第5話 突逃



第5章 『突逃』



駅のホームで再会した、あの可憐な少女は、私の横を通り過ぎていった。

慌ててt駆け寄り、人ゴミを掻き分け、その手を掴もうとする私。

あと数十センチのところまで手を伸ばしたところで、私は思いとどまった。

(私は何をしようとしているのだろうか?)

もし、仮に。この少女の手首を捕まえたとして、次にどんな行動をとったらいいのだろうか?


その1:「捕まえた!」と叫ぶ。  (いきなりこんな事をしたら、捕まるのは自分自身だ)


その2:「おじさんの顔覚えてる?」と笑いかける。 (覚えてるに決まっている。犯罪者の顔なのだから)


その3:「キミは一体、何者なんだ?」と尋ねる。  (自分こそ一体何者なのだ!)


だめだ!・・・どの行動をとっても答えはひとつ、『私は変質者』ということに変わりはない。


この手を握ったとしても、何も始まらない。むしろ終わりが近づくだけだ。

私はその手を握ろうか握らまいか躊躇していた。そんな私の行動を目にした、近くを歩く女性の不審な目。

そうなのだ。本来の『蔑んだ目』とは、こういう目なのだ。

私は、少女の手を捕まえようとしていた自分の手を後ろに組み、視線を逸らして誤魔化した。

そして私を不振な目で見る女性から少し離れ、また少女に視線を戻した。

すると、その少女の姿が視界から消えていた。

少女の姿を見失ってしまったのだ。私は慌てて辺りを見回したが、その姿はどこにもいない。

しまった!見失ったか!

その時、少女が駅のトイレに入っていくのが見えた。

いた!あそこだ!

私はそのトイレの前まで小走りで急ぎ、入り口で立ち止まった。

そこで、またしても、私は次の行動に困ってしまった。


『少女がトイレに入っているのを、中年の男性が外で待ち構えている』


これでは明らかに、「私は変態です!捕まえて下さい!」、と言っているようなものだ。

私はどうすれば良いのか腕を組んで考えた。だが、それだけでも十分不振な行動だったのに、さきほどの女性が、私の方を指差し、駅員になにか告げ口している。

やばい!そう思った私は、駅の改札口から急いで外に走って出た。

どうやら、あの女性の説明がまごついている間に、私は逃げ切ることができたようだ。


逃げ切る・・・


私はいつの間にか、こんな愚かな事を平然としている自分に気がついた。

一度ならず二度までも、こんな変態行為をとってしまっていた。

もう私は取り返しのつかない事を、二度もしてしまったのだった。

もう戻れない。そして帰る場所もない。

でも・・・行く先はある!

私にはまだ、アップルちゃんに会うという選択肢が残されていた。

あの少女の事をもっと知りたかったが、残念だが今はそんな場合ではない。

「おい!ちょっとそこの人!」

遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。あれはさっきの駅員・・・その横には告げ口をしたあの女がいる。

(ここで捕まってたまるかっ!)

私は我武者羅に走った。全力疾走を超えた全力で走った。

途中、店の看板につまずき、ゴミ箱を蹴飛ばし、若い男性の肩に思いっきりぶつかった。

ぶつかった男性は突然の出来事と痛みでうずくまっている。

駅員はその男性を心配していたので、このスキに私は裏路地へと入り、狭い通路をジグザグに走った。

私の心拍数は、これ以上ないというほど、ばくばくと上昇していた。

しばらく走って、あのバーの看板が見えてきた。なんとか店に辿り着くことができたようだ。

私は一目散にそこに駆け込んでドアを開けた。

ガラン!

ドアの鐘が店内に鳴り響く。するとそこには・・・・・・なんと!

見覚えのある顔が2つも並んでいるのだった。


「よう、シュウちゃん!待ってたよ」

「ほんとにここに来たんだな、河合!」

アップルちゃんが偶然そこにいたのも驚きであったが、同じテーブルに座っていた人物にもっと驚いた。

それは、さっき駅で会った松下であった。

何故、松下がここに?それにアップルちゃんと同席しているとは、どういった知り合いなのか?

「何をそんな、キツネにつままれたように驚いているんだよ?さぁこっち来て座れよ!」

松下は、強引に私の腕を掴むと、テーブルまで引っ張ってイスに座らせた。

すると、照明の光で今まで見えなかったが、もうひとり女性が同じテーブルに座っているのに気がついた。

アップルちゃんと、松下と、謎の女性。

はたしてどういった面子なのだろうか?

その女性はサングラスをかけており、外見は若く見えるが、気品のある表情から、30歳前半くらいだなと私は思った。

それにしてもワケがわからない・・・

私は困惑して頭がパニックになっていたので、とりあえず水を飲んで落ち着こうとして、グラスの水を一気に飲み干した。

「あ、それ俺の酒なんだけど・・・」

体の中をズンドコと熱い液体が走り回るのがわかり、ポワリと体が軽くなった。

「ふぅ~・・・」

私はグラスをテーブルに置くと、あらためて皆の顔を眺めた。

すると、アップルちゃんも松下も謎の女性も、私に向けて優しい笑顔を送ってくれた。

私はなんだか照れくさくなって顔を背けてしまった。

するとアップルちゃんが、無言で私の肩を優しく叩いてくれた。

松下は無言で酒のおかわりを作ってくれた。

謎の女性はニッコリと優しく微笑んでくれた。

私は途端に体がポウッっと暖かくなるのを感じ、そして何故か鼻水が垂れ、目の周りが熱くなった。

気がつけば、私の頬の上には涙がつたり、それが顎の下までボロボロとこぼれていたのだった。

私の感情はやわらかく溶けていき、ぐじゃぐじゃに崩れ、そのまま泣きじゃくってしまった。

ひっくひっくとシャックリが止まらない。それに嗚咽も止まらない。

「うえっ、うえっ!・・・うぉお・・うぅう、ひぐっ!・・」

女性が私の鼻にティッシュを当ててくれたので、私はかまわず鼻に力を込めた。

チーン!

全ての鼻水が噴出しても噴出しても後から涌いてきた。

もう涙と鼻水が一緒になってグチャグチャになったが、松下が酒のおかわりをもう一杯差し出してくれたので、それをまた涙と鼻水と一緒に一気に飲み干した。


「うおお、ぉう!」

人前で泣くなんて何年ぶりだろうか?

高校受験に失敗しても、悔しいとか悲しいとか全然思わなかった。

映画を見て感動しても涙はつたってこなかった。

飼っていた犬が死んだ時も、こんなものかと思って泣くこともなかった。


もっと前・・・もっと昔・・・

そう、あれは小学生の頃、友人とケンカして泣いて以来かもしれない・・・

大事な友人とケンカして、とっても大事なものを失ってしまったような、後悔に苛まれたあの時。

そんな子供心に戻ったような、純真無垢な泣き。そんな泣き方を、私は数十年ぶりに味わったのだった。

三人に囲まれて、私はとても暖かくて心地良かった。

皆の優しさで作られた、空間の中心にいるのだと実感できた。

私は泣いては飲み、飲んでは泣くのを繰り返した。それを何度も何度も繰り返した。


・・・・・・・・朝。

カーテンから眩しい光が差し込む。そよそよと涼しい風も差し込む。

私は眠い目をこすりながら、ぼやけた頭を軽く振る。

そうだ、今日から新学期だった。でも、枕に対する執着心に心を奪われ起きなかった。

しばらくすると、母が私を起こしにきた。

私は、甘えた声で、「もうちょと~」と言いながら、母のふとももに頭を乗せる。

「あらあら、今日から2年生でしょ?早くご飯食べないと遅れちゃうわよ?」

それでも私は、母の膝の上の心地よさに、いつまでも顔をうずめていた。

ああ、温かい。ここはなんと温かい場所なのだろうか?

人間の、女性の、太ももの上。

ただそれだけの場所なのに、ここはどうして居心地良いのだろうか?

絶対的な安堵感に包まれ、天国の雲の上のような感覚に、いつまでも浸っていたかったのだった。

「ほらほら、早くしなさい。まったく、いつまでも子供ねぇ」

「子供じゃないよ!でも・・・」

「どうしたの?何かあったの?」

「・・・・・」

「お母さんに言ってごらんなさい。何でも聞いてあげるわよ」

母の顔は、朝日を浴びて眩しかった。そしてニッコリ優しく笑った。

「うん、あのね・・・ボク、仲間はずれにされているみたい・・・だから学校行きたくないよ・・・」

「あらあら、そうだったの?最近、元気ないと思ってたわ」

「お母さん、お願い。今日は学校休んでいいでしょ?ボク・・ボク・・・うぅ・・・」

私はお母さんに話している途中、悲しくなって涙がぼろぼろこぼれてきた。

悲しい事を思い出したことと、母になんだか悪いなと思う気持ち。

その両方がいっぺんになって悲しくなって泣いてしまった。

「悲しいことがあったのはわかるわ・・でもね、学校だけは休んじゃダメよ」

「だって・・だって・・うう!」

「誰だって辛い事はあるのよ。でもね、それを越えていく度に、大きく成長するものなのよ」

「成長・・・?」

「そうよ、だから今は成長するチャンスかもしれないわ。そう思えば、学校行くのも辛くないでしょ」

「う、うん・・でも、また仲間外しになったら・・」

「そんな意地の悪い友達なんてやめちゃいなさい。人をいじめて楽しんでいるような人は、お母さん大っキライよ」

「わ、わかった・・・行ってみるよ、お母さん、学校行ってみるよ・・・ううう、わぁん!」

私は、母の膝の上で泣いた。めちゃくちゃに泣いた。

そして、涙が枯れる頃、不思議と悲しみはなくなり、学校へ行こうと決心したのだった。

「よし!行ってくるよ!ボク、がんばってみるよ!」

「いってらっしゃい。今夜はご馳走作って待ってるからね、大好物のカレーだよ」

「やったー!いってきまぁす!」

私は、母に大きく手を振りながら、学校へ向かって走っていった。

なんだかもう、怖いものはない。お母さんがいれば安心できる。

もし、友達に仲間外しにあったら、殴って仕返ししてやろうとも思った。

母から勇気をもらった私は、学校へ行っても負けなかった。

案の定、友達から仲間外しにあったけど、ボクはそいつを睨み付け、頭を一発殴ってやった。

すると、いままでイジメていた友達の顔が、みるみるとしわくちゃになって、わんわんと泣き出した。

それを見たまわりの仲間も、すごすごと逃げていった。そして幾人か残った友達は、ボクの側にくるとこう言った。

「ごめんな、シュウちゃん。悪いと思っていたけど、ついみんなと悪ふざけしちゃったみたいで・・・」

申し訳なさそうな友達の顔を見て、ボクは鼻を擦ってこう言った。

「もういいよ、気にしてないから。それより、昼休みは一緒に野球やろうよ!」

「う、うん!やろうやろう!」


こうして・・・

ボクは母の助言どうり、みんなと仲良くすることが出来たのだった。

やっぱり友達と一緒なのは良い。愉快で楽しくて、ウキウキがずっと続くようだった。

そして、学校が終わった後も、公園で野球をすることになった。

しばらくすると、さっきボクに殴られた友達が、物陰からこっちをそっと覗いていた。

ボクはそれを見かけるとこう叫んだ。

「おーい!こっちおいでよ!一緒に野球しようよ!」

「う、うん!」

友達は、喜んで一目散にこっちへ走ってきた。

そして、ボクがグローブを手渡すと、照れくさそうにそれを受け取った。

それからすっかり日が暮れるまで、ボクたちは野球に没頭した。

帰り道、友達と肩を組みながら、歌を歌いながら帰った。そして友達に手を振って別れた。

「また明日ね!」

「うん、またね!」

あたりはすっかり暗くなっていた。ボクは、お腹が空いてたまらなくなったので、夕飯のカレーの事を思い出して、急いで走って家に帰った。


帰り道、ボクはお母さんのことを思い出した。

お母さん、ありがとう。

お母さんのおかげで、ボクはみんなと仲直りすることが出来たよ!

はやくお母さんの作った美味しいカレーを食べたいよ!お母さん!


しかし、家に着いたボクを待っていたのは、美味しいカレーではなかった。

そこにある書置きを見て、ボクは震えが止まらなかった。


『お母さんがたおれたので病院に行ってくる 父より』


ボクは一心不乱になって病院へ走った。

途中、ころんで膝がすりむけて、血がいっぱい流れてきたけど、そんな事はおかまいなしに、ボクは病院に向かって走った。

やっと辿りついた病院の待合室。そこに、まっ青い顔のお父さんが座っていた。

そして、何も言わずにボクを抱きしめてくれた。お父さんの頬から熱い水が伝ってくるのがわかる。

お父さんは何も言わず、ボクをずっと抱きしめてくれていた。


それから長い夜を迎え、ボクのお母さんは天国へいった。


もう戻らないあの笑顔、もう戻らないあの膝まくら。暖かい温もりも、もう、そこにはないのだった・・・

お母さんは、ボクに勇気を与えてくれたんだ。だから、ボクも勇気を持って生きていかなくちゃいけないんだ!

だから、ボクはがんばって生きるから・・お母さんも天国で見守っていてね・・・

ぜったい、ぜったい頑張るからね?だから、お母さん、安らかに眠って下さい。

すると、どこかから母の声が聞こえ、ボクはお母さんの膝まくらに顔をうずめていたのだった。

お母さん、嬉しいよ!会いたかったよ、お母さん!

お母さん!ボクの大好きなお母さん!・・・・・



そして。

気がつけば、私は自分の家の玄関の前で眠っていた。

スズメのさえずりが聞こえ、東の空から日が昇り、朝日が眩しかった。

そこには母の膝枕はなく、硬いコンクリートに頭を乗せていたのだった。

昨日が終わり今日が来た。そんな当たり前のことをぼんやりと実感した。

私は寝ぼけた頭で、昨晩の出来事が夢だったような錯覚に陥った。

ひょっとして昨日の出来事は、本当は全て夢だったのかもしれない。

しかし、私の胸のポケットには、電話番号を書いたメモが入っていた。

後から分かった事だが、これはアップルちゃんとあの女性の電話番号であった。

昨晩の出来事は実際にあった本当の出来事だったのだ。

私は本当に皆の前で泣きじゃくってしまったのだ。今思うととても恥ずかしい・・・

でも、なんだか肩が軽く、朝日の眩しさが清々しく感じられたのだった。


私は、そおっと玄関の鍵を開けると、女房のいる寝室をのぞいた。

がーがーとイビキをかいて寝ている姿を見ると、そのまま居間に行って座布団と毛布で即席のベッドを作ってそこにコロンと寝た。

自分の体が睡眠不足だと確実に訴えてきているのに、すぐには寝付けなかった。

昨晩の出来事が、頭に浮かんでは消え、消えては浮かんできた。


母のような、暖かい温もり。

それは私にとって、忘れる事の出来ない一夜であった。

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