。そして確信できた。
欲を制覇する者。欲を制覇しない者。
たったこれだけで、人間に優劣がついてしまうこと。
それは最初から、人間に課せられた宿命なのだろうか?
それとも、腐敗していく社会に捻じ曲げられた悲しい現実なのだろうか?
黒い闇は何も答えない。だから私も考えないことにした。
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