第4話 突友



第四章 『突友』



ガタンゴトン。


私は今、死刑執行所いきの列車に乗っている。

それも、朝出勤のサラリーマンでごった返す満員電車に。

昨日起こった出来事、そして少女に対して犯した罪。

それは、常識ある社会人なら、けして許される行為ではない。

私は罪の報いを受けるべく、この電車に乗っているのだった。


私の隣で、ガソゴソと新聞を開くサラリーマンがいた。

いつもの不快な日常も、今日で最後だと思うと感慨深いものがある。

そう思って私は、その新聞に目がいった。すると、ある見出しが目に入った。


『河川敷で謎の変死体発見!』


だが、今の私には、変死体だろうが変態死だろうが、誰がどんな風に死のうが知ったこっちゃない。

昨日、私の顔を見た乗客が、必ずこの車両に何人かは乗っているハズなのだ。

もし、この車両にいなくても、駅のホームでは、誰か私の顔を覚えている者がいるだろう。

それともすでに、警官が張り込んでいて、私が下車すると同時に捕まえようと待機しているのかもしれない。

だから他人の不幸など、今の私に考える余裕などないのだ。


「この人、昨日のチカンです!」

私の腕を掴み、誰かがそう大声を上げれば、私はもう観念するしかない。

私がいつもどおり何事もなく、出社できる可能性など皆無なのだ。それが当然だと思っている。

もし何かの偶然で、私が通報されずに捕まらなく済み、会社に出社することができたとしても辞表を出そう。

それが、いち社会人としての当然のモラルなのだ。

見つからなければ何をしたって良いなどと、そんなずる賢い考えで生きていくほど、私は三流ではない。

確かに会社では、うだつのあがらない三流社員かもしれない。

しかし、この世の中のひとりの社会人として、人間として素直に犯した罪の裁きは受け入れようと思う。

私はそこまでは落ちていないのだ。人間としてだけは三流にはなりたくないのだ。


私は、電車に乗っている乗客の顔をチラチラと見回した。

今、あいつが私の顔を見て表情が変わった気がする。

ひょっとしたら、あいつは私の顔を覚えているのかもしれない。

あいつも私の顔を知っているような表情をした。

あいつも、あいつも、あいつも。

周りの乗客全員が私の事を知っていて、それで私が逃げられないように囲んでいるのかもしれない。

駅についた瞬間に、全員で私を取り押さえようと打ち合わせ済みなのかもしれない。

そう思うと、吊革を握る手の平から、大量の汗がにじみ出てきた。

その異常な汗は、水滴となって滴り落ちるほどの量だった。

心臓の鼓動も、周りに聞こえているのではないかと思うほどドックドックと高鳴っている。

あいつらはみんなして、犯罪者を見るような汚い目で私を見ているのだ。

社会の秩序からはみ出した負け犬を、一切哀れみのない表情で、残酷に見下しているのだ。

人をこき下ろす大義名分を得たやつらは、さぞかし気分がいいだろう。

自分たちのいる底辺という場所から、さらに下の底辺の者が現れたのだから。

人は、自分より不幸な人間を見つけることによって、幸福の尺度を計るものだ。

良くも悪くも、普通の生活からはみ出てしまう事は、偏見の目で見られて当然なのだ。

それが共存という生活の中で、平均を持続させる事が正しいとする人間の、いわゆる嫉妬心なのだ。


ああ、なんてくだらない事なのだろうか?

何故、私は今まで、こんな閉鎖的な思考を続けてきたのだろうか?

何故、もっと自由に生きようとしなかったのだろうか?

何故、もっと自分の願望を顕わに表現できなかったのだろうか?

なんてこの社会は、息苦しくて狭苦しくて生きづらい虚無な空間なのだろうか?

もっと他に自由でのびのびとした世界はないのだろうか?

誰もがそれを我慢して生きなければいけないのだろうか?

私はもっと欲しい!他人に一切干渉されない真っ白で汚れのない空間を!


そんなことを考えているうちに、遂に駅についてしまった。

とりあえず、車内では何事も起きなかったようだ。

いつもと同じラッシュアワーの波にもまれ、私は列車の外に押し流された。

私は少し拍子抜けしたが、それでもここからは、そうはいかないだろうと気を構えた。

あの少女のいる反対側のホームをチラリと見る。

清楚で可憐で、汚れのない少女。

どうやら今朝はいないようだ。・・・・当たり前か・・・・

私にあんな恐怖を植え付けられたら、同じ時刻に同じ場所にいるほうがおかしい。

ひょっとしたら、あの少女が警官とともに、駅の改札口で待ち伏せているかもしれない。

こうして、つっ立っている瞬間にも、私服警官が私を見つけて歩み寄ってきているかもしれないのだから。

私の心臓の鼓動は最高潮を向かえていた。その時、私に歩み寄ってくるひとりの男がいた。


ポン!

突然、後ろから私の肩に手をかける者がいた。

ビクッ!

(そら来た!ここが年貢の納め時か・・・) 私は内心そう思って観念した。ところが・・・

「河合?・・・やっぱそうだ、河合じゃないか!」

私は振り返って驚いた。それは高校の時、同じクラスだった松下であった。

がっちりとした小太りな体系に黒ブチメガネ。そしておでこにある大きなホクロ。

これほど特徴のある人間を忘れはしない。

「ま、松下?・・・あの松下か?」

「ああそうだよ!いやぁ偶然だなぁ!まさかこんな所で会うなんて!俺は滅多に電車に乗らないからな!」

この松下という男は、生まれ故郷の田舎の高校で、たった一年だけ同じクラスだった。

こんな場所で再会するとはなんという偶然だろうか。

いや、こんな日だからこそ出会ってしまったのが、さらに偶然だと言えるのかもしれない。

皮肉な事に、この旧友との久々の再会の日に、私は人生の全てを失ってしまうかもしれないのだから。

さしずめ、この松下が、私の人生の最後の見届け人になるのであろう。

「河合さ、今、どこに勤めてんの?」

「あ、あぁ、この近くの小さな広告代理店だよ」

「そこなら良く知ってるよ!そうか、そうか!」

松下は、私の勤めている会社を知っているようだった。だが、今の私にはそれはどうでもよい事だった。

私は駅のホームを歩く人の視線が気になって仕方なかった。

私の顔を覚えている人が、いつ大声を上げて犯罪者である私を捕まえようとしているかと思うと、居ても立ってもいられなかった。

それに、もし反対側のホームに、『あの少女』でもいたならば、私の顔を見るなり大声を上げて助けを呼ぶだろう。

今は昔の友人と、のん気に話をしている場合ではないのだ!


「おいどうしたよ、キョロキョロして?ここで会ったのも何かの縁だ!近々飲みにでもいこうぜ!これ俺の連絡先!」

そう言って松下は、電話番号の書いてあるメモを私に渡した。

冗談ではない!

これから私は公然の場で逮捕され、職を失い、犯罪人のレッテルを張られてしまうかもしれないのに!

それなのに、久しぶりに会った友人などと、飲みに行く約束をする余裕など一切ない。

「またいつか飲みにいこう」、などとありがちな社交辞令する余裕すらないのだから。

「なんだよ、名刺くらいあるだろ?それに連絡先でも書いてくれよ!」

この野郎・・自分も名詞を渡さないくせに、何を言ってやがるのだ・・・

「でも俺、なかなか忙しくて時間がないんだよ。残業も多いし・・・悪いな」

残業が多いというのは、こいつとの約束を作らないための口実である。

「まぁそう言わずに連絡先だけでも教えろよ」

相変わらず強引な性格である。

松下は、自己中心的というか我侭というか、とにかく自分の気がすまないといられない性格だった。

私はしぶしぶと名刺のウラに自分の電話番号を書いた。

「サンキュー!必ず連絡するからな。今は忙しいんでここでお別れだ。じゃ!」

松下はそう言って駅のホームを下っていった。

相変わらず世話しない男だ。それにばかにハデなスーツを着ていたな・・・ま、いいか。どうせもう二度と会う事はないだろう。神様も気を使って、昔の友人に最後に会わせてくれたのだろう・・・

でも、よりによってあいつと再会するとはな・・・つくづく私も運がない。


私は旧友との出会いに呆気に取られてしまっていたが、何か釈然としない違和感を覚えていた。

何なのだろう、この感覚は・・・?

私は駅のホームをキョロキョロとした目つきで歩いていると、まわりの人たちの態度がどこかおかしいのに気が付いた。

確かにおかしい・・・全ての人がそうではないが、一部の人間が私の事を意識している・・・

やはりそうか。

昨日の事件の一部始終を目撃した人間からの視線であった。

冷静に思い返してみると、中には私が覚えている顔の人間もいた。

やはりこのまま私は捕まってしまうのだろうか?

胸の鼓動が爆発しそうな程ドクドクと脈打ち、手に脂汗がジットリと滲み、靴の中も汗でグショグショだった。

だがおかしな事に、私の顔を見るその目は、犯罪人に対する『蔑んだ目』ではなく、腫れ物に触れないような『恐れの目』であった。その違いはハッキリと私にはわかった。



なぜ私には、そんな人の目線の奥底の真意がわかるのか?

それは、小学生の時に体験した、ある事件からだった。

近所の友人と二人で虫取りに行き、大きなクワガタ虫をお互いそれぞれ一匹ずつ捕まえた。

だが、友人は虫かごを忘れてしまったので、私と一緒の虫かごに入れておいた。

そして帰宅する際、どちらが自分のクワガタ虫かでケンカになった。

どちらも大きなオオクワガタで、同じ位の大きさだったので、少しでも大きい方が自分のクワガタだとお互い主張した。でも確かに自分のとったクワガタには覚えがあったので、私は一歩も引き下がらなかった。

そして、私の剣幕に飲まれた友人が、もう一匹のクワガタを手にし、しぶしぶとした表情で帰っていったのだった。


そのあくる日、近所の野原で野球をしていた友人達をみつけた。

私は堤防を駆け下り、仲間に入れてくれと駆け寄った。

ところが、その時の皆の目。それは冷たくて攻撃的な目であった。

友人達全員が、私の事を無視したのだった。

原因はわかっていた。たぶんケンカした友人が、私の悪口を言って仲間はずれにしようと言いだしたのだ。

私はその時の皆の目を忘れない。あの例えようのない疎外感は私の網膜に焼きついた。

悲しくて切なくて寂しくて、涙がボロボロと溢れてきた。

それでも日が経てば、また仲間に入れてくれるだろうと思っていたが、仲間外しはしばらく続いた。

もともと友達の多くいた友人と、あまり友達のいない私では、その派閥争いに格差が出るのは当然だった。

子供ならではの残酷さ。

もう私の味方は誰ひとりとしていない。私の頭の中はぐちゃぐちゃになった。

気がついたら私は、その原因となった友人を憎んでいた。

そして、その友人をめちゃくちゃに殴り、怪我をさせていたのだ。

我ながら愚かな事をしたと思ったが、その時の感情は、自分でも抑えられなかった。

もう私を仲間はずれにしようとする者はいない。

それから友人達の、私に対する目が変わったのだった。

それは私に対する『恐れの目』だった。



それこそが、今、駅のホームにいる人間の、私に対する目であった。

しかし何故?なぜ私を恐れるのだろうか?

確かに私は、昨日、少女に向かってハレンチな行為をしようとした。

そして私を痴漢だと叫び、警察に突き出そうとする者までいた。

だから、それを目撃した人間が、私の顔を『蔑んだ目』で見るのが当然だと思う。

蔑みの目と恐れの目。

その両方を経験した私が、目の奥底にある真意を読み取れないはずがない。間違えるはずがないのだ。

おかしい・・どこか・・何かがおかしい・・・

もしかしたら、この世界の常識は、昨日のうちにすっかり変わってしまったのだろうか?

この社会の法律は、何かの弾みで狂ってしまったのだろうか?

一夜のうちに世界の常識がそっくり変わってしまったのか?

そんなバカな。そんなことはありえない。

私は狐につままれたような表情のまま会社に向かった。

そして、その表情は帰社するまで消えることがなかった。いつもどおりの社内であった。

ひとつだけ気になったのは、私をいつも叱る年下の上司が、やけに私に対して優しかったということだった。

簡単なミスに対して、怒鳴ることなく穏便に対応してくれたのが印象的だった。

拍子抜けな現状に、私は違和感を覚え、その日は辞表を出すのをあえてやめた。

気がつけば、私は帰りの駅のホームにいた。ベンチに腰を下ろし、タバコに火をつける。

私の頭の中に、ある人物の言葉がよぎった。それはアップルちゃんの言った言葉だった。


「ワシがなんとかしたるから」


まさか、いくらなんでも・・・・いや、あの老人には得体の知れない何かがある。

もし、私の犯した罪をなんらかの方法でもみ消し、事件に関係した人間の口を封じたならば、駅の人達の私を見る目や、会社の事も納得できる・・・・

バカな!

私は何を考えているのだろうか?

いくら不思議な魅力をもったあの老人でも、そんな裏社会のボスでもない限り、そんな手品みたいな芸当ができるハズもない!私の思考回路は、そんな突拍子もない事を考えてしまうほど鈍ってしまったのだろうか。

私は首を横にブンブンと振るい、頬をパンパンと叩いた。そしてもう一度冷静になって物事を整理した。


(まてよ・・・!)


私の頭がフル回転し、ある結論に達した。

もし!・・・もしアップルちゃんが、私の予想通りにヤクザの親分だったとしたら・・!

それも大きな権力を持つ日本最大級のヤクザのボスだったら・・・!

そうだとしたら、昨日の事件をもみ消す事ぐらい造作もないだろう。

昨日の朝の事件を知っている人間に、ヤクザの名前を出して脅せば、一般市民だったら簡単に口を封じる事が出来るだろう。それに会社の上司にだって・・・!

・・・バカだ・・・私はバカだ・・・・

もし、仮にアップルちゃんがヤクザの大親分だったとしても、なぜ昨日会ったばかりの人間にそこまでする義理があるのだろうか?普通だったら絶対にありえない。

もしも、私の事を親友として気に入ってくれたとしても、そこまでするとは到底思えない。

我ながら、都合の良い推理をしてしまった自分が情けなくなった。

これは直感だが、あのアップルちゃんという老人には、何か隠された秘密があるのではないか?

昨日の私の罪を見逃すほど、この社会の治安が悪いとは思わない。

むしろ過保護に守られた行き過ぎの体制であるからだ。

駅のホームで大人が少女を脅せば、それは立派な犯罪だ。

罪を犯したら人生終わり。

そんな考えが心に突き刺さっているからこそ、安定を求める社会人は絶対にそれを破ろうとしない。


・・・しない、ハズなのだが・・・それでも私は犯してしまった・・・


私は今の自分の感情が、一体どんな風に荒んでいるのかわからなくなった。

ただ漠然とした悩み、毎日の平坦な悩み、妻への不満、会社での不満・・・

それらが一箇所に凝縮し、爆発した挙句の暴挙だったのだろうか?

それとも、私にはもともとあのような少女趣味があって、奇跡的にそれに気付かずに今まで過ごしてきただけなのだろうか?


わからない・・・わからない事だらけだ・・・


私は憂鬱と不安にいっぺんに襲われてしまい、胃の中でコールタールがドロドロとうねっているような感覚になり、気分が悪くなってきた。

この気分を治すには、あの場所へ行かなければならない。

私の衝動は天井を突き破り、自然と足をある場所へと歩ませていた。

そして駅から出てその方向へと向かったその瞬間。

「おーい!河合―!」

後ろから大声を上げて近づいてくる男がいた。

ハデなスーツにガタイの良い体付き。今朝、駅で会った松下であった。

だが今の私はそんな男にかまっている暇はない。その呼びかけにも応じず、無視したまま歩き出した。

すると松下は、私の前に回りこんで立ちはだかった。

「無視するなよ河合!ひょっとしたら、また駅で会うかもしれないと思ってずっと探してたんだぜ?これから一緒に飲みに行こうぜ!な、行こう!」

普段だったら、強引な誘いを断りにくい私であったが、この時はそんな悠長な事をしている場合ではなかった。一刻一秒でも早く、あのバーに向かわねばならなかった。

「そこをどいてくれ、用事があるんだ!」

だが松下は、私の肩をつかんで止めようとした。

「おい、そんなに深刻な顔してどうしたい?悩みなら聞くぞ?な!」

そう言って私の肩に手をまわす松下の態度に、堪忍袋の緒がバツン!と弾けたのだった。


「うるさい!・・・殺すぞこのバカヤロウ!」


こんな暴言を吐いたのは何年ぶりであろうか?

社会に出てサラリーマンになって、仕事で接待をこなしているうちに、怒りという感情がなくなっていた。

それなのに、この私が怒るとは・・・私自身驚いてしまった。

だが、私が怒ったのが相当に効果があったのだろう。松下は、「すまん」と謝ると、その手を引いた。

「もし悩みがあるようだったら、また話してくれよ、じゃ・・・」

松下はそう言い残して去っていった。その後ろ姿は、どこか寂しげであった。

考えてみれば、私の顔がよほど苦悩に満ちていたのだろう。

だから悩みを聞いてやりたいと松下は思ったのだろう。

そんな彼の優しさに対して、ちょっと罪悪感がこみ上げてきた。

だが、今は場合が場合。昔の友人に愚痴ったところで、その悩みは解決しないことはわかりきっている。

普通だったら、悩みの大半は誰かに聞いてもらう事で解消できるだろう。

それにちょっとしたアドバイスでも聞けば気休めにはなるだろう。

だが、この問題は相場が違う。

どこからか、大いなる力が介入せねば、起こりえない出来事なのである。

その原因を突き止める為に、私はアップルちゃんと行ったあのバーに向かわねばならなかった。

しかし!そんな一刻の猶予も許さない状況に、またしても衝撃的な人物と出会ってしまったのだった!


なんと!

それはあの少女であった。すでに日は落ち、薄暗くなった駅のホームに少女はたたずんでいた。

麦藁帽子に黒い長髪。そして青いラインの入った白いワンピース。

まさしく清楚で可憐なあの少女であった。

朝の駅のホームでしか見たことがないあの少女が、なぜ今、目の前に?

それにしても目立つ・・・いや、実際、かなり地味な容姿と服装だと思う。

だが、あの地味さが、かえって私の視線をクギ付けにしてしまうのだ。

なんというか、甘い綿菓子のような、純白なオーラが全身をまとっているような感覚なのだ。

私は自分の立場を忘れ、その少女に見入ってしまった。

昨日、あんな過ちを犯してしまったのにもかかわらず。

だが次の瞬間、私の背筋は凍った!

その少女は、私の方に視線を向け、そしてこちらに向かってくるではないか!

やばい!

完全に見つかってしまった。さあどうする?

私はこのまま逃げようかとも思ったが、足が硬直したまま動かない。

私の心の中には、その少女から少しでも遠ざかりたいという欲求よりも、少しでも近づきたいという欲求が勝ってしまったようだ。一歩一歩こちらに近づいてくる少女に対し、なんの行動も起こせないまま、ただ硬直しているだけだった。

彼女の瞳は、明らかに私の目を見詰めていた。琥珀色に透き通ったガラス玉のような大きな目で。

私はその目に吸い込まれそうになり、全身の力が抜けていくのを感じた。

スタスタスタ・・・


来る・・・

来る・・・!!

来るッ・・・!!!


ところが、その少女は私に気づかなかったのか、私の横を素通りしていった。

そして丁度、電車からおりてきた乗客と一緒になり、人波とともに流れていった。

気付かなかった?・・・いや、わざと無視をした・・・?

そんなバカな!昨日、あれだけ恐怖感を与えた男の顔を忘れてしまうはずがない!

となると、見逃してくれたのか?こんな可哀相な男に対しての、せめてもの慈愛とでも言うのか?


私はその人波をかき分けて、少女のところまで辿り着こうとした。

だが帰宅時間の駅のホームの込み方は尋常ではない。

なかば強引に人の波を押しよけて、その少女の近くまで近づいていった。

しかし、階段を下りる際の更なる人ゴミに私は溺れ、その距離はまたしても遠く離れていった。

(ここで逃してなるものか!)

私は、この千載一遇のチャンスをものにするべく、まわりの事などおかまいなしに、グイグイと障害物を跳ね除けた。中には文句を言うヤツもいたが、私の鬼気迫る顔で睨んだら、無言になってしまった。

(もうちょっと!もうちょっとで捕まえられる!)

あの少女の、白くてか細い腕。握ったら溶けてしまいそうな雪の結晶のような腕。

それが、もうちょっとで、私の手に届こうとしている!

以前は、ただ眺めているだけで満足だったのに、今ではそれを捕まえないと気が済まない所まできてしまったのだ。

私の心拍数はとっくに上限を超えていた。

はぁはぁと荒い息遣いが、雑踏の中でも聞こえるほどだった。

私の股間は鋼鉄のように硬くなり、はちきれんばかりにいきり立っていた。

歩く摩擦でズボンが擦れ、そこがたまらなく熱くなってくるのがわかる。

「はぁッ!はぁッ!はぁッ!」

この状態を続けるのはもう限界だ!それよりも早く、少女の腕を掴まなければ!

そうすれば、この興奮だけはおさめることができる。

だが私は、このまま少女の腕をずっと見ていたいとも思った。

もうちょっと手を伸ばせば届くのに、あえてそれをしないのは、この高ぶった高揚感を何時までも感じ続けていたかったからに違いない。

私の魂は、今、完全に燃焼しているのだ。

手を握りたい衝動と、何時までも眺めていたい衝動。

そのお互いが激しくぶつかり合い、ちょっとだけ、握りたい衝動が勝ってしまった。

その時、私の中で何かが切れ、魂が飛び出しそうなほど上昇し、気持ちが一気に軽くなった。

そして私は、その少女の手を掴もうと、腕に力を入れて伸ばした。


(ついに・・手に入れた!)

そう思った瞬間。私の中で時が止まった。

予想外の出来事に、運命のいたずらというものを感じたのだった。

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