第9話 突怒



第九章 『突怒』



病院の待合室。

勢いを増した雨水が窓を叩く。

濡れたスーツが冷えて寒い。くしゃみをひとつしてみる。

私は体をブルルと震わせ、肩を両手で掴んで縮まってみた。

ここの廊下はいやに冷える。もう少し暖房を強くして欲しいのだが・・

だがここでは、そんな文句を放つべき場所ではない事も承知している。

廊下の電球が切れ掛かり、パカパカと点滅するのが鬱陶しい。


私はこの場所で何を待っているのだろうか?


さっきから、そんな考えがずっと頭の中をぐるぐると巡っている。

駅で出会った少女が海に飛び込み、それを私が助けた。

それは人道的に評価される行為だ。

だが、彼女が海に飛び込まなければならなかった原因は、間違いなく私にあるのだろう。

それは人道的に評価されない行為だ。

私のとった行動は、良くもあり悪くもあったのだ。

ひとりの少女が、海に身を投げないといけないところまで追い込んだ原因を、間接的に作ってしまった罪は重い。


何故、あの少女はあんな場所にいたのだろうか?

何故私は、あの少女にあのような行動をとってしまったのだろうか?

全てがいいかげんで、全てがその場凌ぎ。


海で溺れて気絶していた彼女を病院で精密検査させているが、彼女が目を覚ました時、私は何と言って彼女に声を掛ければよいのだろうか?いや、それは声を掛ける以前の問題だ。

普通に考えれば、顔を合わせる資格すらないのだろう。

だって彼女を脅かしてしまったのは、一度きりではないのだから。

一回目は駅で彼女に迫り、二回目は彼女は気付いてないかもいしれないが、同じく駅で。

三回目はさっきの海で彼女に迫って驚かせてしまった。

50代の中年のオジサンが、まだ中学生くらいの少女を脅す。

これは紛れもなく非情な行為である。そんな私が、どうして彼女の身を案ずる資格があるのだろうか?


私はふらりと席を立ち、会計の受付の女性になけなしの一万円を渡した。

「あ、ちょ、ちょっと!何なんですかこのお金は?困ります!」

受付の女性が困るのは無理もない。彼女の仕事は、診察でまわってきた伝票通りに、会計を滞りなく済ませるのが仕事だ。それを突然、訳もわからなく一万円を置いていかれてもどうしようもない。

「検査を受けている少女の診察料ですよ・・・」

私はボソリと、受付の女性に聞こえるか聞こえないかぐらいの小声で言った。

「あ、ちょっと!待って下さい!」

受付の女性が席を立ち、私を追いかけようとしてきた。

「だから!あの少女の診察料だと言っているでしょう!」

「あの少女って言われても困ります。何て名前ですか?」

私に聞かれても困ってしまう。あの少女の名前など知る由もないのだから。

「だから、溺れて運ばれてきた少女ですよ。私がたまたま助けただけなのです!」

「でも、まだ診察は済んでないようですし、終わるまで待っていてあげて下さい。きっとその子も不安だと思います。ここで誰もいなくなったら可愛そうじゃないですか!とにかくこのお金はお返しします」

受付の女性はそう言って、私の手に強引に一万円を握らせた。


困るのは私の方なのだ。

見ず知らずの少女の診察料まで出してあげたのに、文句を言われる筋合いはない。

それに、保険証も持ってない彼女の診察料を全額払う事になったら、3万あっても足りないだろう。

小遣い一万円の私には、それが精一杯の出せる金額なのだから黙って受け取って欲しいのだ。

それに、あの少女の素性がわかれば、親か誰かが必ずやってくるだろう。

そうなったら、私はなんと言って身内に会えば良いのだろうか?

会えるはずもない。少女が何で海に飛び込んだのかを追求され、当然の如く私を疑うだろう。

そして当然のように警察に通報してしまうだろう。

冗談ではない。私は確かに少女が海に飛び込むきっかけを作ってしまったかもしれないが、そんな事で身を投げる少女の行動の方が奇妙で理屈が通らない。彼女には、きっと海に身を投げたい気持ちがどこかにあって、それで私のとった行動によって火が着き、実際に行動を起こしてしまったのだ。


・・・だめだ。どう考えても悪いのは私の方だ。私は自分の都合の良い言い訳しか考えていない。

中年のサラリーマンが、平日に、会社から遠く離れた海で、酒を飲んで少女を襲う。

こんな事が自然だと通る訳がない。仕事に疲れ、人生に疲れた中年が、酒に酔って少女を襲ったというシナリオが一番自然で筋が通っているのだから。

実際、私のとった行動はその通りであるわけだし、弁解のしようがない。

私は完全に犯罪者なのだ。それも、中途半端で煮え切らない、事を起こしたくても起こせずに、自分の意思とは関係なしに動いてしまう、どうしようもないダメな犯罪者なのだ。

犯罪者というのもおこがましいぐらいの、情けなくてひ弱な犯罪者の予備軍の補欠のようなものだ。


やはり、この場所にはいつまでもいられない。一刻も早くこの場を去らねば!

私は席を立って出口へと向かおうとした。

「あ!帰るつもりじゃないでしょうね!許しませんよ!」

受付の女性は、私を睨んできた。何を言っている?一体、何を許さないというのだ?

そんな事を言われる筋合いはない。きっと受付の女性は、少女の親が来なかった場合の支払いを心配しているのだろう。その時は、とりあえずでも私に一時的に払わせようと考えているのだ。

そうなってたまるか!

私の腕を掴んで放さない受付の女性を、私は強引に振りほどこうとした。

「きゃあー!ちょっとこの人を止めてぇ!」

病院のロビー内に、女の金切り声が響き渡る。

ちょっと待て!これでは私はどう見ても悪者ではないか!私が何かをしたと思われてしまう。

いや、もうすでにまわりの患者達の目が不審者を見る目に変わっている。

「だから!これが治療費だと言っているでしょう!」

私は、手にしていた一万円を投げた。

その訳は、まわりの患者に、私は支払いを済ませたのだと思って欲しかったからだ。

いざとなれば、お金を払った私が悪いということはない。

お金を払わずに逃げたのではないということを演出することができる。我ながら嫌らしい考えであったが。

「これでもういいでしょう!」

私は渾身の力を込め、受付の女性の腕をブンまわした。

「きゃああっ!」

受付の女性は、勢い余って吹き飛んで倒れた。

おいおい、そんなにオーバーアクションで倒れなくてもよかろうに。

そして物凄い金切り声だ。私は耳がズンズンと響くのを堪え、一目散に走って外に飛び出した。


行き場を失った私は、とにかくこの場から一秒でも早く離れたかった。

私は、病院の側に止まっているタクシーにドカリと乗り込んだ。

「・・・お客さん、どちらまで?」

バックミラー越しに、運転手は私の顔をジロリと睨んでそう言った。

「とりあえず出してくれ!」

「ええ?なんだよ、それ・・」

ぶっきらぼうに運転手は返事をした。

「こっちは急いでいるんだ!とにかく出てくれ!」

「はい、はい」

私は、病院から誰かが追ってこないかをあえて確認しなかった。

もしそんなことをすれば、このタクシーの運転手に不審者に見られ車を止められてしまうだろう。

それは絶対に避けなければならなかった。


しばしの沈黙。

タクシーは順調に走り出しているようだったので、私は少し安心した。

それにしても、タクシーの運転手というのは、もう少し丁寧な対応が出来ないのだろうか?

私が接待でタクシーを使う時にも、愛想がなくて、営業精神のカケラもないと思っていた。

それでよく、客とトラブルを起こさずに仕事をこなせるものだと、ある意味感心したものだが。

それにしても、この運転手の接客はひどい。

あからさまに私の事を疎ましい客だと思っているのが手に取るようにわかる。

「で、どちらまで?」

「・・と、とりあえず駅まで」

私は特に行き場所を考えてなかったが、いつまでもこんな海辺の地にいるつもりはないし、ここで宿泊できるだけの金もなかった。だから、とりあえず駅方面へと向かおうと思った。

ギッコ・・ギッコ・・・

雨を拭うワイパーの音が、いやに車内に響き渡る気がした。シーンと静まり返った車内。

私は少し息が詰まって、窓の外の雨の降り具合を見た。

「よく降っているねぇ」

私は、少しでもその場の空気を軽くしようと、運転手に話しかけた。

すると、その運転手は、道路を右折するところで、前方の車に突然クラクションを鳴らしたのだった。

ビー!ビーッ!

「この野郎、さっさと曲がりやがれッ!」

タクシーの運転手は、前の乗用車に叫んでいた。

車の車種から察するに、老人が乗っているような古くて品粗な車だった。

私は、自分が話しの腰を折られた事に少しムッとしたが、この運転手の乱暴な運転に、もっとムッとした。

「あのさ、そこまでしなくてもいいんじゃないの?」

たまりかねて、私は運転手にそう言ってしまった。

「あのねーお客さん、俺だって遊びでやってるんじゃないんスよ、わかりますぅ?」

この運転手の言っている事は、間違いなく間違っている。

いくら仕事とはいえ、ゆっくり安全運転している車に対して、そこまでしてよい権限はない。

そもそも、タクシーだから、代行運転だからと飛ばして運転して良いという法律はどこにもないのだ。

みんなキチンと交通法規を守っているのだから、それに従うのが当然なのだ。

しかし、この運転手はよく見るとまだ若い。年齢的に見てまだ25~26歳といったところか。

会社で同じ課の後藤クンよりちょっと下ぐらいか。まぁ仕方ないのかもしれない。そのくらいの年齢で、自分を中心に考えて行動する事などよくあることなのだ。若い時は、自分を中心に考えることで、自分の尊厳を確立している世代なのだから仕方ない。

「とにかく・・安全運転でお願いしますよ」

私は、少し小声になって言った。


しかしまぁ、何と言うか。若い世代の口の聞き方の悪さはどうしようもないものだ。

そもそも『敬語』という言葉は、『目上の人を敬う(うやまう)』という意味なのに。

この若者には、目上に対する敬いも、お客さんに対する敬いも一切感じられない。

私がタクシー料金を払う事で、自分自身の賃金が発生している事もわかっていないのか?

もしかして、『乗せてやっている』とでも思っているのだろうか?

私が学生の頃は、とにかく目上の先輩に対しては絶対だった。口答えしようものなら、すぐさま鉄拳が飛んでくる。でもその代わり、いざという時に先輩は頼りになった。だから上下の階級があっても納得できたのだ。

それなのにこの若者はどうだ。


(・・・・・・!)


そこで私ははっと気がついた。

考えてみれば、目上の人が威張っても納得できるのは、いざという時に頼りになるからだ・・・

だが、私はどうだったのだろうか?

私は後輩に対して、そんなに露骨に威張った事はないが、それでも学生時代は後輩に対して厳しいところはあった。私は後輩にとって頼りになる存在だったのだろうか?

いつのまにか、先輩が後輩を叱るのが当然の役目だと思っていたが、それは、先輩が自分達よりも上の存在だと認めていたから成り立っていた関係なのだ。だったら、社会に入っての私はどうだったのか?

年下の生意気でろくな言葉遣いも出来ない後輩に対し、私は叱りこそしなかったが、目上の者には必ず敬語で話せと教育したものだ。

隣の席の後藤クンだって、入社したての頃は酷かった。

私に対して、「河合さん、このペン貸してくれる?」だった。私はその言葉遣いにあきれ果ててしまったものだ。だが、後藤クンも結婚して所帯を持つようになった頃から、やっとそれらしい敬語を使うようになってきた。それは、私が隣で逐一注意してあげた結果だと思っていたが、当人はどう思っていただろう?

後藤クンは、私の事を年上の先輩だと思って慕ってくれていたのだろうか?

私と後藤クンとの関係は、完全に先輩と後輩だ。会社の位で言っても、まだ私の方が上だ。

だから、まだ私に対しては敬語を使ってくれている。

しかし、課長は私よりも年下だ。他の支店から突然やってきて、もう少しで私が課長に昇進するかしないかの時に、あいつはやってきたのだ。あいつのおかげで私は依然、平社員のままだ。

もうこの歳で昇進は期待できないだろう。ほぼ絶望的かもしれない。

それに私の仕事は、会社にとってもそれほど重要なポストを任されている訳ではない。

もしミスをしたところで、会社に与える損害は微々たるものだろう。それだけ、たいしたことない仕事なのだ。

やり甲斐も、出世できる可能性もないときたら、やる気が起きる訳がない。

だから私がいくら頑張っても、課の連中の鼻をあかせるような、重大な仕事の成功はありえないのだ。

それもあの課長が私にろくな仕事を与えないからだ。

課長がみそのクンをホテルに誘った一件を、酔って説教した事で、いつまでも根に持っているのだ。

ああ、思い出すだけでも腹立たしい。

私だってもうこの仕事のベテランだ。自分でもそこそこに仕事をこなしていると思う。

残業だって文句ひとつ言わずにやるし、接待だって文句ひとつ言わずに引き受ける。

・・・まぁ、昨日はみそのクンとのデートだったから、接待を断ってしまったが。

ひょっとしたら・・・いや、どこか人生の分かれ道が、少しでも良い方向に進む事が出来たなら、私はもっと出世し、人生が開けていたのかもしれない。そうすれば、こんな辺鄙な海辺で寒い思いをしなかったし、こんな惨めな気持ちで病院から抜け出してはこなかっただろう。


「お客さぁ~ん!」

突如、運転手の声で私は我に返った。

「さっきから呼んでるんですけど、どうかしましたかぁ?」

そうだったのか・・いつのまにか考え事をしていて、自分の世界に入り込んでしまったようだ。

それにしても、この若者の人を見下したような覇気のない声は耳に障る。

もっと語尾を上げてハキハキと喋れないものか?

「すまん、ちょっと考え事をしていたものだから・・・」

「何だか息も上がっているようだから、ちょっと聞いてみたんスけどね。病院から出てきてまた病院に運ばれたら、シャレになんないっスからねぇ。ハハハ!」

人をこばかにした虫唾の走る笑い方だ。

そう言えば、私の鼓動はバクバクと上がっていた。知らぬ間に興奮していたようだ。

キッ!

するとタクシーは、道端に車を寄せると停車してしまった。

「お、おい、何で止まるんだ運転手クン?まだここは駅ではないが・・・」

「・・・あのさ、お客さん。お金って持ってる?」

この運転手は突然何を言い出すのだ?

当然だ!タクシーに乗ったからには金があるからに決まっている。

私は胸の裏ポケットに手を当て、サイフを取り出そうとした。

しまった・・・

私の額から血の気が引いた。

考えてみれば、さっきの病院でなけなしの一万円を置いてきてしまったばかりではないか!

そうすると、札は一枚も残っていない事になる。あるのは小銭のみになってしまう。

私は顔をハッと上げ、メーターを見た。

980円!

今の私のサイフに980円は入っているのか?!

運転手の顔を見ると、やれやれという顔つきで私を見ている。

ある!あるハズだ!

こんなバカな!たかが980円ぐらい、私のサイフに入っていて当然なのだ!

しかし、もし入っていなかったらどうする・・・

私は完全に自信を失っていた。朝から酒を飲み、少女を追って海まで飛び込み、非日常続きに私の思考では、サイフの中身にいくら残っているかなど計算する余裕などなかった。

こうなることなら、病院で一万円を強引に置いてくるべきではなかったのだ。

あれさえなければと私は悔やんだ。だが悔やんだ所で仕様がない。

あの病院まで戻り、「やっぱ返して」と受付の女性に言って返してもらうことなどできやしない。

もうあの病院に戻ることは危険だ。私の心をこれ以上不安定にするばかりだ。

金さえサイフに入っていればいいんだ・・・!

たかが980円・・・そういえばタバコを自販機で買った時、小銭を全部、サイフの小銭いれに入れた覚えがある・・・いや、それはワンカップを買った時に払ってしまったのだ。

で、でも、大あさりを食べる時に、千円札で払ったはずだから、きっと小銭があるはずだ!

私の行動は、完全に挙動不審だった。今日の朝から今現在までの出費と、持っていた札と小銭の計算が、頭の中を一瞬で何度もぐるぐるとまわった。計算は得意な方なので、私の計算で合っているはずだ。いや、合っていなければ困る。


「どうしました?お金あるんですかぁ?ないんですかぁ~?」

またしてもこの若者は、私を客とも思わないバカにしたような態度で言った。

「あ、あるさ!・・・もちろん・・・」

私はサイフを取り出しすと、まずは札入れを確認した。

ない・・・万札はおろか千円札が一枚もない。

当然だ。小遣い一万円の私のサイフに、一万円札が二枚あることなど稀なのだから。

次に私は、小銭いれのボタンを外して小銭を確認した。

「もしなかったら、その時は警察に行ってもらいますからね~。最近多いんですよね、変な客が」

(・・・うぅ!)

変な客だと?!

この私が変な客だというのか!この若造がっ!お客である私をそこまで侮辱するというのか!

私は怒りに震えて下唇を噛んだ。

よーし見てろ!たかが980円だ、980円さえあれば、私は正当な乗客なのだ。

何も文句を言われる筋合いはないのだ。だから今度はこっちから文句を言ってやる!

私は小銭入れをチャラチャラと漁った。突然目に見えたのは巨大な銀の硬貨、500円玉だった。

よし、いいぞ!私の口元がニヤリと緩む。この時ほど、500円玉の存在を有り難く感じた事はなかった。

チャリ、チャリ、チャリ・・・

次に私は、百円玉の数を数えた。

いち、にい、さん、しい・・・今何時だい?なんて下らない落語などしてる場合でもなく、私は百円玉を数えるのに集中した。すると・・・あった!なんと百円玉は5枚あったのだ。それと十円玉が2枚。

これで合計金額が千円を超している。980円を払う事が出来るのだ!

私はそれを、さも得意げに運転手に見せた。

チャラリ・・突き出した手の平に乗った小銭が音を立てた。

しかし、運転手は私に対して、いまだ不審な顔を続けている。

「こっ、これであるじゃないか!980円だよな?」

すると運転手は、私の手の上の小銭を指差した。私はもう一度それを確認する。

そこには、百円が5枚だと思っていたのが、一番下に隠れていたのは、なんと50円玉だった。


合計金額・・・970円


なんという運命のいたずら。あと十円、十円足りなかったのだ。

私の額から汗が垂れる。お尻の穴がきゅっと締まり、寒さとは違う悪寒が体中を走る。

「10円足りませんね、でもまけませんよ。きっちり払ってもらいますから。もしなければ警察に・・」

この時の運転手の顔を私は忘れない。

弱者をいたぶるような、勝ち誇った目。そしてニンマリと笑ったいやらしい口元。

こいつは、私がタクシー代を払う金がなかったことに満足している。

これで私を、警察に突き出せるという大義名分を得て、その喜びで満ち溢れている。

自分に支払われる賃金よりも、目の前の中年を警察に突き出す興味心で胸が躍っている。

なんという下衆な男なのだ!

この人間は、タクシーの仕事の疲れから溜まったストレスを、客である私にぶつけて開放しようとしている。

あえて上下の格をつけるなら、タクシーの運転手よりも、金を払う乗客の方が上なのだ。

それだから、運転手は客から金をもらった後にこう言うのだ。「ありがとうございました」、と。

しかし、この運転手は、それをものの見事に覆してしまったのだ。

乗客である私よりも、運転手であるこの若者の立場が上になってしまったのである。

「さぁ観念してくださいよ。とりあえず本部に連絡入れますから」

運転手は、無線で本部に連絡を入れようとしていた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!たかが十円じゃないか!待ってくれ!」

私は必死でそれを拒もうとする。

「たかが十円だって?あんたねぇ、そんな言い訳が通ると思ってんの?昔のことわざにもあるでしょ、十円を笑うものは十円に泣くってね。ハハハ!」

この野郎!

言葉の意味も知らないくせに、そんなくだらない言葉だけは知っていやがって!

「いや、でも・・しかし!」

「だーめ!ダメだよ、アウト!もうどうしようもないから、アンタ覚悟した方がイイよ~?」

プッ

その運転手の口から笑いが漏れたのを私は聞いた。

この運転手は、困った私の顔を見て、それをいじめて楽しんでいるのだ。

なんという性格の捻れ曲がった男なのだろう。腐っている、腐っていやがる!

「後から必ず持ってくるから!お願いだ!」

私は、運転手の無線を持っている手を掴み懇願した。

「あのね、我々運転手だって苦しいのよ、この景気で客足もさっぱりだ。あんたみたいな金もない客に乗ってこられても迷惑なのよ、わかってるの?オッサン!」

遂にはオッサン呼ばわりだ。私の怒りが頭の中でブチッと切れた。

「この野郎!」

私は運転手の胸倉を掴み、運転手の顔を睨み付けた。

「へへ、どうするの?そんなことしてどうしようって言うの、オッサン?」

運転手の言うとおりだ。ここで怒っても意味がない。更に悪い結果になるのは目に見えている。

「暴行罪もこれで成立かな。オッサン、人生終わっちゃったね?あ、もうすでに終わってるかな、アハハ!」

この運転手に、殺意を超えた憤りを私は感じた。

「さて連絡させてもらうよ、無銭乗車だって立派な犯罪だ。あんたはこれから犯罪者として生きて反省しなよ。年上だからってえばってんじゃねぇよ!俺はそんな態度が最初から気に喰わなかったのさ!」

なんと、この運転手は。私を乗せた時からそんな事を考えていたと言うのか?


ザザァー・・・

雨がますます激しく降り落ちる。

ワイパーの動きだけでは、ガラスの窓を拭いきれていない。

私は頭を垂れて観念した。

「あ・・二ノ宮です、お疲れ様です。いやね、ちょっとした事件がおこりましてね・・・」

運転手は、ニヤリとした笑みを漏らしながら私の顔を見た。

「それが、今乗った客が金もってなくって・・・どうします?あれ、もしもーし!」

無線のスイッチを切ったのは私だった。

「何しやがる!なんで無線のスイッチを切りやがった?!」

運転手は怒号していた。それも当然だ。

「くっくっく・・・あっははは!」

私は、運転手の反応が面白くて、思わず笑ってしまった。

「開き直ったのか?このオッサン!こんな事したらどうな」 「運転手クン・・・」

私は落ち着き払った声で、ポケットに手を突っ込んだ。

「?・・・てめぇ!まさかナイフでも持ってやがるな?出せ!」

私の不審な行動を察知したのか、運転手は、私が何か凶器を持っていると思い警戒した。

「違うよ、運転手クン・・・これをキミに渡そうと思ってね・・・」

私はポケットから握った拳を出し、それを運転手の目の前で開いた。

そこには、十円玉が一枚乗っていた。

「あ・・・あったのか・・・最後の一枚が・・・・」

運転手の顔が険しく曇っていくのがわかる。

「これで980円・・・きっちりあったわけだ。あ、領収書はいらないから」

「けっ!あるなら最初から出せよ!・・・でもこれであんたは文無しだ。ここからは歩いていってもらうぜ!」

「ああ、そのつもりだよ。もうこんなタクシーはこりごりだからね・・」

「それはこっちのセリフだよ!さっさと降りろ!」

運転手の顔が、明らかに悔しがっているのがわかる。

私を警察に突き出せなかったのが、そんなにも残念なのだろうか?

なんとも心の寂しい人間だ。私はそう思って運転手の顔を見詰めた。

「どうしたい?まだ何か用か?!」

ぶっきらぼうに吐き捨てる運転手。

「ひとつだけ教えてくれ・・・・」

「な、なんだよ?何を教えろってんだ!」

「今の私・・・今のこの私の姿を見てどう思う?正直に答えて欲しい・・・」

少しばかりの静寂。運転手は、一度だけ瞬きをした。

「・・・人生の負け犬・・・この車に乗った時からそう感じたよ・・・これでもいろいろな客を乗せているんだ。人を見る目はあるつもりだぜ」

「そうか・・・負け犬か・・・」

「ああ負け犬だ!どんなに頑張っても這い上がる事の出来ない、生まれついての負け犬に見えらぁ!」

「・・・・・・ありがとう」

ガチャ

後部座席のドアが無造作に開いた。外は強い風が吹き、雨が斜めに激しく降っている。

運転手の視線が、私の方を睨んでいるのを感じた。私はそれを振り返る事なく無視した。

そしてひと言。

「・・・二ノ宮・・・必ず、必ず貴様を不幸のどん底に落としてやるぞ・・・」

あっけにとられる運転手は、そんな私を気味悪がって車を出した。

「や、やれるもんならやってみやがれ、この負け犬がー!」

そういい残して、タクシーは私の視界から消えていった。


ザァザァと降り注ぐ雨が顔を叩く。ビチャビチャと張り付くようなしつこい雨。

それから私が駅についたのは2時間も後だった。

見知らぬ町の駅の方向などわかるはずもなく、ただ、ぼーっと考え事をしながらとぼとぼと歩いた。

その間は苦痛でもなく退屈でもなかった。

ただ、あの運転手とのやりとりを、何度も何度も思い返すだけで時間が経っていったのだから。

そんな事を考えながら、ただ足を前に動かす。そうすれば、いつかは駅に到着するだろう。

そして、私の考え通り、何時の間にか駅についていたのだった。

服はズブ濡れだったが、長時間歩いたせいか、体はポカポカと温かかった。

そして、私の心に確実に植えつけられた感情。それは、あの運転手の二ノ宮という男への復讐心だった。


こうして。

私の無断欠勤は、長い長い一日によって終わったのだった。

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