第10話 突脅
十章 『突脅』
けだるい朝。
私はこんな朝を、あと何回迎えないといけないのだろうか?
いつもの電車にいつもの風景。もういい加減見飽きてしまった。
そろそろこの退屈な列車から、下車しても良い頃かもしれない。
資格は充分にある。今の私は、一ヶ月前の私とはまるっきり変わってしまったのだから。
今までの人生は、すいすいと優雅に泳いでいた訳ではないが、それでも正面から流れてくる流木や滝つぼを、なんとか回避する事が出来ていたと思う。
それが今はどうだ?
あの頃の、何事もないことが普通だった日常から、押し寄せる波乱の波に溺れそうになっている。
自ら濁流の中に飛び込み、そこで苦しみながらもがいている。
最近は、そんな泳ぎ方が、どこかしっくりくるようにさえ感じていた。
環境とは、自分のまわりを流れている時間の渦なのだ。
この渦をどう泳ぐかによって、その人の生き方が決定していくのだろう。
気がつけば、渦の中でもがいているのか、それとも嵐の中を楽しげに泳いでいるのか。
自分はどちらの泳ぎを求めているのだろうか?それはわからない。私にはわからない。
だが、ひとつだけわかったこと。
それは誰しも、濁流の中に飛び込むチャンスはあるということだ。私は身をもってそれを知った。
平凡が嫌なら非凡になればいい。
しかし、荒波を泳ぎきれずに溺死する自分を想像してしまうと、飛び込む前に足がすくんで躊躇してしまう。
泳ぎきれるかどうかなんて、わかるハズもないのだ。
だってその波は、ある時は緩やかに、ある時は激しい波へと変化していくのだから・・・
言葉の上では簡単なことが、これ以上ない程、極度に難しい行為なのだ。
今日もこの電車は、確実に真っ直ぐに走っていく。
しかし、その進んだ距離を、また同じ時間をかけて戻らねばならない。
それがなんだか虚しく感じてしまうのは私だけであろうか?
「おはようございます」
会社に着いた早々、隣の席の後藤クンが声をかけてきた。
「ああ、おはよう・・・」
「どうしたんですか?元気ないですね」
「ん、そうかい。そんなことはないさ・・」
「そうですか。それならいいんですが」
後藤クンは、私の疲れた様子をいち早く察してきた。さすがいつも隣で顔を合わせているだけはある。
その人の朝会った表情で、どんな調子かがわかってしまうのだろう。
だから、後藤クンの読みはズバリ的中した事になる。私が昨日、まさか無断欠勤した事は知らないだろう。ちゃんと会社に電話をして、正当な理由を言って休んだと思っているだろう。
この私が、無断欠勤などいい加減な事をしないと思っているだろう。
しかし、そう思っているのもあと数分だ。必ず課長が私を呼びつけ、昨日の欠勤理由を問い質すだろう。
そして、課のみんなが少しだけ驚くのだろう。「河合にしては珍しいな」、と。
それにしても眠い・・まだ疲労がずいぶんと残っている。
それも当然だ。雨の中を2時間も歩いたのだから。
いや、それだけではない。精神的な疲労も相当のものだ。
海で寂しさに打ちひしがれて、一億円当たった老人を羨み、駅の少女と出会って海に飛び込み、そして病院で変人扱いされ、おまけにタクシーの運転手、あの二ノ宮という子憎たらしい若者との事件。
これだけ盛り沢山あれば、精神的に疲労しない方がおかしいのだ。
しかし今思えば、あれからよくも家まで帰ってこれたものだ。
無一文であった私は、定期と免許証を提示して、なんとか駅員さんから金を借りる事が出来た。
そして家の近くの駅に着いた時点で、うちの女房に電話をして金を持ってこさせた。
その時の、あいつの顔といったらなかったな。
怒った顔と呆れた顔と、不貞腐れた顔をぐしゃぐしゃにミックスしていたっけ。
ぷっ。今思い出すと少し笑えるな。あいつがあんな面白い顔をする事が出来たなんて。
でも家に着いたら散々だったな。文句と愚痴が家中に夜遅くまで鳴り止む事はなかった。
だが、私は疲れていたので、適当にうんうんとうなずいて流した。
私に弁解する理由も気力もなかったので、それも仕方ない。
それにしても、あいつの愚痴と文句を聞いたのも久しぶりだったので、なんだか懐かしい気さえした。
最近は、ろくに顔も合わせていなかったのだから。約一ヶ月になるだろうか。
そうだな、それは丁度、私が駅の少女に初めて良からぬ行為をしてしまった頃からだろうか。
あの頃から確実に私のまわりは変化したし、私自身も変わった。
今までは会社に対して、歯向かおうとする気持ちなど絶対になかった。
だが、昨日の無断欠勤は、それを突き破ろうとした意思の表れなのだろうか。
それは私自身よくわからないが、たぶんそんなところだ。
それにしても、あの少女はどうなったのだろうか?
無事に病院から帰ることが出来ただろうか?
あのまま、ひとり残して帰るべきではなかったのかもしれない・・・
ひょっとしたら、あのまま目を覚まさなかったのかもしれない・・・
いや、でもそれは大丈夫だ。今朝の新聞で、そんな事件は何も載っていなかったから。
私が原因で、あの少女が海に飛び込んだと知る者はいないだろう・・・
「河合クン、ちょっと」
ぼーっと考え事をしていた私は我に返った。
ほら来た。早速、課長からのお呼びがかかった。
今から起こる事は、間違いなく波乱になるだろう。私はそれを自分で予感していた。
課長がなんと言って私を叱ろうが、それを微塵も謝ろうとする気持ちは私にはない。
激怒して顔を真っ赤にする課長が目に浮かぶ。
ひょっとしたら、机の上の書類を、私の顔面にぶつけてくるかもしれない。
それを私は、やれやれという顔で頭ひとつ下げずに、爽やかに拾い上げ、課長の机にボサリと放るのだ。
その態度を見た課長は、課内に響くほどの大声で私を叱るだろう。
だがそれでいい。もっともっと激怒してくれて結構だ。どうせ、課長が怒ったところでクビになる訳ではない。
そんな権限はあんたにはないのだ。
せいぜいこの部署だけでしか通用しない小さな権限を、有効に振るってみたらいかがだろうか。
そうすれば少しは気がすむのだろうか。それともそんな事で満足してしまうのだろうか。
そんなちっぽけでつまらない人間の、課長の姿をぜひ見てみたいものだ。
よっし、決めた。
このまま返事もせずに、この場から振り返る事もせずにいてやろう。
課長がどんな反応をするか楽しみだ。
「河合クン、聞こえてる?こっちへ」
おやおや、少しずつ苛立ち初めているな。そうだろう。おまえみたいな小さな人間は、たかが私が返事をしないだけで、気分を悪くする人間なのだからな。それで丁度良い反応だよ。
「河合さん・・課長が呼んでますよ・・」
隣の後藤クンが、心配そうな顔つきで小声で知らせてきた。
ははは、心配する事はない。まだまだ焦らしてやろう。
そうだ、課長が私の席までやって来た時に、初めて気がついたふりをしてやろう。
これは面白い事になりそうだ。
「河合クン!聞こえていないのか!」
三度目の課長の呼び出し。かなり大声になってきたし、声も上ずってきたな。予想どおりの展開だ。
「何してるんですか河合さん!ヤバイですよ、課長が怒ってます!早く!」
後藤クンは、おろおろとした顔で、私と課長の顔を交互にキョロキョロと見回した。
「だいじょ~ぶだよー・・・っと」
「え?な、何を言っているんですか、河合さんらしくないですよ!」
河合さんらしくない、か。こんな言葉聞いたのは何年ぶりだろうか?
今までの河合という人物はそうとうな真面目人間で、課長が呼べばすぐに返事をし、一目散に駆け寄っていったのだからな。
それが今ではどうだ。
課長の怒鳴り声を聞いても、返事をするどころか、ますます課長を激怒させたいと思っているのだから。
私は、私自身の変化を顕著に感じた。
「ど!どういうつもりだねキミ!課長である私が読んだら返事ぐらいしたまえっ!」
ほらやっぱり!早速課長風を吹かしやがった。
私が呼ばれても返事をしないのは、おまえが課長だろうとたいして怖くないという意味なんだよ。
どうだ?部下に無視された気分は?
今まで課内では、自分の命令が絶対だと思っていた自信が、ガラガラと脆くも音をたてて崩れる気分はどうだ?マヌケな面で、ワナワナと口を震わせている顔が容易に想像できるよ。
「河合ーーッ!来いといったら来いッ!!」
はは、ついに切れたか。ま、課長ごときはこんなところか。
それでもここまで近づきもせず、自分の机でのうのうと叫んでいるだけなんて予想が外れてしまった。
おまえはこの私の席までやってこいよ。
課内はシーンと静まり返ってしまい、皆が不思議そうに私の顔を直視していた。
「河合ーッ!!」
課長が真っ赤な顔で絶叫した。
「あー!忘れてた!」
私は突然立ち上がると、課長の方をくるりと向いた。
課長は私の顔を睨みながら、ぜいぜいと息を切らせていた。
ははっ、そんなに息切れするまで叫ぶなんて愚かな奴だ。
私は席を離れ、課長の顔を直視したままスタスタと歩き出した。皆が全員私に注目している。
ツカツカツカ・・・
課長の机の前まで来た私は、表情ひとつ変えずに、この男の顔を上から見下した。
「なっ、なんなのだ!キ、キミはいったいなんなのだっ!」
課長の呂律が回ってないのがわかる。突然の私の態度に、どう対応して良いのか焦っているのだ。
「課長、ひとつ忘れていた事があったので報告しておきます。昨日は、身体的、精神的に疲れていましたので、勝手ながら欠勤させて頂きました。家内には会社に連絡しておくように伝えたのですが、どうやら何かの行き違いで伝わっていなかったようで、無断欠勤となってしまいました、申し訳ありません」
私は冷静に、淡々とした口調で言った。
「そっ、そうか・・・しっ、しかしキミ!それじゃあ困るんだよ!部下にも示しがつかないじゃないか!」
課長は、私に罵声を浴びさせたがっている。それはどんな事でも良いから、自分の立場を利用し、下の者を貶める事で自分の優位さを感じていたいからだろう。
くだらない。貴様の尊厳なんてこんなちっぽけなものなのか。
こんな事で自分の地位を確立させていたいのか。
もうこの男に、私より優位な立場を提供させてやる事もない。こいつの弱みを私は握っているのだから。
「課長、今、部下に示しがつかないとおっしゃいましたね?では、部下に個人的に接し過ぎる事は、示しという意味合い上、しなくてはならない事なのでしょうか?」
「な・・・・!」
課長の顔が蒼白していくのがわかる。
私が遠まわしに言った事、もちろん、羽鳥みそのをホテルに誘った件だ。
これならば他の誰にもわからない。私と課長だけの秘密なのだから。
これ以上の課長の暴挙を許さない為には、これくらい言っても構わないだろう。
「どうなのですか課長?質問に答えて下さい」
私はニヤリと笑った。
「ぐ・・・ぐぎぎ!・・・・河合~ッ、貴様~ッ・・!」
それ以上何も言えない課長は、歯をギリギリと食いしばり、顔に血管を浮き立たせていた。
「おや、どうやら質問の答えは聞けそうもないみたいですね。ではこれで」
私は課長に背を向け、悠々と自席に戻ろうとした。
「河合ッ!!」
バンッ!
課長が立ち上がり、机を大きく叩いた。私は振り返らないまま立ち止まった。
「私に逆らったらどうなるか教えてやる!必ずおまえを後悔させてやるからな!」
私は立ち止まったままゆっくりと振り向き、課長の顔を冷静に見た。
「今の発言は、会社の課の長とは思えない、個人的な発言ですね。もしこれが、上の耳にでも届いたら、後悔するのは誰なのでしょうか?幸い、ここにいるみんなが証人ですから、今のうちに手なずけて口を封じておいた方が良いかもしれませんよ?」
「なん・・!・・・・・・・・・・・」
課長は、それっきり返す言葉もなく課内を見渡した。
するとそこには、社員達の明らかに冷たい視線が課長に向けられていた。
もともとそれほど評判の良い人間ではないから、叱られた恨みや良く思っていない人間も多いのだろう。
それから午前の業務中は、課長が私を殺意の篭った目で睨んでいたが、私はそれほど気にならなかった。
私は自分でも、一体どうしてしまったのだろうか?
昼休み。私は食堂で昼食をとっていた。
私はきつねそばを食べていた。たいして美味くもなく、量だけはあって腹に溜まるだけのそばだった。
これが食券二枚になれば、ご飯、味噌汁、おかず二品、お新香とそれなりの内容になる。
だが、値段を倍出してまで食べたい物ではないし、金銭的にも贅沢なメニューだった。
私にとっては食券一枚が普通なのだ。あとの選択肢はカレーがあり、味、量ともまずまずなのだが、あれはどうも胸焼けがするので、とても毎日は食べられない。
女房が弁当を作ってくれれば良いのだが、「面倒くさい」、のひと言で片付けられた。
「河合さんっ、ここいいですか?」
隣に座ったのは後藤クンだった。後藤クンは、食券二枚のメニューを手に持っていた。
「あれ、いつもは弁当じゃなかったかな、後藤クンは?」
「はぁ、それが昨晩またケンカしちゃって、ついに弁当作ってくれなかったんすよ、はは」
後藤クンは苦笑いしながら、ばくばくとご飯を口に入れる。
「む、なかなか美味しいですね、このご飯。これから食堂にしようかな~」
私はそばの汁をすすりながら思った。家のローンでキチキチのくせに、贅沢に食券二枚も使いやがって。
「で、ケンカの原因は?」
そばの丼を置いて、私は尋ねた。
「いや~それがですねー、あれからスロットにハマっちゃって、2日で10万もってかれちゃったんですよー、まいっちゃいますね。あぁ、あそこで止めとけばプラスだったのになぁ・・・」
「そんなにかい?そりゃ10万も負けたら奥さんも怒るだろ。まぁ浮気したならともかく、お金の問題だったら誠意もって謝れば許してくれるよ」
「いや、まだ負けた訳じゃありませんよ!とりあえず一時的に金を預けただけですから。今日は取り返しますよー!」
やれやれ、あきれたものだ。負けを負けと認められないギャンブルほど、たちの悪いものはないのに。
「それより河合さん、一体どうしたんです?」
「ん、なにが?」
私はあえてとぼけてみた。後藤クンが聞きたい事はわかっている。朝の課長との一件だろう。
課長にはいつも頭が上がらない私が、突然あのような態度をとれば、そりゃ誰だって不思議に思うだろう。
「またとぼけちゃって、課長の事ですよ!あの課長の悔しそうな顔ったらなかったなぁ。ザマアミロって感じですよ!」
後藤クンは、嬉しそうな顔で笑った。
「後藤クンは、あの課長の事をどう思っているんだい?」
「えっ?そりゃ~・・・まぁ、どちらかと言えば好きではないですけど・・」
後藤クンは視線を外し、少し答え辛そうに言った。
「嫌いなのかい?」
私は単刀直入に聞いた。すると後藤クンは、言い訳するかのように焦りながらこう言った。
「そ、そりゃ、どちらかと言えばそうですけど・・・そ、それに、課の人でも課長を嫌っている人はたくさんいますよ!」
どうにも差し障りのない答え方だが、まぁそれも仕方なしか。
「河合さん・・・」
そこに、私の名を呼ぶ声がしたので顔を上げると、テーブルを挟んだ正面にみそのクンが立っていた。
「あ、みそのクン・・せ、先日はどうも・・・」
しまった!隣に後藤クンがいるのを忘れ、私はうっかり返事をしてしまった。
「いえ、それよりも、あの日の事は他言無用でお願いします・・」
「そ、それは当然だよ。誰にも喋らないから安心してくれ!」
「・・・絶対に・・・ですよ」
みそのクンは、それだけ言い終わると、くるりと背を向けて行ってしまった。
それにしても、少し様子がおかしい・・・何というか、少しそっけないというか・・・
まぁ会社の中だから、ワザとあんな態度をとっているのだと思う。
だって、彼女が私に好意を持っていると皆に知られたら、それこそちょっとしたウワサになるだろうから。
発覚!中年サラリーマンと、若いOLとの禁断の恋!
噂好きの女どもや、恋に無縁の中年男まで、この噂は社内に広まってしまうだろう。
職場での色恋沙汰はご法度で、ヒビの入った信用は仕事にも影響を及ぼす。
私は長年ずっとそう思って生きてきた。それが私達の世代の考えなのだ。
しかし、最近の若者には、そういった考えはないのだろう。
各部署で、誰と誰が付き合って、それで結婚したとか別れたとかはよく聞く話だ。
それに別れても、平気で友達関係を続けていられるから不思議だ。若者の気持ちはわからない。
「あれぇ、何ですか今の?羽鳥さんとどういう関係なんですか!」
「いやいや・・関係も何も、全くないよ」
私は大袈裟に手を振って否定してみせた。
「えぇ?まったく関係ないってコトはないでしょ?彼女もヒミツって言ってましたし。さ、どうなんです?」
「だから何もないって」
後藤クンはしつこく私に言い寄ってきた。
「彼女は課内でけっこう人気あるんですよ。なんというか、日本人女性っぽい落ち着きがあるというか・・」
ほう、みそのクンが、それ程人気があるとは知らなかったが、まぁそれは納得だ。
彼女のような身も心も美しい女性は、若い娘の中にはなかなかいないタイプだからな。
よほど親の教育が良かったのだろう。
「あやしいなぁ、河合さん。あ、まさか昨日休んだのはそれと何か関係があったりして!」
「はは、まさか」
「そういえば、羽鳥さんは会社来てたなぁ?う~ん、そうなるとツジツマが合わないか・・・本当のところどうなんです?」
本当にしつこい男だと私は思った。
「ちょっと仕事の相談をね、近場のパスタ屋で食事しながら聞いてあげたんだよ」
しまった。みそのクンと食事した事まで話すことはなかったか。
「ズルいなぁ~河合さん。あんな若いコと食事したなんて、それってデートじゃないですか~。ボクもしたいですよぉ!」
「だから相談事だって。デートだなんてとんでもない勘違いだよ」
一緒に食事した事ぐらいならばれてもいいか。
みそのクンにとって、一番重大な事を話さなければいいのだから。
それにしても、こういうのも悪くない。後藤クンは私を羨ましい目で見ている。
パチンコで大負けした彼と、若い娘と食事をした私とでは、どちらが得をしたか一目瞭然だ。
それに私は、ただ若い娘と食事をしただけに留まらない。だって、好意を持たれてしまったのだから。
私にはやましい部分は全くない。彼女から、大胆に告げられた純粋な感情。それが恋だったのだ。
だから、それさえ言わなければ、彼女との約束を守った事になる。だからなんら問題はない。
「はあぁ、何だかやる気なくなりましたよ。河合さんばっか運がツイてるみたいで・・」
「はは、そんな事ないさ。偶然みたいなもんだよ」
それにしても、他人の幸運と自分の不運を比較し、やる気がなくなるということはよくある。
昨日の、一億円当たった老人もそうだが、何故、その人に当たって自分には当たらないのだろうか?
それはもう『運』以外の何事でもない。
当たった人には良い運がまわったが、外れた人には運がまわらなかったことになるのだ。
運の有無・・・
もし、運という概念があるとすると、それが『ある』、『なし』に分類されてしまうのは何故だろうか?
運のある人というのは、常日頃からよほど良い行いをしているのだろうか?
それを見た神様が、もしくは守護霊や御先祖様が、良い運を授けてくれるのだろうか?
そんなバカな、と私は思う。いくら私が古い人間でも、そんな迷信じみた話は信じていない。
私的な考えであるが、私の運についての考えはこうだ。
運というものは、『用途』が決まっていて、女に適用する運、金に適用する運、仕事に適用する運、健康に適用する運と、それぞれ異なった運によって構成されている。
そして、女運を欲している人が、必ずしも女運を得られる訳ではなくて、望んでいない仕事運がやってきたりしてしまう。
本人は気付いてないが、女運はないけど、その代わりに仕事運がある、もしくは仕事で失敗しないように運で助けられているのではないかというのが私の考えだ。
だから、適材適所で、自分の欲した運を味方につけた人にとっての幸運であって、それがいくら良い運でも、自分の欲していない運は良い運と見なせずに見過ごしているだけなのだと思う。
だから運というのは、必ずしも本人にとって必要でない運もやってくるということだ。
悪い運もしかりで、金持ちが金運がちょっとくらい無くなっても、それは痛くも痒くもない訳で、貧乏な人にとっての金運の悪さは致命的になる。そうならないためには、悪運を逸らす、もしくは悪運を防ぐ能力が必要となってくるのではないかと思う。
まぁ当然、私にはそんな大それた能力はないのだが、もしあるとするならば、常日頃から余計なトラブルに首を突っ込まない事が、悪運を呼びつけない秘訣だと私は解釈する。
これを出来ない人間が実に多い。「わかっていてもやめられない」のように、物事の発展先の結果を、想像する能力の欠如した人間が多すぎると言う事だ。
故にトラブルは舞い降りる。
人生の中で、無限大ともいえる選択肢の中で、良し悪しを判断するということは、膨大な経験の中から成り立つものだ。だから、経験の浅い若者よりも、経験を積んだ中年の方が失敗しないのは、相対的に見ても明らかである。かくいう私も、成功はしていないけれども、大きな失敗はしていないつもりだ。
それは、悪運の気流を肌で感じる能力を、長年の経験で会得しているからかもしれない。
運とは、良い事ばかりが形となって現れるのではなく、知らず知らずのうちにトラブルを回避している能力とも言えるかもしれない。
「でも・・さっきの羽鳥さん、なんだか様子がおかしかったような・・・気にし過ぎですかねぇ?」
さすが、というかこの後藤クン。なかなかどうして勘が働く男のようだ。
普段はそう見えないが、経験からではなく直感的に感じてしまう体質らしい。
「そうだね、私もそれをちょっと思ったんだが・・」
みそのクンの態度がおかしいのは、私も心配している。
あの日・・・パスタ屋に現れた朱雀江さゆり。
彼女を見た時から、みそのクンの態度が急変したように感じてならない。
やはり、朱雀江さんとみそのクンは、初対面ではなかったのだろう。
もしそうならば、一体どんな関係なのだろうか?今度さりげなく、朱雀江さんに聞いてみようか。
そう言えば、朱雀江さんがこの前、私に言った言葉。
「河合さん、あなたにある会社の社長になって欲しいの」
あの言葉は本当なのだろうか?
酒の席とは言え、まったくの冗談だとは思わない・・・と言うか、冗談だと思えない何かを感じさせてくれる。
それだけあの女性は、神秘のベールに包まれているのだ。
何かが起こりそうだ・・・そんな感覚が、私の心の奥底から込み上げてくるのだった。
「河合さん、なんだかイイ顔してますね。やっぱり、若い女のせいですかね?ついでにこのまま課長に昇進しちゃって下さいよ。あのイヤな課長を蹴り飛ばして!」
「こらこら、何をばかな事を言っているんだ後藤クン・・・でもそれもいいかな、はははっ」
課長のイスか・・・このままあいつを脅して追い込んでしまえば・・・ふと、いけない考えが頭をよぎった。
ポン。
「なにやら楽しそうな話をしているじゃないか・・」
突如、私の肩に手を乗せてくる人物がいた。
「何の話だね?・・・カ・ワ・イ・くん・・・」
私と後藤クンの間に、後ろから顔を出してきた人物。
「か・・課長ッ!・・・」
振り向いて課長の顔を見た後藤クンは、顔を青くしてそのまま固まってしまったようだ。
私もさすがに、まずいところを聞かれたと思い、背筋が少し凍りついた。
「後藤クン、ちょっと席をはずしてくれたまえ・・・私は河合くんと、大事な話があるものでねぇ・・・」
課長は、私の顔を舐めまわすように見ながら言った。
「は、はい!で、ではお先に失礼します・・!」
気の毒に。後藤クンは、まだ食べかけの昼飯を、食器をガチャガチャと鳴らしながら走り去っていった。
私もとりあえず席を立とうとしたが、課長が私の肩を背中から両手で強く押さえた。
「おっと立たなくていい、そのままで聞いてくれよ・・・」
「・・・・・・・何の用件でしょうか、課長?」
私は鼻で軽く息をした。
「いやね、仕事というのはいろいろと奥深いものでね、時には思いもよらぬ事態が起こることもある。長年仕事をしてきたキミならわかると思うがね・・・」
どういう意味なのだ?課長の遠まわしな言葉の真意が読み取れない。
「・・・よく意味がわからないのですが・・・」
私が顔を後ろに振り返ろうとしたその瞬間。
ガッ!
課長は、私の顔を強く抑えた。
「私の優秀な部下である河合くんが、わからないハズはないと思うがね。今夜、私と同席して欲しいんだ。ちょっと仕事の打ち合わせをしたくてね」
同席?課長と?一体どういうことなのだ?
「打ち合わせだから、もちろん部外者はいない。キミと私だけの打ち合わせだからね」
「私と・・課長の・・打ち合わせですか?」
「おっとそうだ。それにもうひとりスペシャルゲストを呼んである。だからキミは、必ずやってきてくれると思うのだよ・・ふふ」
スペシャルゲストだと・・?誰なのだそれは・・?
「課長・・!せっかくですが今夜は・・・」
そう言いかけて立ち上がろうとした私を、課長はまたも力強く押さえつけた。
「羽鳥みその・・彼女がスペシャルゲストだ・・・ではまた今夜」
課長はそう言うと、私の肩をポンと叩いて去っていった。
何だって!みそのクンを呼んだだと?バカな!
課長の背中を黙って見詰める私。すると課長は、顔を半分だけ後ろにまわし、ニヤリと笑った。
何故だ?なぜみそのクンは、課長の誘いを了解してしまったのだ?それとも課長のハッタリ?
または、みそのクンは本当に仕事の用事だと思っているのか?・・・・いや、それはない。
今朝、課長と私があれだけハデにやり合ったのだから、どんな用件なのかは言わなくてもわかるはずだ。
はたして、課長の不適な笑みの裏側には、どんな真意が隠されているのだろうか・・・?
そして夕刻。
なんだか落ち着かない自分がいる。
今朝、私は、課長よりも完全に精神的に勝っていたのだ。
それは、課長が弱みを握られているからであって、その秘密は絶対にばれて欲しくないはずだ。
だが、あの態度・・・どうも気になる。それとも開き直って、みそのクンをホテルに誘ったという、物的証拠でも出せと言ってくるのだろうか?それとも、課長を侮辱した事を、部長にでも告げ口したのだろうか?
どちらにせよ、向こうが下手に出てくる可能性はないと思われる。
こういう場合、相手に対して、どんな心構えで挑めば良いのだろうか・・・?
私は自分自身にハッとした。
考えてみれば、私はいつも相手に対して下手に出ていた。
だから、相手よりも優位に立とうと考える事は、まずなかったのだ。
私は課長に戦いを挑まれた。だから私も、丸腰ではなく、それなりの武装をして行かねばならないのだ。
私の武器は、もちろんみそのクンとの現場を目撃したという事だ。
課長といえど、部下をホテルに誘ったと知られれば、自分の地位が危なくなること位わかっている。
きっと、それを無効化できるような秘策を持っているに違いない。
あの下種な笑いはきっと何かあるに違いない!
私のパソコンに、課長からメールが届いた。
時間は7時。場所は初めて行く店。簡単な地図が添付されている。
店の名前は、『アダマン』。チェーンの居酒屋ではないことがわかる。たぶんスナックの類だろう。
出来るだけ人目につきたくない・・・そんな課長の心理が読み取れる。
私は、みそのクンをちらっと見た。私の視線には全く気付いておらず、黙々と業務をこなしていた。
しかし、どうにも腑に落ちない。
あの聡明なみそのクンが、今夜の危険を察知できない訳がない。
何かしらの、課長の陰謀があることをわかっているハズなのに。
私は、みそのクンの顔をさらにじっと見た。すると、みそのクンがそれに気付いたらしく、私と目が合った。
しかし、どうした事か、みそのクンはすぐに視線を外し、また黙々と業務を続けてしまった。
おかしい・・もし今夜、課長に呼ばれているのなら、その内容を察し、私に相談してくるのが普通でないか?
年端もいかぬ女性が、自分で解決するには重い問題のはずだ。
それとも、私との会社での接点を極力避けようとして、今のような態度を取っているのだろうか・・・?
いや、それならば、昼間の食堂での言葉は何だったのだ?
人目につきたくないのなら、人目の多い食堂で声を掛けたりはしないだろう。
そして、刻一刻と、指定の時間が近づいてきた。
時間は6時。みそのクンが帰り支度をしている。
課長はまだいる。そして、私の方を見てニヤニヤと笑っているのだ。
まずい・・・何かまずい・・・
あの課長のイヤラシイ笑いには、何か裏付けされた確信的な自信がある。
私の心に、いつもの焦りが出てきてしまった。見下された者の、縮こまった不快な感覚。
強者と弱者の乗り越えられない壁。そして、弱者でいることの例えようのない不安感。
私は、今までの弱い自分に戻ってしまっていた。課長にはそれを見透かされている。
ダメだ・・・私がそんな事を考えれば考える程、余計に不安になってくる。
このどうしようもない不安をなんとか振り払いたい。
いっそ、今夜は逃げてしまおうか?それとも課長に謝って許してもらうか?
しかし、そんな事をしたら、今までの私の立場は更に悪くなってしまうだろう。
そうならない為には、何としても課長よりも精神的に上にいかなければ!
私はしばらく考えて、ある決心に辿り着いた。
その時・・・
「河合くん、顔色が優れないようだがどうしたね?疲れているなら今日は帰った方がいいよ?」
とても優しい口調で課長が言った。シーン・・・職場に静寂が走る。
「あ、そ、そうですね、ではそうさせてもらいます」
私は立ち上がると、いそいそと帰り支度を始めた。
今朝の一件以来、皆が私と課長のやりとりに注目している。そりゃそうだ。
今までペコペコしていた私が、突然、課長に喰ってかかる。しかも無断欠勤を詫びもせずに、だ。
これなら当然、私になにか心境の変化が起きたと思われて当然だろう。
もしくは玉砕覚悟で、クビを覚悟した反抗だと思われているのかもしれない。
サラリーマンなら誰でも一度は思うだろう。嫌な上司をブン殴ってやりたいと。
どうして自分の腕力の方が強いのに、こんなにペコペコと頭を下げなければならないのだろうかと。
殴り合いのケンカをすれば、絶対こんなヤツには負けないのにと思うだろう。
そこに矛盾とストレスが溜まり、憤りのない憤慨を何度味わっただろうか。
出来るならば、嫌いな上司を殴ってスカッとしたいものだ。
そしてクビになっても構わないから、思う存分、仕返しをしたいだろう。
でもほとんどの人は、それを実行出来ない。
家族の為、生活の為、生きていくには会社の仕事をして、お給料を貰わないといけないからだ。
何故、そこまで金の為にプライドを捨て、頭を下げないといけないのか?
そんな事は、もう考える思考すらなくなっていた。怒られるのも仕事のうち、そして給料のうち。
長年の仕事で学んだのは、プライドを簡単に捨てられる方法、固執しない自分。
こだわらなければ、我慢すれば、上を見なければ、なんとか生きていけるのが今の時代だ。
邪魔なプライドは、さっさと捨ててしまった方がラクに生きていけるのだ。
だから私は、今までそうして生きてきた。だからこれからも、ずっとそうして生きようとしていたが・・・
「では課長、お先に失礼します・・・」
「うむ、気をつけて帰りたまえ」
上司と部下の何気ない会話。
だが、課内のみんなは、私と課長に釘付けになっていた。
私の睨んだ先に課長の目があり、課長の睨んだ先に私の目があった。
バチバチと交差する視線に、誰もがその異常な空気を感じ取っていた。
「ふふ・・気をつけたまえよ、河合くん・・・ふはは!」
課長の嫌らしい笑い。だが私は負けるわけにはいかないのだ!
私は気合を入れ、ツカツカと歩いて会社の門を出た。
そしてそのまま15分ほど歩き、『アダマン』という店の看板をみつけた。
そこは中心街から離れたところで、人通りもあまりない。どちらかと言うと隠れ家的な店だった。
「あ・・・みそのクン・・」
みそのクンは、既に店の前にいた。
「みそのクン!・・どうして、どうして課長に呼ばれてここに来てしまったんだい?!」
私は勢い余って、唐突にみそのクンを問い詰めた。
みそのクンは顔を反らしてしばし黙っていたが、私の方を向いてこう言った。
「課長に呼ばれたのはどうでもいいんです。私は、河合さんが来るって聞いたから来ただけですから」
「そんな・・そんな事で来てしまったなんて・・・課長が何故、私とみそのクンを呼んだのか、その意味がわからないのかい?」
すると、みそのクンはうっすらと微笑んだ。
「わかりますよ、それぐらい。でも課長の事はもう大丈夫ですから。私の興味はあくまでも河合さん。それだけですから」
屈託のない笑顔。やはり、まだ無知な子供の笑顔だ。
みそのクンは、これから課長がどんな嫌らしい方法で、私たちの口を封じてくるのかわからないのだろう。
そこまで頭がまわっていないのだ。
しかし、可愛らしいというか健気というか。そこまでして私の事を思ってくれているのか。
この子だけは私がんなんとしても守らなければならない。
「とにかくキミは帰りなさい、ここは私が何とかするから」
「イヤです、私は帰りませんよ!」
みそのクンは口をプイと曲げ、強情を張った。その仕草がまた可愛らしいなと私は思った。
いかん、いかん!こんな時に何を考えているんだ、私は!
こんなことをしているうちに課長が来てしまったら、みそのクンを帰らせ辛くなってしまう。
「お願いだから帰るのだ!課長は私とキミを落とし入れようと・・・して・・・」
「誰が落としいれるのだね?河合くん?」
遅かったか!課長はいつの間にか、私とみそのクンの前に立ちはだかっていた。
「立ち話もなんだからな・・とりあえず店に入ろうか・・・ん、どうした?」
店のドアを開ける課長の不気味な顔。
「う・・・・」
私は思わずたじろいでしまった。
「遠慮しなくていいぞ。今夜は私のオゴリなんだからな、タップリ飲んでいきたまえ。ははは!」
ますます課長の顔が不気味に歪んで見える。それは店の照明のせいで、錯覚して見えるからなのだろうか?
ツカツカツカ・・・
なんと、みそのクンは、課長の開けたドアの中に平然と入っていった。
「待つんだみそのクン!」
私が呼んでも、みそのクンは振り返りすらしない。
こうなったら仕方あるまい。私も覚悟を決め、店の中へと入ることにした。
ギギギ・・・バグン
ドアを閉める音がどうにも不気味で、まるで外界から隔離されたような居心地の悪さだ。
店内には、うっすらとしたブルーの照明。そのわずかな明かりだけでは、店内全体を見渡す事ができないほど暗い。枯れかけて黄色くなった観葉植物が、青い光に照らされ妖しく映る。
店のマスターらしき人物に無言で先導され、とりあえずカウンターに座った。
みそのクンは、すでに私の隣に腰を落ち着けて座っている。
いやはや、何と言うか女性は強い。いざという時の度胸には恐れ入った。
そうだ、感心している場合ではない。
これから始まる課長の攻撃から、みそのクンを守らなければならないのだ。
私は、マスターから差し出された熱いおしぼりで、顔をゴシゴシと拭いて気合を入れた。
よっし!来るなら来い、課長め!今朝のように返り討ちにしてくれるわ!
あっ・・・!
私は思わず声が出そうになった。
てっきり課長は、カウンターの私の隣に座ると思っていたが、なんと、カウンターの向こう、つまり店員側に立っていたのだった。
まさか・・・この店は!
「どうしたね、河合くん?注文は決まったかい?」
「課長・・・こ、この店は・・・?」
「ん?・・ああ、私がカウンターの中にいる事かい?ここは私の知り合いが経営している店でね。それでちょっと無理を言って入れてもらったんだよ。どうだい?似合っているかな、はは」
はめられた!
完全に課長の策にしてやられた!まさか課長が、店の人間とつながっていたとは!
「どうした、河合くん。注文を決めてくれたまえ、ん?」
課長は憎たらしいほど嫌らしい顔つきで笑っている。
わかってきたぞ。課長は、自分の領域に私達を連れ込み、有利な展開にもっていこうとしているのだ。
初めての店では、勝手がわからず緊張してしまいがちだから、そこを突くつもりだ。
もしくは、とんでもなく法外な料金を叩きつけ、脅すつもりかもしれない。
いずれにしろ、黙って課長の言いなりになってこの店にいる事はない。
さっさと、みそのクンを連れて逃げなければ!
「お酒は結構です。それよりも、仕事の打ち合わせに入らせて頂きます。みそのクンも帰りが遅くなっては可哀相ですから」
私は、ぐっと課長の目を睨みつけて言った。
「・・・ぷっ!くははっ!」
課長は私の顔を見て、噴出して笑った。
「ははは!そうしゃっちょこばるなよ、河合くん。なぁに、夜はまだ長い、なぁ羽鳥くん?」
「私はジントニックをお願いします」
「え?」
みそのクンは、今の課長の話を聞いていなかったように、メニューからお酒を選んだ。
課長はそれを無言で了解すると、私にもメニューから選べと、手の平を向けて催促した。
「ぐ・・・」
みそのクンが、落ち着き払ってメニューを頼んだので、私も仕方なくメニューに目を通した。
私は眉をひそめた。そこにはメニューの金額が提示されていなかったのだ。
「どうした河合くん?料金は気にしなくていいんだぞ。今日は私のオゴリなんだからな」
・・どうだか。この課長が、本当におごってくれるのか怪しい話だ。
とりあえず私は、一番安いだろうと思われる瓶ビールを頼んだ。
「ビールとジントニックおまち」
課長は、慣れた手つきでドリンクをカウンターに運んだ。
みそのクンは、差し出されたカクテルを、躊躇せずにゴクゴクと飲み始めた。
その様は、まるで失恋した痛手を誤魔化すような、やけっぱちな飲み方に見えた。
「ふうっ・・・おかわりくださいますか?」
あっという間に、みそのクンはカクテルを飲み干してしまった。
「おい・・みそのクン、そんな飲み方はよくないぞ。酔ってしまうじゃないか」
「いいんです、河合さん。私はもっと酔っ払いたいんです。その方が課長も都合いいんじゃないですか?」
何を言っているんだ、みそのクンは?
ただでさえ、課長の領域であるこの店に連れてこられたというのに、これで酔って思考が劣ったら、ますます課長の思う壺になってしまう。
「か、課長!とにかく本題に入って下さい!」
「ふふ、そう慌てるなよ、河合くん」
課長は、余裕ある笑みでカクテルをシャカシャカと振っている。私はそれを見て、もう我慢できなかった。
「課長!一体何を企んでいるのですか!」
私は遂に、その言葉を発してしまった。私の余裕が崩れ、切羽詰った心境を明ら様にしてしまったのだ。
「企む?冗談がすぎるぞ、河合くん。ただ私は職場の皆が、仲良く仕事をやっていく環境を作りたいだけなのだよ」
「そ、それとこれと何の関係があるのですか?課長は明らかに、私たちに圧力をかけているだけです!」
私は精一杯の虚勢を張った。膝の上で握られた拳に汗が滲む。
「なぁ、河合くん。さっきも言ったように、私は職場で仲良くやりたいだけなんだ。だから、ひとりでも、その場を壊す人間がいては困るんだよ」
しばしの沈黙。
課長がみそのクンに、2杯目のカクテルを差し出した。みそのクンは、またしてもそれをグイと勢い良く飲む。
「・・・課長に意見するなって事ですね?私のようにあなたに逆らう人間が邪魔だってことですね!それがあなたにとって・・」
突如、私の顔の前に課長の手が突き出され、私の会話は遮断された。
「おつまみに枝豆はどうかね?冷凍とは違って、とれたての枝豆だぞ」
く・・!今の一挙で、完全に話の腰を折られてしまった。
「うん、うまい!さすが新鮮な枝豆は甘みが違う、なぁ河合くん?おっと、羽鳥くんはもうおかわりかな?」
「えっ?」
私はびっくりして、みそのクンの方を振り向いた。
なんと、みそのクンは、2杯目のカクテルも飲み干してしまっていた。
そして若干、目がトロンと垂れてきているようだ。少し酔いが回ったらしい。
「ふふ、羽鳥くんはお酒が強いなぁ、実にたくさん飲む。そういえば、この間もそうだったねぇ・・・」
キッ!
私は課長を睨み付けた。この間というのは、みそのクンを無理やりホテルに誘った時の事か!
こいつは事もあろうに、自らの行為を暴露してきたのだ!なんという下品な男なのだ!
ガタンッ!
私はカウンター越しに、課長の胸倉を強く掴んだ。
「それが上司の言う言葉か!貴様のおかげで、みそのクンはどれだけ悩んだのかわかるか!」
私は、みそのクンのやりきれない気持ちを考えると、その悲しげな表情を見る事が出来なかった。
「ぐふっ!・・・離したまえ河合くん。キミが怒る問題じゃないだろう?第一、キミと羽鳥くんとは赤の他人なのだ。ただ職場が一緒というだけなのに、どうしてそこまでムキになる?ひょっとしてキミ・・・」
課長は、嫌らしい笑みで私を見てきた。
そうじゃない!私がここまでむきになって怒るのには訳があるのだ。
みそのクンは私に相談を持ちかけた。そして、私に好意を持ってくれているのだ。
そんな、健気で弱い立場の女性を、私には守る義務があるのだ。
このドス黒い心を持った、悪魔のような男から!
「逃げるんだ、みそのクン!ここは私がなんとかするから!さぁ早く!」
私は、みそのクンをカウンターから立ち上がらせようとした。
しかし、みそのクンの腰は重く、イスから立とうとしない。
余程、お酒を飲んで酔って思考がまわらないのだろうか。
「・・・河合さん、逃げようとしたって無駄よ。どうせ、すでにあのドアにはカギがかかっているんだから・・・」
ピクッ・・
私はその言葉を聞いて固まってしまった。
みそのクンの口から出た意外な言葉。
しかし何故、ドアのカギがかかっているのを知っているのか?
それに何故、みそのクンはそれをわかっているのに逃げ出さないのか?
一体、みそのクンはどうしてしまったのだ?
お酒を酔うほどに飲み、まるで抵抗する気すらないようだ。
これではまるで、店に入った瞬間から捕まるのをわかっていたようだ。
そして、次にみそのクンから発せられた言葉に、私は驚いて声を失った。
「あの時と同じね、課長・・・嫌がる私の体をもてあそんだ、あの時と・・・」
な、な、なんだって!今みそのクンは何と言ったのだ?!
まさかすでに、みそのクンは今回と同じ方法で、課長の毒牙にかかっていたというのか?!
だとしたら、尚更、みそのクンは何故逃げないのだ?抵抗しないのだ!
これではまるで、こうなる事を始めから望んでいたようではないか?
私の頭の中では、課長に玩ばれる淫らなみそのクンを想像してしまった。
パニックのあまり、思考回路がぐちゃぐちゃになった。
物事の整理をつけるには、あまりにも私の脳細胞は動揺していた。
ガタン!
そして店の奥から、いかにも尋常ではない風貌の大男が現れた。
ひらたく言えばチンピラ・・・もしくはヤクザ・・・たぶん後者だろうと、私は直感した。
顔には切り傷のような跡がうっすらとうかがえる。漫画にでも出てくるような、絵に描いたような悪者だ。
課長は・・この男は、裏の世界の人間と繋がっているのだと確信した。
「羽鳥くんは、大変聞き分けの良いお利口さんな部下だよ。さて、次は河合くんの番かな?」
課長と大男は、カウンターから出て、こちらへのそりとやってきた。
大男は、私を見下すように睨み付けてくる。お決まりのように、指をパキパキと鳴らしながら。
「くっ・・・・」
私は足元が震えて動けなかった。
部下を命令に従わせる為だけに、こんなことまでする課長の悪戯は、尋常ではないと感じたからだ。
私は完全に、ヘビに睨まれたカエルの立場であった。
「なぁに、ちょっと痛い思いをするが我慢しなさい。これは部下の為を思う、私の愛のムチなのだからね」
課長の目は完全に飛んでしまっていた。反抗できない弱者をいたぶる、強者の優越感に酔いしれていた。
「う、わあぁーっ!」
私は店の出口へと走り出し、ノブをガチャガチャと思いっきり回した。
しかし、ドアノブはビクともせずに全然開かなかった。
「それはちょっと特殊なドアなのさ。マシンガンで打ち抜かない限り、絶対開きはしないさ。ははは!」
「たっ、助けてくれぇ!」
「それに防音設備も完璧なのだよ。大声出してもムダだ」
私は完全に取り乱していた。みそのクンを守らないといけない立場であることを完全に忘れていた。
それは、情けなさを通り越し、軽蔑を付き抜け、最低の人間と化していた。
そうだっ!突如、私の脳裏に考えが浮かんだ。
アップルちゃんだ!アップルちゃんに助けを呼ぼう!
彼ならなんとかしてくれる。彼ならこの狂った現場から、私を助け出してくれる!
アップルちゃんにそんな事を頼める筋合いではないが、今の私は彼を頼らずにいられなかった。
私は店の奥へ走りこみ、そこで携帯で電話をする時間を稼いだ。
「おやおや、往生際の悪い部下だ。これでは少しキツめにお仕置きしなくてはならないな」
課長と大男は、私の策に気付かずに油断しているようだ。今なら間に合う!
私は携帯のメモリーを素早く選択すると、耳に携帯を当てた。
「ん?警察にでも電話するつもりか?そうはさせん!」
課長は私の携帯を剥ぎ取ろうとして、腕を伸ばしてきた。このままでは携帯を奪われてしまう。
私はとっさに、側にある灰皿を手にし、それを天井の照明に向かって投げた。
パリン!
そこにわずかな奇跡が起きた。
小学校時代、投球のコントロールは全くなかった私だが、切羽詰った私の投げた灰皿は、的確に照明をとらえた。
一瞬、店内が暗闇に包まれた。暗い店内だったのが幸いし、メインの照明を割っただけで真っ暗になった。
今だ!とりあえずアップルちゃんが電話に出たら、店の名前だけを叫べば良い。
そうすれば、アップルちゃんは、私に危険が迫ってくることを察知し、私を探してくれるだろう。
プルルル・・・・プルルルル・・・
2回のコールは異様に長い時間に感じた。早く出てくれ!私は店の名前、『アダマン』と叫ぶだけなのだ!
プルルル・・・・・3回目のコール。
早くしてくれ!早くしないと課長が私の場所にやってくる。
「河合っ!貴様というヤツは、なんてダメな部下なんだッ!もう私の堪忍袋の尾が切れたぞッ!」
ドカドカとこちらに走ってくる音が聞こえる。私は中腰で忍び足をしながら、さっきの場所より2メートルほど横に移動していた。課長が目測している場所をずらすことが出来たのだ。これでアップルちゃんに大声で叫んでも、その瞬間に携帯を奪われる事はない。
プルルル・・・カチャ
コールの音が変わった!やった!アップルちゃんが電話に出てくれたのだ!
「アダマンにいるっ!助け・・・・・!」
私はそう言い掛けて、止まってしまった。
携帯の先で聞こえた音声に、私は愕然とした。
(電源が入っていないか、電波の届かない場所にいます・・・・)
パッと店内に明かりが戻る。大男が代わりの照明をつけたようだ。
「おんや?どうやらその顔はうまく繋がらなかったようだな、ふはは!まったくバカな部下だな!河合ッ!」
「うくっ・・!」
私は返す言葉がみつからなかった。万事休す。もう策がない、そして逃げる気力すら失ってしまった。
このまま私は、みそのクンとともに屈辱を受けなければならないのだろうか?
はたしてこれが、まっとうな社会人の上司の行いなのだろうか・・・
いや、もうすでに、この男はまっとうな会社の上司なんかじゃない。
自分の傲慢の為なら、何でもするような腐った人間なのだ。
「河合ッ!もう貴様のバカさ加減には愛想がつきたわ!よく覚えておけ!世の中は、力のある者が、力のない者を支配していく、至極当然のシステムなのだよ!」
ガンッ!
課長は近くのイスを蹴っ飛ばして私を威嚇した。
「私はもっと上にのし上がるのだ!部長を蹴落とし、係長を踏みつけ、いずれは社長の座を奪い取る!その為には、どんな卑怯な手でも使ってやるぞッ!私ならそれができるッ!」
バリンッ!
今度はビールのビンをテーブルに叩きつけ、尖った刃先を私に向けてきた。
これはもう脅しの領域を超えている。従わなければ殺すという意図であった。
今まで表に出さなかった、課長の胸の奥底にあった真意・・・
いや、ドス黒い欲望を、私は始めて垣間見た。
会社では、確かに私に対して辛くあたっていた。しかし、他の社員達には上司としての責任をもって対処していると当然思っていた。だが、課長の真意を聞いた所で、私の甘い考えは吹き飛んだ。
この男は自分の出世の為なら、他人を不幸にしてでものし上がっていく人間だ。
そんな人間を会社に、いや、この社会にはいさせられない。
みそのクンの為、後藤クンの為、そして他の社員の為にも、この男を社会から排除しなければならないのだ!
私の大義名分は確定した。
これでもう課長に対して、なんの躊躇もなく悪人退治が出来る。
しかし、どうする?この最悪の状況からどうやって逃げれば良い?
いや、逃げてはいけないのだった。なんとかして、みそのクンを救い、課長を倒さねばならないのだ。
グワシッ!
突如、私の腕を何者かが掴んだ。厳つい顔をした大男が照明に照らされる。
そして携帯電話を私の手から剥ぎ取ると、両腕を掴んでブンと振り回した。
「うっ、うわぁ!」
ガシャァン!
私はそのまま放り投げられ、勢いあまってカウンターに激突した。
陳列してあるグラスが崩れ、粉々に割れる。
私はみそのクンの方を振り返った。すると、みそのクンはこんな状況でも一向に慌てる事なく、私の顔を冷ややかに見詰めていたのだ。
「ど、どうしたんだ、みそのクン?!逃げろ!逃げるんだっ!」
そうは叫んでみても、一体どこへ逃げろというのだろうか?
私にはもう成す術はない。せめてみそのクンだけでも助けなければ。
私はほんの少しだけ残った勇気を振り絞り、課長と大男を睨みつけた。
「河合さん、もうそんな無駄なことはやめたほうがいいわ・・・」
「な、何をバカな事を言っているんだ!私たちは不当な暴力を受けているんだぞ!これは許されない行為だ!」
「大丈夫よ、河合さん。もうすぐ彼がやってくるわ・・そして全てが終わる」
彼・・・だと?誰の事を言っているんだ?!
みそのクンの目を良く見ると、光のない虚ろな目をしていた。
恐怖のあまりおかしくなってしまったのだろうか?
こんな状況で、一体誰が助けにくるというのだろうか?!
ガガガガガッ!!
バタァンッ!
その時。物凄い轟音とともに、ドアが叩き破られた。私は突然の出来事に驚いた。
そして、そこに現れた人物を見て、さらに驚くことになる。
「やっと登場ね、アップルちゃん・・・」
そして、みそのクンの口から出た言葉に、私は耳を疑った。
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