第7話 突犯
第七章 『突犯』
結局、男の価値というのは何で決まるのだろうか?
世間一般的には『仕事』、世俗的には『金』。
『優しさ』なんて言う人もいる。
そんな風説が、とりあえずこの世の中に定着していると言える。
それははたして、誰が言って、誰が感じ、誰が出した答えなのだろうか。
そこに絶対な理を求めるのは、的違いであり、滑稽なことなのかもしれない。
とりあえず、私の目の前には若い女性がいる。
名前は、羽鳥みその。20歳。純潔で清楚なイメージの女性だ。
そんな女性が、私に衝撃的な告白をしたのだった。
だから、私が耳を疑ったのは当然のことである。
「え・・・い、いま何て言ったんだい?」
もう聞き返すしかなかった。だって私の耳がどうかしたと思うより仕方がなかったからだ。
仮にも、20歳の若い女性が、私に対して好意を寄せることなど皆無だとわかりきっていた。
それが、しかも今、みそのクンの口から出た言葉は、あきらかにそんな常識を逸していた言葉だった。
「えっと・・その・・・だから・・・」
みそのクンは、それ以上の言葉を出せず、俯いて恥ずかしがっていた。
恥ずかしがる女性に対して、それ以上の言葉を引き出すことはできない。
女性を困らせるという行為は、男として最低の行為なのだから・・・・・
ん?今、私は何と言った?
女性を困らせるのが・・・最低・・・?
ならば。ならば私が、駅の少女にした行為は何であったのだろうか?
あれは女性を困らせる行為ではなかったのか?はたして正常な行為であったのか?
いや、ちがう。あれはどう考えても正常な行為ではなく、女性を困らせる異常な行為だったのだ。
だから私が、今更、女性を困らせる行為がどうだと言える身分ではないのだ。
私の胸の奥にモヤッとした黒いわだかまりが生まれ、それがビタリと内側にこびりついたような感覚がした。
みそのクンは、私に対して好意を持っているというニュアンスの言葉を言ってくれた。
『禁断の恋』・・・どう考えても、それは普通の恋ではなく、常識を離れた恋愛なのだ。
私は、その言葉だけで全てを理解できた。
いくら恋愛感情を忘れた疎い中年でも、その言葉を聞けばどんな意味なのかはわかるつもりだ。
私とみそのクンとの年齢は親子ほど離れている。常識的に考えれば恋愛対象になり得ない。
だが、あえてそれを乗り越えてまで告白した、みそのクンの勇気はたいしたものだ。
だったらどうする?
私も、勇気を持ってそれに答えるのが筋というものだ。
私とみそのクンは、顔を見合わせないまま黙ってしまった。そして沈黙が続く。
どちらかというと、あまりよろしくない雰囲気だ。せっかく女性から勇気をふりしぼって告げられた言葉なのに、肝心の男性であるこの私が、だんまりを決め込むのはみっともない話だ。
私は精一杯の勇気を振り絞り、詳細を彼女に問いてみることにした。
「で・・あの、い、いつからなのかな?」
私の声は、少しうわずって震えていたようだ。
「え、い、いつからって・・・それは結構前からなんですけど・・・」
みそのクンはそう言うと、また言葉を濁して黙ってしまった。
さっきまで楽しげにおしゃべりをしていた彼女とは、打って変わって健気な態度だ。
しかし、これこそが本当の女性なのだ。
色恋沙汰をペラペラと話されたのでは、こちらの気持ちが萎えてしまうというものだ。
いやあ、それにしても。女性に告白されたのは何年ぶりだろうか、いや何十年ぶりだろうか。
ひょっとしたら人生で2回目かもしれない。一回目は思い出したくもないが、今の女房だった・・・
おっと、一瞬でもつまらない事を考えてしまった。とにかくこのままでは埒が開かない。
「えっと、それでどうしてそうなってしまったかというと・・・」
みそのクンは、まだ言い辛そうにしていたので、私は少し気を利かせ、話のスジを軽く横道にそらせようとした。営業や接待の時もそうだが、いきなり本筋に行ってしまうよりは、場を解き解す意味で関連した他の話題に振るのもひとつの方法なのだ。
「みそのクン、今回何で私にこの話を打ち明けようとしたのかな?」
我ながら良い質問だった。これで遠まわしな動機を伺える事が出来る。
「何でって・・そうですねぇ、もう黙っているのが辛くて思い切って打ち明けたかったんです」
そこまでみそのクンは思い詰めていたのか。何だか余計に健気で可愛く思えてしまった。
「あの、覚えています?あの夜の事を・・」
「え!あの夜・・・・?!」
一体何だ?何の事なのだ?その意味ありげな言葉は?
知らないぞ!私は知らない覚えていない!あったのか?そんな夜が?
みそのクンが私に好意を寄せる原因となる一夜があったのか?
いや、あるハズがない。そんな大事な一夜を忘れるハズがない!
「あ、あの夜っていうのは・・・な、何のことかな?」
しまった!私とした事が何と無神経な言葉を言ってしまったのか!
みそのクンにとって大切な思い出を、私は忘れてしまったと言っているようなものだ。
まぁ、実際に忘れてしまったのだから仕方がないが。
「いいんですよ、河合さん。気を使ってくれなくても。私が課長にホテルに連れ込まれそうになった時、河合さんが助けてくれたんですよね」
何だって?!みそのクンが課長とホテル?!
・・・・・・・あーーーッ!おっ、思い出した!
あれは少し遅い時期の新入社員歓迎会だった。
みそのクンは少しばかりお酒が飲めたから、まわりから進められてフラフラになっていたのだった。
それであの課長が・・・あのクソ課長め!
「私、会社に入ったばっかりでとても不安だったんです。それでお父さんのように厳しい課長に、どこかしら頼れる男性像を重ねてしまっていたんです。でも、特別な恋愛感情があった訳でもないんですけど・・」
思い返してみれば、みそのクンが我が社に入りたての頃は、何かと課長と接している機会を多くみかけたような気がした。でも、それが突然ピタリとなくなっていたような気もした。
「あの時、歓迎会が終わって、課長と2人で飲みに行こうって誘われて・・それで私も仕事の相談事があったので一緒に飲みに行ったんです。でも課長は奥さんがいるのに、私と付き合いたいって言ってきたんです」
「そ、そうなんだ・・・う~ん、奥さんがいる立場でそれはよろしくないなぁ」
「はい、私もそういう付き合いは嫌いなのでキッパリとお断りしました」
「そ、そうだ、それが正解だ!」
私は憤慨して、少しばかり興奮していたのかもしれない。
「でも課長は、それならこうやって2人で会うだけでいいからって、しつこく言ってくるんです」
「ふ~む!良くない、良くないぞ、それは!」
私は、その話を聞いていると、だんだん課長に腹が立ってきた。
私の可愛いみそのクンを困らせるなんて許せない。
「それで・・その・・課長は今夜だけ男女の関係になろうって言うんです」
「な、なんだと!・・・そ、それでどうしたんだい?!」
「私はもう完全に、あの人の事を嫌いになりましたから、当然それもお断りしたんです。すると課長は、おまえが職場にいられないようにしてやるって言うんです・・・」
「外道!それはあまりにも人としての道を外れた行為だッ!」
「私もそう思います。会社の権限を使って、私的に命令するのは人として最低です。でもその時は、私も未熟だったので、半ば強引にホテルの前まで連れてこられてしまったんです」
「ダメだ!入っちゃいかぁんっ!」
ガシャン!私は思わず立ち上がってしまい、その拍子にテーブルのコーヒーがこぼれてしまった。
それを見たみそのクンは、すぐさまオシボリで私のスーツを拭いてくれた。
「あ、す、スマン・・・」
「いえ、いいんですよ。だって河合さんは、私の事を心配してくれたんですから」
クスクスと笑いながら、テーブルにこぼれたコーヒーを手際よく拭き取るみそのクン。
こういった事を素早く対処し、処理できるのも素敵な女性の証なのだ。その点、みそのクンは合格だ。
「それでその時なんですよね、河合さんが助けてくれたのは」
「え?私が・・・あ、そ、そう。そうだったねぇ・・・」
完全に思い出したーーっ!
そうだそうだそうだ、あの時だ。
あの日、私は、新入社員のあまりにも目上に対する言葉遣いの悪さに腹を立て、ひとりで安酒をあおりに行ったのだった。
それで、路地裏のホテル街で、たまたま課長を発見し、ベロベロに寄った勢いでそこに近づいていったんだ。
するとその横には嫌がる女性がいたので、私は課長に向かって説教をしてやったんだ。
さすがにまずい場面を見られてしまった課長は、それ以上何も言えないまま去っていったのだった。
その横にいた女性・・・そうか、それがみそのクンだったのだ。
今まで、それが誰かなんて酔って憶えていなかった。
ただ、課長に一矢報いてやった満足感の方が記憶に残っていたからだ。
「あの時は、助けてもらって本当にありがとうございました。もし、河合さんが来てくれなかったらどうなっていたか・・・でもすいません、それ以来、課長は河合さんにばかり厳しくあたるもので、それも全て私の責任なんですね・・・ごめんなさい・・・」
「あ、いや、いいんだよそんな事は」
確かに課長は、私を目の敵のように接してくる。でもそれは今に始まった訳ではない。
昔、まだみそのクンが入る5年ほど前に、課長から重大なプロジェクトを任されたのだが、私のミスで失敗し、その責任が課長にかけられたからなのだ。
だから、みそのクンをホテルに誘った課長に説教した事で、ますます陰険な間柄になっただけの事だ。
その時に私は思った。自分の出世はこれで絶望的だな・・・と。
もともと仕事ができる訳ではなかったし、出世にもそれほど興味があった訳ではないので、特別落ち込んだりはしなかったが。それでも少しばかり、人生がどうでもよくなり、虚しくもなったりはしたが。
とにかく。
これで全ての謎が解明されたのだ。
みそのクンをホテルに誘った課長。
それを助けた私。
それを感謝してくれたみそのクン。
そして何時の間にか、その感情が恋愛に変わった・・・
これでつじつまが合う。
みそのクンが、今夜、私に相談事があると誘った理由も明白になった。
それは、私に好意を持ってしまったからだ。いや、そんな軽い感情ではない。
私の事を、ひとりの男性として好きになってしまったのだ。
仕事で出世するだけの男達よりも、女性に対して頼りになる男性を好きになるのも、おかしな話ではない。
むしろそうであるべきなのだ。うちの女房にしろ、私が出世しない事をいつもグチグチと言ってくる。
そうじゃない。男とはそうじゃないのだ。
いくら金があって出世して偉くなっても、それがなんだと言うのだ?
世間ではお金持ちのカッコいい男性がモテるそうだが、はたして女達はそれを本心で求めているのか?
見てくれは悪くても、女性に優しい男性を求めているのではないだろうか?
もし。もし世の中が、外見と金だけになってしまったら、物事の本質の価値はどうなってしまうのか?
そんな世の中は、人の欲で動くだけの汚らわしいものでしかない。
人間が人間であるための、『心』が抜け落ちてしまっているのだから。
まてよ・・・
もしこれで、みそのクンの気持ちを受け入れてしまったらどうなる?
私は結婚もしているし娘もいる。それなのに、これでは結果的に課長と同じ事なのではないか?
独身者と独身者が既婚者になるのが結婚だ。
だが、既婚者と独身者が結婚できる法律は日本に存在しない。
それには既婚者が離婚するしかないのだ。そう考えると、数日前に女房が言った言葉を思い出した。
「ねぇあんた、離婚しない?」
私は、頭をブンブンと振るい、女房の顔を思い出すのをやめた。
今は、そんなどうしようもなく、くだらない事を考えている暇はないのだ。
だったらどうする?結婚できない以上、それを行える行為があるとすれば、それは『不倫』しかない。
考えてみれば、こんな事を考える機会など今まで全くなかった。
ひとりの女性とお付き合いするのが精一杯だったのに、さらにもうひとりの女性とお付き合いする事など想像もつかなかったからだ。
落ち着け。落ち着いて考えてみろ。
私の人生の中で、このような話が二度と浮上することは金輪際ないだろう。
いわば、人生最後のチャンスかもしれない。
今までの私だったら、不倫することなど絶対に許しはしなかった。
しかし、みそのクンは、私を求めているのだ。欲しているのだ。
だからこうやって、話しづらいことを頑張って話してくれたのだ。
その気持ちを踏みにじることが、はたして良い事なのか?
みそのクンの気持ちを邪険に扱うことになるのではないか?
とにかく私は、その気持ちをスンナリ受け入れることも出来なかったし、即答で断る事もできなかった。
ここは仕方ない。出来るだけこういった言い方はしたくないのだが、少し時間をもらってみることにしよう。
「みそのクン、話はわかったよ。でも、その答えをすぐ出すには早すぎるからね」
なんて差しさわりのない、良いセリフなのだ。私は我ながら良い言葉を選択したと思った。
「え?・・・でも私、まだ話が・・・」
わかっている。「私と付き合って下さい」というつもりなのだろうが、それはまだ早い。
だって私は、今日始めてみそのクンを、特別な女性として見ようとし始めたばかりなのだから。
それはあまりにも早急だ。事は焦ってはならない。
私の人生の格言に、こういったものがあった。物事を早く行えば、必ずそこに落ち度がある。
言い換えれば、スピードを重視すればするほど、内容が薄っぺらになってしまうということだ。
私は、みそのクンとの事を薄っぺらには考えたくない。
どちらかというと、ゆっくりと肉厚な関係にしていきたいと思った。
肉厚・・・なんだか嫌らしい言葉だな、と我ながら思ってしまったのが恥ずかしい。
「で、でもまだ、話は終わってませんから!」
みそのクンは少し取り乱し、引き下がらなかった。どうしても決定的な言葉を言わんとしていた。
「河合さん、私とお付き合いして下さい」
みそのクンはそう言おうとしているのだろう。
だが、それを聞いてしまった以上、私もそれなりの言葉を返さないといけない。
今はそれを即答するべきでもないし、返す言葉がみつからないのも事実。
「少し落ち着きなさい。もし仮に、それを言ったとしても、それが今のみそのクンにとって最良の選択であるのかを考えなさい。まだお互い時間はある。変にとり急いでも、良い結果が生まれるとは限らないよ」
またまた我ながら良いセリフだ。冴えている・・というか私は調子に乗って来ているのを実感した。
「それじゃあ、私の気が済みませんから。言わしてもらいます、私は実は・・・・・・」
そう言い掛けたみそのクンの顔が、バリッと硬直するのがわかった。
例えるなら、ピカピカの鏡に、突然ヒビが入ったような感じだ。
私はその行動に疑問を感じた。それはどこか、違和感のある顔であった。
私も一人の男であるし、一応の恋愛はしてきたつもりだ。
だから、今から告白しようとしている人間の顔と気持ちが、ある程度、個人差はあるにしろ理解しているつもりだった。
しかし、今、目の前で顔を硬直させたみそのクンは、私の経験してきた中にはない表情をしていた。
一体、みそのクンは、今どういった気持ちでいるのか皆目検討がつかない。
「あ・・あ・・・ッ・・・・」
?・・おかしい。みそのクンの表情が明らかにおかしい。
完全にうわずってしまっている・・・というか、今までとは完全に別人のような感じだ。
それに、顔が赤く紅潮してきたし、目がトロンとしている。
それは、今までの私を見てきたみそのクンの目ではなくなっていた。
表現の仕方はよろしくないが、あえて例えるとするなら、性欲を丸出しにしている女性にありがちな表情に感じられた。
私も一応、結婚はしているので、女性が性欲を剥き出しにしたらどんな顔になるのか知っているつもりだ。
一体、どうしたというのだ?あの健気で清楚なみそのクンが、こんな卑猥な表情をするなんて。
「お久しぶりね、河合さん」
私の後ろで不意に聞こえた声。その振り返った先にいた人物とは・・・!
「え・・・あ!アアッ!」
私は思わず大声を出してしまい、開いた口がふさがらなかった。
それは、あのバーで出会った女性であった。私がアップルちゃんと松下に慰めてもらった時、同じテーブルに一緒にいた女性であった。それがこんなところで出会うとは・・・しかも向こうから声をかけてくるとは。
私はこの女性とは面識があっても、個人的に話をした事がないので、どういう対応をしたら良いのか困ってしまった。
「あ、あなたは・・・そ、その、お久しぶりです」
こんな時に社交辞令な態度になってしまうのは、サラリーマンの嫌な性格だと思った。
その女は、サングラスをクイッと上げ、口元をニヤリと吊り上げて言った。
「まさか、あなた達が一緒にいるとは意外だわね。まぁいいわ、河合さん、あなたに用があって来たの」
私に?この身元はおろか名前すら知らない女性が、私に用があるというのか?
それにあなた達?私とみそのクンを、『あなた達』と呼ぶ意味は一体?
「とにかく、いつものバーで待っているわ。私は遅れて行くから、先に行って待っていて頂戴」
そう言うと、その女はクルリと振り返り、スタスタと出口に向かって歩き出した。
「ま、待って下さい!あ、あたしも連れていってください!お願い!」
そう言い出したのはみそのクンであった。
どういうことなのだ?みそのクンは何故、突如として現れた女性を警戒するでもなく、自分も連れていってと懇願するのか?ひょっとしたら、あの謎の女性とみそのクンは知り合いなのだろうか?
そんなバカな。あんな素性の知れない怪しい女と、普通の会社員であるみそのクンが知り合いであるハズがない・・・だが、私も一般の会社員であるが、あの女性とは一応の知り合いだ。
人と人との繋がりが、どんな意外な糸で繋がっているのかわからない。
「・・・ここは私と河合さんだけの話なのよ。関係のないあなたは引っ込んでいなさい」
厳しい口調で吐き捨てるその女性は、みそのクンの要望を容赦なく断った。
これは明らかに初対面で言える言葉ではない。
間違いない。みそのクンとこの女性は顔馴染みなのだ。いったいどういう繋がりなのだ?
「は、はい、すいませんでした・・・ごめんなさい・・・」
みそのクンはしょぼくれた顔をして諦めたようだった。そして、会計のレシートを取ると、レジへと向かった。
「あ、おい、みそのクン、お勘定は私が持つから・・・」
「いえ、結構です。今日は私が河合さんを誘ったのだから、私が払います。それじゃ・・」
そう言うと、みそのクンは会計を済ませて店を出ていった。
冗談ではない。女性におごってもらうほど私は卑しくはない。私はみそのクンの後を追いかけた。
「ちょっと待ってくれ!まだ話があったんじゃないのか?」
私の口から出た言葉は、明らかに焦っている口調だった。
だって、まだみそのクンの口から、決定的な言葉を聞いた訳ではない。
私は、少しじらして時間を喰ってしまった事を後悔した。
これならば、いっそズバッと言ってくれた方が気が楽だ。
このまま、ハッキリせずに帰られても、私の気持ちが落ち着かない。
「河合さん、今日の事は、誰にも話さないで下さいね・・・もし誰かに喋ったら・・・・私は許しませんよ」
その時のみそのクンの表情。それはヘビのように無機質で冷酷な表情であった。
あの明るいみそのクンが、まさかこのような豹変した表情をするとは思いもしなかった。
私はそのギャップに驚き、それ以上何も言えないまま、みそのクンが視界から消えるまで、後姿を見ているしかなかった。
「さぁさぁ河合さん、早くバーへ行って下さい。お待ちかねのお客さんもいることですしね」
その女性は、意味深な顔でフフフと笑いながら言った。
突然現れた謎の女性。そしてみそのクンの豹変した態度。おかしい・・何かが普通ではない。
さっきまでは、明るく楽しかった食事が、今は闇に包まれた黒ミサのように感じられた。
どうする?私は、この謎の女性の言う事を聞いて、あのバーへ向かえばいいのか?
それとも断って、みそのクンの後を追うべきなのか?
答えは簡単だ。こんな事に悩むことはない。簡単に即答で決めてしまえば良いのだ。
みそのクンとの楽しい食事を、ひとりの女性によって壊されてしまったという事実。
しかも、私は、みそのクンからの想いをまだハッキリと聞いた訳ではない。
こんな悶々とした感情を抑え、私が謎の女性の言う通りに、あのバーへ行く理由はない。
・・・理由はない・・・しかし、私の心とは裏腹に、気がつけばあのバーへ向かって歩いていたのだった。
自分自身がわからない。
その時はそう思うしかなかった。それ以上、自分を定義づける明確な言葉が見つからなかった。
完全に不振であり、疑惑であり、意味不明な私自身。
なんというか、一度外れてしまったタガをもとに戻すことが面倒になってきたような感覚。
一応は、それに抵抗しようとする気持ちもない訳ではないが、どちらかというと、そんな心の反骨心は失せてしまっていた。
暗黒の黒い色を、始めて綺麗な色ではないかと思い始めた一瞬。
それが今の瞬間なのかもしれないし、ずっと前からあったのかもしれない。
とにかく、今の私は、若い女性の色恋沙汰よりも、まだ見ぬ漆黒の世界を覗き見したい心境で満ち溢れていたのだった。
それが、これから向かう場所への、何よりの証だからだ。
そして私は店についた。
時間にして8時。バーの開店時間にはまだ少し早い時間。
だがこの店は、朝から開店しているのだ。一体どんな客層を狙っているのだろうか?
とにかく、そんな事は今どうでも良い。私はドアノブに手をかけると、それをゆっくりと回した。
そのどこか緊張に似た感覚。例えるなら、お尻の穴がキュウと締まるような脱力感に似た心地よさ。
私は自分自身のおかしな感覚を味わうように、店のドアを、少しずつ覗き込むように開けたのだった。
するとそこには、予想もしない物体が眼前に飛び込んできた・・・
それは、松下の死体であった。
松下が誰もいない薄暗い店内で、首にヒモを吊るしてぶら下がっていたのだった。
「うおぎゃあーー!」
私は形振りかまわず叫んだ。
しかし、叫んでみたところで松下が生き返る訳でもなく、時間が逆行する訳でもない。
とすると、今の私の感情は一体何の役に立つか疑問に思えた。
全く無駄な事をしているだけで、物事の解決には一切関与していないのではないか。
今はこうして冷静に状況を説明していられるが、今から10分前までは、私は人生で最高潮の取り乱しをしてしまっていた。目の前で、知人が首を吊って死んでいる。これを驚かずして何を驚くのか。
今までの人生の中で、知人の葬式には何度か出席しているので、今更、死体など見慣れたものであった。
だが、目の前で活動を停止した直後の死体というのは、生まれて始めて見た。
だから、目の前の死体がニセモノだとわかるまで、私はその死体を触ったり降ろそうとしたり、大声を出したりわめいたりしてとにかく色々な感情をゴチャマゼにして表現していた。
そして。
松下が店の奥から出てきて、「ウソだよ~ん!」という言葉を聞いて、腰が砕けて床にへたり込んでしまった。
冗談にもほどがある事に対しての怒りの感情と、それでもウソであって良かったと思うホッとした気持ちが入り混じって、私は感情がグチャグチャになってどんな感情を選択したら良いかわからなくなっていた。
よく聞く話で、人間は思いもしない現場に立ち会うと、どんな感情を出したら良いかわからなくなるというが、今回はまさにそんな感じであった。
私はやっと自分の感情を取り戻し、とりあえず少しだけ泣いた。
松下は、そんな私をテーブルに座らせ、優しく囁きながら酒を注いでくれた。
「おいぃ松下・・ひどいじゃないか、こんなイタズラをして・・・それに・・・・」
テーブルには、あの謎の女性も何時の間にか座っていた。
「ごめんなさい、河合さん。デートのお邪魔をしちゃったかしら?」
子悪魔的な笑みで、クスリと笑う謎の女性。
「おいおい、デートってどういうことだよ?やるなぁ、河合!いったい誰だよ?」
松下が目をまんまるくして聞いてきた。
そんな話じゃなくて、何故、おまえは首吊り自殺のニセモノを私に見せて驚かせたのか問い詰めたかった。
だが、松下の執拗な質問攻めに、私は、みそのクンの事をしぶしぶと話し始めた。
同じ会社の同じ課に勤務する、『羽鳥みその』の事。そして今日起こった衝撃の告白を松下に説明した。
「おいおい、なんだよそれ!思いっきりアバンチュールじゃないかよ!」
私はアバンチュールという言葉にピンとこなかったが、まんざら悪い気はしなく、むしろ気分が良かった。
私の人生で、久しぶりの明るいニュースなのだから、私もつい心なしか自慢げに話してしまったのかもしれない。
気がつけば、また強いお酒をガンガンと飲んで酔っ払っている自分がいた。
あれ?・・今夜は何故ここに来てしまったのだろうか・・・?
酔っ払っている場合ではなかったような気がするが・・・?
まぁいいか。こんなにも気持ちよく酒が飲めるなんて滅多にある事じゃない。
今は、この美味しい酒をいつまでも飲んでいたい気分だった。
そんな気持ちになるほど、私は酒に飲まれてしまっていた。あの謎の女性とは何を話したのかも忘れてしまい、年齢や仕事や全てが不明のままであったが、とりあえず名前だけ知ることが出来た。
彼女の名前は、『朱雀江さゆり (すざくえ さゆり)』
特徴のある変わった苗字なのが幸いし、酔っていてもなんとか憶えることが出来たようだ。
「朱雀江さんは何をしている人なんですかぁ~?」
私が酔った勢いで聞いても、朱雀江さんの返答は決まってこうだった。
「ウフフ、それはヒ・ミ・ツ。男と女の関係に、知らなくて良い事もあるのよ」
そんな感じの返答ばかりだった。
ほとんど初対面と言って良い私に対して、自分の事を話すということは稀だと思ったが、それにしても一切素性を明かさないばかりか、彼女の性格すら全くつかめないのだ。
それは、あえて彼女が自分の性格を覆い隠しているような振る舞いであり、そこが男性心理をくすぐった。
「ところで河合さん、今夜の可愛い彼女を、河合さんはどう思っているのかしら?」
今夜の彼女・・・さっきまでデート・・いや相談して食事していたみそのクンの事か。
「そ、そうだなぁ・・・いやぁ、彼女はただ同じ課の仕事仲間で、その・・別に特別な感情を持っていると言う訳でもなく・・た、ただ何となく可愛いなぁって思うだけで・・・あ!そ、その本当に変な意味じゃなくって!」
ダメだ。酔っているせいか、言い訳をすればする程、どんどん深みにはまっていくようだ。
「おいおい、いいなぁオマエは!俺なんかそんな歳下の女のコと食事したことすらないぞ!」
松下が、ギョロリとした目で、私を羨ましそうに見る。
「あ~ら、ごめんなさいね、年増のオバサンで」
朱雀江さんは、またも小悪魔的に微笑みながら、松下を困らせた。
「いやいや!さゆりは魅力的な女性だよ!美人だし、小娘とは魅力が違うさ!」
すかさず松下のフォロー。しかし、朱雀江さんを、『さゆり』と呼び捨てにするとは、どうやら松下は、朱雀江さんを呼び捨てに出来る間柄らしい。彼らの繋がりとは、一体何なのだろうか?
それにしても。テーブルを囲んだ私と、松下と朱雀江さん。
なんとも妙な関係だ。いや、松下と朱雀江さんは、どこかしら同じ雰囲気を醸し出している。
だがしかし、私だけは全く筋違いの人種のようだ。
松下も朱雀江さんも、何というか、明らかに異質なオーラを発しているのだ。
明るくて眩くて力強いオーラを感じるのだ。
それなのに、私だけ、貧弱でか細いオーラをまとっていることに情けなくなってきた。
「おい、どうした河合、飲みが足りないぞ!」
「そ、そうかな。それより松下も朱雀江さんも全然飲んでないじゃないか、もっと飲んでくれよ」
「俺たちも飲んでいるよ。おまえが飲んでいる酒よりアルコールが強い酒を、ロックで飲んでいるからそう思えるだけじゃないのか?だっておまえのは水割りだぜ」
確かに、私の飲んでいる酒は、高級ウイスキーの水割りだ。
本来、こんな高級な酒は水割りで飲むべきではないかもしれないが、ことウイスキーに関しては弱いので、私には水割りが丁度良かった。普段から安い焼酎の水割りばかり飲んでいたから、本来の酒を嗜む舌など持ち合わせていなかったのだ。
「そっか、俺は水割りで、おまえらはロックか。そうかそうか」
そう思うと、水割りで飲んでいる自分のアルコールの摂取量が、少ないように感じてきたので、さらにガバガバと酒を喉に流し込んだ。するとこの酒の、清涼水のような清々しい飲み口が、さらなる清らかさを求めてグラスを口に運ぶのだった。安酒のようなガヅンとくるような下品な突き上げ感とは違い、高級酒とは、まろやかに上品に雲の上にいるかの如く、心地よい上昇感を与えてくれるのだ。
私は完全に出来上がっていた。
無理もない。みそのクンとの突然のデート、そして衝撃の告白。
そして朱雀江さんの突然の登場。さらには松下のタチの悪い自殺事件もあった。
一日に、こんなに色々な出来事が繋がったら、いくらなんでも気疲れしてしまうものだ。
そこに、高級酒を雰囲気の良い店で飲んだら、これは酔い潰れない方がおかしいのだ。
それだけでもお腹一杯な出来事だというのに、それ以上の出来事が起こったのだった。
それは、朱雀江さんの口から出た一言であった。
「河合さん、あなたにある会社の社長になって欲しいの」
何を言われても、もう驚かないと思った私だったが、これにはさすがに驚きを隠せなかった。
「しゃ、社長?俺が?・・・」
松下も俺の方を見てニンマリと笑っている。
「こ、これも冗談じゃないだろうな?!」
先ほどの、松下の首吊り事件があったので、私は当たり前のように疑ってかかった。
「おい、これは冗談じゃないぜ。河合にとって良い話なんだ、これを断る手はないぜ!」
万遍の笑みを返す松下の顔は、とてもウソをついているとは思えなかった。
どちらかといえばストレートに感情を出す松下が、ここまで巧妙なウソをつくとは思えなかったのである。
社長・・・だって?・・・この万年平社員の私が・・・・社長ッ?!
社長と言ったらその会社の長な訳だ。
だとしたら、自分が一番偉くて一番威張って一番金を稼げる立場になれるのだ。
この社会の全てのサラリーマンが羨む存在。それが社長なのだ。
誰しも、意地の悪い上司には命令されたくないし、ペコペコとお得意先に頭を下げたくはない。
それが仕事だから仕様がないと割り切っているからこそ出来る事で、もしそれが赤の他人であったら、間違っても卑屈な態度を出したくはないだろう。
奴隷階級。
サラリーマンを始めた瞬間から、課せられた使命。抗えない運命。
実力とやる気のある者でも、一歩一歩と少しずつ登るしか方法がないのだ。
そして他者を蹴落とし、泥水をすすって這い上がって行く過酷なレース。
それが底辺であるサラリーマンを選んでしまった者の宿命なのだ。
誰だって楽をして金を稼ぎたいし、のんびりダラダラと暮らしてみたい。
しかし、それを実行できる人種というのは少数の稀の僅かである。
一般大衆の大勢は、そんな夢を見つつも現実に押しつぶされて沈んでいくのだ。
それを当たり前と考え、負け犬人生であると決定付けた自分に、よもやそんなチャンスがまわってくるとは夢にも思っていなかった。いや、今の会社に入社して1~2年目ぐらいまでは、私でも頑張ればひょっとして社長になれるのではないかと夢を見ていた。しかし、現実を知れば知るほど、世知辛い世相と自分の能力の無さに失望していった。そして今では、ただの一社員である自分が社長になる可能性など、天地がひっくり返ってもありえないとわかりきっていた。
「社長?・・・社長・・・社長かぁ!」
私の心の奥底から熱い感情が蘇ってきた。
それは入社して間もない、まだ右も左も知らない純心無垢な気持ちであった。
私は滅茶苦茶に興奮し、更に酒をどんどんと飲んだ。
社長になれる会社が何であろうと、社長という甘美な言葉が、私の心をとろとろと溶かしていったのだった。
頭の中がグルグルと回り、やがて天地の区別がつかなくなった頃、私の下腹部がビリビリとうずくのを感じた。
はたして、この下腹部の痛みは何であろうか?
それは、驚愕の事実となって後にわかることだった。
8月27日 午後11時40分
河合修二 53歳 社長ニ任命サレル
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