第8話 突海
第八章 『突海』
ザッパ~ン・・・
潮騒は、寄せては返す。
目の前の、水と塩と泡で構成されたその物質を、私はじっと見詰めていた。
その物質は海水と呼ばれ、その集合体が海と呼ばれている。
私は今、その海に来ている。実に数十年ぶりの海だった。
考えてみれば、海というのは地球の七割を覆いつくしている。それは膨大な面積だ。
水という物質が、この地球にそれほどまでに満ちているのが不思議でたまらない。
だって、この世界では水不足で悩んでいる地域が、世界中でいくらでもあるのに、何故、この水を利用
できないのだろうか?この水をそのまま飲めば、塩辛くて飲めないのはわかっている。
でも、所詮は水と塩だ。だったら、水と塩をこして別々にして分ければ良いのではないか?
そうすれば、水が欲しい人には水を分け与え、塩が欲しい人には塩を分け与えれらるのに。
何故、そんな簡単な事ができないのか?
そんな事、誰かがちょっと知恵を出せば、簡単に実現するのではないかと思ってしまう。
今の科学技術ならば、何の問題もなく行えるのではないだろうか?
それとも、簡単な事に思えるが、実は思ったより難しい事なのだろうか?
どうなのだろう・・それくらいやってあげろよ・・ケチケチしやがって・・
私たちサラリーマンからむしりとった税金で、それくらいしてあげろよ!
私は今日、会社を無断欠勤してしまった。
そして、電車を乗り継いで、いつの間にか海まで来ていたのだった。
私のサラリーマン生活35年の中で、始めての出来事だ。
今まで会社を欠勤してやろうと思った事は何度かあった。
だが、それを実行に移すまでの圧縮された感情は、膨張して放出される事はなかった。
しかし、それが遂に現実となってしまったのだ。
たかが無断欠勤。毎日毎日、当たり前のように仕事に行く事に、何のメリットがあるのだろうか?
そこにあるのは、ただの『真面目』という安っぽいレッテルだけのように思う。
毎日を仕事に費やして、毎月を仕事に費やして、毎年を仕事に費やして。
果たして、その先にいったい何が残るのだろうか?
ない!
そこには何もないのだ。あるのは一ヶ月を何とか暮らせるだけの微々たる賃金と、家のローンをなんとか返済できるだけの微々たるボーナスだけでしかない。もうボーナスと言うのも、おこがましいほどで、雀の涙と例えるのも、雀はどんなに小さな涙を流すのか疑問に思うほど極小の金額なのだ。
その中でさらに微々たる、粉末の集まりで出来た結晶、それが小遣いなのだ。
結晶というのもおこがましいほど、それは原子の集合体でしかない。
その元素記号=Ok(お小遣い)から、接待交友費、昼食代を差っ引いた金額こそ、自由な金なのだ!
その自由な金はいくらある?そんな金が自由に使えるだけの金であるわけがない。
それでもなんとか食いつないで生きていけるのは確かな事で、それを貰ってなんとか生活しているのがサラリーマンであって、それをしている自分は、それ以上の賃金を間違っても期待してはいけないのである。
だから、賃金をもっともらえる能力がいくらあろうが、それがサラリーマンである以上、どうしようもない宿命なのだ。システム的に考えても、能力給を正当評価して賃金に換算する事自体が、激しくありえないシステムだという事を、仕方なく認めなくてはならないのだ。
何を考えている?私はこの期に及んで何を言っているのだ?
そんな事、社会人を長年経験してきた私なら、全てわかっていることではないか。
でもそこに、何とも言えないわだかまりがあるからこそ、潔く素直に受け入れる事ができないのだ。
ああ、なぜ・・・
何で私は、こんな場所でこんな気持ちで立ち尽くしているのだろうか?
何でこんなにも虚しい気持ちで、海を眺めていなければならないのだろうか?
あえて言うなら自分にも理想があった訳で、こんなにも虚しくて心苦しく海を見詰めていたかった訳ではない。だがしかし、実際には、私はここで虚しく海を黙って見詰めているだけの男でしかないのも事実。
私はこんな人生を望んでいたのではない!
どんなに海に向かってそう叫んでも、現に今の私は消えかかった泡のような存在なのだ。
ちっっぽけだ・・・
どこまでも広く拡がる海に比べ、なんと私の心は狭いのだろうか。
人間の人知は、この地球を征服するのに相応しいかもしれない。
だがしかし、こと私においては、波打ち際に打ち上げられる干乾びたクラゲと一緒で、どこにも価値観が見出せないのだ。
私には、そのガビガビになったクラゲと同等の価値しかないのだ。
この世で、この地球で、たまたま人間が一番優位な種族になっただけの話なのだ。
いや、もしかしたら、欲にとりつかれた人間という種族を尻目に、他の動物たちは、そんな人間をせせら笑っているのかもしれない。だとしたら、なんと人間という種族は、傲慢で滑稽な種族なのだろうか。
だっておかしな話じゃないか?
この星で一番優れた種族が、何でこんなにも心をギスギスにすり減らし、虚しい気持ちで海を見て打ちひしがれていなければならないのだろうか。この星で一番の種族ならば、そんな心の問題なんて気にせずに、意気揚々と笑い、悠悠自適に生活しているのが当然ではないだろうか?
犬だって猫だって、牛だって豚だって、鮪だって鯨だっていない。
こんなにも虚しい気持ちで、海を眺めなければいけない種族は人間だけしかいない。
はたしてそれが、この星の頂点に立つ生命体だと言えるのだろうか?
はたしてそれは、この星の頂点に立った物の宿命なのだろうか?
何を言っている・・・
さっきから私は何を言っているのだろうか?
人間だろうか、獣だろうが、鳥だろうが、魚だろうがクラゲだろうが。
こんなくだらない事で悩んでいるのが、この星で一番の生命体である訳がない。
人間は勝手に、自分達が一番であると思い込み、錯覚しているだけなのだ。
欲求を具現化した自分達を、高尚な存在であると錯覚しているだけなのだ。
だって、魚は大金持ちになりたいとも思わないし、土地を沢山欲しいとも思わないのだから。
もし仮に、魚がそう思っていたとしても、人間ほど愚かな欲を欲したいとは思わないだろう。
何だ・・何を言っているのだ。
全くもって私はみっともない。これではまるで、自分が人間であることを恥じているようではないか。
そこまで私の人間としての尊厳はボロボロと崩れ、ひび割れた壁のようにもろくなっているのか。
虚しくて、みっともなくて、滑稽で、哀れ。
これくらいの言葉が、今の私には丁度良い。
私はこれ以上、惨めになる事を恐れ、もう海を眺めるのをやめた。
そしていつのまにか、浜辺の道路沿いにある、一軒の店の中に入っていた。
例えるなら、季節はずれの寂れた海の家といったところか。
空調は換気扇しかなくて子汚く、とりあえず建物として最低限機能しているような店だった。
だがそれがいい。今の私には、これくらいの薄汚れた店が丁度良い。
とにかく酒だ。もう酒を飲まずにいられる状態ではない。
一分一秒でも早く、アルコールを喉に流し込んで摂取したい気分だ。
私は店員のおばさんに、ぶっきらぼうに酒を頼んだ。
店員のおばさんは、そんな私を蔑む訳でもなく、すぐさまワンカップの熱燗を持ってきてくれた。
ゴクリ・・・うまい。
喉を通り、五臓六腑に染み渡る瞬間こそ、酒飲みの至福の瞬間なのではないか。
後頭部がクラリと揺れるような錯覚が心地よく、それを三口、四口と流し込むと、今度は米神のあたりがポウッと暖かくなってきた。
ははぁん・・・わかってきたぞ。
私がこんな昼間っから酒を頼んだことに、店のおばさんが眉ひとつ動かさなかったのは、私のように昼間から飲んだくれている客が他にもいるからなのだ。
現に、私のテーブルの他にも、いかにも暇を持て余した中年が、顔を赤らめているのが見える。
そう思うと、昼間から酒を飲んでいる私の後ろめたさがなくなった。
人間というのは不思議な生き物だ。
今の自分を蔑んでいても、自分と同じ立場の人間が他にもいればそれで安心してしまう。
逆を言うならば、自分と立場の違う人間にこそ警戒してしまうのだ。
なんとも身勝手でちっぽけな生き物。でも今の私は、そのちっぽけな生き物を骨の髄まで演じている。
私は誰にも何も誇れることのない、ただの人間というくだらない生き物でしかないのだ。
私は、向かいのテーブルで飲んでいる老人に親近感が沸き、注目して観察する事にした。
その老人は、ブルブルと震える手つきで、熱燗の酒を、ずずずっとすすっていた。
アル中に近いその老人を見て、私はなんだか少しホッとした。
・・・われながら嫌な人間だなと自分自身思った。
でも仕様がない。
こんな虚しい時には、誰か自分より下の人間を見下すことで、少しでも優越感を味わいたいものだから。
私は少し食欲が沸いてきたので、おつまみに大あさりの酒蒸しを注文した。
磯の香りがプンと匂ってきたので、無性にそれが食べたくなったのだ。
思い返してみれば、昨晩から腹に溜まるものは何も食べていない。
腹に入れたのは、高級な酒と水と氷だけ。腹も減る訳だ。
しばらく熱燗をグッグッとやっていると、あさりの酒蒸しがやってきた。
ほほう、これは何とも大ぶりで、食べ甲斐のあるものだ。大きなあさりの貝殻に、ぶりりんとしたあさりの身がのっている。それを酒で蒸し、仕上げに醤油を垂らしたツンとくる香りが、私の鼻を刺激してきた。
これは食欲をそそる。
私は、割り箸を割ると、まだアツアツのそれを口に放り込んだ。
磯の香りと酒の香りと醤油の香り、そしてあさりの身のやわらかな感触。
ジュンワリとした肉汁が、噛み締めるほどに口の中に広がっていく。
うまい・・・
そしてそれを、熱燗のワンカップでやっつける。
なんとも美味すぎて、思わずニンマリと口が笑ってしまう。
ああやっと。やっと自分は悦びをひとつ見つけられたと実感した。
とても些細な悦びだが、私にとっては、宝箱を掘り当てたような貴重な発見だった。
うまい、うまい、うまい。
私は、その大あさりを夢中で食べた。そして追加のおかわりをし、熱燗をさらにもう一杯頼んだ。
面白いもので、人間というのは美味しいものを食べると気力が充満されていくものだ。
私は少しだけ気分が良くなってきたので、トイレに立つふりをして、別のテーブルで飲んだくれている老人に声を掛けた。すると、その老人は嬉しかったのか、一緒にここで飲めと勧めてきた。
あまりにもしつこい勧誘だったので、私も酔った勢いで、その老人と同席することにした。
私はよく、赤提灯の焼き鳥屋で、このように初対面でも話仲間になって一緒に飲んだりする。
だから、こういった飲みは嫌いではなかった。
みんなが同じくして会社の不満を吐き出し、それをツマミにして酒を飲む。
こういった愚痴を発散させる飲みというのは嫌いではなく、むしろ好きだ。
誰もが不満を抱え、そして苦い酒を飲み、愚痴を言ってなんとか発散させ、そして明日への仕事の活力を充電していくのだ。
そこに女がいなくてもいい。そこに旨い焼き鳥とおでんがあればそれでいいのだ。
思うに、若い男性というのは単純で羨ましいと思う。だって、悩みのほとんどが異性の問題だからだ。
そんなものは私からしたら、金を払って女を買ってしまえば済む話じゃないのだろうか。
それでスッキリすれば問題解決なのだと私は思う。
恋人との仲がこじれていたら、別れて別の相手を探せばいいだけだ。
若いうちの出会いなんていくらでもある。
それに比べると、私たち中年の悩みは深刻だ。
家のローンや会社の出世、言うことを聞かない子供や、触れる事すら嫌悪するような女房は、見ているだけで憂鬱になってくる。
シンシンシンシンと、胸の奥から悩みが出始め、果ては手足の指先まで、シンシンシンシンと悩みが蔓延ってくるのだから厄介だ。もうこの悩みというのは、どんな難病よりも達の悪いものなのだ。拭っても払ってもこびりついて落ちないペンキとドロを混ぜたような汚い不純物で構成されたベトベトの液体。それが年がら年中、体の隅々にまで拡散していくのならば、これをお酒で消毒しないとどうしようもないのだ。
別に言い訳で言っているのではなく、本当にこれはどうしようもないのだ。
だから、この店で偶然出会った飲んだくれの老人を、私はほっとけなかった。
自分と同じ虚しさを共有してくれるのならば、それはもう他人でなく、同じ血を分けた兄弟以上の親近感が沸いてくるのである。
もう老人は酔っ払っていて何を喋っているのかも理解できない。でもわかる、私には何となくわかる。
この老人の、心の奥底から咽び泣き、叫びたくなるような嗚咽を私はしっかりと聞いた。
明らかに目が死に、自分の登る階段を見失ってしまった眼で、その老人は哀願するように私に言う。
人生とはなんぞや、男の生き方とはなんぞや、と。
突然そんな事を言われても、私にはその返答を返す事は出来なかった。
いや、いつ何時言われようと、それを答えることなど出来やしないだろう。
その答えを見つけられる程、私の人生は充実していないのだ。だからそれは無理なのだ。
そしてそのまま、その老人は酔い潰れてしまった。私はそれを見ながらも、尚も酒を飲んでいた。
この老人は悪くない、悪いのはこの社会である。
男が男として生きていく証を、どこに見出せば良いのかわかりづらい時代なのだ。
それを用意してあげるのが、この国の政治家の役目なのだ。いくら住みやすい環境をつくったところで、いくら生活しやすい税金にしたところで、男の根本的な悩みが解決するものではないのだ。
それがこの国には著しく抜け落ちている。
サラリーマンがどんなに頑張って働いても、それを賄える充実感が存在しないのだ。
だから今の私がここにあるのだ。平日の、真っ昼間から、海で酒をあおっている私がここにいるのだ。
それは間違いなくみっともない行為なのだろう。でも、それを責める事はして欲しくない。
だって、この社会に生きる男達は、そんなに強い人間ではないのだから・・・
老人は酔ってすぅすぅと眠っている。
私はそれを現代の、社会問題の成れの果てだと思った。
悪くはない。こんな事をしても何も悪くはないのだ。
そこに店のおばさんがやってきてこう言った。
「この人が酔いつぶれるのはいつものことだからねぇ、まったくしょうがないよ」
私は愛想笑いをしながら、この老人を弁解するように言った。
「仕方ないですよ、いろいろと悩みがあったようですし・・・」
すると店のおばさんは、目をギョロリと丸くして答えた。
「そうかそうか、あんたは地元じゃないから知らないかもしれんけどね、この人はねぇ、昔から借金まみれのどうしようもない生活してたんだよね」
「はぁ、そうですか・・」
確かにどう見ても、そのような生活をしている幸薄い老人にしか見えない。だいたい予想はついていたが。
ところがこの店のおばさんの次なる言葉で、私はこの老人を見る目が180度変わってしまった。
「でもねぇ、人生どこにツキがあるかわからないよねぇ、今じゃ1億円の大金持ちだよ」
え?!何だって?!一億円?!
何だ?何の話をしているのだ?この老人と一億円がどうも結びつかない。
私は少し取り乱して、そのおばさんに詳細を尋ねた。
「そっ、それは一体、ど、どういうことなのですか?!」
「うん、まぁ今はこうして酔い潰れてるから話すけどね、この人、今までギャンブルで借金だらけだったんだけどね、そりゃぁもう地元では有名な人間だったのよ、借金で」
「そ、それで・・どうして一億円を?」
「でもね、もっぱら馬とパチンコだけだったけど、3年ほど前にたまたま買った宝クジが当たってね、それが一億円なのよ。本人も心臓が飛び出るほどびっくりして喜んでいたそうよ」
なんと・・・今私の目の前で酔い潰れているどうしようもない老人が、一億円当たっただと・・・?!
バカな、こんな老人が一億円を持っているなどと、誰が信じるというのだ?
それこそ、借金とギャンブルと酒に溺れた、人生巻き返しのつかないどうしようもない老人にしか見えないのに。それが、この先の人生で使い果せない程の金額を持っているというのか?
後先短く、何も趣味もなさそうな、安酒を飲んで酔い潰れているだけのこの老人が持っている金・・・
それが一億円だというのか!?
私はしばらく絶句してしまった。次に出す言葉が見当たらないのである。
「はじめて聞いたらそりゃビックリするだろうねぇ。この人、いままでどうしようもない生活してたけど、借金を返す事が、この人にとっては生き甲斐だったんだろうねぇ」
「はぁ・・・そういうもんですかねぇ」
私は、未だにこの話を信じられなかった。いや、信じたくなかった。
「それが急に大金が入ったものだから、どう使っていいのかわからなくて、こうなっちゃったんじゃないのかしら。まぁ贅沢な話だけどねぇ」
なるほど・・・それはよく聞く話だ。
一般市民が、およそ普通ではありえない金額を手にしたら、それを持て余しておかしくなってしまうとか。
だが実際に、目の前で酔い潰れている老人が、まさか一億円を手にしているとは誰も思わないだろう。
もし仮にそれが本当だとしても、この老い先短い老人に、一億円という金は分不相応だと誰もが思うだろう。
もっと言えば!
寿命の短い老人がそんな大金を持つよりは、世の中でもっと貧乏している連中で分け合った方が、どう考えても有効に金を使ってくれる気がするのだ。
こんないいかげんな人生を送ってきた人間に、そんな大金を持たせたところでどうとなるものではない。
借金を数千万払ったとしても、残りの金で、家を買い土地を買い、そして老後の老人ホームと葬式代に化けるのは目に見えている。
そして、もし子供や親戚がいるのならば、遺産相続で揉めるのも目に見えている。
ああ、なんとくだらない。そんな事でまわりの人間の欲が爆発し、平穏な生活が慌しくなるのは明白だ。
でも・・・実際は羨ましい。私だってそれくらいの金額を、一度は手にして悩んでみたいものだ。
私は、溜息をつくのを見透かされるのが嫌で、足早にその店を出た。
そして、ふぅと溜息をひとつつく。
今の私の顔は、一体どんな醜い顔をしているのだろうか?
あの老人に対して、どうしようもない嫉妬でくちゃくちゃな顔をしているのだろう。
自分よりも、下等な悩みを持った存在だと確信していた自分が恥ずかしい。
私よりも、よっぽど大きな悩みを抱えていたではないか!
もう私の感情は、カラカラに干乾びていた。
もう何もする気が起きない。
浜辺に流れ着いた大きな流木に腰を降ろし、溜息を3連発した。
さらなる疎外感が私のまわりを取り囲む。
この世界で、こんなに惨めな気持ちでいるのは私だけなのだろう。そう思って止まなかった。
カラスが浜辺でゴミを漁っていた。あいつらは、私の方を見向きもせずにゴミを漁っている。
私の視線など気にも止まらないというのか。それほど今の私には存在価値などないと言うのか。
私は近くに落ちていた木の棒を拾って、それをカラスに投げつけた。
ブン!
しかし、軽い木の棒は、ぜんぜん飛ばずにポトリと落ちた。
カラスはそんな事には動じずに、ゴミ漁りを続けている。
「この野郎!俺をバカにするんじゃねぇ!」
私は、少し離れた所に落ちていた空き缶を広い、それを思いっきりカラスに向かってブン投げた。
さっきよりもよっぽど遠くまで飛んだその缶は、カラスの横を飛んでいき、それに驚いたカラスは飛んで逃げていった。
「はあっ、はあっ、ざっ、ざまあみろ!」
しかし、飛んでいったカラスは、またも同じ場所に舞い戻って来た。
そして、何事もなかったように、またゴミ漁りを続けた。
私は側に落ちている貝殻を拾ってまた投げつけようとしたが、さっき拾った空き缶の切れ口で指を切ってしまったらしく、ドクドクと血が流れていた。私は振り上げた手を下ろした。そして、切れた指を口に咥えて舐めて止血した。
もうこれ以上の滑稽はなかった。たかがカラスを撃退しようとし、自らの指を切ってしまったのだから。
これを滑稽と言わずして何を言うのだろうか?私は力尽きたように、ドスンと流木に腰を落とした。
浜辺の砂が真っ白に見えた。流木の木も真っ白に見えた。そしてカラスすらも真っ白に見えた時、私の頭の中ではこんな思考が浮かんできたのだった。
自殺してみるか・・・
最終最後の選択肢。
こんな考えを思いつくこと事態、私の心は衰弱してしまったのか。
でも、もう何もする気がおきない。
自分ではどうする事もできない不祥な出来事に、自分をどう責めたら良いのか皆目検討がつかない。
少し曇り始めた空を眺め、私は昨晩のおぞましい記憶を、脳裏に蘇らせてみた・・・
(昨晩の記憶)
それはグルグルとまわる螺旋階段を、登ったり降りたりしている感覚から始まる。
昨日。私は会社の同じ課の、『羽鳥みそのクン』から相談を受け、食事に行った。
そして衝撃の告白を受けて動揺する私の前に、バーで合った謎の女、『朱雀江さゆり』が現れた。
その女性の出現で何かが変わってしまった。
みそのクンの態度は豹変し、話を最後まで聞くことなく帰ってしまった。
そして、その女の言われるままに、あのバーへ行って起こった衝撃の出来事に、私の感情はグチャグチャに掻き回され、それが冗談だとわかった事の安心感。そして飲み口の良い高級酒が、私の三半規管を狂わせ、平行感覚を奪い取り、そして泥酔という結果に仕上げさせられた。
その先の記憶は・・・鮮明には思い出せれない・・・
だがしかし、記憶はなくても体に残された記憶の糸口は、私の人生の中では想像もつかないようなおぞましいものだった。
おしりが痛い。
普通に考えれば、下痢か切れ痔。
だがそのどちらでもない。そのどちらでもない痛み。それは何か?
私は、あくる朝、その不思議な痛みに耐えかねて目を覚ました。
二日酔いで頭がガンガンと痛かったが、それよりも率先して私の体をなぶり続ける痛み。
起き上がって歩いてみると感じる妙な違和感。直立して普通に歩くのが歩き辛い。
時たま、ズキッとした痛みが込み上げ、私は油のような汗をタラリと掻く。
なんとか普通に歩けるようになったのは、午後になってやっとだった。
電車に乗っている最中は、もどかしい痛みで気分が悪くなった。
薬局で買った痔の薬を、試しに塗ってみたらなんとか少しだけ和らいできた。
それでも、今こうしている最中でも痛み出す時がある。
酒を飲んで体の神経を麻痺させたかったのは、ただ虚しい気持ちを取り払いたいだけではなかったのだ。
アルコールのせいもあり、痛みが中和してきた現在、この痛みの原因を考察してみた。
ありえない。わからない。
今までの人生の中では、ありえなかった痛みと違和感。
しかし、心のどこかで、ひょっとしたら原因はこれではないかという考えがひとつだけあった。
私はその考えを思い立った瞬間に、自分で可笑しくて噴出しそうになった。
だが、それと同時に、顔から血の気が引いていくのを覚えた。
もし・・・もし、これが本当だったとしたら。私には、何ととんでもない事が起こってしまったのだろうか。
原因を究明したい気持ちと、真実を知りたくない気持ちの葛藤は、私の心を大きく揺さぶって狂わせた。
そして気がつけば。このような辺鄙な海辺にいなければならなかったのだ。
お尻の穴に何かを挿入する行為とは何か?
私はこの考えを、どうしても否定したかった。
確かに世界中では、そういった同性愛をしている人達もいるのは知っている。
でもしかし、まさか自分の事を好いてそのような行為をしてくる人間がいるなんて信じられない。
だって、昨晩は松下と飲んでいたんだぞ?それにもうひとりは女性だった。
もし!
もし、そういった行為をしてくると考えられるならば、その犯人は松下と言う事になる。
バカな!
あいつとは高校生からの付き合いだし、まさか男性に興味があったなんて事は考えられないし、そんな素振りもなかった。だったら誰が?まさか、あの女性、朱雀江さゆりさんなのか?
しかし!
男が女をレイプする事はあるが、逆に女が男をレイプするなど考えられない。
それに一体どういった方法で性行為をするのだ?
昨晩の私は酒に酔っていたし、自分の物を挿入した・・いやされた記憶もない・・・
だから、だから別の方法で、お尻の穴に何かを挿入した?!
しかし、それでどうなるというのだ?その行為をすることによって、一体誰が喜ぶというのだ?
わからない。私は性の知識については、お世辞にも広い見聞を持っているわけではない。
だから、仮に、もしそういった方法を行う人がいたとしても、私は理解できないし、理解したくもない。
私の頭は、いよいよおかしくなってしまったのだろうか?
ただお尻が痛いというだけで、そこまで飛躍した考えが浮かんでしまうのは間違っているのだろうか。
そして、この悩みを、一体誰に相談すればよいのだろうか?
思い切って昨晩の出来事を、松下か朱雀江さんに電話で聞いてみるか?
しかし、はたして本人が真実を言うだろうか?そんな変態な行為をしたなどと、正直に言うのか?
私だったら、絶望的な辱めを受けてしまうだろう。とても言う事など出来ないし、絶対に言わない。
涙が出そうなほど切なくなった。
何故この私が、こんなくだらない事で悩まなければいけないのだろうか?
もっと別の、意義のある問題で悩んでいるのならばまだ良い。
しかし、私の問題は下らないを通り越して、稚拙で下劣な悩みなのだ。
仕事や金や女の問題で悩んでいる人達から見れば、私の問題はなんと滑稽なのだろうか。
もういやだ、こんな自分がたまらなく嫌になった。
私は顔を両手で覆い、溢れてくる涙を押さえていた。
ザアァ・・・・
気がつけば、何時の間にか雨が降り出していた。それも大粒の雨。
私は身動きするのも面倒臭かったが、仕方なしに鞄に入れてあった折り畳み傘を取り出した。
すると、雨で霞んだ防波堤の先に、ひとりの人が立っているのが視界に入った。
「おや・・・?」
その後姿は、どこか見覚えのあるものであった。
私は、何かにとりつかれたように、フラフラとそこに近づいていった。
雨はいっそう強く振り出してきたが、そこに立つ人物はそんな雨などお構いなしに、じっと海の先を見詰めていた。私は、その人物に声をかけようと近寄った。
その人物は、私に気付き後ろを振り返る。
すると、その人物は後ずさりし、怯えた顔を強張らせた。やはりそうだ、私の知っている顔だ。
私の体中の血液は沸騰し、ぐらぐらと煮え立つヤカンの水蒸気のように、しゅうしゅうと発していた。
私は何も考えずに、その人物の腕を強引に掴んだ。
するとその人物は、それを渾身の力で振りほどき、私の顔を睨み付けた。
それを見て私も黙ってはいない。
腕を振り解かれた行為で、心の中の炎が更に激しく灯る感覚に陥った。
そして、もう一度その人物の腕を掴んでやろうと両手を上げて詰め寄った。
その行為がいけなかったのか、その人物は逃げ場のないのを悟り、振り返って海を凝視した。
このままではまずいと思った私は、形振り構わず、その人物を捕獲しようと飛び掛った。
そして次の瞬間。
その人物は海へと身を投げた。
あまりにも突然の出来事に、私の精神はすでに私のものでなくなっていた。
気がつけば、その人物の後を追って、私も海中へと飛び込んでいたのだった。
雨が降り始めて、間もない出来事だった。
それから数十分の時が経った。
なんとか浜辺まで泳ぐ事が出来た私の横には、ぐったりと倒れている少女の姿。
それは、あの駅で会った少女だった。
その時私は、すでにお尻の痛みを完全に忘れていた。
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